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切支丹弾圧への道 [日本史]

ザビエル.png

 *「切支丹と統一政権」(岡美穂子氏執筆)に拠る。
    岩波講座「日本の歴史 第10巻」所収

1 信長の対応
(1)信長は全国統一を目指すうえで、武装した宗教勢力が大きな障害になると感じ、1574年の長島一揆で一向宗門徒2万人を殺害し、また、同じ年に比叡山で3~4千人を焼き討ちにした。

(2)同じころ、京都での布教を始めつつあったイエズス会宣教師を謁見して、庇護することを約束している。

(3)信長は、多くの僧侶を殺害し、その寺院を破壊するよりは、宣教師を庇護してその教えを広めさせることが仏教勢力の弱体化を進めるうえで効果的と考えた。

2 日本におけるキリスト教の布教
(1)フランシスコ・ザビエルの布教当初、日本人の通訳が「聖母マリア」を「観音」と訳していたこともあり、彼らの宗教が仏教の一種であると誤認されていた。宣教師たちはそれに気づき、用語を変更して正しい理解を得るよう努めたが、日本人の誤解は容易に払しょくされなかった。

(2)宣教師たちは、各地に病院を設立したり、相互扶助組織を整備したりして、信者獲得の助けとした。こうした施設の運営には多額の資金が必要であり、イエズス会修道士は、貿易にも携わるようになった。

(3)日本での布教に際しては、イエズス会からの宣教師だけでは人数が足りず、日本人修道士が活躍した。彼らはキリスト教義を深く修得する間もないまま、信徒指導に駆り出されたといわれている。

3 秀吉の伴天連追放令
(1)秀吉は、九州を平定した1587年、伴天連追放令を公布した。伴天連とは外国から来た宣教士を指し、20日以内に国外へ退去せよというものであった。

(2)秀吉が伴天連追放令を交付した理由は・・
  ① もともと伊勢信仰の強い九州地域でキリスト教の布教が進んだため。寄進の減少を危惧した伊勢神宮が信長に働きかけた。

  ② キリスト教へ改宗した大名による領内の寺社破壊、領民の集団改宗などが進み、地方政権と宗教が結束して、秀吉に対して軍事的脅威となることが懸念された。

  ③ ポルトガル人商人が日本人を奴隷として東南アジアへ売り飛ばすことを行い、宣教師がそれを黙認していたことを許せなかった。

(3)伴天連追放令は、その時に日本にいた宣教師の国外退去を命ずるものであったが、新たに日本に宣教師が来ることを禁じていなかった。このため、大半の宣教師は日本にとどまったままであり、秀吉はそれを黙認していた。

4 スペイン人の活動と26聖人殉教
(1)1596年、秀吉はスペイン人の6名の宣教師並びに日本人の伝道師等、合わせて26名を捕らえ、長崎で処刑した。

(2)その理由は・・
   ① スペイン人が1571年以降、フィリピンのマニラを占拠していて、日本にとり脅威となっていた。
   ② 伴天連追放令により日本での布教が難しくなっていた宣教師のなかには、マニラのスペイン人に対し日本侵攻をするよう画策する者がいた。
   ③ スペイン人宣教師の中には、禁じている布教活動を行う者がいた。

5 徳川幕府の切支丹弾圧
(1)徳川幕府の時代になっても、切支丹は全国的に表立って取り締まりを受ける対象ではなかったものの、その潜在的な危険意識は幕府中枢部に継続的に存在した。

(2)このため、1612年以降、キリスト教を信仰することの禁止の布告ならびに宣教師の国外追放処分が相次いで実施された。

(3)キリスト教信仰が一定の成功を収めていた九州、京都、東北などでは取り締まりが厳しく、棄教に応じず殉教した切支丹の数は全国で1万人ほどと推定されている。

(4)また、1614~15年の大阪の陣で多くの切支丹が大阪方に味方をしたことが、徳川幕府の切支丹に対する対応をより厳しいものにした。

(5)さらに1637年の島原の乱の発生により、徳川幕府は切支丹の取り締まりと殲滅を徹底して行うことになった。

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