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29歳で夭折した歌人 山川登美子

山川登美子.png
 
 津村節子著「白百合の崖」(1982年発表)に拠る。

 山川登美子(1879~1909)は明治期を代表する女流歌人の一人。
  
1 登美子の実家の山川家は小浜藩の上級武士の家柄の旧家であった。父親の命令は絶対で、登美子が22歳の時に駐七郎という男性との結婚を命ぜられ、従うしかなかった。駐七郎は東京高商を卒業後、外務省に勤務するというエリートであったが、オーストラリアにいた時に結核を発症し、日本に帰った。病は癒えたということであった。

2 登美子の父親は仕事の傍ら和歌に親しみ、自宅で歌会を催したりしていた。登美子もその影響を受け、和歌を作って雑誌に投稿した。そして、登美子が22歳の時に、講演のために大阪に来た与謝野鉄幹に初めて会い、尊敬の度を増すとともに、恋心を持つようになった。しかし、駐七郎との結婚は避けられない運命であったことから、思い残すことのないよう、鉄幹に対し同じ恋心を抱いていた鳳晶子とともに三人で京都の旅館で一泊し、語り明かした。

3 与謝野鉄幹は当時28歳で、雑誌「明星」を主宰し、和歌の革新を主張していた。しかし、反面、女性関係では放蕩な面もあった。鉄幹は25歳の時に資産家の娘と最初の結婚をしたが、翌年には離別している。その後、直ぐに、教師をしていた時の教え子で、名家の娘と二度目の結婚をした。鉄幹は27歳の時に雑誌「明星」を刊行するようになるが、雑誌の発行費用や生活費は、すべて妻の実家からの仕送りにより支えられていた。

4 雑誌「明星」は販売部数を延ばしたが、鉄幹に対する社会の反発も強まり、以下のような非難が加えられた。
 ① 妻の実家から資金を仰いで、「明星」を創刊した。
 ② 鉄幹に憧れる青年男女が「明星」に参加し、その中で鉄幹が鳳晶子や山川登美子に接近している。
 ③ 金が目当てで次々と女性を誘惑して同棲し、これ以上金を引き出せぬとなったら、無常にも捨ててしまった。

5 登美子は駐七郎の家に嫁ぎ、東京で暮らし始めた。家風は厳格で、「明星」への投稿は難しかった。駐七郎は銀座の貿易商に勤めていた。そのころ鳳晶子は大阪の実家を飛び出し、東京の鉄幹の下で活動を始めた。晶子は初めての歌集「みだれ髪」を発行し好評を博した。それは、従来の道徳観を覆し、若い女の身で肉体の美しさを大胆に歌い、恋の喚起を高らかに謳歌して、人々に衝撃を与えた。翌年、鉄幹と明子は結婚した。

6 一方、登美子は駐七郎が結核を再発したことを知る。登美子は結婚する前、駐七郎が何かの病気にかかったことは聞いていたが、それが不治の病である結核とは知らなかった。駐七郎は登美子と二人で、療養のために伊豆の田舎に向かった。登美子の父親は、駐七郎の病気のことを告げずに結婚させたことに責任を感じたのか、登美子と駐七郎を小浜の自宅で預かることにした。しかし、看病もむなしく駐七郎は亡くなった。登美子は24歳、短い結婚生活であった。

7 登美子は小浜の実家に復籍し、教師として生きてゆこうと決心し、上京して日本女子大学に入学した。そして、鉄幹や晶子と再会した。和歌制作の活動を再開し、登美子、晶子ならびに増田雅子という3人の女流歌人の歌集「恋衣」が出版されることになった。しかし、日露戦争のさなか、歌集の反時代的な性格から、登美子と雅子は通っていた日本女子大学から停学処分を受けることになった。

8 登美子は父親から鉄幹や晶子に近づくことを禁じられた。しかし、登美子は、再び燃え上がった鉄幹への思いを断ち切ることできなかった。そうしたなか、登美子は病に倒れ入院した。当初は、急性腎臓病ということであったが、その後、京都の病院で肋膜炎と診断された。駐七郎の結核が登美子に感染していた。登美子は日本女子大学を退学し、小浜の実家に戻った。

9 登美子は実家の離れで寝たきりになった。回復の見込みはなく、食事を運んでくるほかは一人きりで放置された。登美子は蒼白くやせ衰え、ついに息を引き取った。29歳の若すぎる死であった。

<鉄幹と晶子>
鉄幹と晶子.png

<小浜にある山川登美子記念館>
登美子記念館.png

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