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 漱石「道草」 [日本文学]

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  漱石が50歳で亡くなる1年前の1915年に朝日新聞に連載した作品。
  執筆時期は「こころ」と「明暗」の間に位置する。
  
  この作品では、妻との微妙な関係や、お金をめぐる知り合いとの関係など、日常誰にでも起こりうる問題を淡々と描いている。

  漱石が実生活での妻の鏡子との関係がベースにあるのは間違いないが、現実の夫婦関係の難しさを描き、深く考えさせるとともに共感をも感じるものとなっている。
  妻の鏡子に対する、漱石のお詫びの気持ちも含められているような気もする。

1 主人公の健三(36歳)と妻の御住(おすみ)(20代後半)との関係
(1)それぞれ欠点があり、お互いに理解しえない部分も多いが、自分の考えを変えずに暮らしている。口喧嘩がさらに悪化することはない。

   機嫌のよくない時は細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事のほか決して口を利かない女であった。
  (健三は教師で、準備のため)その日その日の仕事に追われていた。始終机の前にこびりついていた。
   人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は親類から変人扱いにされていた。

  (妻の御住にとって)夫の態度は決して気持ちの良いものではなかった。なぜもう少し打ち解けてくれないものかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働いた。

   彼らは顔さえ見れば自然何か言いたくなるような仲のいい夫婦でもなかった。それだけの親しみを表すには、お互いがお互いにとってあまりに陳腐過ぎた。

   妻は言う。
   「あなたの神経は近頃よっぽど変ね。あなたは誰も何もしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない。」
   二人は互いに徹底するまで話し合うことのついにできない男女のような気がした。

   不愉快な場面の後には大抵仲裁者としての自然が二人の間に入ってきた。二人はいつとなく普通の夫婦の利くような口を利き出した。けれどもある時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合わせのままで暮らした。

   彼女の心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない偏屈な男であった。

   ゴムひものように弾力性のある二人の間柄には、ときにより日によって多少の伸縮があった。非常に緊張していつ切れるか分からないほどに行き詰まったかと思うと、それがまた自然の勢いでそろそろ元に戻ってきた。

   夫婦に関する考えの違いが衝突の底にあった。
   健三は、学問をしたにもかかわらず、「妻は夫に従属すべきものだ」という古い考えを持っていた。
   御住は形式的な昔風の倫理観にとらわれるほど厳重な家庭で育たなかった。
  「単に夫という名前がついているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強いられても自分にはできない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を持った人間になって自分の前に出てくるがよい。」

2 お金をめぐる知り合いとの関係
   健三は決してお金に余裕があるわけではなく、妻は質屋に自分の着物を預けてお金を工面することもある。しかし、周りの人間はお金に困り、健三を頼りにする。
   
   以前から、健三は結婚している姉に毎月なにがしかの金を渡している。
   また、年老いた養父と養母がそれぞれ、お金の無心に来た都度、いくらかの金を渡した。
   妻の御住は、それに対し不満を持ちつつも、面と向かって文句を言うことはない。

3 人間模様
(1)御住の父は、官職にあったが、辞任に追い込まれ、困窮化している。

(2)姉の夫は宿直が多く、勤め先の近所に女を囲っているといううわさもある。妻が酷い喘息の発作に苦しめられても意に介さない。彼は30年近くも一緒に暮らしてきた彼の妻に、ただの一つも優しい言葉をかけたためしのない男であった。それでも、姉はその夫を疑うことはしなかった。

(3)兄の長太郎は肋膜を患っている。兄は免職にはならずに済んでいるが、過去の人であった。華やかな前途はもう彼の前に横たわっていなかった。

(4)健三は、自ら健康を損ないつつあると確かに心得ながら、それをどうすることもできない境遇に置かれた。
   「俺のは黙ってなし崩しに自殺するのだ。気の毒だと言ってくれるものは一人もありゃしない。」

4 片付かない
    養父からのお金の無心に対して、百円(健三の月収以上の金額)を渡し、「今後一切の関係を絶つ」という証文を入れさせた。

    妻は「安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」と言った。
    しかし、健三は言う。
    「まだなかなか片付きゃしないよ。片付いたのはうわべだけじゃないか。世の中に片付くものなんてものは殆どありゃしない。一編起ったものはいつまでも続くのさ。ただ、色々な形に変わるから人にも自分にも分からなくなるだけの事さ」

「偽りの経済政策 格差と停滞のアベノミクス」 [現代社会]

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  岩波新書の一冊。2017年5月刊。
  著者は同志社大学教授の服部茂幸さん。

1 アベノミクスと異次元金融緩和
(1)2012年12月に就任した安倍首相は、大胆な金融政策、機動的な財政政策、そして民間投資を喚起する成長戦略という3本の矢により、デフレを解消し、経済を成長軌道に乗せるという、いわゆるアベノミクスを提唱した。

(2)その方向に沿って、2013年3月に就任した日銀の黒田総裁と岩田副総裁は、大量の国債購入を軸とする異次元金融緩和を実施した。彼らは、デフレ状態にあるのはそれまでの金融政策が誤っていたためと痛烈に批判し、自分たちはインフレ率を2%に引き上げることができると約束した。

(3)しかし、その後4年が経過しているが、アベノミクスや異次元金融緩和の効果は出ていない。
    ・2017年3月の消費者物価指数は前年同月比0.2%しか伸びていない。
    ・2016年度の実質経済成長率は前年比1.3%増と、安倍首相が約束した2%の目標を下回っている。

2 停滞する日本経済
(1)アベノミクスが実施されている期間の実質経済成長率は平均して1.1%と低い。リーマンショック時を除くと、2000~07年は1.5%、2010~12年も1.8%であった。

(2)アベノミクス実施前に、経済は回復し、ほぼ完全雇用が実現していた。完全雇用状態にあるため、経済成長の余力がなくなり、現在の低成長が生じている。

3 異次元金融緩和の効果が少なかった理由
(1)急激に円安になったが、それが輸出を増加させず、逆に輸入を増加させた。

(2)金利は低下したが、空き家大国の日本では、住宅建設はさほど増加しなかった。

(3)利益が急増した企業は、需要が停滞する中では設備投資を増加させず、内部留保を増やした。

(4)株価は上昇したが、日本の家計の株式保有は少ないので効果は大きくない。

(5)円安によるインフレにより、家計の実質賃金と実質可処分所得が減少した。これに節約志向が加わり、消費が停滞した。

4 労働生産性
(1)現役世代人口は2001年以降、一貫して減少してる。労働供給が減少するこれからの日本では、労働生産性の上昇なくして、経済成長は不可能である。しかし、労働生産性上昇率は低下してきており、中長期的には経済成長が見込めないということを意味する。

(2)なぜ、労働生産性上昇率は低下してきているのだろうか。要因として考えられるのは・・
  ① 労働生産性の高い製造業や建設業で雇用が減少しており、労働生産性の低い医療や介護で雇用が拡大している。

  ② 男性正規社員の雇用が減少し、老人、女性、非正規の雇用が拡大している。

(3)労働生産性上昇率が低迷している状況では、中長期的に実質賃金を引き上げていくことは難しい。

5 広がる格差
(1)物価の上昇に給与が追いつかず、多くの国民の生活は改善していない。世論調査でも景気の回復の実感がないという回答が多くを占めている。

(2)一方、富裕層はアベノミクスによる株価上昇により、保有資産を増やした。純金融資産1億円を超える世帯は、2011年の81万世帯から、2015年には122万世帯に増加した。


  * アベノミクスの結果、国の債務がさらに増え、日銀のバランスシートも著しく悪化し、異次元金融緩和からの離脱が困難になっている。ハイパーインフレのリスクが高まっていると言える。しかし、本書の著者は、黒田、岩田といった日銀首脳の批判に熱心ではあるが、アベノミクスや異次元金融緩和が残した負の遺産が今後の日本に及ぼす深刻な影響について触れていないのは残念。

満州移民の悲劇 [昭和史]

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  岩波現代全書の一冊。2017年3月刊。
  著者は日本近現代史を専門とする加藤聖文さん。

  1932年から1945年にかけて、多くの日本人が満州に渡り、農業に従事した。
  その総数は27万人にのぼる。

  この本の冒頭に、ある開拓民の証言が記載されている。
  「私の妻は子ども5名を手にかけて殺しております。熊本の母親たちは誰でも同じです。生きて帰った彼女たちはどんなに自らを責め苦しみながら生きてきたことか。」

1 満州への農業移民が行われた理由
   1931年9月に満州事変が勃発し、1932年3月に満州国ができた。
   この満州国へ、なぜ日本各地から多くの農業移民が行われることになったのだろうか。

 ① 1924年の排日移民法により、アメリカへの移民が不可能になった。
 ② 1929年の世界恐慌以降、経済的に大打撃を被った農村の救済が急務となった。
 ③ 満州国は日本が支配権を握っていたものの、人口構成は漢人が3,000万人を超えていたのに対して、日本人は30万人にも満たず、日本人の人口増加が必要であった。
 ④ 満州国内の抗日ゲリラや極東ソ連軍の脅威に対応する為、関東軍や満州国軍に加え、武装移民の必要性が高まった。
 ⑤ 日本国民の間に、満州国建国に熱狂し、社会的矛盾がすべて満州によって解決されるかの「幻想」が生まれた。

2 具体的な内容と問題点
(1)1932~1933年に武装移民団が入植した。しかし、うまくいかず、退団者が続出した。その理由は・・
   ① 募集や準備の期間が充分でなく、移住地の選定が稚拙であり、また寒冷地対策ができていなかった。
   ② 農業経験者が少なかった。
   ③ 匪賊による襲撃や現地民との軋轢により、治安が悪化した。
   ④ 衛生状態が悪く、赤痢などの伝染病が発生した。

(2)こうした状況にかかわらず、1934年からは武装移民ではなく、普通移民により、移民の本格的拡大が行われることになった。対象を全国規模に拡大し、府県への割り当ても行われるようになった。

(3)さらに、1936年には百万戸移住計画が出されるなど、移民の規模は一気に拡大することになった。これはソ連軍に対する防御の一環として考えられた。ソ連軍はそのころまでに総兵力23万へと増強され、関東軍の兵力5万を大きく上回っていた。

   関東軍は対ソ兵力の劣勢を補うために、大量の人的勢力と有事の際の軍事拠点を満州国内で確保しなければならなかった。そのためには、ソ連軍の攻撃を受けた際に動員できる日本人移民を大量に入植させることが必要であった。

3 戦況の悪化
(1)日中戦争の長期化に伴い、以下の理由により満州への開拓民を確保することが容易ではなくなった。
   ① 戦争により、開拓団の中核となるべき成人男性が次々と招集されていった。
   ② 都市部の軍需工場への農村部からの出稼ぎが増加した。

(2)このため、10代の青少年を対象にした義勇軍の役割が増すことになった。募集は各府県へ割り当てられ、学校で教師が生徒を勧誘した。

(3)1945年5月には、ソ連の参戦も懸念されたため、在満日本人のうち、17歳から45歳までの男性がすべて軍隊に召集された。このため、一般開拓団では、40戸の部落で100人近い女性・子供に対して男性は老人と病弱者が数人という絶望的な状況が生まれていた。

(4)関東軍は、こういった召集もあって70万人の勢力を持ったが、ソ連軍はその当時174万人の兵力を動員し、火砲、戦車、航空機の数量も関東軍を圧倒していた。

4 ソ連軍の満州侵攻
(1)1945年8月9日、ソ連軍は満州に侵攻した。8月19日に停戦合意が成立し、関東軍の武装解除が始まったが、場所によっては8月末まで戦闘が続いた。兵士たちの大半はソ連へ連行され、シベリア抑留となった。

(2)ソ連軍は開拓団も容赦なく攻撃した。また、中国農民の襲撃を受けた開拓団も多く、悲惨な状況となった。逃げのびる過程において、集団自決したり、自分の子供を殺したりした。女性が中国人の現地妻になったり、子供を中国人に預けたりしたことも多かった。

(3)ソ連軍の収容所に入れられたものも、婦女子は暴行されたり、栄養失調、極寒などに苦しめられ、亡くなるものも少なくなかった。

「アメリカと中国」 [現代社会]

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  著者はフリージャーナリストの松尾文夫さん。
  岩波書店から2017年1月に出版された。

  近現代におけるアメリカ中国との関係を探る。

1 米中貿易の始まり
(1)18世紀初頭から、中国での「お茶を飲む」という習慣が、ヨーロッパやアメリカの上流階級に浸透するようになった。しかし、アメリカではイギリスの法律により、直接中国からお茶を買い付けることができず、イギリス経由で買わざるを得なかった。この仕組みへの反発が1773年のボストン茶会事件であり、1783年のアメリカ独立へとつながった。

(2)その翌年の1784年には米国船が今の広東省広州に現れた。それ以来、両国間の貿易が盛んにおこなわれるようになった。アメリカ産の朝鮮人参は中国で大変な人気となった。朝鮮人参は朝鮮半島で自生し、万能薬として古くから珍重されてきたが、アメリカ大陸でも自生していた。中国からはお茶がアメリカへ直接、輸出されるようになった。

2 アヘン戦争とブリッジマン
(1)1839年、清の林則徐はイギリス船に積まれていた密輸アヘン2万箱を破棄する。イギリスはこれに猛反発し、イギリス大艦隊を派遣してアヘン戦争を引き起こし、香港割譲をはじめとする各種の権益を勝ち取った。

(2)アメリカからやってきたプロテスタント宣教師ブリッジマンは、アヘンの禁輸を支持した。清朝政府もこれを歓迎した。

(3)ブリッジマンは中国語でアメリカの地理、歴史、政治などを紹介した書物を書き、これが「海国図志」という世界ヵ国の現勢を紹介した書物に、そのまま取り入れられた。「海国図志」は1847年に中国で出版されされ、幕末の日本にも伝えられ、多くの刺激を与えた。

(4)アヘン戦争敗北ののち。清朝政府はイギリスとの戦争に勝って独立を勝ち取った国としてアメリカを評価するようになる。

3 中国人のアメリカへの移民
(1)19世紀中頃より、中国人のアメリカへの移民が活発化した。カリフォルニア州の全労働者の25%を中国人が占めるようになり、1869年に開通したアメリカ大陸横断鉄道の工事も中国人労働者に拠るところが大きかった。

(2)しかし、1880年代に入ると、中国人の低賃金労働が白人労働者の失業をもたらすとの反発が強くなり、中国人に対する迫害、暴行事件が太平洋沿岸地帯で頻発した。

4 アメリカによる学校の設立
(1)アメリカは中国での学校の設立に力を入れた。例えば・・・
   ① 「中国のエール教会」による長沙での学校と病院の建設
   ② 義和団事件による中国からアメリカへの賠償金の一部を使った、アメリカへの留学生派遣事業の開始と、そのための英語予備校の建設。これが、後の精華大学に発展し、習近平など中国のリーダーを輩出することになった。
   ③ 北京大学も、アメリカの宣教師によって建てられた小学校からスタートしている。

(2)日清、日露の戦争後は、中国から日本への留学生が多かったが、それが次第にアメリカへの留学生が増え、日本への留学生は減少していくことになる。

5 毛沢東とエドガー・スノー
(1)エドガー・スノーというアメリカ人ジャーナリストが1936年に、中国共産党の解放区があった中国の延安に3か月間滞在し、毛沢東との長時間インタビューを行った。そのインタビューに基づき、翌年、「中国の赤い星」という本をイギリスやアメリカで出版した。

(2)この本は、「毛沢東の中国」の存在を世界にPRするとともに、日中戦争の「国際化」に貢献した。日本軍を大陸の奥深くに引き込みながら、アメリカを日本との戦争に巻き込むという中国の戦略に寄与することになった。

(3)毛沢東はまた、長沙にいて、「中国のエール教会」が建設した中学や医院の存在を身近に感じて育った。

(4)それに対して、蒋介石は日本に留学した後も、何度も日本を訪問しており、アメリカよりは日本の方が距離は短かった。

6 蒋介石の戦略
(1)しかし、蒋介石は、日本との戦争が激化する中で、日本に勝つためにはアメリカなどの列強を巻き込んで、戦争の国際化を実現するしかない、と考えるようになった。

(2)蒋介石がアメリカとの外交を進めるうえでカギを握ったのが、三度目の妻として迎えた宋美齢であった。彼女は新興財閥の宗家の三女で、アメリカ東部の名門ウェズリー大学を卒業していた。アメリカの支配層にコネを持ち、蒋介石のためにアメリカから莫大な援助を引き出し、アメリカの世論対策、議会対策などで手腕を発揮した。

(3)1941年12月、日本は真珠湾を攻撃しアメリカとの戦争に踏み切るが、蒋介石は翌年元旦に、「日本は一時の興奮を得ることは出来るが、結局は自滅の道を辿る」と述べ、アメリカを引き込んだ長期戦での勝利に強い自信を示した。

7 アメリカの裏切り行為
(1)中国を支え続けたように見えるアメリカも、一方では自国の国益のために、中国の利益にならない政策を採用することもあった。

(2)アメリカが1899年、列強各国に示した「中国のすべての領土保全、ならびに通商上の機会均等」という政策は、実際には列強による中国の分割支配を黙認するものであった。

(3)1905年に日本とアメリカの間で締結した桂・タフト協定によって、日本の韓国併合とアメリカによるフィリピン領有を相互に承認することになり、日本に中国侵略のきっかけを与えることになった。

(4)対日戦略を協議した、1945年2月のヤルタ会談では、蒋介石を外し、アメリカ、イギリス、ソ連の三ヵ国のみで、ソ連軍の対日参戦が決められた。その結果として、ソ連軍が日本軍から接収した武器が中国共産党軍に与えられ、蒋介石軍とのその後の内戦に勝利することになった。

中島敦「李陵」 [日本文学]

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<中島敦>
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  中島敦(1909~1942)は、「李陵」のほか、「山月記」、「名人伝」などの名作を書いたが、33歳の若さでこの世を去った。

  「李陵」は中国の漢の時代に、自分の考えを貫いて生きた三人の生きざまを描く。

1 李陵は、漢の武帝の命令により、歩兵5千のみを率いて、敵対する匈奴の勢力圏に深く進み行った。騎馬戦を得意とする匈奴の軍勢に、歩兵のみで対するのは余りに無謀であった。ある日、ついに匈奴が現れ、李陵の軍は8万の騎馬兵に隙もなく囲まれてしまった。

2 李陵の軍は、南へ退こうとするが、「飢え疲れた旅人の後をつける荒野の狼のように、匈奴の兵は執念深く追ってきた」。しかし、李陵の軍は敵を迎え打ち、日ごとに相手に数千の死者を出させていた。匈奴の大将は李陵の軍の手ごわさに感嘆していた。

3 李陵の軍は勇猛果敢に抗戦したが、ついに刀折れ、矢尽きた。敵味方も分からないほどの乱闘のなかで、李陵は背後から後頭部に打撃を受け失神し、捕えられてしまった。漢の武帝は激怒した。武帝に仕える重臣たちも、李陵が匈奴に捕らえられ、その軍門に下ったことを非難した。

4 しかし、一人、それに反論する者がいた。「五千に満たぬ歩兵を率いて深く敵地に入り、匈奴数万を疲れさせ、転戦千里、矢尽き、道窮まるに至るもなお全軍死闘をしている。部下の心を得て、それらに死力を尽くさせることは、古来の名将に決して劣らない。軍が敗れたとはいえ、その善戦ぶりはまさに天下に顕彰するに値する。彼が死なずに捕虜になったのも、ひそかに、かの地にあって、どうかして漢の役に立つことをしたいと思ってのことではないか・・」

5 そういったのは司馬遷であった。並いる群臣は驚いたが、あまりにも不遜な態度だということで意見が一致した。司馬遷は宮刑に処せられることに決まった。男を男でなくする刑罰である。武帝の気に逆らって李陵をほめあげたのだから、まかり間違えば死ぬことになるとの懸念はあった。しかし、最も醜悪な宮刑に合うとは! 狂乱と憤懣との中で、たえず発作的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、彼は死ななかった。父から託された歴史書執筆の仕事を続けることにした。

6 李陵は匈奴に捕らえられたのち、匈奴の大将の首を取り、その首とともに脱出する機会を狙っていた。しかし、そのような機会が訪れることはなかった。李陵は、漢をどのように攻めるべきか聞かれても答えなかった。しかし、大将の子供が武術の教えを乞うて来た時には、それに応じた。

7 李陵が匈奴内で軍略の指導をしていると誤って漢の武帝に伝えられ、李陵の妻子、親族はことごとく殺された。李陵は匈奴の中で暮らしてゆくことを決意した。

8 蘇武は、李陵とは別に匈奴により捕らえられていたが、匈奴に降伏することをせず、剣で自分の胸を突き死のうとしたが、死ねずに助かった。回復した後、遠くバイカル湖のほとりに移された。李陵は、蘇武に会い、降伏する気がないか確認するように言われた。

9 蘇武の生活は惨憺たるものだった。凍てついた大地から野ネズミを掘り出して、飢えをしのがねばならない始末だった。李陵は、蘇武が何を目当てに生きているのかと、思った。漢に帰れる日を待ち望んでいるとも思えない。降伏を申し出れば、重く用いられることは間違いないが、それをする蘇武でないことは初めから分かり切っている。

10 想像を絶した困苦、欠乏、酷寒、孤独を死に至るまでの長い間、やり過ごしていけるものか。誰にも看取られずに、満足して独り死んでいこうとしている。蘇武の考え方の厳しさに接して、李陵は圧倒されるのを感じた。

11 李陵は自分が匈奴に降伏したことを良いとは思ってはいないが、自分がそれまで故国に尽くした功績と、故国が自分に対してした仕打ちを考え合わせると、どのような人でも自分の行為を「止むを得なかった」と認めてくれるだろうと思った。しかし、蘇武という男は、どのような事情があっても自分の考えを改めることはしなかったのだ。蘇武の存在は李陵にとって崇高な訓戒でもあり、いらだたしい悪夢でもあった・・・

中国の食糧戦略 [インターネット情報]

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  *アメリカの経済雑誌「FORTUNE」最新号に拠る。

  中国は1959年から1961年にかけて人類史上最悪の飢饉を経験した。
  3千4百万人が餓死したと推定されている。

  こうした経験から、中国政府にとり14億人近い人口の食料を確保することは最重要課題の一つである。

1 食料確保対策
(1)穀物備蓄
  中国は現在、米、麦、トウモロコシなどを備蓄しており、その備蓄量は世界最大である。
  国際連合は、各国に年間消費量の17%を備蓄することを推奨している。
  しかし、アメリカは世界最大の穀物輸出国であり、政府備蓄は一切ない。
  中国は、年間消費量の45~60%の政府備蓄があるとみられている。
  (日本は米、小麦については15~20%程度)

(2)世界的な農化学メーカーの買収
  中国化工集団が、スイスの農化学メーカー、シンジェンタ(SYNGENTA)を430億ドル(4兆7千億円)で買収しようとしている。
  シンジェンタは、高度な殺虫剤や除草剤では世界のトップメーカーであり、種子の生産では世界第三位である。
  この買収は、中国企業の買収としては金額的に既往最高となる。
  
2 農化学メーカーの寡占化
  近年、農化学メーカーの大型買収が相次ぎ、寡占化が進行している。
  <買収する企業> <買収される企業> <買収額>
   ダウ・ケミカル  デュポン    600億ドル(6.6兆円)
   ベイアー     モンサント   660億ドル(7.2兆円)
   中国化工集団   シンジェンタ  430億ドル(4.7兆円)

  種子の生産では、この3グループで世界の50%のシェアを占めることになる。

3 豊かになる中国
(1)中国社会が豊かになるにつれ、穀物の確保だけでは十分ではなく、たんぱく質の確保が必要になる。中国のたんぱく質源は豚肉である。中国は世界の豚肉の50%を消費している。

(2)人々が肉食をする場合、穀物を直接消費するのに比べ3~4倍の穀物を必要とする。このため、社会が豊かになるに従い、ますます穀物の消費量が増えることになる。

(3)中国の食料政策の目標は、もはや人々を飢えさせないようにするということではなく、所得の上昇に見合う豊かな食料を提供することにある。それが満たされなければ人々の不満が高まり、体制への影響も危惧されることになる。

(4)中国は世界全体の19%の人口を抱えているが、農耕可能面積は世界の7%にしか過ぎない。こうしたなかで、より豊かな食料の安定供給を迫られている。

4 国内農業生産の問題点
(1)中国の農業生産の効率は、これまで化学肥料や殺虫剤の過剰使用により引き上げられてきたが、それでもまだ充分に高くはない。しかも、化学肥料などの過剰使用は土壌や水質の悪化といった環境への悪影響をもたらしている。

(2)農業生産の効率向上の決め手は遺伝子組み換え技術を使用した種子の使用であるが、中国では消費者の拒絶反応が強い。遺伝子組み換え技術を利用した米やトウモロコシの輸入は依然として認められていない。中国化工集団によるシンジェンタの買収は、この面でも問題解決の糸口となるかもしれない。

ゴーゴリ「外套」 [海外文学]

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  ロシアの小説家、ニコライ・ゴーゴリ(1809~1852)の代表作の一つ。
  うだつの上がらない、しかし、自分なりに生きようとした下級役人の悲しい物語。
  この作品はその後の小説家に多大な影響を与えたといわれており、芥川龍之介もその一人で、彼の小説「芋粥」の構成は「外套」の影響を受けた。

1 主人公は、役所の同じ席、同じ地位、同じ職務で、長い間働いている。
  清書というのが彼の仕事。愛情をこめて、この仕事に取り組んだ。
  周りから悪ふざけをされても、彼は一度も間違えずに、仕事を続けた。
  彼ほど自分の職務に忠実に生きている人物を見つけ出すことは難しい。
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2 あまりにも耐えられない悪ふざけをされると、彼は声に出して言います。
  「わたしをそっとしておいてください。なぜ、あなた方は私をいじめるのですか?」

3 彼は自分の服装には全くこだわりませんでした。その制服は本来の緑色を失い、何か赤茶けた麦粉色になっています。また、彼はどんな娯楽にも身をゆだねることはありませんでした。年に400ルーブルをもらい、満足して暮らす人間の穏やかな生活が流れて行きました。

4 貧しい人々にとって手ごわい敵が、北国の厳しい寒さです。朝、出勤する人々を強烈で刺すような一撃をくらわすのです。彼は役所に向かう決まった距離をできる限り早く駆け抜けるよう努めました。しかし、いつからか背中や肩がいやに冷え込むように感じるようになりました。家で外套をよく見るとそのあたりがボロボロに破れています。

5 彼は仕立て屋に直してもらおうと、その外套を仕立屋のところに持って行きました。彼は修理代として2ルーブル以上は支払うまいと心に決めていました。仕立屋は、長い時間をかけてその外套を点検して、彼に言いました。
  「修理は無理です。ひどいものですよ! つぎ当ては無理ですな。全くぼろぼろで、針で触ればたちまち破けてしまいます。新調するしかありませんな。」

6 外套を新調するには80ルーブルかかる。そんな大金をどうやって作ればいいのだろうか。
  彼はいざというときのために、貯金箱に数年かけて40ルーブルほど貯めていた。
  残りは普段の生活をさらに切り詰めることにした。
  晩にお茶を飲むのをやめ、夜ごとローソクに火をともすのをやめる。
  晩の空腹をやり過ごすこともできるようになった。
  外套の新調という目的に向かって、彼はなぜか生き生きとして、性格さえも強くなった。

7 そしてようやく彼は仕立屋に外套を作ってもらうことができた。
  外套は実にピッタリ、しっくりと仕上がっていた。
  彼はそれを着て、役所に出勤した。
  役所の誰もが、彼にお祝いや挨拶を述べた。
  彼の上司が、お祝いに今晩、自分の家でお祝いの会をやろうといった。
  彼は行きたくなかったが、断り切れなかった。

8 彼はその会に出かけ、シャンパンも飲まされた。真夜中の12時に、会はまだ途中であったが、彼はそっと部屋を出て、外套を羽織り、帰宅の途に就いた。
  人気のない道が長く続く。
  広場を通り抜けようとしたとき、ひげを生やした連中が道をふさぎ、外套をはぎ取られてしまった。
  近くの交番に駆け込みましたが、明日、警察署長のところに行きなさいと、言われた。翌日、そのとおり警察署長のところに行ったが、直ぐに調べてくれるかどうかは分からなかった。

9 あくる日、古いぼろぼろの上っ張りを着て役所に行った。多くの同僚は追いはぎの話に心を痛めた。ある同僚が、さる高官へお願いした方がいいとアドバイスした。彼が、そのとおりその高官のところに行き、ようやく面談することができ、来訪の目的を話すと、 その高官は声を強く張り上げていった。
 「誰に向かって話しているのか、知っとるのかね? あんたの前にいるのが誰なのかわかっておるのか?」

10 彼はこんなに厳しく叱責されたのは人生で初めてのことだった。かれは吹きすさぶ吹雪の中を口をぽかんと開け、やっと家に辿り着いた。
  彼はベッドに倒れこんで横になった。
  翌日になるとひどい高熱が出ているのが分かった。
  医者が来た時には手の施しようがなかった。
  彼は全く意味不明のことを語り続けて息を引き取った。

11 彼は、誰の興味も引かず、誰の注目を浴びることもなく、この世から消え、埋もれてしまった。
  役所での嘲笑をおとなしく耐え、特別な仕事をしないまま、墓に入ってしまった。
  それでも人生の終わりに外套という姿を変えたお客が、貧しい生活を一瞬でも生き生きさせ、まばゆいほどの輝きを与えた。
  役所では、彼の死が知らされ、その翌日には彼の席に別の新しい官吏が座っていた。

「茶の湯とキムチ」

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  著者は丁宗鐡さん。医学博士で日本薬科大学教授。
  韓国にルーツを持ち、日本で育った著者は、日本人と韓国人がもっとお互いの魅力に気づいてほしいと考える。
  日本が韓国を併合した歴史に恨みを抱き続ける韓国人と、恨まれ続けることに嫌気がさしている日本人とがいがみ合っている、と嘆く。

1 キムチの味
(1)1910年の日韓併合以降、日本の統治下において、韓国人はそれまで以上に自国ならではの文化に誇りを持とうとした。それまでキムチのなかにわずかなアクセントとして入れていたトウガラシの量をどんどん増やし、日本の食文化との差別化を図った。

(2)トウガラシは16世紀、朝鮮出兵時に日本からもたらされたといわれている。それまでのキムチは、日本の漬物に似た、野菜の塩漬けであった。トウガラシはポルトガルから日本へもたらされたが、日本では食料としては使われず、朝鮮出兵の時も、相手に投げて目つぶしをする武器として、あるいは履物の中に入れて凍傷を防ぐ予防薬として携行した。

(3)キムチによく使われる白菜も、1950年代に、ある韓国系日本人の農業研究者が日本の白菜を品種改良して韓国に持ち込んだもの。それまではキムチに白菜は使われていなかった。

2 茶の湯
(1)千利休が完成させた茶道で朝鮮の影響を受けたとみられるものは・・
  ① 寒さの厳しい朝鮮では、民家の入り口を小さなものにしていたが、これが日本の茶室の入り口の狭さに影響を与えた。

  ② 侘び茶では、朝鮮で製造された茶碗の簡素さを高く評価した。

(2)千利休の時代、堺には高麗から亡命した僧侶や貴族の子孫が大勢暮らしていた。千利休はこうした人たちと交流し、その影響を受けたものとみられる。

3 日韓交流の根源
(1)日本の神道と朝鮮のシャーマニズムは、中国の江南地域からアジア全域に渡った「倭族」の習俗が起源である。倭族は稲作を伝えた人々でもある。

(2)日本の神道と朝鮮のシャーマニズムは以下のような類似点を持つ。
  ① 韓国の「ソッテ」と呼ばれる鳥居は、一本の柱の上に鳥の像を載せている。日本の鳥居は、鳥の像を載せてはいないが、「鳥居」という名称自体にその影響をとどめている。

  ② 自然崇拝の思想であり、太陽神に向かって豊作祈願するほか、種々の現生的願いを祈りに託す。

  ③ 万物に神が宿るという、汎神論的考え。

  ④ 天から下界に降りてきて国を作るという「天孫降臨」の建国神話。

4 日韓間の「反感」を解決するヒント
(1)韓国人の性格
   ア 争い事を避けない。しょっちゅう派手な口論をする。しかし、どんな言葉をぶつけあっても、相手との関係をこわすほど深刻なものにしない。むしろ口論によって完全燃焼し、口論によってはじめて親密な関係になる。

   イ 外交的で自己主張が強く、日本人ほど「和」を重んじない。エネルギッシュでよく働きよく遊ぶが、自分の限界に気づきにくい。

(2)ドイツとフランスの例
     国境を接するドイツとフランスは、千年にわたる戦いの歴史を持つ犬猿の仲だった。しかし、現代に入り、両国が中心となってEUをまとめ上げた。修復不能と思われる国と国との関係も、考え方次第で好転する事例といえる。

     チェコとスロバキアも、いったんは一つの国として独立したものの、関係が悪化し1993年に分離して二つの国になった。しかし、その後は関係が改善しつつあるといわれている。

(3)民族という幻想
     ある国際政治学者が、民族とは、同じ祖先をもつという誤信と、周囲の民族への憎しみによって一つにまとまった人間の集団であり、それは共同幻想である、といっている。

     そのような幻想が生まれる原因は、ときの為政者が意図的に、民族主義という誤信を植え付けるため。他の国に対する軽蔑という共通の意識があれば、自国民の結束力が高まる。例えば、戦前の日本政府は、「我が国は優れている」、「だから他の弱小国を征服できる」と繰り返し強調していた。

(4)李氏朝鮮の選択
   ア 日本に併合されるまで500年以上、朝鮮を支配した李氏は女真族の出身。仏教を弾圧し、儒教を強制するなど、厳しい思想統制を強いた。

   イ その李氏朝鮮が、国力が衰退する中で西欧列強の圧力が強まり、清やロシアを避け、日本に併合される道を選んだ。

   

チェーホフ「桜の園」 [海外文学]

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<舞台>
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  ロシアの劇作家、チェーホフ(1860~1904)が、1903年に発表した戯曲。
  時代が大きく変わろうとする中で、何もすることができず、ただ流れに身を任せ、没落してゆく女主人を描く。

  所有する農奴から得るお金で優雅に暮らしていた者たちも、真に人間らしい生活をするためには、自分自身が働かなければならない時代になったのだと、主張する。

  しかし、それを理解できる者と理解できない者とがいる。

1 広大な桜の園を有する邸宅の持ち主である女主人は、夫を亡くし、その一月後には男の子が近くの川で溺死するという不幸が続き、いたたまれずパリへ行っていたが、6年ぶりに帰ってきた。

2 それまでの散財の結果、彼女はもう借入金利息を払うお金もなく、桜の園も含め邸宅は競売にかけられようとしている。

 「あたしはいつでもお金をきちがいのようにパッパッと使い捨てました。そして、借金ばかりする人のところへお嫁に行きました、あたしの夫はシャンパンのために死にました。そして、坊やが溺れました。そして私は外国へ発って行きました。不幸せにもあたしは別の人を愛して、一緒になりました。しかし、あのひとは私から巻き上げるだけ巻き上げて私を捨て、他の人と一緒になり私を捨てました。」

3 屋敷に出入りする若者や商人が女主人に意見をする。
 「うぬぼれはやめなければいけません。ただ働くことだけが必要なんです。」
 「ちゃんとした人間がどんなに少ないかわかるためには、何かやり始めるのに限ります。」
 「現在を生き始めるためには、過去の罪を償い、それとけりをつけなければならない。だが、それは苦しみによって、また、並々ならぬ絶え間のない勤労によってのみ、罪を償うことできるのです。」

4 しかし、女主人の浪費癖は治らない。
 ア 従僕に食べさせるものにも事欠くのにもかかわらず、通りがかった旅の浮浪者に金貨を恵んでしまう。

 イ 邸宅が競売にかかる日に、楽隊を入れ、舞踏会を開く。

5 邸宅の競売は、結局、出入りの商人が落とした。その商人が言う・・

 「読み書きもろくにできず、冬もはだしで駆けずり回っていたこの私が、この世にまたとないほど美しい領地を買ったんだ。私の祖父や親父はそこの奴隷だった。台所へさえも通してもらえなかった、その領地を私は買った。」

 「みんな見に来たまえ。私が桜の園に斧を入れるのを。樹が地面に倒れるのを。我々はうんと別荘を建てるんだ。そして、我々の孫やひ孫はそこに新しい生活を見るんだ。」

6 邸宅で暮らしていた人々が、そこを去る日が来る。娘たちは働く覚悟を決めるが、女主人は相変わらず、人を頼りに生きることしかできない。

    女主人    ・・ パリへ行く。親戚が送ってくれたお金で暮らすが、直にお金は尽きる。
    その娘 17歳 ・・「私は、中学卒業の資格試験に通り、それから働いて、ママを助けるわ。」
    その養女 24歳・・ よその家の家政婦になる。
    女主人の兄     銀行に勤める。


グーグル・ホームなどの音声アシスタントデバイス [インターネット情報]

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<グーグル・ホーム>


  * アメリカの新聞「USA TODAY」から

  家庭用の音声アシスタントデバイスがアメリカで人気を集めている。
  今年中にアメリカでは、最低月に1回は音声アシスタントデバイス使う人が3,560万人に上るであろうといわれている。

  いくつかの会社が製品を出しているが、先頭を行くのはアマゾン・エコーで、約70%のシェアを占めている。アマゾンは先週、最新モデルとして7インチのタッチスクリーンビデオカメラを加えた「エコー・ショウ」の発売も始めた。
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  グーグルは昨年10月、グーグル・ホームの発売を始めた。グーグル・ホームのシェアは24%となっている。

  これらはいずれも外部からの音声を認識して、回答などを音声で返すためのAI(人工知能)を搭載している。
  アマゾン・エコーはALEXAというAIを、グーグル・ホームはASSISTANTというAIを搭載している。
  また、マイクロソフトは先週、CORTANAというAIを搭載した音声アシスタントデバイス、INVOKEを発表した。アップルも来月、音声アシスタントデバイスを発表すると予想するものもいる。

  AIを搭載した音声アシスタントデバイスは、ハンズフリーの電話や音楽を聴くことはもちろん、子供の宿題のお手伝い、買い物リストの作成、更新、室内ライトの点灯や温度管理などもできる。
   
  会話形式の流れるような情報提供も可能だ。
  以下は、GOOGLE  ASSISTANTのサイトで表示されてる会話例だ。

・・・・・・・・・・
ユーザー:今夜上映している映画は何?
GA:こんな映画がやってますよ(上映中の映画リストを表示)

ユーザー:今回は子どもたちを連れて行きたいんだけど
GA:Ok、家族向けならこんな選択肢があります(上映中の子供向けの映画リストを表示)

GA:どの映画のチケット4枚にします?(ユーザーの家族構成を把握し、行動を促す)
ユーザー:そうだね、Jungle Bookにしよう
GA:完了。The Jungle Boolのチケットを4枚取りました。コードを入り口で見せてください。楽しんで!(最寄りの映画館で使えるQRコードを表示)
・・・・・・・・・・・・


  なかには、音声アシスタントデバイスを買わなくても、GOOGLE ASSISTANTを搭載しているグーグルの電話、PIXELがあれば十分という人もいる。

  しかし、昨年末末までに約1千万台の音声アシスタントデバイスが購入された。今年はさらに1千5百万台から2千万台が売れるだろうと見込まれている。

  もっとも、購入者がそれらを十分に使いこなしているわけではなく。ある調査によると3分の1は毎日何回も使用しているが、3分の1は週に何回か、残りの3分の1は週に一度しか使用していない、という結果が出ている。

  なお、自閉症の子供が音声アシスタントデバイスと会話をすることにより、表情が明るくなったという声もあった。