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正岡子規の病気との戦い [日本文学]

 正岡子規.png  
  
*ドナルド・キーン「正岡子規」に拠る。新潮社、2012年刊。
 
  子規は22歳の時に初めて喀血した。
  診察した医師は原因を肺病と診断した。
  肺病は当時、不治の病だった。

  数か月の療養ののち、学校に復帰し、その後、新聞社に勤務。
  新聞記者としての仕事の傍ら、俳句革新の道を歩むようになる。

  1894年、子規27歳の時に日清戦争が始まった。
  子規は、現地に赴き従軍記者となることを希望した。
  「どうかして従軍しなければ男に生まれた甲斐がない」と思った。

  新聞社の同僚たちは子規の病気のことを知っていて、死にに行くようなものだからと子規を思いとどまらせようとした。しかし、無駄だった。

  従軍記者の仕事は子規の体を痛めた。
  翌年、日本へ帰国する船上で、喀血した。
  日本に到着するまで喀血は続き、自分の足で歩いて船を降りることができなかった。
  直ぐに入院したが、全く血の気がなく、横になったまま、動くことも話すこともできないほどひどい容態だった。
  子規は奇跡的に生き延びた。

  しかし、29歳の時には病気による衰弱のため、子規はめったに家から外に出ることがなくなった。ほとんど自宅監禁に等しかった。

  1901年、34歳の時に「墨汁一滴」という随筆を164回にわたり日本新聞に連載した。
  ほとんど動けない状態になった後もなお、子規が毎日随筆を書き続けることは奇跡だった。
  座ることも立つこともできない子規は、寝床の上にピンで留められた紙に原稿を書くことを強いられた。
  途方もない意志力を持つ人間だからこそ、日々それを貫くことができたのだった。
  絶え間ない苦痛をものともせず、子規は新しい話題を見つけては自分の意見を詳しく語るのだった。

  子規が亡くなる1902年5月から、日本新聞紙上に「病床六尺」という随筆を書き始めた。
  「病床六尺、これが我が世界である。
   しかも、この六尺の病床が余には広すぎるのである。
   わずかに手を延ばして畳に触れることはあるが、布団の外にまで足を延ばして体をくつろぐこともできない。
   甚だしいときは極端の苦痛に苦しめられて、五分も一寸も体の動けないことがある。」

   6月には、叔父にあてて書いた手紙で・・
   「この苦痛がおさまるということもないので、早くお暇乞いしたいとは存じますが、精神はまだ確かなので今すぐには死にそうにもありません。このままいつまで苦しめられることかと困っている次第です。」

  亡くなる前の1~2年は、日課として短文を「日本新聞」に出し、毎朝その自分の文章を見ることを唯一の楽しみにしていた。そういうことをして子規は自ら生きる方法を講じていた。子規の体は殆ど死んでいたのを常に精神的に自ら生きる工夫を凝らしていた。

  亡くなる直前の寄稿文。
 「支那や朝鮮では今でも拷問をするそうだが、自分は昨日以来昼夜の別なく五体すきなしという拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。」
 「人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかし、そんなに極度にまで想像したような苦痛が自分のこの身のうえに来るとは想像せられぬことである」

 そのころの子規の俳句
 「俳病の夢見みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか」

 辞世の句
 「糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 仏かな」

  臨終前には大分足に水を持っていた。そこで少しでも足を動かすとたちまち全体に大震動を与えるような痛みを感じたのでその叫喚は激しいものであった。子規自身ばかりでなく、家族の方々や我々まで戦々恐々として病床のそばにいた。

  1902年9月19日未明、子規は亡くなった。35歳だった。



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