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「人口と日本経済」

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  中公新書の一冊。2016年8月刊。
  著者は、マクロ経済学専門の吉川洋さん。

  日本は今後、人口減少が進み、経済は衰退し、地方は消滅するのか。

1 日本の人口減少の諸問題
(1)少子高齢化
    65歳以上の高齢者が日本の人口全体に占める比率は、2013年25%、2030年32%、2060年40%へと上昇する、その分、現役世代が高齢者を支える負担が増大する。

    少子化により現役世代が減り、高齢化により高齢者が増えて行けば、社会保障の給付が膨らむ一方で、それを支える財源は先細りになる。不足分は国の財政が補てんしなければならないが、それが「財政赤字」というもう一つの問題の悪化をもたらす。

(2)財政破綻の危機
    2016年度末の日本の国の長期債務残高は838兆円とGDP対比161%に達している。EUは参加国にこの比率を60%以下とするよう義務付けており、161%がいかに異常かが分かる。

    これまでの財政悪化の要因は、歳入が伸び悩む中で、歳出が社会保障関係費を中心に増大したことによる。今後とも社会保障関係費は高齢化の進展に伴いさらに増大する。

    問題を解決していくためには、歳出の伸びを抑制する一方、歳入増(増税)が必要であることは自明である。EUでは、加盟国に消費税(付加価値税)最低15%というルールを課している。

   * 現実を直視せず、問題を先送りして後の世代にそのツケをまわすやり方を日本はしている。

(3)地方への影響
    これまでも地方から都市への人口流出が生じていたが、今後とも同じペースで人口流出が続き、かつ出生率が現状の1.41とあまり変わらないとすると、市町村の約50%は、2040年にかけて若年女性の人口が現在の5割以下となる。また、約3割の市町村は2040年には1万人を切る。

   * そうした地域では、北海道の夕張市に見られたように、財政収支が悪化し、公共サービスの質が低下し、それが人口流出に拍車をかける可能性が強い。

2 解決策はないのか
(1)社会全体で子育て支援をすることの必要性
  まず、人口の減少を食い止める策を講ずるべきだ。
  スウェーデンの経済学者、ミュルダールは1930年代に、「減少する人口を放置するのは誤りである」と強く訴えた。

  「子供の数が減れば、一人当たりの所得は上昇する。それだけ豊かになったとみえるかもしれない。しかし、その結果、国全体で人口が減少していくと、それは社会全体の人々の生活水準に対しては絶対的な悪影響を与える。」

  産児制限が個人にもたらす利益と、社会全体の利益は同じではない。
  出産や、子育てについて、それぞれの家庭の負担から、社会全体で負担する制度へ転換しなければならない。

  今から80年も前に発表された、ミュルダールの「子育て支援策」は、スウェーデンのその後の経済政策に大きな影響を与えた。
 (保育園の100%充足、所得や子供数に応じた保育料負担の上限設定など)

(2)高めの経済成長を目指すべき
   経済成長は、新たな雇用を生み出し、歳入の増加にもつながる。
   
  A 人口が減少する中で、経済成長は可能か
    経済成長を決めるのは人口だけではない。
    明治の初めから今日までの日本を見ると、経済成長と人口はほとんど関係ないと言っていいほど両者はかい離している。

    経済成長の主因は、労働生産性の向上である。
    労働生産性の向上は、技術進歩に伴う、新しい設備や機械の投入によってもたらされた。
    また、生産性の低かった第一次産業から、第二次産業、第三次産業へとシフトしてきたことも大きい。

    第一次産業からのシフトを今後とも続けることは難しいが、今後とも労働生産性を向上させることができれば、経済を成長させることができる。

    ただ、日本の企業は現状では、投資に消極的だ。日本全体の貯蓄と投資の状況を見ると、かっての高度成長期では家計が貯蓄をし、企業は借金をして投資をしていた。しかし、いまや企業は家計をしのぎ、最大の貯蓄主体となってしまっている。

  B AI(人工知能)のようなIT(情報技術)の進展はどのような影響をもたらすか
   AIやITの進展は、一部の労働に対する需要の減少をもたらす。
   (工場や事務作業など)

   しかし同時に、労働生産性の上昇をもたらし、人々を豊かにする。
   賃金など労働によって得る所得の比率が低下し、設備を所有することにより得る所得の比率が上昇する。このため、社会の経済格差が拡大するという考えもある。

アメリカのニュース番組の司会者

ケリー.png 
<メギン・ケリー>

  アメリカニュース番組では、司会者が国民の圧倒的な支持を集め、長期間、同じ番組の司会者を務めることがあります。
  司会者はアンカーと呼ばれ、原稿をただ読み上げるのではなく、ニュース番組の取材、編集、構成に大きな権限を持っています。
  アメリカのニュース番組では、門外漢のコメンテーターがニュースに対して色々とコメントをするということもありません。
  
  最近抜擢された司会者や過去にアメリカ国民から支持された司会者を採り上げてみます。

1 メギン・ケリー(現在46歳、女性)  
  今月からアメリカの三大ネットワークの一つであるNBCの看板ニュース番組の司会者を務めることになりました。

  ケリーさんはこれまでニュース専門チャンネルのFOXニュースで司会者を務めていました。

  彼女を一躍有名にしたのは、昨年8月に開催された共和党の大統領候補者を集めてFOXニュースが開催した討論会でした。

  彼女はその司会を務め、その時点で共和党の大統領候補としてトップを走っていたトランプ氏に対して、それまでの女性蔑視発言を鋭く追及しました。

  トランプ氏はひどく頭にきて、「彼女の目から血が吹き出している。彼女の体のいたるところから血が噴き出している」というきわどい発言をして、それがまた多くの人の非難を浴びました。トランプ氏は、もうFOXニュース主催の討論会には出ないと言い、実際にその後の討論会を欠席しました。

  ケリーさんは昨年11月に回顧録を出版し、その中で、トランプ氏が番組の中で好意的に取り上げてもらうように、彼女に対して以下のような賄賂めいた懐柔策を提案していたと、暴露しました。
   ・トランプ氏が所有するニューヨークのホテルの女性用週末宿泊プランの無料提供
   ・フロリダの超高級別荘への無料招待
  ケリーさんはこれらの提案を謝絶しました。

  今月4日の、彼女の初登場の番組では、彼女とロシアのプーチン大統領のインタビューが放送されました。

2 バーバラ・ウオルタース(現在88歳 女性)
  1976年に三大ネットワークの一つ、ABCのニュース番組の司会者を務めるようになり、以後38年間、2014年に85歳ですべての番組から降板するまで、ABCの女性の司会者としてトップの座を占めてきました。

  この間、世界のリーダー、有名人と数多くのインタビューをこなしました。
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3 ウオルター・クロンカイト(2009年に93歳で死去)
  1962年から1981年までの19年間、三大ネットワークの一つのCBSのニュース番組の司会者を務めました。

  国民の70%以上から支持を集め、「大統領よりも信頼できる司会者」と呼ばれました。

クロンカイト.png
  

配車アプリの会社 ウーバー

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  アメリカの週刊雑誌「TIME」に拠る。

  ウーバー・テクノロジーズ社は、アメリカのサンフランシスコに本社を置く、配車アプリを運営する会社。2009年設立で、現在、世界の75か国で事業を展開している。株式時価総額は700億ドル(7兆7,000億円)。従業員は14,000人。代表者は創業者のトラビス・カラニックであったが、先日、代表を辞任するとの発表があった。

  配車アプリで車の利用を申し込むと、近くにいる登録ドライバーが直ぐにやってきて、目的地まで運んでくれる。個人の所有物を利用してサービスを利用するという意味では、「民泊」と通ずるところがある。

  同社は今年の4月に、株式関係情報を発信するブルムバーグ社を通じて、初めて財務内容を公表した。同社はこのところ数々のスキャンダルに見舞われており、存続を危惧する声も出始めていることから、そういった懸念を払しょくするため、財務内容の公表に踏み切ったものとみられる。

  それによると、2016年の配車サービスの総利用額は200億ドル(2兆2,000億円)で、前年の約2倍となった。純収入は65億ドル(7,150億円)、また純損益は28億ドル(3,080億円)の赤字となっている。急成長しているが、赤字体質は変わらない。

  なお、赤字には中国事業の損失、社員に対する株式付与、一部の不動産投資関連損失、自動車購入費用などは含まれていない。
 (中国事業は、赤字に耐え切れず2016年8月に売却)

  同社は、70億ドル(7,700億円)の現金資産を保有しており、また未使用のクレジットラインも23億ドル(2,530億円)あり、資金繰りに不安はないとしている。
 
  同社は2009年の創業以来、新興IT企業として注目を集め、ベンチャーキャピタルもその将来性に期待して150億ドル(1兆6,500億円)という巨額の資金を投資してきた。

  同社の事業は、全米にあるタクシー会社との戦いであった。同社はタクシー会社を、規制と独占的な立場に守られた「悪者」と見立てる一方、同社をそれと戦う「挑戦者」とした。規制を破壊することにより、利用者はより良いサービスを受けることができ、また登録ドライバーは収入を得ることができると訴えた。スマートフォンの急速な普及も味方した。

タクシー ウーバー.jpg

  しかし、同社はこのところ以下のようなトラブルに巻き込まれており、このため一部役員が会社を去った。
   ・セクシャル ハラスメントなど女性蔑視の社風
   ・過重勤務
   ・グーグルの自動運転技術を盗んだとして提訴される
   ・政府の調査をかいくぐるためのソフトウェアの発覚
   ・役員が登録ドライバーと口論をしているビデオの流出
   ・利用者の行動を無断で記録するソフトウェアの発覚

  また、同社の事業の仕組み自体にも疑念の目が向けられている。
   ・同社は配車アプリを提供しているだけで、ドライバーの不法行為には責任を持たない。実際に、ドライバーが乗客を襲ったり、殺したり、誘拐したりといった事件が数多く発生している。同社は表向きは責任はないとしているものの、個別に示談により訴訟を終結させたりしている。

   ・ドライバーからは、同社の従業員として扱って、最低賃金のルールぐらいはクリアしてほしいとの声も出ている。

  わが国では、一部地域で限定的にサービスの提供が認められているのみで、全面的な事業展開は認められていない。
 

漱石とその妻 鏡子

鏡子.png 
  漱石は私生活ではわがままなところがある。妻の鏡子は、のびのびと育てられ、思ったことは口に出す方であった。このため、漱石の神経が高ぶったときには、よくケンカもした。漱石が妻に対して、出ていけ、と言ったこともあったようだ。しかし、妻の鏡子はそのような漱石のわがままに耐え、次第に文壇で名声を得る漱石を支え続けた。お互いに相手を必要とし続けた夫婦でなかったかと思う。

1 大正3年11月、漱石47歳の時の日記に妻の鏡子について以下のように記述している。

 「妻は私が黙っていると決して向こうから口を利かない女である。ある時私は膳に向かって箸を取ると、その箸が汚れていたのでそれを見ていた。すると妻が汚れていますかと聞いた。それから膳を下げて向こうに行った時、下女に、またこっちから話させられたといった。」

 「妻は朝寝坊である。小言を言うとなお起きない。時とすると9時でも10時でも寝ている。妻は頭が悪いということをきっと口実にする。早く起きるとあとで仕事をすることができない終日ぼんやりとしていると主張する。それで子供が学校へ行ってしまってすべてが片付いた時分にのそのそと起きてくる。そのくせどこかへ約束があって行く時は何時だろうが驚くべく早く起きる。」

2 漱石が36歳の時、結婚して7年目であるが、妻の鏡子が一度、実家へ2か月ほど戻ったことがある。神経衰弱が昂じて妻や子供につらく当たるので、一度離れて住んでみた方が症状の改善に役立つのでは、との考えから実行したもの。

  「(お医者さんに漱石の病気について聞いてみると)ああいう病気は一生治りきるということがないものだ。それから病気の説明をいろいろ詳しく聞かしてくださいました。私もそれを聞いてなるほどと思いました。ようやく腹が決まりました。」(「漱石の思い出」夏目鏡子述)

  「母から夏目にどうかまあといった具合に謝ってもらって、そこでようやく千駄木に帰ることになりました。私はこの時、今度はどんなことがあっても決して動くまいと決心して参りました。」(同上)

3 神経衰弱が昂じていた時期には、家庭内で修羅場めいたことも起こっていたようで、漱石の方から、妻の鏡子に対して、離縁するから実家に帰れ、というようなことも言ったようだ。

  「私を里に返そうというので、父に引き取れと手紙をやったものです。父は、鏡子は理由がないから絶対に離縁は受けないというし、私もまた同意だ。第一、夫婦の離縁問題は双方合意のうえでなければ法律が許さない。しかし、もしどうあっても鏡子がいやだから離縁なさろうというのなら、裁判所に願いを出してください、とこう出たのです。(漱石は)いっこうそんなものは受け取りもしなかったような顔をして、すましておりました。」(同上)

4 しかし、漱石は妻を深く愛していたように思う。
 ロンドンではさみしさが募り、妻の鏡子に対して以下のような手紙を書く。

 「国を出てから半年ばかりになる。少々嫌になって帰りたくなった。お前の手紙は二本きたばかりだ。その後の消息は分からない。多分無事だろうと思っている。段々日が経つと、国のことをいろいろ思う。俺のような不人情なものでも、しきりにお前が恋しい。これだけは奇特と言ってほめてもらわなければならぬ。」

 「二週間に一度くらいずつは書面をよこさなくてはいかん。」

5 妻の鏡子も漱石を愛していたように思う。漱石が修善寺で吐血をして危篤となったときは必死に看病をした。

 「病床のつれづれに妻より吐血の時の模様を聞く。慄然たるものあり。妻は五、六日なにも食わなかった由。」(漱石の日記)


漱石の食事と病気

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   日本を代表する文豪も、食生活はかなり乱暴であった。
   このため、数々の病気に悩まされた。

   以下の書籍に拠る。
   「日常生活の漱石」 黒須純一郎著 中央大学出版部 2008年刊
   「漱石の思い出」  夏目鏡子述  文春文庫

1 食事や酒・たばこの嗜好
(1)大飯食い
    「吾輩は猫である」の苦沙彌先生についてであるが、「彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色をおびて弾力のない不活発な徴候をあらわして居る。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジアスターゼを飲む」とある。

(2)下戸
    「私は上戸党の方じゃありません。一杯飲んでも真っ赤になるくらいですから、到底酒の御交際は出来ません」(「漱石談話」)

(3)ヘビースモーカー
    「煙草は好きです。病中でもやめられません。朝早く目覚めた時にも、食後にも喫みます。なるべくシガーがいいのですが、安くないので、大抵敷島などをふかしているのです。日に二箱位は大丈夫でしょう。」(「漱石談話」)

    「一度止したこともあったが、煙草を吸わぬことが別に自慢にもならぬと思ったから、また吸い出した。余り吸って舌が荒れたり、胃が悪くなったりすればちょっと止すが、治ればまた吸う。」(「文士の生活」)


(4)濃厚な食事
    「淡白な物は私には食えない。私は濃厚な物がいい。シナ料理、西洋料理が結構である。日本料理などは食べたいとは思わぬ。幼稚な味覚で、油っこい物を好くというだけである。」(「文士の生活」)

(5)甘党
    「盲腸炎に罹った。これは毎晩、寺の門前に売りに来る汁粉を、規則正しく毎晩食ったからである。」(「満漢ところどころ」)

    「菓子皿の中を見ると、立派な羊羹が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合いが滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。」(「草枕」)

2 病気
(1)胃潰瘍
    43歳の時に胃潰瘍と診断され、入院した。その後、退院して、療養のため修善寺温泉に滞在したが、そこで大吐血をして、一時危篤状態になった。49歳で亡くなったが、死因は胃潰瘍による大内出血。
   「小生は、その後あいかわらず胃病に苦しみおり候処、10日ほど前決意、長与の胃腸病院へ参り候処、胃潰瘍の疑いにてついに入院することに相成り候」(安倍能成への手紙)

(2)糖尿病
    甘党で大飯食いのため、糖尿病になる。
   「ちょっと医者に見てもらったら、小便を試験してこれは糖分があるという。コイツにはまいったね。それで自宅には器械がないから、糖分のパーセントを大学で調べてもらってくれろというんだがね。僕の療治法はそのパーセントで決まるんだそうだ。」(菅虎雄への手紙)

(3)痔疾
    44歳の時に、痔の手術を受けた。
    通院と往診を繰り返し、数回の切開でいったんは小康を得たが、翌年、再度悪化。本格的な痔ろうの手術を受けた。術後の経過は極めて良好で、痔疾は完治した。

   「明暗」の冒頭に、痔疾の治療に関する、主人公の津田に対する医者の説明が出てくる。
   「やはり穴が腸まで続いているんでした。この前探ったときは、途中に瘢痕の隆起があったので、ついそこが行き止まりとばっかり思って、ああ言ったんですが、今日、疎通を良くするために、そいつをがりがり掻き落としてみると、まだ奥があるんです。」

(4)リューマチ
   晩年、リューマチにも悩まされた。
   「リューマチで腕が痛みます。続けて机によることができません。」(山本笑月への手紙)

(5)神経症
  A ロンドンでの憂鬱
   「近頃非常に不愉快なり。下らぬことが気にかかる。神経症かと怪しまるる。」(日記)

   「近頃は神経衰弱にて気分すぐれず、はなはだ困りおり候。」(妻の鏡子への手紙)

  B 妻の鏡子の回顧談(「漱石の思い出」に拠る)
    ロンドンから帰国直後、漱石36歳の時
   「6月の梅雨期ごろからぐんぐん頭が悪くなって、7月に入ってはますます悪くなる一方です。夜中に何が癪に障るのか、むやみと癇癪を起して、枕と言わず何といわず、手あたり次第のものをほおり出します。子供が泣いたと言っては怒り出しますし、時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当たり散らしております。」

    46歳の時
   「暮れから妙に顔が火照って、てかてかしているので、変だ変だと思っておりますと、またも例の頭がひどくなって参りました。ちょうどこの前に一番ひどかった時から10年目に当たります。この年は正月から6月までが一番ひどくて、あげくの果てはとうとうまたもや胃を悪くして寝込んでしまいました。胃が悪くなると、それでだんだん頭の方は治ってくるのでしたが、この時ははじめは両方でしたから、ずいぶん大変でございました。」


CIAの対日工作

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  *「CIA秘録」(ティム・ワイナー著 ニューヨークタイムス記者 文芸春秋刊)に拠る。

  CIA(アメリカ中央情報局)は、自国の国益のために世界中で活動する。
  日本では戦後どのような活動をしてきたのだろうか。

1 有末清三の利用
  アメリカ占領軍は、終戦時の日本の参謀本部で諜報責任者だった有末清三に目を付けた。
  有末並びにその配下の者は以下のような指示を受けた。
  ① 日本の共産主義者に対する工作
  ② スパイを北朝鮮、満州、サハリン、千島に潜入させ、情報収集すること。
  ③ 中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し、台湾に日本人の有志を送り込むこと。

  有末らは活動資金として当時の金で1千万円を手にしたが、効果は殆どなかった。
  逆に、アメリカ側の情報が有末らを通じて、共産中国に流れていた。

2 児玉誉士夫の利用
  児玉は朝鮮戦争中に、アメリカ人実業家などと協力しながら、CIAの資金援助を受けて秘密工作を行っていた。

  米軍がミサイルの堅牢化に使われる希少戦略金属のタングステンを必要としていたため、CIAは児玉に日本軍の貯蔵所にあったタングステンをアメリカに密輸させた。

  児玉は自分の資産の一部を日本の保守的な政治家に注ぎ込み、それによってこれらの政治家を権力の座につけることを助けるアメリカの工作に貢献した。

3 保守政治家の支援
  CIAは以下の目的のために、保守政治家を金銭的に支援した。
  ① 占領終了後も、アメリカの影響力を引き続き保持する。
  ② 在日米軍の駐留を許容する意識を日本人の間に育む。
  ③ 日本に左翼政権が誕生する可能性を減らす。

4 岸信介
  岸はA級戦犯容疑者として巣鴨刑務所に3年間収監されていたが、釈放後はCIAの援助を受けて、政界のトップへの道を進んだ。
  岸が舵を取る新しい自由民主党は、自由主義的でも民主主義的でもなく、帝国日本の灰の中から立ち上がった右派の封建的な指導者たちを多くそのメンバーとしていた。
  岸は首相になり、日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていく。
  岸はCIAと二人三脚で、アメリカと日本との間に新たな安全保障条約を作り上げていこうとする。
  アメリカは、日本に軍事基地を維持し、核兵器も日本国内に配備したいと考えていた。

  CIAと自民党との間で行われた最も重要なやり取りは、情報とお金の交換であった。
  アメリカ側は、将来性のある若手政治家との間に金銭による関係を確立した。
  彼らは力を合わせて自民党を強化し、社会党や労働組合を転覆しようとした。

  CIAの資金は、日本で自民党の一党独裁を強化するのに役立った。

5 資金援助の終了
  アメリカはそれが暴露された時の影響が大きいと考えるようになり、日本の政党に対する資金援助は1964年ごろに段階的に停止された。

 *その後について、この本には記載はないが・・

ワールドトレードセンターはなぜ崩壊したか

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  *インターネットに掲載されているジャッキー・クレイブンさんの解説文に拠る。

  2001年9月11日、ニューヨークマンハッタンにあったワ-ルドセンターの2棟は、航空機の直撃を受けたのち崩壊した。なぜ、建物はいとも簡単に崩れ去ってしまったのだろうか。

1 航空機衝突の衝撃
(1)2機合わせて3万8千リットルのジェット燃料が巨大な火の玉となって建物を襲った。しかし、これらの衝撃が直ちに建物を崩壊させたわけではない。

(2)110階建ての建物はそれぞれ、その中心部分に244本の柱を持ち、それらの一部が損傷しても、残った柱が建物を支えるようになっていた。中心部分と窓部分との間は、柱のない事務室スペースで、ワンフロアは約3,700平方メートルの広さであった。

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(3)航空機衝突の衝撃は・・
   ① 鉄骨を高温から守る保護材をはぎ取った。
   ② 建物のスプリンクラーシステムを無効にした。
   ③ 建物の重量を、損傷せずに残った柱に担わせた。

(4)ジェット燃料は420~810℃で燃える。この温度は鉄を溶かすには十分ではない。しかし、鉄の強度を弱める。鉄は650℃で半分の強度になる。

(5)衝突した階では、柱が内側に曲がり、また床が崩壊を始めた。一つの階の崩壊が、下の階への重量を増加させ、崩壊を連続させることになった。地上付近では、建物の崩壊速度は時速800キロメートルに達していたとみられる。

2 建物は安全であったか
(1)ワールドトレードセンターは1966年から1973年にかけて建てられた。

(2)建設の際に、建物のオーナーとなる港湾局はニューヨークの建築基準に関していくつかの適用除外を受けている。その一つが、高さを増やすために必要だった軽量鉄骨の使用である。これが被害を大きくしたといわれている。もし、ニューヨークの建築基準が要求していた耐火性のものを使用していたら、被害者の数は少なくなっていたであろうとみられている。

(3)ただ、北棟は90分間、南棟は60分間、持ちこたえたとも言える。その間に多くの人が避難することができた。

3 その他
(1)航空機が液体ジェット燃料ではなく、固体燃料を使用していたら、このようなことにはならなかったであろう。

(2)ワールドトレードセンターは、火薬により意図的に破壊されたという謀略説を唱える人もいる。しかし、調査結果では、やはり炎上の影響で、連続的な崩壊が起こったといえる。

(3)設計者は常により安全な建物を作ろうとする。しかし、開発業者は起こりもしなさそうなことのために余計なお金を払いたがらない。しかし、9月11日の教訓により現在では、高層オフィスビルディングは、建築基準に従い、耐火性の非常用通路や、その他たくさんの安全機能を備えることを要求されている。

外国人が見た昔の日本の風俗

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  中世日本の風俗は、西欧の影響を受けた近現代のそれとはかなり違う。
  外国人が書き残した書物から、見てみたい。

1 「ヨーロッパ文化と日本文化」 (岩波文庫)
    著者のルイス・フロイス(1532~1597)はイエズス会の宣教師として来日。
    信長。秀吉の時代を中心に、35年間日本で布教を行い、長崎で生涯を終えた。

(1)女性の貞操
  「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。」
  (この時代には処女の純潔や貞操を重んずる観念は薄かった。キリシタンの信仰が伝わったとき、教会で大いに風俗矯正に力を尽くしたため、信徒の間には純潔を尊ぶ観念が植え付けられた。)

(2)離縁
  「ヨーロッパでは、妻を離別することは罪悪であるうえに、最大の不名誉である。日本では、意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる。」
  (妻の実家と協議のうえ離婚する場合もあるが、一般には夫の一方的意志によって行われた。)

(3)女性の行動
  「ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことは極めて大事なことで、厳格に行われる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、独りで好きなところに出かける。」

  「ヨーロッパの妻は夫の許可がなくては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。」

2 「回想の明治維新」 (岩波文庫)
    著者は亡命ロシア人革命家のメーチニコフ(1838~1888)。
    維新革命を果たした日本に魅せられて、明治7年から1年半、日本に滞在した。

(1)衣服
   「横浜の鉄道駅にひしめく群衆は・・『紺色の』群衆と呼ぶにふさわしい。なぜなら群衆全体が、大も小も、老いも若きも、男女、身分の別なく、まるで制服ででもあるかのように、一様にインジゴ色のくすんだ色合いの着物に身を包んでいた。」

(2)裸
   「平民身分の日本人はズボンを全くはかない。・・日本人のこうした裸好きを私が初めて目にしたのは、横浜の駅頭であった。」

   「人力車の人足たちは暑い季節ともなると、われ先にその赤銅色の体を圧迫する衣服をすべて脱ぎ捨て、腰のまわりに最小限の手ぬぐいか帯のようなものを巻き付ける姿になる。」

(3)浴場
   「政府は、公衆浴場では男湯と女湯をしっかり区切るよう命じている。・・たしかに男女混浴こそできないが、好きな連中が双眼鏡でも持って、女湯で入浴する日本の女たちに見ほれるとしても、誰もそれを妨げたりしない。」

(4)純潔
   「世界のすべての古い文化的民族の例にもれず、日本人も外国人と接触する以前から、夫婦間の貞節という意味で、とりたてて処女のごとき純潔を特徴としてきたわけではない。」

(5)読み書き
   「日本は、中国と同じく、ロシアやラテン系諸国よりも識字率が極めて高い。読み書きの能力など、日本のすべての国民にとって、あって当たり前と考えられている。」

<飛脚>
飛脚.jpg

<浴場>
浴場.png

写楽の謎 [美術]

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<初代市川蝦蔵の竹村定之進>

  * 以下の書籍を参考にした。
    「写楽の謎の一解決」 松本清張著 講談社文庫 1977年刊
    「写楽の謎」     田村善昭著 美術の森出版 2015年刊

  写楽は、江戸時代中期の浮世絵師。1794年5月から1795年3月までの約10か月という短い期間に145点あまりの役者絵その他の作品を出したのち、忽然と姿を消した。その素性が不明なため、写楽とは実は誰なのか、いろいろな説が出されている。

 *写楽の絵の特徴
  ① 目は半円形
  ② 小さく結んだ可愛らしい女の口
  ③ への字に固く噛みしめた男の口  
  ④ 外人並みの高い鼻
  ⑤ 五指が開いて、わなないているような手つき

1 阿波候のお抱え能役者であった斎藤十郎兵衛という説
  理由 ① 写楽が住んでいた八丁堀の近くには阿波候蜂須賀家の下屋敷があった。
     ② 阿波の浄瑠璃人形の顔が、写楽の描く面相と似ている。

  疑問点 ① 写楽の作品が阿波には残っていない。
      ② 能役者に最高級の役者絵を描くことができたか。
      ③ 能役者に一時期に大量の絵を描く時間があったか。

2 蒔絵の下絵師だったという説
    腕の立つ蒔絵師の下職人を、版元の蔦屋重三郎がスカウトした。
    しかし、① 蒔絵師は型にはまった画を踏襲する。
        ② 蒔絵師は人物の顔は不得手。
   
3 蔦屋重三郎自身であったという説
    蔦屋重三郎は歌麿を育てた一流の版元。しかし、歌麿は人気が出ると、他の版元に移ってしまった。このため、自身が写楽という名前で、雲母摺りの大首を描いた。歌麿は美人画だったが、写楽のものは役者絵だった。そして、一時期に多くの作品を大量に摺り、写楽の絵に賭けた。しかし、人気は出ず、売れ行き不振から蔦屋重三郎は没落する。

    蔦屋重三郎に絵の良し悪しを判別する能力はあったとしても、簡単に絵師になれるものではないという批判がある。

4 梅毒により精神異常をきたした絵師という説(松本清張の説)
    写楽の絵の極端なデフォルメは、絵師の視神経が侵されていたことによるもの。
    写楽は病気がもとで亡くなったため、活動期間が短かった。

5 阿波徳島藩の複数のお抱え絵師が写楽として活躍したとする説
  (浮世絵愛好家の瀬尾長氏の説)
    藩主であった横須賀重喜が若くして隠居させられた後、スポンサーとなって藩の絵師に浮世絵を描かせた。
    蔦屋重三郎があまり人気の出なかった写楽の作品を大量に売り出したのは、横須賀重喜の強力な経済的バックアップがあったため。
    この仕事には藩の絵師である矢野栄教をチーフに、数人の絵師が加わった。
    残っている栄教の絵と写楽の絵の共通点は多い。

  (写真家 田村善昭氏の説)
    阿波徳島藩の特産物である染料の藍の販売促進のため、写楽絵を大量に刷って全国の藍の問屋に配った。


   写楽は、浮世絵師のなかでも歌麿、北斎などとともに人気の1,2位を争う存在。
   その正体は、依然として不明である。


<三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛>
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<初代市川男女蔵の奴一平>
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「プロテスタンティズム」

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  中公新書の一冊。2017年3月刊。
  著者は宗教や哲学を専門とする深井智朗さん。

1 キリスト教がヨーロッパで定着した理由
(1)唯一神を信じるキリスト教は、聖人や守護天使に祈りをささげるということで、ローマに根付いていた多神教的世界観を自らのうちに取り込み融合させた。

(2)キリスト教はもともとユダヤ教の一分派であったが、ユダヤ教から追い出され、また、中東、アフリカの地はイスラム教が支配的になったため、ヨーロッパで生き延びるしか方法がなかった。

(3)人間は死後、天国に行くか、地獄に行くかどちらかだ、天国に行くためには教会の教えに従う必要があると、脅した。

2 原罪と贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符)
(1)人間は、アダムとイブ以来の原罪をもって生まれる。この原罪が人々の過ちを誘発する。日々の過ちはどのように許されるのか。

(2)7世紀頃、司祭の前で自らの犯した罪を告白する(懺悔)という仕組みができた。司祭はその罪を許し、これが天国へ行くための条件となる。

(3)さらに、15世紀頃には贖宥状というものができた。これによって自らの犯した罪に対する罰が帳消しになる。贖宥状とは贖宥が行われたことを示す証書であった。人々はこれを買い、天国に行けると考えた。贖宥状は、教会やローマ教皇に多くの利益をもたらした。

3 宗教改革の背景
(1)神聖ローマ帝国
   962年、ドイツ、スイス、北イタリアの地域を支配していたオットー一世が、ローマ教皇により、ローマ帝国の継承者として皇帝と任ぜられ、神聖ローマ帝国が誕生した。
   しかし、ドイツ国民を主とする神聖ローマ帝国は、絶えずローマ教皇の顔色をうかがい、政治的にも宗教的にも拘束されることになった。
   ローマ教皇による搾取は激しく、神聖ローマ帝国内の商工業者や農民層は、ローマに対して批判的な感情を抱くようになった。

(2)煉獄
   中世キリスト教では、天国にも地獄にも属さない「煉獄」という段階を想定する。人々は、地獄に行く前の煉獄の段階で、それまでに買っていた贖宥状を利用して天国へ行く道に戻してもらうことが可能と説かれた。贖宥状は天国行きを確実にする便利なものとして売られた。
   贖宥状には定価がなく、人を見て、支払えるものからは多くを搾り取った。

(3)当時の聖職者
   その多くはきちんとした神学の教育を受けていなかった。
   教義や聖書についての説明などはほとんどできなかった。
   聖書はドイツ語のものはなく、地方の聖職者の多くは聖書を読んだこともなかった。
   知っていたのは贖宥の仕組みだけだった。 

4 宗教改革の始まり
(1)1517年、修道士マルティン・ルター(1483~1546)が地域の大司教に対して、贖宥状の購入を勧めるのではなく、聖書の言葉を正しく聴き、真の悔い改めをなすように人々に語るべきとの書簡を送った。

(2)印刷技術が15世紀にグーテンベルクにより発明されていたこともあり、ルターの主張はまたたく間にヨーロッパ各地に広がった。ただし、ルターの贖宥状批判は、西ヨーロッパのキリスト教であるカトリックのリフォームを目指したもの。

(3)ルターの周辺の人々は自らを「福音主義」と呼んだが、カトリックの支配層はルター達を「福音主義者」という名誉ある称号ではなく、プロテスタント(抗議する者たち)と呼ぶようにした。このため、英語圏やオランダ語圏ではこの言葉が定着するようになった。

(4)ルターの死後の1555年、アウグスブルクの宗教平和の決定で、ルター派はカトリックとともに宗派として政治的に認められた。以後、領主はこの二つの宗派のいずれかを選び、領地内のすべての領民は、領主の選択した宗派を信仰することになった。

5 宗教改革の三大原理
(1)聖書のみ : 聖書に書かれていることが、教皇の考えに先行する。

(2)全信徒の祭司性 : 誰もが聖書を司祭のように読み、そして解釈してよい。

(3)信仰のみ(信仰義認) : 神が人間を救うという行為を人間はただ受け取るのであり、神がなすことを信頼するのが信仰。
    *浄土真宗の「他力本願」とルターの「信仰義認」は似ているといわれる。

6 その後のプロテスタンティズム
(1)カルヴィニズム
    スイスのジャン・カルヴァン(1491~1551)が主導し、改革派と呼ばれた。
    カトリック教会の伝統の中にあった魔術的要素、反聖書的要素を徹底的に排除しようとした(フランスではユグノーと、スコットランドでは長老派と呼ばれた)。

(2)イングランドの改革
    1543年、ヘンリー8世は英国教会を設立し、バチカンから離脱した。
    その後、英国教会の改革や制度批判を行った人たちがピューリタンと呼ばれるようになった。

(3)洗礼主義(17世紀初め、イングランドで誕生したバプテストや、大陸の再洗礼派など)
   ① 教会を領主の所有物ではなく、自発的な結社として理解。
     個々人が主体的に信じる自由を持ち、自由に教会を作り、その信者となることができる。

   ② 幼児洗礼の否定。自覚的な成人の洗礼だけが正しい洗礼である。
    
8 2種類のプロテスタンティズム
(1)古プロテスタンティズム
    ルター派やカルヴィニズムなど。
    1555年の決定に従い、一つの政治の支配単位には一つの宗教という政治的支配者主導の改革の伝統を受け継ぎ、国営の教会あるいは国家と一体となった。
    宗教の決定権は個人にはなく、政治をつかさどる王や政府に与えられている。

(2)新プロテスタンティズム
    国家との関係を回避し、自由な教会を自発的結社として作り上げた。

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