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徒然草における死への向き合い方 [日本文学]

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<兼好法師>
兼好法師.png
  「死」は人間にとり永遠の悩みの素ですが、
  「徒然草」で兼好法師はどのように言っているのでしょうか・
   ポイントは・・・
   ① 長生きはするな。
   ② 命には限りがあること知り、優先して速やかにすべき事に取り組め。
   ③ 生きていることを楽しめ。
   ④ 毎日の一瞬を惜しめ。
   ⑤ 財産をあとに残すな。
   ⑥ 死は突然やってくる。


<徒然草 第七段>
 どうせ永遠には生きられない世の中に、長生きした末に醜い姿を得て、それが何になるだろう。
長生きすると恥も多くなる。長くても四十未満で死ぬのが見苦しくないところだ。
そのあたりの年を過ぎると、醜い容貌を恥じる気持ちも無くなり、人に交わることを欲して、老いさらばえて子孫を愛して、子孫が立身出世する末を見届けるまでは生きよう、などと期待し、ひたすら世をむさぼる心ばかり深く、もののあはれもわからなくなっていく。あさましいことだ。

<徒然草 第四十九段>
老いが迫ってきてから初めて、仏道の修行をしようというのではいけない。古い墓も、多くは少年の墓である。予想もせずに病気にかかり、間もなくこの世を去ろうとする時にこそ、過去の誤っていた行いが思い出されてくる。誤りというのは他でもない。優先して速やかにすべき事を後回しにして、後でもできる事を急いでやったということであり、こういった過去の過ちを悔しく感じるのである。しかし、死が差し迫った時に後悔しても、どうしようもない。 人間はただ諸行無常の真理の下に、死が迫ってくることをしっかり意識して、わずかの間といえども、それを忘れてはならないのである。そうすれば、俗世の煩悩も弱まっていき、仏道に精進しようという心も切実なものになっていくのだ。

<徒然草 第九十三段>
人は死を憎むのであれば、生を愛するべきだ。どうして、生命の喜びを毎日楽しもうとしないのか。愚かな人は、生きる喜びを忘れて、わざわざ苦労して外に楽しみを求め、生きている喜びを忘れて、危険を犯してまで他に楽しみを求める。理想の望みが果てる事はない。生きる事を楽しまないで、死が間近になってから死を怖れる。生きている事を楽しめないのは死を怖れないからだ。いや、死を怖れないのではない、いつも死が接近している事を忘れているだけだ。もし、自分の生死なんかどうでもいいと言うのであれば、真の悟りを得たというべきなのだろう。

<徒然草 第百八段>
空しく時間を過ごすことを惜しまなければならない。もし、人がやって来て、自分の命が明日には失われると宣告されたら、今日一日が終わるまで、何をあてにして、何をしようとするだろうか。我らが生きる『今日の日』とは何か、今日死んでしまうと宣告されたその貴重な時節に他ならないのだ。 一日のうちに、飲食・排便・睡眠・会話・移動など、やむを得ないやらなければいけない事柄で無駄にする時間は多いのだ。何とか無駄を逃れたとしても、余った時間に無駄な事をしたり、無駄な事を言ったり、無駄な事を考えるのであれば愚かだ。一日はたちまち終わってしまい、月は変わって、一生を終えることになるだろう。 一瞬を惜しんで努力する心のない者は、死んでいるも同然である。

<徒然草 第百四十段>
死んだ後に財産が残る事は、知恵のある者のしないことである。よからぬ物を蓄え置いたのも見苦しく、いい物は、それに執着したのだと思うと情けなくなる。財産をやたら残すのは、まして残念だ。「私こそが手に入れよう」など言う者どもがあって、死んだ後に争っているのは、無様だ。死んだ後誰に譲ろうと心に思う相手がいるなら、生きているうちに譲るべきだ。朝夕必要な物はあってもよいが、その他は何も持たないでいたいものだ。

<徒然草 第百五十五段>
死は必ず前方からやってくるものとは限らず、 いつの間にか、人の背後に迫っている。人は誰しも皆、死があることを知っているものの、しかも死が急にやってくると思って待っていないうちに、死は不意にやってくる。それはちょうど、沖まで の干潟が遥か彼方まで続いているので安心していても、足もとの磯から急に潮が満ちて来るようなものである。 





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