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日本の発明王 田中久重 [日本史]

田中久重.png

* 「からくり儀右衛門 日本の発明王 田中久重伝」(林洋海著 現代書館刊)に拠る。 

 田中久重は1799年に、今の久留米市でべっ甲細工師の長男として生まれた。
 久重は、家業のべっ甲細工には関心がなく、発明工夫に非凡な才能を見せていた。
 15歳になったとき、家業は弟に継がせ、自分は発明工夫で身を立てることを決意した。
 久重は寝食を忘れて「考案」に没頭した。
 そして、柄入り絣を織る機械やからくり人形を作るようになった。
 16歳の時に作った久重のからくり人形は絶賛を浴びた。

 久重のからくり人形は、全くの独創ではなく、土佐出身の細川半蔵頼直という人が書いた「機巧図彙」という本を参考にしている。時計やからくり人形の構造などを精密に図解、解説したもので、当時の技術水準の高さを示している。

 この時代になると、蘭学者を中心に、広く世に役立つ知識や技術は秘匿せずに公開するという考え方が広まり、「機巧図彙」が発刊されたのもそうした時代の変化が背景にある。

 久重は、新しいからくり人形を次々に発表し、久留米だけではなく、他国での興行も行った。
 大阪で行った興行では、1日の入場者数が1万人を超え、それが五十余日に及び、莫大な収入を得た。一方、江戸では長雨の影響で、客が入らず、多額の損失を被ったりした。

 からくり人形.png

 久重は35歳の時に居を久留米から大阪に移した。
 大阪では、からくり人形のような興行ものではなく、世の中に役立つ発明と商品作りを目指した。
  
 38歳の時、大塩平八郎の乱に伴う火災で焼け出され、知り合いを頼って京都に移った。
 京都では無尽灯の販売が好調で、工房の職人も増やした。
   *無尽灯・・圧縮空気による給油機構を使った長時間継続使用できるオイルランプ。ろうそくの10倍の明るさであった。

 久重は経営の安定した44歳の時、一念発起して、「報時館」というところで、天文学、暦学、数学などを学んだ。

 その後、天文観測計器、測量機器、外科用手術器具、酒・茶などの配膳ロボット、消火ポンプなどの商品を販売するようになった。
 その当時作った須弥山儀(しゅみせんぎ)(和時計)は制作に3年を要した。

 須弥山儀.jpg

 久重51歳の時に、「万年自鳴鐘」の開発に着手、わずか1年で完成した。
   ・そのころの時刻は、今と違い、日の出と日の入りの間を昼、夜ともに6で割り1刻とする。
    従って、1刻の長さが季節により変わる。これをはじめて自動的に表示可能とした。
   ・1回ゼンマイをまけば、1年間は動く。
   ・部品は1000点。すべて、やすりなどの道具を使い、手作業で製作したもの。

 日本の和時計製作技術は、この「万年自鳴鐘」で絶頂に達したといわれている。
 久重はこの「万年自鳴鐘」を1台しか作らず、そのころ時計のコレクターとして知られていた松江公から、2,000両(現在の価値にして2億6,000万円)で引き合いがあったが、手放さなかった。

万年時計.png

 54歳の時に久重は請われて京都を離れ、佐賀に向かう。
 肥前国佐賀藩の精煉方に着任し、蒸気機関車や蒸気船を作り、また、反射炉や大砲製造に貢献した。
 これらに使われた金属加工技術の正確さは、現代の技術者から見ても素晴らしいもので、洋式旋盤のない時代にどのように作られたのか、想像できないという。

 ぺリーが蒸気船で来航し、また、幕末の変動激しい時期であった。
 久重68歳の時に、将軍慶喜が大政を奉還、天皇が王政復古を宣言した。
 戊辰戦争では、佐賀藩の大砲が威力を発揮した。

 明治の時代になり、73歳で久重は、できたばかりの工部省に請われて東京に向かった。
 東京に居を構えたのち、久重は自分の製造所を立ち上げた。
 田中製造所の誕生であった。
 できることは何でもやったが、電気事業に力を入れた。
 久重は工部省に通い、電気や通信機器の技術を必死に会得した。
 工部省のお雇い外国人と話をするため、英語も勉強した。

 こうした努力のおかげで、田中製造所は工部省からの電信機器類の製造を一手に引き受け、経営は軌道に乗った。
 田中製造所で久重から指導を受けた者の中から、後に現在まで続く電気機器あるいは機械機器製造会社を立ち上げたものも少なくない。

 久重77歳の時に、田中製造所は工部省の指定工場となり、工場を現在の銀座8丁目に移転した。

 79歳の時に田中製造所は電話機を完成させ、工部省に納めた。
 日本の電信電話は田中一門の技術により作り上げられたといわれ、田中製造所は官営工場を除いて、民間最大の工場に成長した。

 しかし、政府が電信機器製造を官営にすることになり、工部省が従業員ともども引き取ることになった。

 久重は83歳で亡くなった。
 久重の養子の大吉は、久重の死後、海軍省からの発注を得て、当時の東京芝区にあらたに田中製造所を設立した。
 これが芝浦製作所の前身で、のちの東芝である。