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ベネズエラの経済破綻 [現代社会]

ベネズエラ通貨.jpg

ベネズエラ 地図.png

* CNN電子版による。

  ベネズエラ経済は極度の混乱に陥っている。  
  
1 原油生産の減少
  ベネズエラは原油の埋蔵量が世界で最も多い国である。
  しかし、政府の失政と腐敗のため、原油生産量が減少してきている。
  昨年の3月までは、1日当たり220万バレルを維持していたが、12月には170万バレルにまで減ってきた。
  これは2002年以来の低水準で、石油価格の低迷と合わせて、経済に深刻な影響を与えている。

2 公的債務の支払い遅延
  政府と国営石油公社の債務支払いが遅延するようになってきた。
  いつまでも返済ができないと、期限の利益を喪失し、600億ドル(6兆6千億円)とみられる公的債務全体の期限が到来することになり、海外の債権者により石油資源の差し押さえなどという事態を招くことになる。

  ベネズエラ政府が発行する債券の金利は12.75%と高い。
  しかし、それでも人気はなく、現在、4年物の債券は流通市場で額面の4分の1の値段で取引されている。

3 通貨価値の下落
  ベネズエラの通貨であるボリバーの価値が以下のように極端に下落している。
    1年前   1米ドル =  3,100ボリバー
    現在   1米ドル = 191,000ボリバー
  すなわち、ボリバーの価値は1年前の61分の1になっている。

4 食料等の不足
  資金不足から、食料や医薬品、その他生活必需品の輸入が難しくなってきている。
  このため、スーパーマーケットから物がなくなり、また、医薬品の不足からマラリヤの蔓延や乳幼児や妊産婦の死亡率が急上昇している。

5 著しい物価騰貴
  昨年1年間の物価上昇率は4,000%を超えた(400倍)。
  毎月、物価が平均して2倍になるということである。
  お金を現金で持っていると、1か月で価値が半分になるということなので、現金はとにかくなんでもいいから物に変えた方がよいということになる。

  ベネズエラの通貨ボリバーは、価値尺度、流通手段、価値貯蔵といった通貨としての基本的機能をほぼ完全に失いつつある。

6 政府の対応
  政府は最低賃金の額を40%引き上げるなどの対応をとっているが、インフレにとても追いつかない。
  また、一方では、インフレを抑えるため、預金の引き出しを制限している。
  現在も1日当たり1万ボリバー(日本円で6円程度)が引き出しの上限となっている。
  しかも、銀行には長蛇の列で、引き出すのに数時間を要するという状況である。

  食料や必需品については、政府から直接の配給が行われているが、この配給制度は近い将来に途絶えるのではと多くの人が懸念している。



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「アンネ・フランク その15年の生涯」 [世界史]

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  合同出版、2009年刊。
  著者は、黒川万千代さん。

1 オランダ移住まで
  アンネ・フランクは1929年、ドイツのフランクフルトで生まれた。
  父親は、自分の母親が経営する小さな銀行の役員をしていた。
  母親は、ベルギーとオランダの国境に近いアーヘンの裕福な実業家に生まれた。
  どちらもユダヤ人の家系。
 
  ドイツはいまだ、第一次世界大戦の敗戦後の混乱から抜け出られず、1929年10月のアメリカでの株価大暴落をきっかけとした世界恐慌が追い打ちをかけた。

  こうした混乱の中、極右団体のナチスが台頭してきた。
  ナチスは1932年の選挙で第一党となり、1933年1月にヒトラーが首相となった。

  ナチスは、ナチス独裁に反対する勢力や、ユダヤ人、ロマ人、有色人種、心身障碍者、同性愛者などの迫害を始めた。
  ユダヤ人がドイツ国内に居続けることが難しくなってきたため、アンネの父親は1934年、アンネなどの家族とともにオランダに移り住むことにした。
  ナチスは1935年には、ユダヤ人の公職からの追放、企業経営の禁止、財産の没収などを実施して、ユダヤ人の追放を本格化させた。

2 隠れ屋に移るまで
  アンネ一家は、オランダのアムステルダムでの生活が始まった。
  アンネはそこで、隣に住むハンナという同年齢の女の子と親しくなり、生涯の親友となった。
  しかし、アムステルダムでの平穏な生活は長くは続かなかった。

  1939年9月、ドイツがポーランドに侵入して、第二次世界大戦が始まった。
  1940年5月には、ドイツはオランダに侵入し、降伏させた。
  ドイツ占領軍はユダヤ人への迫害を始め、オランダ人は抗議集会やストライキによりユダヤ人の迫害を抗議した。
  しかし、ドイツ占領軍はアムステルダムへの食糧や日常必需品の輸送を禁止した。
  このため、アムステルダムでは、食料不足が深刻になり、餓死者も出た。
  また、1941年9月には、ユダヤ人に対して、公共の場では黄色い星の紋章を着用することを義務付けた。
  
3 隠れ屋に
  次第に身の危険を感じるようになったアンネの父親は、会社の3階と4階の空き部屋を隠れ屋にすることを決心した。
  そして、アンネの姉のマルゴーに出頭命令が来た1942年7月、アンネ一家4人と、ヘルマンさん家族3人は隠れ屋に移り住んだ。
  4か月後に一人加わり、全部で8人が隠れ住むことになった。
  
  会社の従業員であったオランダ人のミープさんなど数人が、8人をサポートすることになっていた。
  当時、ユダヤ人を匿う罪は重く、発覚したその場で射殺されることもあった。
  反対に、隠れ住んでいるユダヤ人を密告した者には報酬が与えられた。

4 隠れ屋での生活と発覚
  隠れ屋となった建物の1、2階は事務室で人の出入りがあるため、日中は音を立てないよう細心の注意が必要だった。
  食料は、サポートしてくれたオランダ人が偽造の配給切符により確保していたが、生きるぎりぎりの量しか隠れ屋に運び込むことはできなかった。

  隠れ屋での生活は25か月に及んだ。
  しかし、1944年8月、ゲシュタポ(秘密警察)に襲われ、8人全員が逮捕されてしまった。
  だれが密告したのかははっきりしていない。

5 収容所で
  8人は、オランダ北東部にある仮収容施設のヴェステルボルグ通過収容所に移送された。
  サポートしてくれた二名のオランダ人も逮捕されたが、一人は病気を理由に釈放され、もう一人は移送の途中で逃亡して生き延びた。
  
  1か月ほどヴェステルボルグ通過収容所で強制労働をさせられた後、8人全員がアウシュビッツ収容署に移送された。
  家畜用貨車に、トイレもなく、食料や水を与えられず、ぎゅうぎゅう詰めの状態で押し込められ、4日後にアウシュビッツに到着した。
  この時に移送された1,019人のうち、549人は到着した日のうちにガス室で殺された。
  8人はこの日は生き延びた。

  しかし、粗末な食事と重労働、そして、シラミ、ノミ、ダニ、南京虫がアンネを苦しめた。
  この時期には、ドイツ軍の敗勢が明瞭になってきていた。

  アンネは、姉のマルゴーとともに1944年10月、ドイツ北部にあるベルゲン・ベルゼン収容所に移送された。
  ナチスは、1万人しか収容できないこの収容所に5万人のユダヤ人を押し込んだ。
  また、ほとんど食料や水は支給されず、飢餓と伝染病がユダヤ人を襲った。
  アンネと姉のマルゴーはこの収容所に移送されてから5か月後に息絶えた。

  二人が死んだ十数日後の1945年4月15日、この収容所はイギリス軍によって解放された。
  解放したイギリス人将校は「通常なら60名収容されるバラックに600名入っていました。そのバラックの床と外は一面、遺体と排泄物でした。収容者は自尊心を失い、動物レベルになっていました」と語った。

  8人のうち、アンネのお父さんだけが生き延びた。
  1945年1月、ソ連軍によるアウシュビッツ解放で救出された。
  お父さんは1980年に91歳で亡くなった。

  
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「宇宙が始まる前には何があったのか?」 [科学]

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  文春文庫の一冊、2017年1月刊。原著は2012年刊。
  著者は、アメリカの宇宙物理学者、ローレンス・クラウス。

1 いかに始まったのか
  今から100年前には、太陽系がある天の川銀河だけが宇宙に存在していると考えられていたが、現在では、天の川銀河以外にも宇宙には1千億以上の銀河が存在するとみられている。
  宇宙は137億年前のビッグバンに始まり、膨張を続けている。
  遠くの銀河ほど、より大きな速度で我々から遠ざかっている。

2 暗黒物質の存在
  銀河系内部の運動速度、そして重力を観測した結果、銀河系内部に目に見える形で存在する高温ガス及び星の全質量よりも、はるかに大量の質量が存在しているとみられるようになった。
  この目に見えない暗黒物質の質量は、目に見える物質の質量の10倍近くになると計算された。
  また、暗黒物質を構成している粒子は、陽子と中性子ではなく、光を出さない、星間空間を流れるように移動している、謎の粒子だ。

  暗黒物質の正体と存在量が分かれば、宇宙がどんな終末を迎えるかもわかるかも知れないと考えられた。
  暗黒物質を探索する作業は、以下の形で続けられている。
  ① 深い坑道やトンネルなどの地下での観測
  ② 粒子加速器による実験

3 宇宙背景放射
  生まれて間もない高温の宇宙で発せられた光の残照、それが宇宙背景放射である。
  宇宙誕生の瞬間を見ることはできないが、誕生から30万年後の姿は見ることができる。
  
  宇宙背景放射は、まさしくビッグバンの残照である。
  その放射が観測されたことは、ビッグバンが現実に起こったことを示す直接的証拠である。
  背景放射を見るということは、生まれて間もない高温の宇宙の姿をじかに見ることである。
  その高温の初期宇宙から、今日われわれが目にするもののすべてが出現したのだ。

4 暗黒エネルギー
  宇宙の99パーセントは目に見えない。
  エネルギーを含んだ空っぽの空間の中に、暗黒物質の海があり、わずか1パーセントの目に見える物質がその海の中に浮かんでいる。
  
  宇宙の年齢が137億年というように古いということは、空っぽの空間にかなりのエネルギーが含まれていない限りあり得ない。
  このエネルギーを「暗黒エネルギー」と呼ぶ。
  暗黒エネルギーは、宇宙の膨張を支配しており、宇宙の起源と深いつながりを持っていると考えられるのに加え、宇宙の未来にも重大な影響を与えるとみられる。

5 見えなくなる宇宙
  空っぽのように見える空間にエネルギーが含まれていて、それが宇宙の膨張を支配しているというのは、膨張が加速していることからの論理的な帰結だ。
  観測可能な宇宙は、これからどんどん光速より大きな速度で膨張することになる。
  つまり、未来になればなるほど、見えるものは減るのである。
  今見えている銀河は、未来のある時点で、我々から離れていく速度が光速を超え、それ以降は見えなくなる。
  その銀河から出る光は、空間の膨張に逆らってこちらに接近することができず、我々のところには決して届かない。

6 宇宙の物質
  137億年前のビッグバンで元素が合成された直後では、76%が水素、24%がヘリウムであった。
  それが現在では、水素70%、ヘリウム28%、ヘリウムより重い元素2%となっている。
  太陽などの星で、水素が燃やされ、ヘリウムやへリウムより重い元素に変わった。
  1兆年後には、水素20%、へリウム60%、ヘリウムより重い元素20%になっているであろう。

7 多宇宙
  宇宙は一つではないという考え方がある。
  「カオス的インフレーション」という考え方では、いくつかの領域は、永遠にインフレーションを続ける。
  インフレーションを終えた領域は、互いに切り離された多数の宇宙になる。
  インフレーションを終えた空間が落ち着く先の状態がたくさんあるなら、我々の住むこの宇宙は、無数に存在する宇宙の一つに過ぎないはずだ。
  
8 無から宇宙が生じる
  量子力学においては、宇宙は無から自発的に生じることが可能であるばかりか、むしろたえず生じている。
  無から自発的に生じた宇宙は空っぽである必要はなく、重力による負のエネルギーを含めて、全エネルギーがゼロでありさえすればよく、物質と放射が含まれていてよい。

  そのメカニズムで生まれた閉じた宇宙が、無限小の時間よりも長く存在できるためには、インフレーションのようなものが必要になる。

9 宇宙は消滅する
  無限の未来には、無が再び宇宙を支配する可能性が大きい。
  我々を構成する物質が、宇宙の始まりの時に起こった何らかの量子的プロセスで生じたのなら、それもいずれ消滅するのはほぼ確実だ。
  物理学は双方向に通行できる道であり、始まりと終わりはつながっている。
  はるかな未来に陽子と中性子は崩壊し、物質は消滅し、宇宙は最大限に単純で、対称性の高い状態に近づく。


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「阿部一族」 [日本文学]

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  森鴎外(1862~1922)の歴史小説。
  1913年、鴎外51歳の時の作品。

  肥後熊本の城主細川忠利の家来、阿部弥一右衛門とその一族の話。
  阿部弥一右衛門は1,100石の身分。
  (1,100石は米16万5千キログラムに相当。10キロで5千円とすると、現在の価値では8,250万円となる。)
  1642年、忠利は病に倒れ、亡くなった。
  この時、18人の家来が忠利の許しを得て殉死した。

  殉死には決まりがある。
  誰でも勝手に殉死ができるわけではない。
  三途の川のお供をするには殿様のお許しを得なくてはならない。
  その許しもないのに死んでは、それは犬死である。

  ある者は、以下のように言って、その許しを請うた。
 「ご病気が一日も早くご全快遊ばすよう祈願しております。それでも万一と申すことがござりまする。もしそのことがござりましたら、どうぞ私めにお供を仰せ付けられますように。」
  このようにして、18人が忠利の許しを得た。

  殉死を願い出る者の心のうちは、以下のように複雑。
  ① これまでのお殿様の恩に報いたいとの気持ち。
  ② もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないとの心配。

  なお、殉死者の家族は藩から格別の取り扱いを受け、生活の心配はない。

  阿部弥一右衛門も忠利に何度も殉死の許しを願い出たが、ついに許しが出なかった。
  忠利には、以前から阿部弥一右衛門の言うことをきかない癖がついていた。
  阿部弥一右衛門の仕事ぶりは申し分ないが、どうも親しみがたいところがあり、忠利は好きになれなかった。

  忠利の死後、許しを得た18人は次々と殉死した。
  阿部弥一右衛門は仕事を続けたが、「阿部はお許しのないのを幸いに生き続けている」というような陰口も聞こえてきたこともあり、切腹して死んだ。

  忠利の長男の光尚が新しい殿様となり、殉死の18人については、長男にそのまま父の後を継がせた。
  しかし、阿部弥一右衛門については、その知行を長男がそのまま次ぐのではなく、その5人の兄弟が平等に分け与えられることになった。
  弟たちの知行は増えるが、長男の権兵衛にとっては5分の1となる。
  一族としても、本家が千石以上の格式であったのが、どんぐりの背くらべのようなことになってしまった。
  周りの者も阿部一族を疎んじるようになった。

  忠利の一周忌の法要の際に事件は起こった。
  権兵衛は焼香の際に、自分の髪を脇差しで切り、位牌の前に添えた。
  権兵衛は、知行が5分の1になったのは、自分がいたらないからで、武士を捨てようと思うと、話した。
  光尚は、権兵衛を縛り首という極刑にした。
  
  この処分に権兵衛の弟たちは激怒した。
  切腹ではなく、盗人のように縛り首にするとは・・。
  一族の頭領がこのような目に合えば、ほかの者も今後平穏に勤めを続けることはできまい。
  こうなっては、戦うしかない。
  阿部一族は、妻子も含めて権兵衛の屋敷に立てこもった。

  光尚は兵を差し向けた。
  その前日、立てこもった阿部一族の老人や女はみな自殺した。
  幼子は刺殺した。
  
  討ち入った当日、激しい戦いになったが、阿部一族は残らず討ち取られた。
  討ち入った側にも相当の死傷者が出た。

  先代の忠利の意固地、当主の光尚の思慮の足りなさが、阿部一族に悲劇をもたらした。

  徳川幕府の第四代将軍家綱は、1663年に殉死の禁止を命じた。
  殉死は無益なことと否定したのみならず、厳しく罰した。
  主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務付けた。


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「日本 呪縛の構図」 [現代社会]

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  以下に拠る。
  「日本 呪縛の構図(下)」 第11章 日本と世界
    早川書房、2015年刊。
    著者は、筑波大学教授のR・ターガート・マーフィーさん。

1 日本はアメリカの保護国
  日本は、アメリカの同盟国ではなく、保護国だ。
  日本は、国内統治に関してある程度の裁量権を与えられているが、すべての重要な外交政策や安全保障上の問題、そして既存システムの改変につながるような経済政策の問題の扱いについては、必ずアメリカ政府の意思に委ねなくてはならない。

2 民主党の鳩山政権に対するアメリカ政府の姿勢
  民主党の鳩山政権が誕生したとき、アメリカのオバマ政権は鳩山を嫌った。
  アメリカは、中国や北朝鮮の脅威に対して東アジアの平和を維持するためには、日米間の軍事協力が不可欠と考えていた。
  しかし、鳩山は選挙で、在日米軍の削減や日米同盟の見直しを主張していた。
  また、民主党の小沢一郎は、民主党が政権についた直後に中国を訪問し、自国の安全保障や外交政策の枠組みを見直す予定だということを、中国首脳に伝えていた。
  こうしたことから、アメリカ政府は鳩山政権と距離を置くことにした。

3 沖縄の普天間基地問題
  2011年、米上院軍事委員会のメンバーが以下のように発言している。
  ① 米海兵隊が使用している普天間飛行場の移転先を辺野古にすることはもちろん、それ以外の場所でも無理だ。
  ② 考えられる唯一の解決策は、米空軍が使用している嘉手納基地と統合することだ。
  ③ 米海兵隊と米空軍の競争意識が統合を阻害するのであれば、海兵隊には沖縄から撤退する以外の選択肢はない。

  辺野古に基地を建設することは、生息している絶滅危惧種のアオサンゴやジュゴンに影響を与える。
  しかし、小泉政権時代、ラムズフェルド国防長官は、辺野古移転を認めなければ全ての在日駐留米軍を引き上げると日本を脅して認めさせていた。

  この問題は、鳩山政権を追い詰めることになる。

4 鳩山首相と日本の官僚
  日本の官僚機構の幹部は、有権者やその代表である政治家に仕えようとは考えていない。
  鳩山首相についても、同じだ。
  高級官僚たちは、鳩山をペテンにかけ、彼に、普天間をめぐるアメリカ政府とのごたごたは何とかなるので、心配する必要はないと思いこませた。
  鳩山はうかつにも、普天間問題を2010年5月までに解決することに「進退を賭ける」と言ってしまった。
  鳩山は、アメリカ政府と日本の高級官僚に追い詰められ、辞任に追い込まれた。

5 日銀黒田総裁の金融緩和
  日本は膨大な財政赤字を支えることに何の痛痒も感じてこなかった。
  金利が低く抑えられて、財政赤字の利払い負担が軽減されていたためだ。
  
  だが、黒田が意図的にインフレを起こすことに成功すれば、金利は間違いなく上昇する。
  加えて、財政赤字が今後も拡大する一方であれば、日本の国債市場にパニックを引き起こす恐れがある。
  また、海外のヘッジファンドが日本国債を空売りし、その結果、日本の金利体系そのものを崩壊させる危険性は常に潜んでいる。
  日本に対する好意など微塵も抱いていないヘッジファンドが、ここまで大規模な金融緩和を好機と見て、暴利をむさぼるために懸命に策を練っているというのはむしろ自然な見方である。

6 日米同盟の持続可能性
  アメリカは本来、日本のことなど気にもかけていない。
  アメリカは、構造的、制度的に外部世界について無知である。
  米国民は、アメリカが戦争をすることにますます難色を示しつつある。
  
  中国の軍事力はアメリカに遠く及ばないし、日米合同軍の敵ではない。
  しかし、中国はアメリカがアジアから撤退することを望んでおり、その気持ちはアメリカがアジアに残りたい気持ちよりはるかに強い。
  中国はそれを実現するために、長期的な視点で大きな賭けに出ている。
  それが明確になったとき、日米同盟は崩壊を逃れない。
  そうなれば友人に去られた日本は、アジアで孤立することになる。


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「異次元緩和脱出 出口戦略のシミュレーション」 [現代社会]

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  日本経済新聞出版社、2017年10月刊。
  編著者は、みずほ総合研究所の高田創さん。

  異次元緩和からの出口戦略とその影響を探る。

1 金融緩和のベネフィットとコスト
(1)ベネフィット
  異次元の金融緩和は、以下のような効果により景気回復に貢献した。
   ① 日米金利格差拡大による円安
   ② 円安やETF購入による株高

  また、金利低下は国債費の抑制を通じて財務悪化に歯止めをかけている。
  現状の金融緩和策が実施されなかったら、財政悪化はさらに深刻な問題となっていたであろう。

(2)コスト
  しかし、異次元の金融緩和は、以下のような弊害ももたらしている。
  ① 金融機関の収益減少と経営の悪化
  ② 日銀の収支悪化
  ③ 財政規律の低下
   (消費税増税とプライマリーバランス黒字化の先延ばし)
  ④ 国債市場の機能低下
   (市場の流動性が低下し、金利が上下に振れやすくなる)
  ⑤ 調達機能の変動を通じた企業淘汰促進機能の麻痺
  ⑥ 年金資産や保険会社などへの打撃

  超低金利環境が長期化することのコストは、各分野で想像以上に大きい。
  極めて低い物価と経済成長の局面であっても、すべての主体が存続するためには、ある程度の金利上昇が必要である。

  日本の場合、少子高齢化というマイナス要因を背負っている。
  国債の保有者である日銀が、国債保有額減少へ舵を切ることの市場への影響は大きい。
  日銀のETFの購入停止や保有額の削減も容易ではない。

  景気はいずれ後退局面を迎えるが、今のままでは対応余力が限られる。
  余力のある今こそ、出口戦略を進めるべきだ。

2 出口戦略における提言
(1)インフレ目標を「2%」から引き下げて、インフレ率が2%に達しなくても、早期に出口戦略を進めるべきだ。
   出口に向けた対応手順の明確化が必要だ。

(2)出口戦略を進めるうえでは、日銀、財政、金融機関の3者がともにリスクを負担しあい、協調することが求められる。

(3)金利が引き上げられるような環境を作るためには、潜在成長率の引き上げや自然利子率を上げる成長戦略が不可欠だ。
   過度の金融政策依存から、財政政策重視への転換も必要だ。

(4)金利上昇スピードをコントロールする必要がある。
   急激な金利上昇は、日銀、財政、金融機関へのマイナスの影響が多きくなる。

   緩やかに金利が上昇するのであれば、景気拡大に伴う税収増でプライマリーバランスの改善は早まる。
   政府の債務残高は増加するものの、GDP比でみれば着実に改善に向かう。
   また、金利上昇を可能とするだけの景気回復が実現すれば、財政の安定性は高まる。

(5)日銀が国債購入を減少させると、新規国債の円滑な消化に問題が出てくることが懸念される。
   新たな国債投資家を開拓することを含めた国債管理政策の真価が問われる。
   国内の個人投資家や海外投資家への販売拡大が必要である。

 
 *この書籍の疑問点
  1 「戦後直後の日本のようなハイパーインフレは起こりにくい」として、そのリスクを検討から除外しているが、果たしてそうか。これだけの過剰流動性が企業に蓄積されている状況では、いったんインフレ傾向が明確になると、企業の買い急ぎ、売り惜しみが発生し、インフレが加速するのではないか。

  2 異次元の金融緩和が日銀、財政、金融機関にどのように影響しているかについて分析検討しているが、国民への影響を考慮していない。異次元の金融緩和は果たして国民にプラスになったのであろうか。低金利により、膨大な所得が個人から財政や借金過多の企業へ移転した。

  3 異次元の金融緩和は、結局、放漫財政を持続させただけ。日銀は政権与党にとり都合の良い政策を続け、「物価の番人」という自分の責務を捨ててしまった。今後、インフレが発生しても、日銀にはもはや対応手段がなく、放置せざるを得なくなる。
 

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「三木清」 [哲学]

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清水書院 センチュリーブックス 人と思想シリーズ 2009年刊。
  著者は、永野基綱さん。

  三木清(1897~1945)は、戦前、戦中の哲学者。

1 留学から帰国するまで
  三木清は1897年、現在の兵庫県たつの市で生まれた。
  1914年、17歳で東京の第一高等学校に入学する。
  そこで哲学を志すようになり、西田幾太郎を慕って京都帝国大学に入学する。
  一高を出て京都に行く者はそれまでなく、三木が初めてであった。

  大学卒業の2年後の1922年、三木は岩波書店の創設者である岩波茂雄の資金支援により、ドイツへ留学した。
  当時のドイツは、第一次大戦の敗戦直後で経済は混乱していたが、留学先のハイデルベルグでは羽仁五郎や大内兵衛といった、後にそれぞれの分野で活躍する人達と親しくなった。
  翌年、三木はハイデッカーのいるマールブルクに移った。
  そこでかれの存在論に出会い、大きな影響を受けた。

  さらに翌年、三木はパリへ移った。
  そこでパスカルの本を読み始め、感激する。
  (フランスの勉強のためにということで古くて難しい哲学書を読み始め、しかもその内容に感動することができるというのは、三木のとびぬけた能力の高さを示している。)

2 パスカル
 (ブレーズ・パスカル(1623~1662)はフランスの哲学者、数学者。「人間は考える葦である」という言葉で有名。遺稿集「パンセ」がある。)

 三木は、帰国後の1926年、岩波書店から『パスカルにおける人間の研究』を出版した。
 そこでは、パスカルの思想を以下のように描いている。
 ① 我々人間は広大な宇宙に比べれば虚無に等しい存在であり、また極小の微生物から見れば宇宙に等しい無限大の存在。
 ② 人間はこのような中間者でしかなく、無限と虚無の二つの深淵の間にあることに恐れおののく存在であり、その悲惨さから目をそらし、慰めや戯れによってこの事実を覆い隠している。
 ③ しかし、人間は自己意識を持った存在であり、自己を回復することは可能である。
 ④ ただ、哲学は人間存在の悲惨に気づきながらも、そこから生まれる根源的な不安を解消できない。
 ⑤ 宗教のみが、人間存在における偉大と悲惨の間の矛盾に解決を与えることができる。
   悲惨な我々の存在に愉悦と平和をもたらすのは、知識でなくて信仰である。
 
3 マルクス主義への傾斜
  三木は1927年、法政大学哲学科の初代の主任教授に就任する。
  そして、1928年、マルクス主義論集『唯物史観と現代の意識』を出版した。
  この本は多くの青年を魅了した。
  それまでのマルクス主義は政治経済学を中心に理解されていた。
  しかし、三木はそこで、マルクス主義は単に一般の政治上の主張ではなくして、人生観の問題であって、また哲学上の問題であるということを示した。

  しかし、三木は、ロシアのコミンテルンの指導下にあった共産党の理論家たちから、観念論だという批判を受ける。

  そうした中、1930年5月に三木は、非合法の共産党に「シンパ」として資金を提供していたということで、治安維持法違反により検挙される。
  この時は、執行猶予付きの有罪判決を受け、11月に釈放された。

4 戦争の足音と言論の弾圧
  1929年に始まった世界恐慌による経済の混乱と、1931年に関東軍によって引き起こされた満州事変により、世の中には貧困と戦争への不安が充満した。
  また、ロシアのコミンテルンから天皇制打倒の指示を受けた共産党を、警察は徹底的に弾圧した。
  さらに、1932年の五・一五事件、1933年の小林多喜二虐殺、同年の滝川京大教授の追放、1935年の天皇機関説の美濃部東大教授への攻撃など、軍国化と言論弾圧が進行した。
  こうした中、三木は新聞や雑誌への投稿により、厳しい状況に少しでも抵抗する姿勢を崩さなかった。

5 日本のファシズム
  三木は、日本のファシズムを以下のように見ていた。
  ① ファシズムは、時代の非合理主義を集中的に表現しており、資本主義の現在の段階に相応するイデオロギーである。
  ② 個人主義や自由主義が十分に発達していない日本では、ファシズムは「日本主義」として現れる。
  ③ 今日の日本主義はファシズムであり、天皇の軍隊と結ばれている。

6 哲学への傾斜
  しかし、あからさまな時局批判は次第に出来なくなり、本来の専門である哲学に軸足を戻して活動をつづけた。
  三木は相次いで以下のものを雑誌に連載し、その後、単行本として出版した。
  『構想力の論理』連載開始1937年
  『人正論ノート』 同  1938年
  『哲学入門』  同  1939年

  「人生論ノート」と「哲学入門」は現在まで読み継がれる名著となっている。

7 執筆停止と獄死
  三木は、1942年ごろから軍の圧力により、新聞雑誌への掲載が困難になってきた。
  妻が亡くなり、1944年から一人娘を連れて埼玉県に疎開していたが、1945年3月、共産党員の高倉テルの密告により、検挙された。
  三木は、訪れた高倉に衣服や金を与え、助けたが、共産党員を助けたことが検挙理由であった。
  
  三木は、終戦後の9月26日、皮膚病と内臓疾患で獄死した。
  終戦になっても、獄中にいる政治犯を即時釈放しようという動きはなかった。
  
  密告した高倉テルは、戦後、日本共産党から衆議院議員に立候補して当選した。
  三木の一人娘、洋子(永積洋子)は、後に東大文学部教授となった。
  

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「この国の冷たさの正体」 [現代社会]

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  朝日新書の一冊。2016年1月刊。
  著者は、精神科医の和田秀樹さん。

1 生活保護たたき
  生活保護を不正に受給している人が多いとか、浪費と怠慢が貧困の原因だというような、批判が少なくない。
  まるで生活保護受給が悪であるかのような雰囲気もある。

  しかし、不正受給額の割合は全体の0.5%程度と極めて低い。
  また、日本の生活保護費総額がGDPに対する割合は、他の先進国に比べてかなり少ない。
  イギリス5.0%、フランス4.7%、ドイツ3.3%、アメリカ1.2%に対し、日本は0.6%。

  日本では生活保護の受給資格があるのに受給していない人も多い。
  救われるべき人が救われていない。

  * ダイヤモンド社のサイトによると、生活保護支給総額の50%近くを医療費が占めている(生活保護受給者の自己負担はない)。医療費のうち60%は入院費であり、入院費のうち40%は精神病によるもの。
  * 厚労省は、生活保護支給額の一律削減により、支給総額を抑制しようとしているが、医療費の問題には手を付けようとしない。

2 歪んだテレビ局
 ・バッシングの対象を常に探し、全局一致団結して徹底的にたたく。
 ・経費削減のために、取材は記者クラブの発表情報や通信社に頼りきりで、独自取材をろくにしない。
 ・スポンサーの顔色をうかがい、都合の悪いことは報道しない。
   *最近は官邸の顔色も?

3 消費税の引き上げ
  日本では財政問題を解決するための一手段として消費税の引き上げが検討されているが、アメリカは8.875%で、カナダは5%。日本の消費税率がとりわけ低いわけではない。
  ヨーロッパ各国は20%を超えているが、医療費や大学までの教育費が無料など、福祉のレベルが違う。
  日本は消費税を引き上げても、「消費税率はヨーロッパ並み、福祉のレベルはアメリカ並み」という結果になる。

4 雇用状況の悪化
(1)非正規雇用者
  派遣社員やパートなどの非正規雇用者が増え続けて、全体の37%を占めるまでになっている。
  非正規雇用者の約8割は年収200万円未満ともいわれており、日々の生活費にお金は消えてしまい、貯蓄をすることができない。
  年金は、きちんと保険料を払っても国民年金だけ。
  保険料を払っていないと、働けなくなったとたんに生活保護に頼るしか生きる方法はなくなる。

(2)給与額の減少
  民間給与平均額をは1997年の467万円をピークに、2016年は421万円にまで減少している。
  
  *業種別にみると、宿泊・飲食サービス業が234万円で最も低い。
   最も高いのは、電力・ガス供給業の769万円。

 
 *この本の賛同できないところ
  ① 生活保護の受給は正当な権利であり、受給が必要な人は遠慮なくもらうべきだというのはわかるが、精神科医として、生活保護支給額の少なくない部分が精神疾患の長期入院費用に使われていることにも言及すべきだ。

  ② 下記の理由から、飲酒運転の厳罰化に反対しているのは信じ難い。
    ア 地方の飲食店経営者の生活を脅かしている。
    イ 飲酒運転による悲惨な人身事故は年に数件あるかないかに過ぎない。
    ウ 地方の勤務医は、酒を飲んでいる時でも病院に呼び出されると、車を運転して駆けつけるしか方法がない。

  ③ 原発再稼働問題や集団的自衛権問題などよりも、生活保護や社会保障の問題に関心を持て、としているところ。

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ナポレオン [世界史]

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  以下に拠る。
   「ナポレオンの生涯」ティエリー・レンツ著、知の再発見双書(創元社)、1999年刊
   「ナポレオン」ポール・ジョンソン著、ペンギン評伝双書(岩波書店)、2003年刊

1 ナポレオンの台頭
  ナポレオン・ポナパルト(1769~1821)は、フランス領のコルシカ島で生まれた。

コルシカ島 エルバ島.png

  フランスでは1789年のバスティーユ襲撃でフランス革命が始まり、1793年のルイ16世処刑により共和制に移行した。
  しかし、国内では王政復古を狙う王党派が勢力を保持し、また、周辺の王政諸国からの干渉も厳しく、不安定な状態が続いた。
  こうした状況において、軍人となったナポレオンは頭角を現し、イタリア遠征やエジプト遠征を経て、1799年、30歳の時にフランス政府のトップの座にまで昇りつめた。

2 ナポレオンの戦闘能力
  ナポレオンが戦闘の指揮で抜群の能力を発揮した理由は、そのスピードにあった。
  彼は、誰よりも早く大軍を動かし、敵を追い込んで叩きのめすことができた。
  そのスピードを可能にした要因は・・
  ① 地図を読むことに優れ、最も早く安全なルートを計画することができた。
  ② ナポレオンの命令を迅速に行動に移すことができる、優秀な部下将校がいた。
  ③ 迅速に行動するという考えが一般の部下にまで浸透していた。

  しかし、ナポレオンの指揮にはマイナス面もあった。
  ① 多くの馬が限界を超えて走らされたため、死んでいった。
    次第に、その補充が難しくなり、軍隊の戦力低下の一因となった。
  ② 彼は、味方の兵士の損失を軽視し、多くの戦死者を出した。
  ③ 彼は、味方の軍隊が敗勢になると、軍隊を見捨てて、自国への帰還を急いだ。

3 ナポレオンの天下
  ナポレオンは、紛争状態にあったオーストリア、ロシア、イギリスなどと次々に講和条約を締結し、フランスに久しぶりの平和をもたらした。
 
  また、銀行や証券取引所の整備、新通貨体系の導入、間接税主義の確立など、国内の金融、財政面で思い切った改革を実施した。
  さらには、ナポレオン法典と称される民法典を作り上げた。

  このような実績は、国民の多くから熱狂的に支持され、1804年、ナポレオンは皇帝の地位についた。

4 ナポレオン失脚への道
  ヨーロッパ大陸では向かうところ敵なしで、抵抗を続けるイギリスへの侵攻も検討していた。
  しかし、1805年、フランス・スペイン連合艦隊が、スペインのトラファルガー岬沖で、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に撃破され、制海権を失ってしまった。

  ナポレオンはイギリスを屈服させるために、1807年、支配下のヨーロッパ諸国に、英国との取引を禁ずる、いわゆる「大陸封鎖」を実施した。  
  だが、制海権がないため、海上規制ができず、効果を上げることはできなかった。
  特に、スペインとロシアは「大陸封鎖」に加わらなかった。
  このため、ナポレオンはこの二つの国と戦わざるを得なくなった。

5 スペインとの戦争
  1808年、ナポレオンは軍隊をスペインに進出させた。
  当初は勝利を重ねたが、スペイン人の抵抗が思いのほか強かったことや、イギリス軍の支援により、決着がなかなかつかなかった。
  食料が欠乏したフランス軍は、農民から食料を強奪し、また、殺戮やレイプを繰り返した。
  これに対し、スペイン人もフランス軍兵士を捕らえ、なぶり殺しにするなど、最悪の恐怖が蔓延することになった。
  ナポレオンは援軍を送り続けたが、勝利を手にすることはできなかった。

6 ロシアとの戦争
  ロシアとの戦争を始めた理由は・・
  ① スペインで泥沼の戦争状態が続き、ナポレオンとしては威信を回復する必要があった。
  ② ナポレオンは、ロシア皇帝の妹に求婚したが断られたのを根に持っていた。
  ③ フランスが、ロシアが属国とみなしていたポーランドのワルシャワ大公国を支配下におさめたため、フランスとロシアの緊張関係が高まった。
  ④ ロシアが大陸封鎖に協力しなかった。

  1812年6月、フランスならびに支配下の各国から集めた65万の軍隊はロシアへ侵攻した。
  9月には、モスクワに入ったが、翌月には撤退のやむなきに至った。
  フランス軍が苦戦し、勝利を得ることができなかった理由は・・
  ① ロシア国内は、川や橋が整備されておらず、進軍の妨げとなった。
  ② ナポレオンは、ロシア国内の地理に詳しくはなかった。
  ③ 緩慢な動きの大軍は、ロシア軍のゲリラ戦の格好の標的となった。
  ④ 現地での食料補充が十分できず、自軍の馬を殺して食料にあて、戦力を損耗させた。
  
  モスクワを撤退する際には、フランス軍は10万を切るまでに減少していた。
  ロシア軍は追撃を開始した。
  現在のベラルーシにあるベレジナ川を渡るころには兵力は2万を切り、ナポレオンはそれらの兵隊を残して、パリへ逃げ帰った。

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7 ナポレオンの失脚
  1814年、ナポレオンは皇帝を退位し、故郷のコルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の統治者としての地位を与えられた。
  しかし、その1年後にはエルバ島を脱出し、パリに戻った。
  人々の歓呼に迎えられ、再び権力の座についたが、3か月後にワーテルローの戦いで敗れ、南大西洋の孤島、セントヘレナ島へ流され、6年後、ナポレオンはそこで一生を終えた。

  イギリス軍は島に艦隊を常駐させ、また2,250人の英国兵が駐屯して、ナポレオンの脱出を監視したが、ナポレオンにもはやその意志はなかった。

セントヘレナ島.png


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「反哲学入門」 [哲学]

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  新潮文庫、2010年刊。
  著者は、哲学者の木田元さん(1928~2014)。

1 死をどう考えるか
  ハイデガー(1889~1976)は、「自分の死をどう意識するかがその人の生の意味を決定する」と、言う。
  しかし、サルトル(1905~1980)は、「死は私の人生からすべての意味を除き去る不条理な事実。死を理解したり、対処したりすることはできない」と、ハイデガーとは違う考え方をする。
  マルセル・デュシャン(1887~1968)が「死ぬのは、いつも他人ばかり」と言うように、誰でも死ぬまでは生きているが、死んでしまえば考えることは不可能だ。

  仏教の悟りの境地は、生と死を一緒にとらえて生きることであろうが、そうしたことが人間にとって可能なのかどうか。
  私は、サルトルと同様に、死に対処することはできないという考えで、悟りの境地などとはほど遠い。

2 西洋における哲学
  西洋では、「ありとあらゆるものが、存在するものの全体が何であり、どういうあり方をしているか」ということについて考えるのが哲学。
  自分が「存在するもの全体(=自然)」を超えた「超自然的な存在」と思わなければ、そのようなことを考えることはできない。

  日本では、自分が自然の中にすっぽり包まれて生きていると信じているので、そのような問いを立てる必要はない。

  プラトン(紀元前427~紀元前347)とアリストテレス(紀元前384~紀元前322)以来、西洋の思考法では、自然は超自然的原理によって形を与えられ制作される単なる材料になる。
  もはや、自然は生きたものではなく、制作のための物質になってしまう。
  そういう意味で哲学は自然を限定し、否定して見る反自然的で不自然なものの考え方。

3 ニーチェの哲学批判
(1)プラトニズム
  ニーチェ(1844~1900)は、ヨーロッパ文化の行き詰まりの原因が、プラトン以来、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料とみる反自然的な考え方にあると考えた。
  西洋哲学、道徳、宗教はすべてプラトニズムであり、それをいかに克服するかが彼の課題であった。

(2)進化論の影響
  生命が環境へ適応するために進化するならば、人間の認識も環境へ適応するための生物学的機能にしか過ぎない。
  そうなれば、すべての認識は相対的で、絶対的な真理やそれをとらえる知識や認識などというものも存在しない。

(3)ニヒリズム
  感性的な世界とそこに存在する諸事物は、これまでキリスト教の神などといった最高諸価値によって価値や意味を与えられてきた。
  その最高諸価値が力を失ったため、この世界や事物が無価値無意味に見えるようになった。
  こうして心理的状態としてのニヒリズムに陥った。

  ニヒリズムは、有りもしない超感性的価値を設定し、それを目指して行われてきたヨーロッパの文化形成の全体を規定してきた。

  彼は、西洋文化形成の根底に据えられたそうした思考法が無効になったということを「神は死せり」という言葉で言い表し、「哲学批判」、「哲学の解体」、「反哲学」を提唱しようとした。

(4)ニヒリズムの克服
  ニヒリズムを克服するためには、このニヒリズムを徹底する以外に途はない。
  そのような超感性的価値などもともとなかったのだということを積極的に認め、そうした最高価値を積極的に否定する以外に、つまりニヒリズムを徹底していく以外に途はない。

  そうした超自然的原理がことごとく否定され、自然はふたたび自分自身のうちに生成力を取り戻し、おのずから生き生きと生成していくものになっていく。
  ニーチェは、新たな価値定率の原理を、この生きた自然ともいうべき感性的世界の根本性格、つまり「生」に求めるしかないと考え、それを「力への意思」と呼んだ・


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