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「自由画稿」(寺田寅彦の随筆) [日本文学]

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  寺田寅彦(1878~1935)は物理学者。
  熊本の第五高等学校在学時に、英語教師の夏目漱石に師事して以来、
  漱石が没するまで最も親しい弟子の一人として交流を続けた。
  多くの随筆を書いたほか、俳句にも造詣が深かった。

  寺田寅彦は1935年12月に亡くなったが、その年の1月から5月にかけて「自由画稿」という
表題で、18のテーマの随筆を雑誌に連載した。
 (岩波文庫「寺田寅彦随筆集 第五巻」所収)

  そのうちのいくつかを拾ってみると・・

1 腹の立つ元旦
  正月元旦というと必ず機嫌が悪くなる人が少なくない。
  普通の日であればそれほどにも感じないような些細なことが、正月であるがためにどうも気になるのだ。
  1年に1回、特別な日を設けて、理由など構わずに、とにもかくにもめでたい日と決めてしまってしいてめでたがるのがよいのかどうか。

2 こじきの体験
  子供の時分、郷里の高知では正月14日の晩に子供らが「粥釣り」と称して、近所の家を回って米やあずきや切り餅をもらって歩いて、それで翌朝15日の福の粥を作るという古い習慣があった。

  こんな年中行事は郷里でも、もうとうの昔に無くなってしまって、若い人たちにはそんなことがあったということさえ知られていないかもしれない。

3 灸治
  大学2年の終わりに病気をして1年休学していた時に灸をしてもらった。
  少しずつ増やし、おしまいには20ぐらいずつすえる。

  上から下へ痛さの種類が少しずつ変わる。
  上の方は男性的な痛さで、少し肩に力を入れて力んでいれば何でもない。
  腰の方へ下がっていくと、痛さが女性的になって、かゆいようなくすぐったいような泣きたいような痛さになる。

  1日分の灸治が終わって、平手でぱたぱたと背中をたたいた後で、灸穴へ一つ一つ墨を塗る。
  これは化膿しないためだと言うが、墨汁の膠質粒子が外から入るばい菌を食い止め、また既に付着したのを吸い取る効能があるかもしれない。

4 歯
  歯の役目は食物を咀嚼し、敵にかみつき、パイプをくわえ、ラッパの口金を唇に押し付けるなどのほかに、もっと重要な仕事に関係している。
  それは我々の言語を組み立てている因子の中でも最も重要な子音のあるものの発音に必須な器械の一つとして役立つからである。

  これがないとあらゆる歯音が消滅して、言語の成分はそれだけ貧弱になってしまうであろう。
  このようにものを食うための器械としての歯や舌が同時に言語の器械として二重の役目を務めているのは造化の妙用というか天然の経済というか、考えてみると不思議なことである。

5 うじの効用
  鳥やねずみや猫の死骸が道端や縁の下にころがっていると、またたく間に蛆が繁殖して腐肉の最期の一片まできれいにしゃぶり尽くして白骨と羽毛のみを残す。

  戦場で負傷した傷に手当てをする余裕がなくてうっちゃらかしておくと化膿してそれにうじが繁殖する。そのうじがきれいに膿をなめ尽くして傷が癒える。

  ハエを取り尽くすことはほとんど不可能に近いばかりでなく、これを絶滅すると同時にうじもこの世界から姿を消す。するとそこいらの物陰に色々のたんぱく質が腐敗して色々のばい菌を繁殖させ、そのばい菌は回りまわってやはりどこかで人間に仇をするかもしれない。

6 毛ぎらい
  虫やそれに類したものに対する毛ぎらいは一応の説明がこじつけられそうな気がするが、人と人との間に感じる毛ぎらいやまた、なんとなく虫が好く好かないの現象はなかなかこんな生易しいこじつけは許さないであろう。

  それはとにかく、年を取るに従って色々な毛ぎらいがだんだんその強度を減じてくることは事実である。そして同時に好きなものへの欲望も減少する。

7 透明人間
  ウェルズの原作では、人間の肉も骨も血も一切の組成物質の屈折率をほぼ空気の屈折率と同一にすれば不可視になると説明している。

  一見どんなに荒唐無稽に見える空想でも、現在の可能性の延長としてみた時に、それが不可能だという証明は出来ないという種類のものもずいぶんある。例えば、人間の寿命を百歳以上に延長するとか、男女の性を取り換えるとかいう種類の空想はそうにわかに否定することができない種類に属する。しかし透明人間の空想はこれとはよほど趣を異にしている。