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写楽の謎 [美術]

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<初代市川蝦蔵の竹村定之進>

  * 以下の書籍を参考にした。
    「写楽の謎の一解決」 松本清張著 講談社文庫 1977年刊
    「写楽の謎」     田村善昭著 美術の森出版 2015年刊

  写楽は、江戸時代中期の浮世絵師。1794年5月から1795年3月までの約10か月という短い期間に145点あまりの役者絵その他の作品を出したのち、忽然と姿を消した。その素性が不明なため、写楽とは実は誰なのか、いろいろな説が出されている。

 *写楽の絵の特徴
  ① 目は半円形
  ② 小さく結んだ可愛らしい女の口
  ③ への字に固く噛みしめた男の口  
  ④ 外人並みの高い鼻
  ⑤ 五指が開いて、わなないているような手つき

1 阿波候のお抱え能役者であった斎藤十郎兵衛という説
  理由 ① 写楽が住んでいた八丁堀の近くには阿波候蜂須賀家の下屋敷があった。
     ② 阿波の浄瑠璃人形の顔が、写楽の描く面相と似ている。

  疑問点 ① 写楽の作品が阿波には残っていない。
      ② 能役者に最高級の役者絵を描くことができたか。
      ③ 能役者に一時期に大量の絵を描く時間があったか。

2 蒔絵の下絵師だったという説
    腕の立つ蒔絵師の下職人を、版元の蔦屋重三郎がスカウトした。
    しかし、① 蒔絵師は型にはまった画を踏襲する。
        ② 蒔絵師は人物の顔は不得手。
   
3 蔦屋重三郎自身であったという説
    蔦屋重三郎は歌麿を育てた一流の版元。しかし、歌麿は人気が出ると、他の版元に移ってしまった。このため、自身が写楽という名前で、雲母摺りの大首を描いた。歌麿は美人画だったが、写楽のものは役者絵だった。そして、一時期に多くの作品を大量に摺り、写楽の絵に賭けた。しかし、人気は出ず、売れ行き不振から蔦屋重三郎は没落する。

    蔦屋重三郎に絵の良し悪しを判別する能力はあったとしても、簡単に絵師になれるものではないという批判がある。

4 梅毒により精神異常をきたした絵師という説(松本清張の説)
    写楽の絵の極端なデフォルメは、絵師の視神経が侵されていたことによるもの。
    写楽は病気がもとで亡くなったため、活動期間が短かった。

5 阿波徳島藩の複数のお抱え絵師が写楽として活躍したとする説
  (浮世絵愛好家の瀬尾長氏の説)
    藩主であった横須賀重喜が若くして隠居させられた後、スポンサーとなって藩の絵師に浮世絵を描かせた。
    蔦屋重三郎があまり人気の出なかった写楽の作品を大量に売り出したのは、横須賀重喜の強力な経済的バックアップがあったため。
    この仕事には藩の絵師である矢野栄教をチーフに、数人の絵師が加わった。
    残っている栄教の絵と写楽の絵の共通点は多い。

  (写真家 田村善昭氏の説)
    阿波徳島藩の特産物である染料の藍の販売促進のため、写楽絵を大量に刷って全国の藍の問屋に配った。


   写楽は、浮世絵師のなかでも歌麿、北斎などとともに人気の1,2位を争う存在。
   その正体は、依然として不明である。


<三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛>
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<初代市川男女蔵の奴一平>
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