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ベトナムの環境汚染 [インターネット情報]

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 イギリスの経済週刊誌「エコノミスト」がベトナムの環境汚染に関する記事を掲載している。

1 ベトナム中部の海沿いの町、ドンホイで昨年4月、死んだ魚が大量に海岸に打ち寄せられるという事件があった。政府当局は数か月の調査の後、台湾プラスチックグループにより新設された製鉄所から排出された汚染水が原因であると発表した。

2 この事件で最も深刻な影響を受けたのは漁業者である。地元の人々は汚染が残留していることを恐れて魚を食べなくなった。魚を食べるとしても近海物は避けた。シーフードレストランではチキンやポークを用意するようになった。

3 この環境汚染は観光産業にも痛手となった。ドンホイには世界最大級の洞窟がいくつかあり、世界遺産にもなっている。また、ビーチも美しい。しかし、ビーチも汚染されたのではということで、去年の夏は予約のキャンセルが相次いだ。このため、建設中のホテルやコンドミニアムの工事が中断した。

4 環境汚染はベトナムのほかの地域でも起きている。ダム建設が、米作の中心地となっているメコンデルタ地域に悪影響を与えている。川の流量が減少したため、海水が逆流し、土壌の塩分が増加している。また、ハノイでは刺激臭の強いスモッグに蔽われている。ある調査によると、ベトナムの産業排水の3分の2がそのまま湖や川に流されているとのことである。数多くの村でがんの発生率が異常に高くなっており、鉛を含んだ水道水が原因だろうという報告もある。

5 世界的な環境問題がベトナムに大きな影響を与えるということもある。ベトナムは3,000キロメートルの海岸線を有しており、気候温暖化の影響を受けやすい。今世紀末までにホーチミン市の5分の1は水没するとも言われている。悪天候や洪水は、それより早くに打撃を与えるだろう。

6 ベトナムはベトナム共産党の支配下にあるが、20万人が影響を受けたともいわれる今回のドンホイの環境汚染で政治への影響も出始めている。被害を受けた一部の人々は製鉄所に対して、あるいは裁判所の前で抗議行動を行った。その人たちは、台湾企業が賠償のために用意した550億円は少なすぎるとして裁判に訴える権利を要求した。また、南シナ海の領土問題と合わさり、反中国感情がベトナム全体で盛り上がった。多くのベトナム人がベトナム政府は中国に対して弱腰であると感じている。

7 べトナム共産党は、東ヨーロッパで共産党から民主的な政権への移行が行われたきっかけが環境問題に関する運動であったことをよく承知している。このため、ベトナム政府も近年、環境問題に取り組むようになってきた。包括的な温暖化対策のための法制も施行された。炭素排出量の削減も約束した。しかし、一方では数十の石炭火力発電所の新設計画もあり、整合性が取れていないとも言われている。昨年11月には野生生物保護の会議を主催し、没収した象牙を焼却処分をしたりした。

8 ベトナム共産党が民心を確保し、政権を維持するためには、経済成長を続けることが何よりも重要である。地方政府の有力幹部はハノイが作ったルールを無視する。大手国有企業の行動を規制するのは困難を伴う。司法は反対派の処分には熱心だが、その他のことについてはルール通り行われるかどうかには関心がない。北京がスモッグ対策のために工場の閉鎖や自動車の使用制限に取り組んでいるのとは対照的に、ハノイではスクーターの歩道駐車防止にさえ苦労しているありさまだ。

「ピカソ」 [美術]

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  著者は法政大名誉教授の粟津則雄さん。
  パブロ・ピカソ(1881-1973)は画家で、キュビズム(立体派)の創始者として、現代美術に大きな影響を与えた。スペインのマラガで生まれ、フランスで制作活動を行った。92年の生涯で、13,500点の油絵を描いた。以下は本書で紹介されているピカソの絵の中のいくつかである。

1 「招魂」(1901年制作)
(1)青の時代(1901~1904)の作品。青は昔から神秘、無限、憂愁、悲哀といったものを象徴する色彩とされていた。
(2)ピカソがこの青にのめりこんだのは・・・
   ア 世紀末のスペイン絵画において、「青」は圧倒的な流行を見せていた。
   イ 1901年に友人がパリで自殺したことがきっかけとなった。ピカソは友人の死を主題として、青をメインとしたこの「招魂」という大作を描いた。
(3)この時期の描いた対象は、疲れ果てた貧しい母子像、食事をしている盲人、身を寄せ合っている修道尼と娼婦、角膜炎を起こしている不気味な中年女、ギターを弾く痩せさらばえた老人など。社会の下層で貧窮や老衰や盲目に苦しむ人々をしみ入るような共感をもって描き出している。
(4)「青」の中で、死と悲惨と絶望と、それらが生み出す微妙だが深い愛によって染め上げられたスペインの人々を描いた。
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2 「アヴィニオンの娘たち」(1907年制作)
(1)ばら色の時代(1905~1907)の作品。
(2)その方法やスタイルの絶えざる変化と変容のために、ピカソは「カメレオン」と評されることもあった。しかし、彼は移り気でもなければ多情でもない。彼は、何らかの方法やスタイルがはらむ可能性を、驚くべき集中力と徹底性とをもって、一気に、貪欲に吸い取ってしまう。
(3)彼の絵は、死の気配に蔽われた「青の時代」から、生命観とエロスがしみとおった「ばら色の時代」へと移った。
(4)この作品は、絵の五人の女のうち二人の顔を黒人美術の影響を受けて激しくデフォルメして描いた。
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3 「ヴィルヘルム・ウーデの肖像」(1910年制作)
(1)分析的キュビズムの時代(1909~1910)の作品。対象の外観を打ち砕き、ただひたすら形態と量の純化を求めた。
(2)肖像画のうちに、彼独特のなまなましい現実感と、彼をとらえた新しい造形意識とを結びつける格好の契機を見出した。通常の肖像画のような、人物と背景とのあいだの区別や対称はみられない。人物も背景もすべて小さな切子面に分解されて、独特のリズムを生み出している。
(3)彼は、その志向がいかに抽象的なものに向かっていても、現にあるものと向かい合い、現に向かい合うばかりでなく、それに身をゆだね、それから力を吸い取るという姿勢が変わることはない。
(4)当初は多少ともみられた現実のイメージは時とともに捨て去られ、画面は幾何学的な形や線で埋められて、いったい何が書かれているか、ほとんど見分けることができないものとなる。
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4 「トランプ遊びをする人」(1913~14制作)
(1)総合的キュビズムの時代の作品。画面にそれまで姿を消していた具体的なイメージや色彩が蘇ってきた。
(2)この作品の色彩は、鮮やかだが、いささかのけばけばしさもない。しずかだが欲情のしみとおった世界を生み出している。
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5 「母と子」
(1)第一時世界大戦終了後、キュビスムの探求は続けながらも、明確な形態感とがっしりとした量感と、伸びやかな生命感につらぬかれたいわゆる「新古典主義」的な作品を描き始めた。
(2)新古典主義時代の母子像は、よろこび、安定、充溢などが表現されており、母も子も己の存在を楽しんでいるようだ。
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6 「ゲルニカ」(1937年制作)
(1)ナチスドイツによるスペインの町ゲルニカ爆撃の悲劇を描いた大作。
(2)ピカソは惨状のさまざまなイメージを画面いっぱいに、所せましといわんばかりに描いているが、そこにはいささかも混乱したところ、あいまいなところはない。観念的なところ、抽象的なところはない。どの形も、それらを生み出す根源につき戻され、そこから新たに生まれ出ている。
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7 「梳る裸婦」(1940年制作)
(1)1939年に第二次世界大戦がはじまり、ピカソはパリを離れ、フランス南部のロワイヤンという町に避難する。そこで制作した作品。
(2)ピカソは後に「私は戦争を描かなかった。だが、あの頃私が描いた絵の中に戦争が存在していることは何の疑いもない。」と語った。
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8 「死体置き場」(1944~45年制作)
(1)粗末な部屋の、水と食べ物は乗った机の前に、しばられた男や女や子供の死体が無残に積み重ねられた情景。
(2)ナチスによるユダヤ人強制収容所のすさまじい実情が次々と明らかになり、ピカソの激しい怒りを誘った。本質的構造とでもいうべきものを、あいまいな細部にとらわれることなく、厳密的確につかみだしている。
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世界のすべての国を最速で旅行した女性 [インターネット情報]

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  CNN電子版が、世界のすべての国を1年半で回った米国コネチカット州に住む女性について報じている。

1 彼女は世界にある196の独立国を18か月と26日で回った。これは、ミシガン州の男性が3年3か月ですべての国を回ったというこれまでのギネス認定の最速記録を、大きく破るものであった。

2 彼女は大学で環境学を専攻した後、23歳の時にこの世界旅行を計画した。費用として2千2百万円ほど必要になると見込まれた。彼女は全く資金がなかったので、1年半の間、旅行の準備をするとともに、ベビーシッターで110万円を貯めた。そして、スポンサー探しを行った。

3 まず、グーグルで資金集めの方法を検索し、ほかの人がどのようにして資金を集めているかを調べた。そして、彼女は大小さまざまな会社から資金を得ることができた。ついで、世界を回る旅行を始める前に、彼女は片道切符と22万円相当のお金を持って欧州に行き、ホテルなどで働きながら各地を回って格安旅行の経験を積んだ。

4 彼女は2015年7月に世界旅行をスタートした。彼女の旅行は「旅行を通して平和を目指す国際機関」の大使として、環境に負荷をかけない持続可能な旅行を推進することを目的とした。彼女は各国政府の旅行担当の高官に面会した。また、トータルで1万6千名以上の学生に対し、旅行で使われる炭素排出を相殺するための方法につき話す機会を得た。

5 彼女の世界旅行に対しては批判もあった。例えば・・・
(1)持続可能な旅行を標榜するのは偽善的だとの批判があった。彼女はこの世界旅行で255回、飛行機に乗った。それによって生じた炭素排出量を相殺するため、彼女は50か国以上で植林を行った。植林をするための許可を得るのは簡単ではなかったが50本の木を植えた。充分に相殺するためにはさらに500本の木を植える必要があり、コネチカット州に戻ってから行う予定だ。

(2)各地の滞在時間が意味のある経験をするためには短すぎるとの批判もあった。確かに、2日で5か国を回ったこともあった。記録とお金のための旅行だという批判もあった。

6 大部分の国はアメリカのパスポートで自由に旅行できたが、ビザの取得を必要とする国もあった。北朝鮮の場合は単独でアメリカ人がビザを申請すると3日の滞在用で11万円相当のお金を取られる。中国人の旅行団に加わってビザを申請すると3万円で済む。また、トルクメニスタンとシリアへのビザ取得方法がわからず、フェイスブックで取得方法を教えてもらった。

7 南極は独立国ではないので、まだ行っていないが、2月下旬には旅行団に加わって行くつもりだ。それで6大陸すべてを回ったことになる。さらに3月末にはカリフォルニア州サンディエゴで開催されるアイアンマンレースに参加する予定だ。

ドフトエフスキー「地下室の手記」 [海外文学]

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  1864年、作者が42歳の時に書かれた作品。
  第一部は、40歳の無職の男性が自分の考えを独白。
  第二部は、その男性が役所勤めのをしていた24歳の頃を振り返る。

第一部
 1 僕は病んだ人間だ、意地の悪い人間だ、およそ人好きのしない人間だ。
 2 日中、醜悪な真似をしたことを悔やみ、心中ひそかに自分をさいなむ。しかし、この苦痛がある種の恥ずべき甘美さに変わっていき、最後には本物の快楽に変わってしまう。
 3 僕は恐ろしく自負心が強い。疑り深くて怒りっぽい。
 4 自分から進んで自分をネズミと考える。不幸なネズミは、最初から持ち合わせた醜悪さだけでなく、様々な疑問や疑惑の形で自分のまわりに醜悪な反吐のようなものを積み上げてしまっている。
 5 人間はしばしば自分の真の利益を二の次にして、一か八かの危険を伴う別の道へ突き進んだものだ。指定された道を行くのだけはごめんだとばかりに、それとは別の困難な、不条理な道を、強情に勝手気ままに切り開いてきた。
 6 僕の生きる能力のすべてを満足させるために生きたいと願っており、けっして理知的能力だけを満足させるために生きようなどとは思ってもいない。
 7 人間は、たとえ行き先はどこであろうと、自分の道を切り開いていくものなのだ。こうした使命を背負っているからこそ、人間は時として脇道へそれたくなる。道というやつは、たとえ方向はどちらへであるにせよ、とにかくほとんど常に、どこかへ向かって続いているものであり、大事なのは、その方向ではなく、とにかくそれが続いているようにすることだ。
 8 自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実のすべてを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。

第二部
 1 24歳。役所に勤務。人間嫌いといえるほど孤独だ。同僚は僕のことを露骨な嫌悪の目で見ている。僕は役所の同僚を一様に憎み、軽蔑していた。
 2 僕は現代の知的人間にふさわしく、病的なまでに知能が発達していた。

 3 将校の侮辱
 (1)道をふさいでいた僕を立っていた場所から別の場所へ置き移し、それこそ僕など眼中にないといった顔でそこを通って行った。そんな風にして完全に無視されたのでは、なんとも腹の虫がおさまらなかった。まるでハエ同然の扱いを受けたのだ。
 (2)僕はハエのような存在にすぎないのだ。何のようもなさない、汚らしいハエに過ぎないのだ。

 4 学校友達
 (1)ある日、孤独に耐えきれなくなった僕は、数少ない学校友達に会いに行った。
 (2)彼のところには他にも二人学校友達が来ていて、遠方に赴任するもう一人の友達の送別会を開くことを相談していた。僕が入って行っても誰一人、気に留める風もなかったが、数年ぶりに顔を合わせたにしてはこれはなんとも解せない話だった。明らかに僕のことを珍しくもないハエのような存在とみなしているのだ。
 (3)彼らはその送別会に僕を加えるつもりはなかったが、僕は一人7ルーブリのその会に参加を希望した。僕の手元には全部で9ルーブリしかなかった。しかもそのうち7ルーブリは明日にも下男に給料として渡す分だった。
 (4)送別会の日、0.5ルーブリを使って辻馬車を仕立てて行った。しかし、開始時刻は勝手に1時間後にずらされており、待たされた。僕は不自然なほど早くいらだって来た。僕はすっかり仲間外れにされて、ぶちのめされたように、しょんぼりと座っていた。やけになって、僕は赤葡萄酒やシェリー酒をコップであおった。
 (5)開始から3時間が経ち、かれらはテーブルからソファの方に移った。僕は招かれなかった。それから3時間、僕はその部屋の中を行きつ戻りつ歩き続けた。
 (6)彼らはさらに売春宿に揃って行くことになった。僕はもちろん誘われなかったが、彼らの一人からお金を借りて追いかけることにした。

 5 売春婦
 (1)そこで、新鮮な、若々しい、真面目そうな娘を見た。僕はとたんに好感を持った。その顔にはなにか素朴で善良なものがあった。服装はみすぼらしいぐらい質素だった。何やら醜いものがチクリと僕の心を刺した。僕はまっすぐ彼女の方へ歩み寄った・・・。
 (2)僕は、帰る前に彼女に、このような場所から抜け出さなければだめだと説き、僕の住所を渡して、訪ねてきてくれと言った。
 (3)数日後、彼女が訪ねてきて、言った「私あそこから出たいんです」。僕は言った「僕は同情の言葉をかけた。あの時僕は君を笑っていたんだ。ぼくは腹いせをしなくてはならなかった。ただ言葉をもてあそび、本心では君の破滅を望んでいた。僕が一番醜悪な、一番滑稽な、一番つまらない、一番愚劣な、この世の中でどんな虫けらよりも一番嫉妬深い虫けらだってことがいけないんんだ」。
 (4)彼女は突然、手を差しのべ、両腕で僕の首を抱え、声をあげて泣き崩れた。僕は「僕は善良な人間にはなれないんだよ」と言った。僕と彼女は抱き合った・・・。
 (5)彼女が帰る時、彼女の手に5ルーブリ札を握らせた。彼女は僕が気が付かないようにその紙幣をテーブルの上に残していった。
 (6)彼女は永久に屈辱を胸に抱いて去って行った。屈辱というのはなんといったって浄化だ。これは一番痛切な、苦痛を伴った意識なのだ。僕は明日にもあの女の魂を汚し、彼女のこころを疲れ切らしてしますかもしれない。だが、このままなら屈辱は彼女の中で決して死に絶えることはない。彼女の行く手にある穢れがどんなに醜悪なものであっても、屈辱は彼女を高め、清めてくれるだろう。
 

「明治維新という幻想」 [日本史]

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  著者は森田健司さん。洋泉社の歴史新書の一冊。
  封建的な体制であった徳川幕府・江戸時代を再評価し、それを打ち破った明治新政府の暴力性を批判する。

1 明治維新直前の徳川幕府には勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、榎本武揚、徳川慶喜など、優秀な人材が多かった。
   勝海舟・・西郷隆盛との会談により、一切の武力衝突をすることなく、江戸城を新政府軍に明け渡し、江戸を戦火から守った。交渉や仲介の巧みさと、暴力の衝突を回避させることに関して、勝の右に出る者はいなかった。
   山岡鉄舟・・駿府に赴き西郷に会い、慶喜の恭順の意を伝えるとともに、勝・西郷の会談のための事前の打ち合わせを行った。
   高橋泥舟・・慶喜に朝廷への恭順を勧めた。
   榎本武揚・・航海術を身につけ、戊辰戦争を最後まで戦い、新政府でも要職に就いた。
   徳川慶喜・・速やかに大政奉還を行った。鳥羽・伏見の戦いを最後に、その後は一切の武力行使を行わなかったうえ、朝廷への恭順の意を示して謹慎までした。これにより、戊辰戦争の被害が最小限に抑えられた。旧幕府軍と新政府軍が死力を尽くして戦う内戦が繰り広げられていれば、日本の分裂と英仏による植民地化が行われていたに違いない。慶喜は日本を救った。

2 新政府の要人たち、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などは品性や美学が甚だしく欠如していた。
   西郷隆盛・・戦好きで、問題の解決を暴力、武力に頼る軍人。明治10年、西南戦争で自害。
   大久保利通・・新政府のリーダーとして版籍奉還、廃藩置県など国の形を変える大仕事を行ったが、明治11年に暗殺された。
   木戸孝允・・長州藩のリーダー的存在。明治10年に病死。
   伊藤博文・・大久保亡き後、明治政府を背負うことになる。初代総理大臣。明治42年に朝鮮で暗殺される。

 * 本書の感想
    ア 明治維新により日本の近代化が可能となったという新政府が作り上げた歴史観を否定し、世の中が安定し平和であった江戸時代を評価している。しかし、幕藩体制は世襲の弊害により、実行力のあるリーダーを得ることができず、内部崩壊が進んでいたのではないか。幕府内に優秀な人材がいたとしても、リーダーが怠慢であれば体制全体を支えることは出来ない。本書はそういう意味ではピントがすれている懐古趣味的な本。

    イ 徳川慶喜が幕府を放り出したことで戦禍が少なくて済んだとしても、リーダーとしては無責任ではなかったか。最後まで戦った一部の藩には構わず、自分は謹慎して身の安全を願り、武士の精神は微塵も見られなかった。

 * 明治維新について知りたい点
    ア 徳川御三家の一つである水戸藩でなぜ尊王攘夷思想が発展したのか。
      尊王攘夷思想が幕藩体制の強化につながると考えたのか。
    イ その水戸学に傾倒していた一橋慶喜がなぜ第十五代将軍に選ばれたのか。
    ウ 徳川御三家の尾張藩や紀州藩は徳川幕藩体制の危機的な状況において、どのような動きをしたのか。
    エ 朝廷が薩長の軍事行動にお墨付きを与えたのはなぜか。
    オ イギリスはなぜ薩長を支援したか。
    カ 幕府軍の武器が薩長軍のそれよりも劣っていたのはなぜか。徳川幕府に優秀な人物が揃っていたならば、なぜ外国からの武器の購入などにより軍備の充実を十分に図らなかったのか。
    キ 新政府は、なぜ攘夷思想から欧米をまねた近代化(文明開化)へと考えを素早く切り替えることができたのか。

「ベートーベン」

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  著者は長谷川千秋さん。岩波新書の一冊。初版は1938年に出版された。
  あくまでリアルにベートーベンの全貌に迫った。

1 作品作りは時間をかけ慎重だった
(1)幼児の頃より天才といわれてきたが、二十余歳にいたるまで、作った作品の数はわずかであった。出来ないから作らなかったのではない。やろうと思えばやれる腕を持っていたことは、彼のすばらしい即興演奏が十分に証明してくれる。
(2)部分的な楽曲のメモ書き(スケッチ)は作っていた。しかし容易に作品として発表しなかった。

2 楽曲の作り方
(1)彼は、路上といわず、床の上といわず、胸に浮かんだあらゆる楽想を直ちにスケッチした。彼にとってスケッチは、天来の響きを瞬間にとらえて保存することであった。
(2)ピアノを使わないことにより、楽器の影響から生ずるマンネリズム、視野の狭さなどを防ぎ、真に創作的に、自由な、発展的な領域を得ることができると考えた。
(3)規則に従えという頭からの命令は彼には通じないのであった。より美しい結果が得られるならば、どんな音楽に関する規則でも破って構わないと確信していた。

3 努力の人
(1)彼は実に努力の人であった。気に入らないときは何回でも作り直す、彼はいかなるものがいかなる場所に納まるべきかについて、非常に注意をし、迷い、逡巡した。ある個所を直すために、書き改めては、その上に張り付けて、13枚も貼り付けてあるものもあった。出来なければ何度でもやったのである。
(2)このような創作態度の、最も顕著な功績を挙げるのは、曲の構成についてであった。適切に選ばれた各テーマ、各経過句の素晴らしい音楽的効果など、古今独歩の音楽的構成のすばらしさをもたらした。

4 難聴の遠因
(1)元来、体が頑丈なせいもあったが、自分の体を取り扱うのにきわめて乱暴であった。雨の中をぐしょぬれで散歩したりするのは毎度のことであった。
(2)短気な彼は医者にかかれば直ちにその効能あらんことを焦慮し、効能のないときは、たちまち医者に対して無能呼ばわりをした。忍耐のない衛生的に非常識な患者であった。

5 難聴での苦悩と芸術への思い
  「他人より一層完璧であるべき私の感覚、かっては最上級に完全であった私の感覚が、だめになったことを公表しようとすることが、どうして私にできるだろう。人々と交際し、意見を吐きあって楽しむことはもはやできないのだ。孤独、全くの孤独。私はほとんど絶望せんばかりだった。私は危うく自分の命を絶とうとした。私を引き留めたのは芸術だった。自分に課せられたすべてのものを完成してしまうまでは、この世を去ることは出来ないように思われた。」

6 頑迷な性格
(1)耳が聞こえず、無作法で、人目もかまわず、頑固で、厳しくて、時にはまるで感覚がなくなったと見えるほど茫然としているかと思えば、そばで耐えられなくなるほど騒々しくなる。あるいは突然、毛を逆立てて怒り出す。また、節度を越えて肺腑をえぐるような響きを持つ皮肉や冗談を言う。
(2)彼は召使に対しては極めてひどく当たった。スープがうまくできていないと言っては、それは貴様の心が曲がっているからだ、ひどく怒鳴った。そのため仕返しも受けた。召使が火をたくのを怠り、彼が火の気のない凍ったような部屋のベッドの上で、ガタガタ震えていることもあった。

7 第九交響曲の成功
  各楽章ごとに、破れるような喝さいが起こったが、特に第二楽章と、合唱の終楽章が終わった時は、聴衆の熱狂と喝さいは劇場を揺らぐばかりに湧き上った。彼は、演奏を終えた時、後ろの熱狂には少しも気が付かず、まだ指揮棒を手にしたまま、寂然として立っていた。この時、アルトの独唱をした歌手が進み寄って、彼の手を取って、後ろに向けてやった。彼は初めて聴衆の嵐が分かった。彼は丁寧な、しかし子供のように不器用な挨拶をした。そこで、再び雷のような喝さいの響きが巻き起こった。

「金融政策の『誤解』 ”壮大な実験”の成果と限界」

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 著者は早川英男さん。元日銀調査統計局長。2016年7月に出版された。
 近年の日銀の金融政策について論じている。

1 これまでの異次元金融緩和
(1)2013年4月の異次元緩和
   (長期国債を年50兆円、ETFを年1兆円)
(2)2014年10月の異次元緩和
   (長期国債を年80兆円、ETFを年3兆円)
(3)2016年1月のマイナス金利導入
(4)ETFを年6兆円へ

2 異次元金融緩和の評価
(1)肯定的評価
    短期決戦であれば、試みることに一定の合理性はあった。
    (円安により物価上昇と輸出拡大が期待できる。)
    ただし、いつまでも続けられない。
    (出口において日銀が巨額の損失を被る。)
 
    実際に、企業が円安と原油安の恩恵を受けて企業収益を改善した。
    しかし、それが設備投資の増加や賃金の引き上げに結びついていない。

(2)マイナス金利政策の評価。
    国債大量購入よりも持続可能。
    いざとなれば金利のマイナス幅拡大という手段を手に入れた。
   ただし、
    金融機関の収益悪化により、融資拡大意欲を減殺する。
    「マイナス金利付+国債大量買入れ」は意味不明。

(3)否定的評価
     出口では、長期金利が大幅に上がり、金融システムの不安定化につながる。
     日銀の損失は数十兆円規模となる。
     出口までに財政健全化の目途が立たなければ、国債の金利が5%を超えて上昇し、財政・金融危機の引き金となる。
     財政規律の弛緩こそが異次元金融緩和の最大の副作用。

4 今後の目指すべき方向
(1)日本経済の長期低迷の原因はデフレではなかった。
     潜在成長率が低下しており、低成長は避けられない。
     企業の生産性、競争力が低下している。

     成長戦略により潜在成長率を高めることが重要。
     「日本的雇用」を変える必要がある。

(2)具体的には・・
  ① 将来のコストを抑制するため、マネタリーベース目標は破棄する。
  ② マイナス金利を使って粘り強く金融緩和を進める。
  ③ 政府とも協力して企業・労働者に賃金引き上げを要請していく。

 * この本の問題点
   全体的に、政策の詰めや危機感が甘い。
   ① 筆者は「異次元緩和に賭けてみるのは一定の合理性があった」というが、失敗した実験のコストとして出口で発生する数十兆円はあまりにも高額。
   ② マイナス金利だけを進めるというが、国債の大量購入を続けなければ、財政大幅赤字のもとでは金利を抑えることは出来ない。
   ③ 企業に賃上げを要請していくというが、政府が旗を振ったからといって、個々の企業が設備投資をしたり、賃上げをするほど甘くはない。あくまでもビジネスディシジョンで決まるべきもの。
   ④ 企業が巨額の過剰流動性を保有しており、いったんインフレに火が付くと止められなくなる。そういう状況で、物価の番人であるべき日銀は適切な対抗手段を出せるのか。財政は金利が数パーセント上昇するだけで、破たんする。高度成長期の時のような窓口規制は、過剰流動性が十分存在するので機能しないだろう。
   ⑤ 異常で無駄な金融政策を実施した日銀の責任は重大。財政の規律弛緩を容認する役割も担った。  
   ⑥ 巨額のETFを日銀が購入する合理性がどこにあったのか。株式市場の適性な株価形成を著しく妨げ、かつ日銀自身の今後の機動性を損ねている。
   ⑦ マイナス金利あるいはゼロ金利持続により、個人預金者が得るべき利息収入が奪われているということや、年金資産の運用リスクを増大させることになっているといった視点がこの本にはない。
  

中国人男性の結婚難 [インターネット情報]

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  BBC電子版が中国人男性の結婚難について伝えている。

1 中国では、一人っ子政策の影響により、女性よりも男性の方が数が多い。一人っ子政策は2015年に停止となったが、その影響は今後も数十年間続く。男性と女性の数の差は今後、さらに拡大する。2020年には結婚適齢期の男女の差は3千万人に達する。2030年には30代の男性の4分の1以上が結婚できていないと予想されている。

2 既に一部の男性は結婚相手を確保するために大変な努力をしている。例えば、上海のある40代の男性は結婚相手を紹介する会社に1億円も支払ったが相手を見つけてくれなかったので、その会社を訴えた。また、自分をより魅力的に見せるために、心理カウンセラースタイリストを使う人もいる。

3 多くの人が家族や友人を訪れる春節(旧正月)は、出会いを得る絶好の時期となる。また、近年はインターネットを経由して結ばれることも増えている。若い世代の人たちは、以前のように両親に従うのではなく、自分自身の考えで相手を決めることが多くなっている。

4 しかし、中国の親は、子供が結婚して家庭を持つのは自分たちの責任と考え、子供にプレッシャーをかける。また、子供がいつまでも結婚しないと親が周りから非難される。娘を持つ親は娘が30歳になる前に結婚するよう必死になる。このため、複数の親たちがお見合いデートを仕組み,子供たちに参加を強要する。また、結婚相手を紹介する会社の掲示板には、親が子供の収入、教育、性格などを手書きして宣伝するポスターがあふれている。

5 両親から結婚するように責められる男性のために、両親をごまかすためのウソのガールフレンドを紹介するサイトもある。費用は1日あたり15万円。

6 田舎ではまだ、男性が女性に対して金銭面でしっかりしていることを示さなければならないという昔からの伝統が残っており、相手探しをより難しくしている。男性が相手を見つけ結婚を希望した場合、女性の母親は、まず男性が家を購入することを要求する。これをクリアしなければ話は先に進まない。しかし、中国の家の価格はどこでも高騰している。このため、多くの男性が結婚時期を遅らせる。そして、こうした条件をクリアして相手を探す際には、若い女性を求める。このため、中国では年齢の差が10~20歳というのも珍しくない。

「忘れられた日本人」 [日本文学]

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 岩波文庫の一冊。著者は民俗学者の宮本常一さん。もともとは1960年に出版されたもの。
 著者は1950年代に、国内各地の農漁村で古くからの人々の暮らしぶりに関する情報を収集した。

1 対馬の寄り合い
(1)村で取り決めを行う場合には、みんなの納得のいくまで何日でも話し合う。夜もなく昼もない。ゆうべも明け方近くまで話し合っていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなれば帰ってもいいのである。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまで話し合った。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。

(2)この寄り合い方式は近頃始まったものではない。村の申し合わせ記録の古いものは二百年近い前のものもある。

2 村の共同生活
  小さな村は共同生活をする場所としては狭すぎる。人間性を押しつぶさねばならぬ場合も多い。そうした生活の救いともなるのが人々の集まりによって人間のエネルギーを爆発させることであり、今一つは私生活の中で何とか自分の願望を果たそうとする世界を見つけることであった。前者は祭りとか家々の招宴の折に爆発して前後を忘れたばか騒ぎになり、後者の場合は姑と嫁の関係のようなもののほかに、もの盗みとなったり男女関係となって現れる。

3 名倉談義
(1)どの百姓家でもたいてい2年分ずつ食うもののたくわえを持つようにした。新米が出ると去年の分を食い始める。それまでは一昨年のを食うている。一生うまいコメを食うことはなかった。そうしないと飢饉年がしのげなかった。

(2)私ら貧乏だったし、それが当たり前と思っていた。あのころは女の子で学校へ行くものはよほど良い家でないとなかった。小学校へ行っていたものはこの辺りでは二人だけでした。私はそういうことで小学校というものへ一日も行ったことがない。

(3)女と仲ようなるのは何でもないことで、通り合わせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手が受け答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押しかけていけばよい。拒むもんではありません。

4 ある老婆
  愛媛県と高知県の県境の狭い山道で一人の老婆に出逢った。見た目にハンセン病患者と分かる傷痕を顔や手に残していた。道を聞かれたが地図を見てもわからず、分からないと答えた。どうしてここまで来たのだと尋ねると、「こういう業病で、人の歩くまともな道は歩けず、人里を通ることもできないので、こうした山道ばかり歩いてきたのだ」と答えた。老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。

5 私の祖父
  私の祖父は実によく働いたが財産は出来なかった。いつも朝4時に起きた、それから山へ行って一仕事して帰ってきて朝飯を食べる。朝飯といってもお粥である。それから田畑の仕事に出かける。昼までみっちり働いて昼食が済むと、夏ならば3時まで昼寝をし、何かを食べてまた田畑に出かける。そして暗くなるまで働く。雨の日はわら仕事をし、夜もまたしばらくは夜なべをした。仕事を終えると、神様、仏様と拝んで寝た。生活はいつまでたっても良くならなかった。

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「密着 最高裁の仕事」

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 岩波新書の一冊。著者は毎日新聞の川名壮志さん。
 最高裁で取り扱われた事件を通して最高裁の役割を描く。

1 親子関係のDNA鑑定
(1)ある男性が、妻が妊娠した5番目の子供について疑念を抱きDNA鑑定を行ったところ、その男性と子供は血縁関係がないことが判明。さらに3番目と4番目の子供のDNA鑑定を行ったところ、同様にいずれも男性の子供でないことが判明した。このため、その男性は親子関係不存在を訴える訴訟を起こしたが、一・二審で認められず、最高裁まで上告した。

(2)しかし、最高裁でも訴えは認められなかった。民法では、「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」となっている。例外的に親子関係を否認できるのは、夫が外国に居住していた、刑務所に入っていた、長期間別居していたなどのケース。これらに該当しない場合は、たとえDNA鑑定で親子ではないことが判明しても、最高裁は親子関係の否認を認めていない。理由としては・・・
  ① 父子関係をすみやかに確定させることで、子の利益を守る。
  ② 子の意思がはっきりしない時点で、親子関係を否認するのは問題。
また、否認の訴えは出生後1年以内に提起しなければならないとなっており、3番目と4番目の子供についてはこの期限を過ぎてもいた。

2 夫婦別姓
(1)主要国はもちろん、中国や韓国でも夫婦別姓は認められている。しかし、日本の民法では、夫または妻のいずれかの姓にそろえなければならず、夫婦の96%は男性の姓を使用している。大半の女性が結婚を機に姓を変更しなければならず、様々な負担を強いられているということで、民法の規定は男女平等を謳う憲法の規定に反すると裁判所に訴えた。

(2)しかし、最高裁は以下の理由により民法の規定は憲法に反していないと、訴えを退けた。
   ア 夫婦同姓の制度は社会に定着している。
   イ 家族は社会の基礎的な集団単位であり、姓を一つに定めることには合理性がある。
   ウ 子供から見れば、どちらの親も同じ性である方がよい。
   エ 夫婦同姓制度は結婚前の姓を通称として使用することを否定しない。

(3)ただし、15名の裁判官のうち、5名の裁判官は「民法の規定は憲法の規定に反している」と反対意見を出した。女性裁判官3名はいずれもこの5名の中に含まれている。反対理由は・・
   ア 結婚して姓が変わると、同一人物であるとの特定に困難が生ずる。
   イ 大半の女性が夫の姓に変更するのは、女性が社会的にも経済的にも立場が弱いことが原因。夫婦別性を認めなければ、妻のみが自己喪失感を負うことになり、個人の尊厳と両性の平等に立脚した制度とは言えない。