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「オー・ヘンリー傑作選」 [海外文学]

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  オー・ヘンリー(1862~1810)はアメリカの小説家。
  15歳で学校を終えた後、様々な職業を経験した。小説を書くようになったのは、銀行で働いているときにお金を使いこみ、5年間の刑に服している時。出獄後、ニューヨークに移り、多くの短編 小説を発表して、作家として認められるようになる。ただ、彼の作品が本格的に評価されるように なったのは彼が47歳で亡くなった後。現在では、アメリカを代表する作家の一人とみなされてい  る。
  作品には意外な結末が仕組まれていることが多い。

1 「賢者の贈り物」
   貧しいながらも仲良く暮らす若い夫婦。クリスマスイブは明日に迫っているがどちらも相手に送るクリスマス・プレゼントを買うお金がない。二人は相手が欲しがっているものをどうしても  買いたくて、それぞれ自分が最も大切にしていた物を売る。夫は時計を、妻は自分の髪の毛を・・・
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2 「警官と讃美歌」
   公園のベンチを拠点に路上生活をしているが、冬の間は刑務所の厄介になる。今年も冬が迫ってきた。無銭飲食などの軽い罪を犯せば、警察に引っ張られ、治安判事がうまくやってくれる。
   まず、高級レストランに入ろうとしたが、すぐに歩道に追い出されてしまった。華やかな店のウィンドーめがけて石を投げガラスを割った。大衆食堂で食べた後、金がないことを告げた。若い女性に言い寄った。しかし、いずれも警察官が来て逮捕してくれることにはならなかった・・・
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3 「マモンの神とキューピッド」
   息子は言う「金でできないこともありますよ」
   金持ちの父親は応える「馬鹿なことを言わんでくれ。わしはいつだって金の力の方に賭ける。なにが金で買えないか言ってくれ」
   息子は最愛の女性がヨーロッパに旅立つ前に告白したいが、馬車で送る6~8分しか時間がない。ところが、馬車が出発するとすぐにひどく道路が込み合い2時間も二人きりになり、結婚の約束を得ることができた。息子は渋滞という偶然の幸運に恵まれたと思ったが・・・
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4 献立表の春
   ニューヨークに住む、貧乏な若い女性。レストランのメニューのタイプ打ちでなんとか暮らしている。田舎で生活している青年と結婚の約束をしている。しかし、彼から2週間も連絡がない。住所が変わったとの連絡が彼に届いていなかった。しかし、彼は探し当てて来た。それは・・・
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5 緑のドア
   冒険心旺盛な男性が通りを歩いていると、「緑のドア」というチラシを受け取った。それと思しき建物の中の、緑色のドアを思い切ってノックすると、ドアはゆっくりと開き、まだ二十にならない娘が真っ青な顔でよろめきながら立っていた。ノブを離すと、片手で探るような格好で力なく倒れかかった。娘を抱きとめると、壁沿いの色あせたソファに寝かせた。」 その娘は3日間、何も食べていなかった・・・
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女性の社会進出 [インターネット情報]

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  <参考資料> 「女も男も生きやすい国、スウェーデン」
          三瓶恵子著 岩波ジュニア文庫
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  世界幸福度ランキングで日本は51位と低い。
  男女平等が進んでいないことがその一つの理由。
  同ランキングで10位のスウェーデンと比較してみると・・・

1 女性の社会進出
(1)就業率
    男性では、日本81%、スウェーデン82%と差が少ない。しかし、女性では、日本62%に対し、スウェーデン77%と15%の差がある。日本では、育児に忙しい年代で就業率が下がる。

(2)女性管理職の比率
    日本は11.2%であるのに対し、スウェーデンは35.4%。日本はまだまだ女性管理職の割合が少ない。

(3)女性議員の比率
    日本では、国会議員で13%、県議会議員で9%、市議会議員で13%なのに対し、スウェーデンではそれぞれ44%、48%、44%となっている。日本で女性議員の比率が高まらない要因は、政党が男性中心で構成されていることもあるが、女性自身が投票行動において女性議員を増やそうという意思を示していないということにもよる。

2 男女間賃金格差
(1)賃金格差
    日本では、女性の賃金は男性の74%。これに対し、スウェーデンでは86%。格差がないわけではないが、日本よりは少ない。

(2)短時間労働者の割合
    女性就業者全体の中で、労働時間が週30時間未満の短時間労働者が占める比率は、日本が36.2%であるのに対し、スウェーデンは18.4%。日本では、短時間労働者が多いことが賃金格差の一つの要因となっている。

(3)パートタイム労働者の賃金水準
    フルタイム労働者に対するパートタイム労働者の賃金水準は、日本が56.8%に対し、スウェーデンは83.1%。スウェーデンでは、パートタイムとフルタイムの差は単に労働時間の差で、待遇面の差はない。これも男女間の賃金格差の要因の一つとなっていると考えられる。

3 スウェーデンの保育園事情
(1)育児休暇
    子供が1歳になるまでは育児休暇を取得する。この間は給与の80%弱が支給される。なお、育児休業手当の受給者のうち25%は男性である(男性も育児休暇を取得する)。

(2)保育園
    1歳から6歳までは保育園に通わせる。この年代の児童の88%が保育園に通っている。保育園の一クラスの平均人数は16.8人。

(3)待機児童
    スウェーデンでは待機児童は原則ゼロ。保育園は希望者の全員を受け入れる義務がある。必要な費用は国から支給される。

(4)保育園の費用
    保育料の自己負担額の上限が定められている。子供一人目が世帯収入の3%、二人目が2%、三人目が1%となっている。金額平均では、それぞれ16,977円、11,314円、5,663円。これを上回る部分は国が負担する。
    
  * スウェーデンは消費税25%の高負担高福祉の国。
    しかし、医療費、大学、給食費などすべてタダ。
    子供を保育園に預けて、安心して仕事を続けられる。
    男女平等もしっかりと根付いている。
    

「イワン・デニーソヴィチの一日」 [海外文学]

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  著者はロシアの反体制派作家、アレクサンドル・ソルジェニーチン(1918~2008)。
  1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放されるも、1994年に帰国した。
  本作品は1962年の出版で、著者自身が1945年から1956年にかけて体験した収容所生活を基に書かれている。ソ連国内でベストセラーとなるともに、多くの国で翻訳され読まれている。
  ソ連の強制収容所の状況を内外に知らしめ、大きな影響を与えた作品である。

  この作品の主人公は戦争で捕虜になっただけで10年の収容所生活を強いられる。
  極寒の地で外での作業に従事し、わずかな食べ物を与えられるのみ。
  差し入れは認めらているが、家族の負担を心配して断っている。
  生き延びて刑期を終え、自由の身になることを夢見て、
  恥も外聞もなく、少しでも余計に食事を得るなど、うまくやることに頭を使う。
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1 生きる
  このラーゲリ(強制収容所)で刑期満了で自由になった者はまだ一人もいなかった。
  「彼の頭にあるのは『生き延びて見せる!』ということだけ。なにがなんでも耐えて生き延びるんだ。神の思し召しできっとつとめあげる!」

2 作業班
(1)囚人は作業班のいずれかに割り当てられる。作業の結果に応じて作業班全体の食事の量が左右される。看守が囚人を駆り立てるのではなく、囚人同士がお互いに追い立てるようにする仕組みだ。
 「働かねえのか、この野郎、きさまのためにおれが腹へらさなきゃならねえてってのか?ふざけるな、働きやがれ、くそ野郎!」

(2)「囚人の最大の敵はだれか?別の囚人だ。囚人がお互いにいがみ合うことさえなかったらなあ、と思うがそれは・・・」

3 刑期
  「誰にでも10年くわしたという、そういう幸いな時期が以前にはあったのだ。ところが1949年から、こんどは誰かれの見さかいなく25年ということになった。10年ならまだお陀仏にならずに生き延びられるが、25年も生き延びられるかってんだ?!」
  
4 収容所送りの理由
(1)1942年2月、彼らの軍隊がすっかり包囲され、飛行機からも食いものは全然投下されず、死んだ馬の蹄を削り取り、その角質を水に浸して食う始末だった。射つ弾もなかった。捕虜になったが、二日間で仲間4人と一緒に脱走して逃げ歩いて、ソ連軍に出逢った。しかし、5人のうち3人は射殺され、残りの二人が、「ドイツ軍の捕虜になり逃げてきた」と言ったら、捕虜になるとはということで収容所送り。

(2)コーカサスでバプティスト信者のクラブの者みんなで祈っていた。神様に祈っていたからって、誰の邪魔をしたわけでもないじゃないか。それがみんな十束ひとからげで25年頂戴した。

5 食事
  「彼は食い始めた。まず(スープの)うわずみだけじかにぐっと飲んだ。熱いやつが入ると、体中にゆきわたった。はらわたがスープを迎えて喜びに震えている様子。うまいなァ!このつかの間の一瞬。このためにこそ囚人は生きている!」

6 営倉入り
(1)違反をすると営倉に入れられる。

(2)営倉は「壁はレンガで、床はコンクリート。窓は一つもなく、ストーブは壁の氷がやっととけて床に水たまりができる程度にしか焚かれない。寝るのはむき出しの板の上、それも歯ががくがくふるえずに寝られればの話。パンは1日300グラム。スープは3日目と6日目と9日目だけ。」
  
(3)「ここの営倉10日というのは、まともに10日入れられていたら、そいつはもう生涯身体がだめになるということだ。胸をやられて、もう死ぬまで病院だ。重営倉15日はいっていた者はとっくに土の下でねむっている。」

ユーロトンネルと青函トンネル [海外スポット]

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<ユーロトンネルの出口>

<青函トンネルの出口>
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1 長さ等
(1)総延長はユーロトンネルの50.5キロメートルに対し、青函トンネルは53.8キロメートルと長い。ただし、海底部分だけを比較すると、ユーロトンネルが37.6キロメートルであるのに対し、青函トンネルは30.5キロメートルであり、ユーロトンネルの方が長い。

(2)ユーロトンネルは最も深いところで、水面から115メートル、海底から75メートル下にある。一方、青函トンネルの最深部は水面から240メートル、海底から100メートルのところにあり、大分深いところを走っている。

2 工事期間
(1)ユーロトンネルは1988年から1994年にかけての6年10か月。これに対して青函トンネルは斜坑掘削開始が1964年、本工事開始が1971年、完成が1987年で、全体では23年、本工事だけでも16年を要している。

(2)この違いは主に地質構造の違いによる。ユーロトンネルが通る英仏海峡の地底はすべて石灰岩質。掘りやすく、水漏れも少ない。ここを川崎重工製の巨大ボーリングマシンを結局11台使って掘削した。10名が工事で亡くなった。

(3)一方、青函トンネルはスイス製の掘削機で掘り進めたが、軟弱な地盤と出水に悩まされた。工事で34人が亡くなった。

3 構造
(1)ユーロトンネルは本坑が2本、サービストンネルが1本で、合計3本のトンネルにより構成されている。

(2)青函トンネルは本坑が1本で、ほかに作業坑1本、先進導坑1本で、合計3本である。

4 利用数
(1)ユーロトンネルはロンドンとパリという英仏の首都を結んでおり、利用は多い。年間で1千万人の乗客と4百万台の車を運んでいる。

(2)一方、青函トンネルの年間利用者数は142万人で、近年は横ばい。2016年3月に函館まで新幹線が通じたので、どの程度増えているか?

<自動車を運ぶユーロトンネル>
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<ユーロトンネルの構造>
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<青函トンネルの構造>
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ロレンス短編集 [海外文学]

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 岩波文庫の一冊。著者はイギリス生まれの小説家、Ⅾ・H・ロレンス(1885~1930)。代表作は、『息子と恋人』(1913年)、『チャタレー夫人の恋人』(1928年)など。
 この本は、著者の書いた短編を収録している。

1 「馬仲買の娘」
(1)娘は器量よしではあったが、いつも無感動なこわばった表情をしていたため、兄弟たちに「ブルドックみたい」と言われていた。

(2)娘の両親が亡くなった後、兄弟は残された借金のため、家を手放さざるを得なくなった。娘は頼る当てもなく入水自殺を図る。そこを通りがかった馴染の医師に助けられた。

(3)医師は家に連れてゆき娘を介抱した。娘は、医師が池の底から自分を救い出し、介抱してくれていることに愛を感じる。医師は娘の不思議な魅力に引き付けられる・・・。

2 「木馬の勝者」
(1)男の子の家は、生活が派手な割に収入が少なく、常にお金が足りないという思いにつきまとわれていた。母親はいつも「もっとお金がなくては!」と言い、男の子に対し「パパもママも運が悪いのよ」と嘆いていた。

(2)男の子はあるとき木馬に乗り、懸命にゆすっていると競馬レースの勝ち馬の名前がひらめくことに気づいた。男の子は競馬好きの庭師とともにお金をかけ、たちまち大金を手にした。男の子は儲けたお金の一部を母親に渡してくれるように親しい叔父に頼んだ。母親はそのお金を手に入れるとすぐに贅沢三昧に使ってしまった。

(3)男の子は母親の「もっとお金がなくては!」という声を聴き、また、木馬に乗って深夜まで木馬をゆすり、勝ち馬の名前がひらめくのを待った。ようやく勝ち馬の名前がひらめき、さらに大きなお金を手にしたが、身体を痛めつけたため、意識を失い、ついには息を引き取ってしまう。

3 「愛のもつれ」
(1)25歳の彼女、婚約者の家に泊まりに行くが、彼がイチャイチャペタペタやり始めると、とても我慢がならなかった。彼女は言う・・・
  「男の人になれなれしく手出しされるくらい、屈辱的なことってないわよ。ほんとにむかむかする」
  「なでられたり、抱きしめたりって。いやらしいのなんの、ばかげてて話にならないわよ」

(2)彼は後悔した。「おれはどうして、あんなばかばかしいいちゃつきなどやらかしてしまったのだろう。おれたちの素朴な親密さへの裏切りだった」

(3)彼女は彼の目の中に、自分への誠実で辛抱強い愛情とふしぎに静かで一途な欲望を認めた。彼女は言った「何をしてもかまわないのよ。もしあたしのこと、本当に愛してくれるのなら」

4 「切符をお切りします!」
(1)鉄道会社での話。若くて男前の現場監督が、部下で車掌の若い娘たちを次々と自分のものにする。捨てられた娘たちは怒り、ある日、集まってその現場監督の男を寄ってたかって痛めつける。

(2)娘たちはその男に、結婚相手として自分たちの中から選べと迫る。男はやむを得ず、娘たちの中の一人を選んだ。娘たちの中に白けた、寂しげな雰囲気が漂う。

エッフェル塔と東京スカイツリー [海外スポット]

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 エッフェル塔は1889年、東京スカイツリーは2012年に完成した。123年もの開きがある。しかし、この二つの塔はいずれも、パリと東京という大都市のシンボルとして人気を集めている。
<東京スカイツリー>
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1 高さ
   エッフェル塔は324メートル、東京スカイツリーは634メートルである。最上階の展望台までの高さはエッフェル塔が276メートル、東京スカイツリーは450メートル。東京スカイツリーは大都市東京を眼下に、富士山など遠くの山々を望むことができる。一方、エッフェル塔は、整然としたパリの街並みの風景が見るものを感動させる。

2 工事
   エッフェル塔は2年2か月、東京スカイツリーは3年6か月で完成した。エッフェル塔は技術の粋を集めて当時としては世界一の高さの建築物であった。また、東京スカイツリーは、地震の多いところに世界一の建築物を造るということで、高度な技術を必要とした。

3 入場料
   最上階の展望台までの入場料は、エッフェル塔が2,100円、東京スカイツリーが3,600円で、東京スカイツリーの方が大分高い。

4 入場者数
(1)2015年度の入場者数はエッフェル塔が691万人、東京スカイツリーは479万人で、エッフェル塔の方が多い。
   
(2)入場者のうち外国人の比率はエッフェル塔が75%であるのに対し東京スカイツリーは15%。エッフェル塔は外国人観光客の利用が多い。二つの都市の2015年の外国人観光客数をみると、パリの4,700万人に対し、東京は1,189万人。パリを訪れた外国人観光客のうち11%の518万人がエッフェル塔を訪れたが、東京の外国人観光客のうち東京スカイツリーを訪れたのは6%の72万人。

(3)アメリカの旅行誌が東京の「ガッカリ」観光スポットのトップに東京スカイツリーをあげている。入場料が高いのがその理由。無料で上れる東京都庁や、地上250メートルの特別展望台まで1,600円の東京タワーの方が外国人には魅力的なようだ。

(4)東京スカイツリーは、目新しさだけでは日本人の入場者もいずれ減少に向かうと思われる。

和辻哲郎「道元」 [宗教]

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  河出文庫の一冊。もともとは1920年から1923年にかけて雑誌に連載されたもの。
  和辻哲郎(1889~1960)は哲学者、思想家。主著は「古寺巡礼」、「風土」、「倫理学」など。
  「道元」は曹洞宗の開祖、道元の思想を探ったもの。
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1 真理の探究
 仏法の修業は、真理の探究と体現に尽きる。
 これはある目的のために行うのではない。
 真理のために真理を求め、真理のために真理を体現する。
 真理の世界の確立がその目的である。
 修行をするもの自身のために真理を求めてはならない。
 名利のため、幸福のため、ご利益を得るために真理を求めてはならない。

2 切実な要求
 仏の真理はだれにでも開かれている。
 人がそれを得ないのは、得ようとしないからである。
 要求が切実でないからである。
 要求さえ切実であるならば、必ず仏の心理は獲得できる。

3 学修の方法
 切実な意思があったなら、あとは学修の方法である。
 方法の第一は「行」である。
 「行」とは、世間的価値の一切を捨て去って、仏祖の模倣者となること。
 世間の人が如何にに思おうとも、狂人と呼ぼうとも、ただ仏祖の日常の一切の行為に従って修行をすれば、仏の弟子への道がある。
 自分の都合や好悪を忘れ、善くとも悪くとも仏祖の言葉や行為に従う。

4 仏祖の模倣
 仏祖の模倣は、道元の修行法の根底にある。
 ひたすら座禅をするのも、仏祖自身の修行法であるから。
 戒律を守るのも、仏祖の家風であるから。
 難行工夫も仏祖の行為であるから。

5 導師
 仏祖の模倣は正しい導師なくしてできることではない。
 なにが仏祖の行為であるかは、自らの判別によって知られるのではなく、すでに仏祖の道に入ったものによって教えられなくてはいけない。
 (人格から人格への直接の薫育)
 仏祖の行為の最奥の意味は、固定した知識としてではなく、直接に人格をもって伝えられてきた。

 師の正邪は修行の成否を決する。
 修行者の天分は素材であり、導師は彫刻家である。
 善き素材も良き彫刻家に会わなければ、その良質を発揮することができない。

6 至誠信心
 この師に従い、一切の縁を投げ捨て、寸暇を惜しんで精進することが大事。
 師を疑い、精進を欠くものは真理を体得することは出来ない。
 しかし、このように迷妄を絶って仏の神髄を体得した場合に、それを可能にしたものは自分の人格の底から出てくる至誠信心である。
 至誠信心とは何か。
 それは法を重くし、身を軽くすること。

7 法
 あらゆる人は、釈迦仏に従って、自己において法をあらわさせなければならない。
 人の真正の任務は自己の活動によって法を実現すること。
 救いとは、自己を仏にすること、法を我々において具現することである。
 礼拝する対象となるは、超越的な仏ではなく、仏となれる人、法を得たる人に担われた「法」である。
 その「法」は、人から人へ直接に伝えられるものであって、人を離れた独立の形而上学的なるものとはならない。

8 人生の意義
 道元は、永遠の理想(法)を自己の全人格によって捕捉しようとする人間の努力に、十分な意義を与えた。
 それによってこの世の生活が再び肯定される。
 絶えざる精進が人生の意義になる。
 「法を重くし身を軽くする」という道元の標語は、こうして「努めてやまざるものはついに救われる」という思想に接近する。
 それは生活を永遠の理想に奉仕させることである。

シベリア鉄道 [海外スポット]

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  モスクワとウラジオストックを結ぶ、9300キロに及ぶ世界最長の鉄道。
  13年をかけて1904年に完成した。
  シベリアならびに極東地域の開発に欠かせないインフラとなっている。

1 シベリアへの進出
(1)ロシアがシベリアに進出するようになったのは16世紀ごろからで、主な目的は毛皮の獲得であった。毛皮商人の私兵、コサックはモンゴル系民族の支配地で戦いを行いながら、1636年にはオホーツク海に達した。

(2)その後、1689年にはロシアと清との間でネルチンスク条約が締結され、両国間の国境が定まった。さらに、17世紀後半にはロシアの南下が日本の蝦夷地を脅かすまでになった。

(3)シベリア鉄道ができる以前の交通手段は、河川交通と馬車であった。河川交通では、シベリアの大河の支流から支流を伝うことで東へ向かうことができたが、オホーツク海まで完全につながっているわけではなかった。また、道路が十分あるわけではなく、場所の移動は大変な時間を要した。

2 シベリア鉄道建設の歴史
 (「シベリア鉄道9300キロ」蔵前仁一著による)
(1)ロシアで初めて首都のサンクト・ぺテルブルクに鉄道が敷設されたのは1837年である。その後、ロシアは国の近代化を進めるため積極的に鉄道建設を行った。最初にシベリア鉄道建設の構想
が提案されたのは1857年であるが、実際に建設がスタートしたのは1892年である。

(2)工事は以下のような障害があり、困難を極めた。
   ① 橋脚や橋台に使う石材はウラル地方など遠方から運ばなければならなかった。
   ② 冬は極寒の地であった。
   ③ 無数の湖や池があり、蚊やブヨが群がった。
   ④ 密林を切り開くとともに、固く凍りついた表土に苦しめられた。
   ⑤ その凍土が真夏には解け出し、沼地へと変わり作業はますます困難になった。

(3)作業員は、ロシアから来た労働者ならびにイルクーツクの監獄から徴発された囚人労働者であった。

(4)しかし、ハバロフスクに至るルートは大変な難工事が予想され、この部分の建設は棚上げとなり、代わりに清を通る東清鉄道が1901年に完成し、バイカル湖だけ船に乗れば、モスクワからウラジオストックへ、鉄道でシベリアを横断することが可能となった。バイカル湖は冬は結氷して船の運航ができなくなるため、バイカル湖を南に迂回するルートの建設が1901年に始まり、1904年に完成した。これによりシベリア鉄道は一応の完成を見た。

3 シベリア鉄道の現在(日通総研レポートによる)
(1)現在は全線が複線・電化している。

(2)運行列車の80%は貨物列車で、輸送貨物は石油、石炭、木材、鉄鉱石、アルミ、化学薬品など。貨物量は石油や木材を中心に増大しているが、パイプラインの完成により、石油は大幅に減少する見込みである。

(3)間宮海峡や宗谷海峡を越え、北海道まで延伸のいう夢のような話もある。

<路線図>
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「東海村臨界事故 被曝治療83日間の記録」 [災害]

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  著者はNHKの岩本裕さん。。2002年、岩波書店刊。
  事故は1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工施設「JCO東海事業所」で、茨城県大洗町にある核燃料サイクル開発機構の高速実験炉「常陽」で使用するウラン燃料の加工作業中に起こった。

1 事故の模様
(1)ステンレス製のバケツで溶かしたウラン溶液をろ過器でろ過し、それを沈殿槽という大型の容器に移し替えていた、作業は二人で行われ、一人が流し込み、もう一人がそれを支えていた。
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(2)最後のウラン溶液を流し込み始めた時、バシッという音とともに青い光が出た。臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線の中でも最もエネルギーの大きい中性子線が作業員の身体を突き抜けた。
 *臨界・・原子核分裂の連鎖反応が一定の割合で継続している状態

2 事故発生の原因と収束
(1)国に提出し認められたマニュアルを勝手に改ざんしたマニュアルを使っていた。加工の全行程は当時の科学技術庁に提出し、認められた設備と方法で行うことが義務づけられていた。

(2)正規のマニュアルでは溶解塔を用いて再溶解、均質化を行うことになっていたが、作業が面倒ということで、溶解塔の代わりにステンレス製バケツで1バッチずつ溶解した後に、ずんぐりした形状の沈殿槽に流しこんだ。表面積が小さくなるので、中性子が容器外に出にくい構造の上、冷却水が周りに設けられているため、この冷却水で中性子が反射される。そのことから、背の高い貯塔では起こらなかった臨界状態が沈殿槽の使用で起こった。

(3)臨界状態は政府現地対策本部の判断で、JCOから決死隊を募り、冷却水の水切りを行って、発災から20時間後にようやく終息した。

3 被ばく量
(1)支えていた人の被ばく量が最も多く、20シーベルト前後と推定された。8シーベルト以上の放射線を浴びた場合の死亡率は100パーセントだった。この作業員は事故から83日後に亡くなった。35歳だった。

(2)支えていたもう一人の作業員はの被ばく量は6~10シーベルトと推定された。211日後に亡くなった。40歳であった。

4 事故の責任
   事故の1年後、JOCの事故当時の所長ら6人が逮捕された。逮捕の理由は・・
   ① 臨界の危険性を作業員に指導しないまま、バケツを使ってウラン溶液を扱う違法な作業を続けさせるなど、国から許可を受けていないずさんな作業を重ねていた。
   ② それぞれの立場で尽くすべき安全教育や監督を怠ったため、臨界事故が発生し、二入の作業員を死に至らしめた業務上過失致死の疑い。

5 事故の反省
(1)本書では最後に「この臨界事故で核分裂反応を起こしたウランは、重量に換算するとわずか1000分の1グラム。原子力という、人間が制御し利用していると思っているものが、一歩間違うととんでもないことになる。その破滅的な影響の前では、人の命は本当にか細い」と書いている。

(2)しかし、この事故を十分に教訓とすることなく、12年後に福島第一原発のメルトダウンという巨大災害を引き起こしてしまうことになる。

「忘却された支配 日本のなかの植民地朝鮮」 [昭和史]

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  著者は毎日新聞の伊藤智永さん。2016年7月に岩波書店から出版されたもの。
  戦争中に連れてこられた朝鮮人労働者の問題について問いかける。

1 長生炭坑の落盤事故
(1)1942年2月、宇部市にある海底炭坑で落盤事故があり、坑道が水没、183人が犠牲となった。その4分の3は朝鮮人労働者であった。

(2)長生炭坑は他の炭鉱に比べ朝鮮人労働者の目立って多かった。給料が安く、作業が過酷で危険だったためといわれる。

(3)この炭鉱は炭層が海底に近く、薄かった。長生炭坑の経営者は地元の炭鉱主たちが危なくて手出しできなかったところを開発した。事故の数日前から坑道内に海水が異常なほど流れ込み、尻込みする工夫たちを現場監督が殴り蹴りして坑内におろしたとの証言も残る。

(4)事故後直ぐに坑口は角材などで完全にふさがれた。遺体捜索の作業は行われず、遺体は今も海底に眠っている。炭鉱はそのまま閉山となった。

2 北海道の飛行場建設
(1)1942年から1944年にかけて、オホーツク海沿岸の猿払村(さるふつむら)で浅茅野飛行場の建設工事が進められた。

(2)動員された朝鮮人労働者の数は600~800人と推定されている。ほかに、道内で集められた日本人が244人、軍請負専門の土建業者が、監禁・暴力で労働を強いる典型的なタコ部屋経営だった。

(3)判明している犠牲者は118人(うち朝鮮人96人)である。

3 朝鮮人ならびに中国人の利用
(1)1938年4月の国家総動員法公布後、朝鮮人は労働者として約80万人、軍人・軍属として36万人が動員された。

(2)中国人の強制連行は1944年2月から本格化し、38,935人が拉致同然に連行され、鉱山、土木建設、造船、港湾荷役などの労役を課せられた。うち、6,830人が死亡した。

4 追悼施設
(1)このような朝鮮人や中国人の犠牲者を悼む施設が日本の各地で作られている。

(2)飯塚市にある無窮花堂という追悼施設では、碑文の以下の内容を、右派政治団体「日本会議系の市議が攻撃した。
   「日本の植民地政策により、数多くの朝鮮人と外国人が日本各地に強制連行されました」
   「筑豊には15万人にも上る朝鮮人が過酷な労働を強いられ、多くの人々が犠牲となりました」

(3)「日本会議」の組織キャンペーンと疑われる、追悼施設に対する攻撃が飯塚市以外でも同時多発で発生した。