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文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵) [日本史]

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  以下に拠る。
   「文禄・慶長の役」 中野等著  吉川弘文館。2008年刊。
   「朝鮮から見た文禄・慶長の役」 李啓煌著 岩波講座「日本歴史 第10巻」所収 2014年刊。

  秀吉は、以下の通り、二度にわたり朝鮮へ出兵した。
    文禄の役(1592~1593)
    慶長の役(1597~1598)

1 秀吉の日本平定と朝鮮出兵
(1)秀吉は、1582年の信長死後、一歩一歩、我が国のトップの地位を確立していった。

(2)1583年には柴田勝家を打ち破り、1584年には小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦い、講和して支配下に置いた。

(3)また、1585年には紀伊、四国、越中を、1587年には九州を平定した。さらに1590年には、北条氏討伐し、またその後奥羽を制圧し、全国を支配下におさめた。
  
(4)その帰路、秀吉は早くも小西行長、毛利吉成に大陸侵攻の具体的準備を指示している。侵攻の拠点を肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に置くことも決定している。

2 なぜ、秀吉は大陸侵攻を急いだのか
   秀吉の意図は明確にはなっていないが、以下のようなことが考えられる。
 
  ① 徳川、毛利、前田、上杉などの、信長の時代からの有力大名が多く残っており、秀吉の権力基盤はいまだ盤石ではなかった。このため、対外戦争を行うことにより、自己の力を誇示するとともに、有力大名のエネルギーを消耗させ、国内での権力闘争を回避しようとした。

  ② 小西、小早川、加藤、宇喜多など、自分の近い武将に戦功を挙げさせ、恩賞として領地を与えることにより力をつけさせ、自己の権力基盤を強固なものにしようとした。

  ③ 東南アジアを植民地化した、スペインなどの欧州列強の脅威に備えるため、いまだ植民地化していない朝鮮、琉球、明などを自己の支配下に置き、スペインなどの欧州列強に対抗しようとした。

3 朝鮮への侵攻と戦況
(1)1591年には、朝鮮への侵攻のため、以下のような準備を開始した。

   ① 肥前名護屋で秀吉のための御座所の建設を開始
   ② 秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、対外侵攻に専心する体制へ
   ③ 秀吉、大阪から肥前名護屋へ向けて出陣
   ④ 全国から、大名並びにその軍勢が肥前名護屋に集まった。

(2)1592年3月、約16万人の軍勢が9隊に編成されて、朝鮮へ侵攻した。なお、徳川家康、前田利家などの有力大名は、肥前名護屋まで兵を伴って駆け付けていたが、秀吉から、朝鮮へ渡る命令は出なかった。

(3)当初は、朝鮮軍を破り、順調に北進した。5月初め漢城(現在のソウル)に入り、また、6月中旬には、平壌に入ることができた。

(4)7月中旬には明の応援軍が到着し、朝鮮軍とともに平壌の日本軍を攻めるも大敗を喫した。その後、日本軍は明ならびに朝鮮の軍勢2万と対峙し、膠着状態が続いた。

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4 日本軍の問題点
(1)日本軍の配置が朝鮮の中部、北部の都市に片寄ったため、南部地域が手薄となり、兵站線、連絡路を絶たれる危険性が生じた。

(2)南海岸地域に兵力が少なくなり、日本水軍が陸から支援を得ることが難しくなった。

(3)日本水軍の力が弱く、5月から6月にかけて、朝鮮水軍の攻撃により大敗を喫した。このため、南西部の制海権を朝鮮側に奪われ、海路を利用して朝鮮西海岸へ進撃することができなくなった。また、9月の釜山沖海戦で日本軍が敗れ、朝鮮と九州との間の連絡路が絶たれる危険性が生じた。

5 戦況の悪化
(1)南部地域では朝鮮の兵力増大が顕著で、日本軍は防戦一方になった。10月には、日本兵2万が朝鮮の拠点を攻めるも大敗した。

(2)1593年1月、平壌の日本軍は明・朝鮮軍の攻撃を受け、漢城まで撤退した。冬になり寒さが耐え難く、戦闘の長期化とともに、厭戦の雰囲気が出てきた.日本軍は、漢城郊外の戦闘で大敗を喫し、漢城の防御も危うくなってきた。

(3)3月以降、兵糧の欠乏を理由に、釜山まで撤退して、南海岸にて長期駐留することを目指した。

6 戦闘の終息
(1)大規模な戦闘が7月を最後に終息した。日本軍は、南海岸一帯に城を築き、約4万の兵を残した。5万の兵は8~9月に日本へ帰還した(約5万の将兵は戦死した)。

(2)その後、戦争終結のための講和交渉が行われたが、お互いに相手の降伏を要求したため、妥結の見込みはなかった。

7 慶長の再派兵
(1)1596年、講和交渉は最終的に決裂し、秀吉は朝鮮への再度の派兵を決め、総勢12万の兵が集められた。

(2)1597年1月から再上陸が始まり、朝鮮南部を中心に戦闘が行われた。しかし、朝鮮並びに明軍の反攻があり、戦闘は一進一退となった。

(3)こうした中、秀吉が1598年8月に亡くなり、再度講和交渉が進められることになった。日本軍は12月にかけて朝鮮から撤退した。

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8 その後への影響
(1)大陸への侵攻により、自己の政権基盤を確固たるものにするという秀吉の意図とは逆に、政権を弱体化させることになった。秀吉に近い位置にいた諸大名も疲弊した、

(2)一方、朝鮮の戦闘へ自己の兵を投入することなく力を温存した家康が、秀吉亡き後の権力を握ることになった、

(3)明もこの戦役で体力を消耗し、1644年に滅亡した。

(4)朝鮮の李氏王朝は滅亡することなく、1910年に日本に併合されるまで生き延びた。


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