「島木赤彦臨終記」 [日本文学]

<島木赤彦>
島木赤彦(1876~1926)は、明治・大正期に活躍したアララギ派の歌人。
胃がんにより、1926年、下諏訪町の自宅で51歳で亡くなった。
「島木赤彦臨終記」は友人で医師・歌人の斎藤茂吉がその年の5月に雑誌で発表したもの。
(岩波文庫「斎藤茂吉随筆集」所収)
<3月1日>
がんが肝臓に転移して、黄疸の症状がでてきた。
また、腰の痛みのためにあおむけに寝ることができず、こたつにうつぶせになることが多かった。
本人はがんであることは知らされておらず、病気を退治できると思っていた。
<3月21日>
この頃の作 「神経の痛みに負けて泣かねども 夜ごと寝られねば心弱るなり」
また、「身のおきどころがない。座っていても玉のような汗が額から出てくる。いかんともしようがない」ということであった。
<3月22日>
顔面は純黄色に変じ、縦横無数のしわができ、頬がこけていた。
話は出来るが、つらそうであった。
<3月23日>
家人に、来客の接待について指示を出していた。
強心のための注射、ならびに神経痛のための注射を打ってもらった。
注射が効いて、いろいろ話することができた。
夜、「今晩、俺はまいるかも知れない」といった。
<3月25日>
意識が濁りかけた。
あおむけに寝るようになった。
<3月26日>
縦横無数のしわが全く取れて、沈痛の顔貌がごく平安な顔貌に変わった。
意識はすでに清明ではなかった。
瞳はもはや大きくなっていた。
問いかけに返事をするも、非常にかすかな声であった。
急に脈拍が悪くなることがあった。
3時間おきに強心の注射を打った。
夜、息も脈も細り、体が冷えかけた。
<3月27日>
朝、脈拍はもはや弱く不正で、脈が飛ぶことがあった。
息も終焉に近いことを示していた。
平安な顔貌にいくらか苦しみの表情が出てきた。
時々唸りがあった。
脈拍が触れなくなった。
血縁者は、かわるがわる立って口唇を潤した。
主治医の静粛な診査があり、息は全く絶えた。
友島木赤彦君はついに没した。
親族、友人など約40名が枕頭に集まっていた。
<島木赤彦の代表作>
「土肥の海 漕ぎ出でて見れば 白雪を天に懸けたり 不二の高根は 」
「湖の氷はとけて なほさむし三日月の影 波にうつろふ」
「信濃路はいつ春にならむ夕づく日 入りてしまらく 黄なる空のいろ」
2017-07-01 06:22
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