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「漂流記の魅力」 [日本文学]

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  新潮新書の一冊。2003年刊。
  著者は小説家の吉村昭さん。

  江戸時代に、日本沿岸で遭難し、ロシア領に漂着した人々のことを描く。

1 江戸時代の船
(1)船の構造
   鎖国のため外国へ行く船は必要とせず、内海航路を航行することのみを目的として設計、建造された。
   帆柱は一本で、また、船が川をさかのぼれるように舵が引き上げ式になっていた。
   舵の耐久性に弱点があった。

(2)船の利用
   国内の荷物の運搬の多くは船によって行われた。
   港湾の設備も整備されていた。
   馬による陸路の運搬も可能であったが、効率が悪く高価につくため、大量輸送には向かなかった。

2 主要航路
   航路は、波が穏やかで安全な日本海側や瀬戸内海が幹線航路となった。
   
   しかし、大阪から江戸へ荷物を運ぶには太平洋側を航行することが避けられないが、海難事故が多発する魔の航路であった。理由は・・
   ① 気象状況の変化で、海が荒れ狂う。
   ② いったん漂流すると、日本列島沿いに南から北に流れる黒潮によりはるか遠い海域まで流されてしまう。
   
3 暴風雨による遭難
(1)以下の順序で対応する。
   ① ちょんまげを切り、ざんばら髪で神に祈る。
   ② 積載した荷物の一部を海へ投棄する(刎ね荷)。
   ③ 帆柱を切り倒す。

(2)黒潮の流れに乗り漂流を始めると、大半は船が沈没するか、そうでなくても食料や飲料水が尽きて、次々にに死者が出て無人船となる。

(3)陸に辿り着いても、そこで死に果てるか、現地の住民に掠奪、殺害されることが多かった。

4 日本への帰還
(1)18世紀後半以降、漂流民の中から日本への帰還を果たすものが出てくるようになった。
   その主な理由は・・
   ① ロシアが日本への進出の準備のために、日本語のできる自国民を養成するようになり、ロシア領に漂着した日本の漂流民を日本語教師として利用しようとした。

    (ロシアは、日本の漂流民にキリスト教の洗礼を受けるように薦めた。キリスト教の信者になれば、キリスト教を厳しく禁止している日本に帰ることは出来なくなり、死ぬまで日本語教師として働くことになるため。)

   ② 19世紀に入ると、太平洋に外国の捕鯨船や交易船が増え、それらの船に救助される例が出てきた。

(2)しかし、いったん救助されても、外国の地で亡くなるものの方が多かった。
   ① 長期間漂流した場合、壊血病にかかる。
   ② 外国の食べ物に慣れることができない。
   ③ ロシアでは、厳しい寒さに対応できない。

(3)運よく日本に帰還しても、幕府の取り調べがある。
   まず、キリスト教に帰依していないかが調べられる。
   帰依していないと確認された場合は、難破や漂着の状況、その後の外国滞在の状況などが細かく聴取される。

   故郷に戻ってからは、国内であっても他地域への旅行は禁じられた。
   ジョン万次郎のように英語の能力を買われ、通訳となって活躍する漂流民が現れるのは、幕末になってからである。

   

漱石「硝子戸の中」 [日本文学]

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  1915年、夏目漱石が48歳の時の連作エッセー。
  全体として26個の話から構成されている。

  この中で特に「死」にかかわる部分を拾ってみると・・

1 「死」は最上至高の状態
   いつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。
   死というものは、生よりは楽なものだとばかり信じている。
   それを人間として達しえる最上至高の状態だと思うこともある。

2 しかし、私は生きることを助言する
   回復の見込みがつかないほど深く傷つけられた女性に対して・・

   ① 「時」がその傷口を次第に癒してくれる。
   ② 彼女にとって、その傷が痛みであると同時に、普通の人にないような美しい思い出の種となっていた。「時」は傷を癒すと同時に、この大切な記憶を失わせる。
   ③ それでも、いくら平凡でも生きてゆく方が死ぬよりも彼女には適当だった。

3 医者の拷問
   医者は、安らかな眠りに赴こうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝らしている。

   こんな拷問に近い所作が、人間の徳義として許されているのを見ても、以下に根強く我々が生の一字に執着しているかが分かる。

4 自分は死なないと思っている
   ある人が言った。
   「他人の死ぬのは当たり前のように見えますが、自分が死ぬということだけはとても考えられません」

   戦争に出た経験のある男に「隊のものが続々倒れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いた。
   その男は「いられますね。死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。

   私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰しも生きているのだから。

5 継続中のものを抱える人生
   人の心の奥には、自分たちさえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。
 
   しょせん我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を思い思いに抱きながら、一人残らず、遠い所へ、談笑しつつ歩いていくのではなかろうか。

   ただ、どんなものを抱いているのか、人も知らず、自分も知らないので、幸せなんだろう。

  * この作品には「死」にかんする具体的な話がいくつも出てくる。
   ① 愛犬のヘクトーの死
   ② いとこの高田の死
   ③ 芸者の御作が見受けされ、ウラジオで亡くなった。
   ④ 同じ会社の佐藤君の死
   ⑤ 旦那二人が若い芸者を身受けすることでもめ、その芸者が自殺してしまった。
   ⑥ 大塚楠緒さんの死(「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という句を手向けた)
   ⑦ 長兄の死
   
 

 漱石「道草」 [日本文学]

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  漱石が50歳で亡くなる1年前の1915年に朝日新聞に連載した作品。
  執筆時期は「こころ」と「明暗」の間に位置する。
  
  この作品では、妻との微妙な関係や、お金をめぐる知り合いとの関係など、日常誰にでも起こりうる問題を淡々と描いている。

  漱石が実生活での妻の鏡子との関係がベースにあるのは間違いないが、現実の夫婦関係の難しさを描き、深く考えさせるとともに共感をも感じるものとなっている。
  妻の鏡子に対する、漱石のお詫びの気持ちも含められているような気もする。

1 主人公の健三(36歳)と妻の御住(おすみ)(20代後半)との関係
(1)それぞれ欠点があり、お互いに理解しえない部分も多いが、自分の考えを変えずに暮らしている。口喧嘩がさらに悪化することはない。

   機嫌のよくない時は細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事のほか決して口を利かない女であった。
  (健三は教師で、準備のため)その日その日の仕事に追われていた。始終机の前にこびりついていた。
   人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は親類から変人扱いにされていた。

  (妻の御住にとって)夫の態度は決して気持ちの良いものではなかった。なぜもう少し打ち解けてくれないものかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働いた。

   彼らは顔さえ見れば自然何か言いたくなるような仲のいい夫婦でもなかった。それだけの親しみを表すには、お互いがお互いにとってあまりに陳腐過ぎた。

   妻は言う。
   「あなたの神経は近頃よっぽど変ね。あなたは誰も何もしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない。」
   二人は互いに徹底するまで話し合うことのついにできない男女のような気がした。

   不愉快な場面の後には大抵仲裁者としての自然が二人の間に入ってきた。二人はいつとなく普通の夫婦の利くような口を利き出した。けれどもある時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合わせのままで暮らした。

   彼女の心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない偏屈な男であった。

   ゴムひものように弾力性のある二人の間柄には、ときにより日によって多少の伸縮があった。非常に緊張していつ切れるか分からないほどに行き詰まったかと思うと、それがまた自然の勢いでそろそろ元に戻ってきた。

   夫婦に関する考えの違いが衝突の底にあった。
   健三は、学問をしたにもかかわらず、「妻は夫に従属すべきものだ」という古い考えを持っていた。
   御住は形式的な昔風の倫理観にとらわれるほど厳重な家庭で育たなかった。
  「単に夫という名前がついているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強いられても自分にはできない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を持った人間になって自分の前に出てくるがよい。」

2 お金をめぐる知り合いとの関係
   健三は決してお金に余裕があるわけではなく、妻は質屋に自分の着物を預けてお金を工面することもある。しかし、周りの人間はお金に困り、健三を頼りにする。
   
   以前から、健三は結婚している姉に毎月なにがしかの金を渡している。
   また、年老いた養父と養母がそれぞれ、お金の無心に来た都度、いくらかの金を渡した。
   妻の御住は、それに対し不満を持ちつつも、面と向かって文句を言うことはない。

3 人間模様
(1)御住の父は、官職にあったが、辞任に追い込まれ、困窮化している。

(2)姉の夫は宿直が多く、勤め先の近所に女を囲っているといううわさもある。妻が酷い喘息の発作に苦しめられても意に介さない。彼は30年近くも一緒に暮らしてきた彼の妻に、ただの一つも優しい言葉をかけたためしのない男であった。それでも、姉はその夫を疑うことはしなかった。

(3)兄の長太郎は肋膜を患っている。兄は免職にはならずに済んでいるが、過去の人であった。華やかな前途はもう彼の前に横たわっていなかった。

(4)健三は、自ら健康を損ないつつあると確かに心得ながら、それをどうすることもできない境遇に置かれた。
   「俺のは黙ってなし崩しに自殺するのだ。気の毒だと言ってくれるものは一人もありゃしない。」

4 片付かない
    養父からのお金の無心に対して、百円(健三の月収以上の金額)を渡し、「今後一切の関係を絶つ」という証文を入れさせた。

    妻は「安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」と言った。
    しかし、健三は言う。
    「まだなかなか片付きゃしないよ。片付いたのはうわべだけじゃないか。世の中に片付くものなんてものは殆どありゃしない。一編起ったものはいつまでも続くのさ。ただ、色々な形に変わるから人にも自分にも分からなくなるだけの事さ」

中島敦「李陵」 [日本文学]

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<中島敦>
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  中島敦(1909~1942)は、「李陵」のほか、「山月記」、「名人伝」などの名作を書いたが、33歳の若さでこの世を去った。

  「李陵」は中国の漢の時代に、自分の考えを貫いて生きた三人の生きざまを描く。

1 李陵は、漢の武帝の命令により、歩兵5千のみを率いて、敵対する匈奴の勢力圏に深く進み行った。騎馬戦を得意とする匈奴の軍勢に、歩兵のみで対するのは余りに無謀であった。ある日、ついに匈奴が現れ、李陵の軍は8万の騎馬兵に隙もなく囲まれてしまった。

2 李陵の軍は、南へ退こうとするが、「飢え疲れた旅人の後をつける荒野の狼のように、匈奴の兵は執念深く追ってきた」。しかし、李陵の軍は敵を迎え打ち、日ごとに相手に数千の死者を出させていた。匈奴の大将は李陵の軍の手ごわさに感嘆していた。

3 李陵の軍は勇猛果敢に抗戦したが、ついに刀折れ、矢尽きた。敵味方も分からないほどの乱闘のなかで、李陵は背後から後頭部に打撃を受け失神し、捕えられてしまった。漢の武帝は激怒した。武帝に仕える重臣たちも、李陵が匈奴に捕らえられ、その軍門に下ったことを非難した。

4 しかし、一人、それに反論する者がいた。「五千に満たぬ歩兵を率いて深く敵地に入り、匈奴数万を疲れさせ、転戦千里、矢尽き、道窮まるに至るもなお全軍死闘をしている。部下の心を得て、それらに死力を尽くさせることは、古来の名将に決して劣らない。軍が敗れたとはいえ、その善戦ぶりはまさに天下に顕彰するに値する。彼が死なずに捕虜になったのも、ひそかに、かの地にあって、どうかして漢の役に立つことをしたいと思ってのことではないか・・」

5 そういったのは司馬遷であった。並いる群臣は驚いたが、あまりにも不遜な態度だということで意見が一致した。司馬遷は宮刑に処せられることに決まった。男を男でなくする刑罰である。武帝の気に逆らって李陵をほめあげたのだから、まかり間違えば死ぬことになるとの懸念はあった。しかし、最も醜悪な宮刑に合うとは! 狂乱と憤懣との中で、たえず発作的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、彼は死ななかった。父から託された歴史書執筆の仕事を続けることにした。

6 李陵は匈奴に捕らえられたのち、匈奴の大将の首を取り、その首とともに脱出する機会を狙っていた。しかし、そのような機会が訪れることはなかった。李陵は、漢をどのように攻めるべきか聞かれても答えなかった。しかし、大将の子供が武術の教えを乞うて来た時には、それに応じた。

7 李陵が匈奴内で軍略の指導をしていると誤って漢の武帝に伝えられ、李陵の妻子、親族はことごとく殺された。李陵は匈奴の中で暮らしてゆくことを決意した。

8 蘇武は、李陵とは別に匈奴により捕らえられていたが、匈奴に降伏することをせず、剣で自分の胸を突き死のうとしたが、死ねずに助かった。回復した後、遠くバイカル湖のほとりに移された。李陵は、蘇武に会い、降伏する気がないか確認するように言われた。

9 蘇武の生活は惨憺たるものだった。凍てついた大地から野ネズミを掘り出して、飢えをしのがねばならない始末だった。李陵は、蘇武が何を目当てに生きているのかと、思った。漢に帰れる日を待ち望んでいるとも思えない。降伏を申し出れば、重く用いられることは間違いないが、それをする蘇武でないことは初めから分かり切っている。

10 想像を絶した困苦、欠乏、酷寒、孤独を死に至るまでの長い間、やり過ごしていけるものか。誰にも看取られずに、満足して独り死んでいこうとしている。蘇武の考え方の厳しさに接して、李陵は圧倒されるのを感じた。

11 李陵は自分が匈奴に降伏したことを良いとは思ってはいないが、自分がそれまで故国に尽くした功績と、故国が自分に対してした仕打ちを考え合わせると、どのような人でも自分の行為を「止むを得なかった」と認めてくれるだろうと思った。しかし、蘇武という男は、どのような事情があっても自分の考えを改めることはしなかったのだ。蘇武の存在は李陵にとって崇高な訓戒でもあり、いらだたしい悪夢でもあった・・・

大岡昇平「戦争」 [日本文学]

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 著者は小説家の大岡昇平(1909-1988)。
 太平洋戦争末期にフィリピンのミンダナオ島で従軍。
 米軍が上陸し、山中を彷徨い、捕虜となる。
 戦後、「俘虜記」、「レイテ戦記」などを発表した。
 本書は口述筆記によるもので、当初、1970年に出版され、2007年に岩波現代文庫に収録された。

1 死の覚悟
(1)そこでぼくは、もうしょうがないという覚悟を決めちゃったわけですよ。いよいよここが最後だというとね、まわりからこう押し付けられるような気持ち、まあ、この気持ちは戦争に行かないと分からないだろうな。こういう目に会わなきゃなかなかわからないわけだよ。

(2)軍部というもの、ああいう下らない組織のためにこういう下らない死に方をしなきゃなんない、そういう風に感じましたからねえ。

2 自殺
(1)自分はまだ包囲の中にいて、もう脱出できないと思っちゃったわけです。それでまあ、あきらめちゃって自殺を試みるわけですがね。

(2)手榴弾で自殺しようということになるんですが、その時にね、家族の顔とか友達の顔なんて一応思い出して「さよなら」言おうと思ったが、全然浮かんんでこないんだなあ。で「あばよ」っていって手榴弾をガチッと土の上の石に当てたら火を吹かないんだなあ。何にも反応がないんでね、おかしいなあと思って分解してみると変な刺みたいのがあって、それに刺激がうまく伝わらないらしいんだ。

3 俘虜となる
(1)たぶん眠ったんでしょう。とにかく米兵に腰のあたりを蹴とばされて、だんだん目が覚めた。奴らは僕に銃を向けてて、「You are may prisoner」といったなあ。そのときは気力もないし、もうどうでもいいや」というきもちですねえ。

(2)マラリヤがまだ治っていないし、栄養失調と、それから心臓が悪くなっていたので胸が苦しかった。病院に2か月いて、至れり尽くせりの手当てをしてくれた。心臓の専門医が来て、心電図も取ったんだから。アメリカに助けてもらったということは確かなんだ。

4 日本の兵隊
(1)山の中でひどい目に会うのも、これは軍の参謀ってものがいて、その作戦で動かされているのだということですねえ。われわれ兵隊は戦争の大きな動きによって、木の葉のごとく、あちこち吹きまくられるんだけれど、その吹きまくられ方にそれぞれ原因があるんです。

(2)国に資源がなくって、全体として近代的な総力戦に対応するような形に持っていけなかったんですね。物事を突き詰めて考えない、日本人の癖で、しょうがないんだが。

(3)日本軍では相変わらずビンタというものをやっていた。じつに前近代的な、奴隷的な扱いをしていたわけで、そういうことをやってるから勝ってるときはいいけど、いったん負け戦になると、もろさが出てくるわけですね。自分の敵を恨むよりはむしろ、自分の上官を恨むというような現象が前線のあらゆるところで起こってくる。兵隊は森や林の中へ逃げ込んでしまって、いわゆる遊兵っていうものになるんです。遊兵が非常に多かったのは、南方はどこでもそうだったんです。

5 特攻
  死の予想というのはいやなもので、これは僕も知っています。壕の中へ敵の投げた手榴弾が転がってくる。そこにいる兵隊がみんなやられないために、自分が犠牲になって、その上にかぶさる。こういう自己犠牲は、日本でも外国でも報告されてる。それはとっさに出てくる自己犠牲の精神です。しかし確実な死を予期しながら、1時間目標に向かって飛び、それから最後の瞬間まで操縦を誤らずに、敵の船に機をぶつけるのは、大変な精神力で、ぼくにはとてもできそうにない。

6 本土決戦
(1)今度の日本の戦争では、結局アメリカが上陸作戦を行わないで、戦争が終わった。あの時の日本軍の考え方では、当時の日本の人口が8,700万人ぐらいですけど、そのうちの2,000万人があくまで抵抗して死ねば、アメリカは日本を征服することをあきらめて、戦争をやめるだろう、ということだった。そういう軍人の希望的観測だったんですけど、そこまで国民に犠牲を強いるには、国民が軍人のすることに同意していなければならない。

(2)しかし、あの昭和20年8月ではもうみんな嫌になっていた。日本人がみんなニコニコしてアメリカさんを迎えたのは、もうみんな戦いたくなかったからですよ。それが軍人さんには見えなかったんだな。

7 アメリカの戦後戦略
  なるべく日本の工業力を温存して、形よく降伏さしてその生産設備を利用して、自分の極東政策の足場にしようという意図があったわけです。戦争が中途半端に終わってしまったのはそのためで、なんだかんだ、古い日本の体質はそのまま残ってるんです。

8 戦争はこれからもある?
  戦争というのはいつでも、なかなか来そうな気はしないんですよね。人間は心情的には常に平和的なんだから。しかし国家は心情で動いているのではない。戦争が起きた時にはもう間に合わないわけだ。強行採決につぐ強行採決、なんにも議会には計らないで、重大な外交、内政問題をどんどん休会中に決めてしまう今の政府のやり方を見てると、いつどういうことが行われるかわからない。権力はいつも忍び足でやってくるんです。

高村光太郎「芸術論集 緑色の太陽」 [日本文学]

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  岩波文庫の一冊。
  著者の高村光太郎(1883-1956)は彫刻家で詩人。「道程」、「智恵子抄」などの詩集がある。
  
1 彫刻十個条(そのうちの四個条について)
(1)「彫刻の本性は立体感にあり、しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」
    立体感だけでは彫刻は生きない。立体感を生かすのは彫刻家の内にある詩の魂である。立体感は「あらわれ」であり、詩魂は「いのち」である。一つの彫刻には、あらゆる人生の心が宿りえる。あらゆる感動と感情と微韻と陰影との存することを妨げない。

(2)「構造を思え、構造なきところに存在なし。」
    人体の組み立ては姿勢によって千変万化するけれども、めちゃくちゃには動かない。理法がある。構造は動勢を定め、肉付けを鼓舞し、彫刻の神秘感を与える。構造から構造へのうつりに強弱があり、剛柔があり、においがあり、彫刻家の特質が微妙にあらわされる。

(3)「姿勢は河のごとく、動勢は水の流れのごとく。」
    姿勢をゆるがせにするな。姿勢のとり方を見れば、その作家の彫刻家的素質の有無が分かる。姿勢は構造に強められて、その彫刻の運命を決める。
    姿勢を貫くものは動勢である。姿勢があって動勢のない彫刻は水の流れぬ河に等しく、動静のない彫刻はばらばらになる。形の寄せ集めとなる。

(4)「肉合(にくあい)に潜む彫刻の深さ」
    肉合の要素となるものは凹凸である。彫刻を凹凸の芸術であるというのはこの点から見た言い方である。凹凸は表面のことであってはならない。動勢に基づいた面が大きい凹凸を作り、更に無数の凹凸が皮膚の内部から起こって肉合となる。肉合を得れば肉らしい感じもおのずから出てくるから、或る時はエロチックにさえなる。

2 美の日本的源泉
(1)埴輪の美
    埴輪の人物はすべて明るく、簡素質朴であり、直接自然から汲み取った美への満足があり、いかにも清らかである。そこには野蛮蒙昧な民族による怪奇異様への崇拝がない。

(2)法隆寺金堂の壁画
    同様の構図の壁画がインドのアジャンタ洞窟内にもあるが、そちらは肉体性の卑近さがあり、なまなましさがあり、うるささがある。一方、金堂の壁画には、埴輪で見た清らかさの美がある。節度の美がある。高さの美がある。肉体を超えた精神至上の美がある。

3 書について
   書は当たり前と見えるのがよいと思う。無理と無駄とのないのがいいと思う。力が内にこもっていて騒がないのがいいと思う。悪筆は大抵余計な努力をしている。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。

4 詩について
(1)詩はもとより技術を要するが、小さな技巧よりも大きなまことが望ましい。心の内側から真に出たものを処理することが望ましい。そうすれば必ずどこかに新鮮さが生ずる。
(2)詩はいかなる時にも純粋でなければならぬ。純粋ということは感じ方にも、表現の技術にも、また知性の働きにもある。純粋のものは人の心をとらえる。
(3)精神の高さというものは、作の巧拙に関係しない。どんな幼いようなものにも、それが真に自己の内奥から促されて書かれたものにはおのずから魂のひびきが聞かれる。
(4)詩が言葉にたよる芸術である以上、語感については十分な心使いが必要である。語感は半分は生まれつきであるが、また半分は修練と感得によってその美に至りえる。

<手>
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<高村光太郎と智恵子>
高村光太郎、智恵子.jpg

<智恵子抄「あどけない話」>

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山あたたらやまの山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

森鴎外の作品 [日本文学]

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  森鴎外(1862-1922)は陸軍軍医としてトップの軍医総監にまで昇進するとともに、小説家として夏目漱石とともに明治の二大文豪とまで評せられている。
  確かに文章の上手さは議論の余地はないが、その作品については評価は分かれる。
  納得できない作品をいくつか挙げてみると・・・

1 「寒山拾得」
(1)中国,唐代の隠者で詩人である寒山と拾得の話を題材にした短編小説。
(2)中国の高官が地方に赴任するにあたり、会うに値する人として話に聞いていた寒山と拾得に実際に会いに行った話。しかし、内容が粗雑で何を意図して書いたのか、訳の分からない小説になっている。
(3)結末部分にある以下の文章は、この小説を読んだだけでは到底理解できない。
   ① 寒山と拾得は、訪ねてきた高官が話をするのを聞き、腹の底からこみあげてくるような笑い声を出して逃げた。
   ② 寒山が「豊干がしゃべったな」と言った。
   ③ 僧等がぞろぞろと来てたかった。
(4)小説の途中で、「道とか宗教に対する態度で、自分の分からないもの、会得することのできないものをやみくもに尊敬するようなことではなんにもならない」といっているが、これと上記の結末部分の話が符合しない。
(5)鴎外は後日、「子供にした話をそのまま書いた。一冊の参考書も見ずに書いた。子供はこの話には満足しなかった。子供には色々なことを問われた」と書いている。よっぽどしつこく寄稿を頼まれていて、やむなく雑に書き上げたこの原稿を不完全なままで渡したのであろうか。

2 「高瀬舟」
(1)島流しになる罪人を京都から大阪まで舟で連れて行く役人が、その罪人から罪の内容を聞き、それが罪なのかとの思いを持つ。
(2)罪の内容は、自殺のほう助。病に苦しみ、回復の見込みのない弟が剃刀でのどを掻き切って死のうとするが死にきれず、それを発見した兄が弟の催促に負け、その剃刀を引き抜くことにより死なせたこと。
(3)その役人は、「苦しみから救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか」と思う。そして、「お奉行様の判断をそのまま自分の判断にしようと思った。しかし、まだ腑に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった」と考える。
(4)このように、この小説では単に疑問を投げかけるだけで終わっているが、高官の軍医としてもう少し自分の考えを出すことは出来なかったのかと思う。戦争では、瀕死の重傷を負い、助かる見込みもなく苦しむ兵隊が数多く出てくるはず。また、この話は切腹の介錯にも似ている。この罪人のしたことが罪になり、切腹の介錯が罪にならないというのも筋が通らないという気もする。

3 「舞姫」
(1)鴎外は1888年9月に、2年間のドイツ留学を終えて帰国したが、その月の24日、留学中に知り合ったドイツ人の女性が鴎外の後を追って来日した。しかし、鴎外の家族の説得により10月17日に日本を離れ帰国した。
(2)ニッカウィスキーの創業者、竹鶴政孝(1894-1979)が英国でスコットランド人の女性と知り合い、生涯の伴侶としたのに対し、森鴎外の対応は随分と無責任で冷たい。しかも、それを自慢げに「舞姫」という小説に仕立て天下に公表するとは人間性を疑う。この小説については当時から批判も多かった。男尊女卑、エリート意識が見え隠れする小説である。

「漱石のこころーその哲学と文学」 [日本文学]

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  岩波新書の一冊。2016年12月刊。著者は赤木昭夫さん。
  斬新な切り口で漱石の作品を分析している。

1 「坊ちゃん」の風刺
(1)時の権力者を風刺している。校長の狸が山縣有朋、教頭の赤シャツが西園寺公望、図学の教師の野だが桂太郎。いずれも首相経験者。
(2)当時、選挙の際の「買収」は日常茶飯事であったが、「坊ちゃん」では赤シャツが坊ちゃんを自派に引き込むため、増給(買収)を提示した。
(3)山縣は、汚職情報を新聞に流し嫌っていた政治家を辞職に追い込んだといわれるが、「坊ちゃん」では赤シャツが山嵐や坊ちゃんを学生の乱闘に巻き込ませ、それを新聞に流し辞任に追い込んだ。
(4)山縣は、政敵の伊藤博文を枢密院議長に祀り上げ排除するが、「坊ちゃん」では赤シャツは恋敵の英語教師「うらなり」を九州に追いやる。
(5)当時の権力者たちは陰で妾を囲っていたが、赤シャツも「うらなり」の婚約者のマドンナを誘惑する一方で、裏で芸者と同宿していた。

2 ロンドンでの構想
(1)漱石は化学者の池田菊苗と親しくなり、その影響を受けて、文学論の構想を練る。
  ア 何々を基本要素とするか。
  イ それらによってどこまで古今東西の文学を説明できるか。
  ウ そうした論理的枠組みと手続きが妥当で理論(セオリー)として成立するか。
(2)クロージャの「文明と進歩」という本がその後の漱石の文学研究と創作活動を決定づけ、以下の考えに辿り着く。
   「文学理論 = ヘーゲルの時代精神
。         +文明の社会学
          +心理学による裏付け」

   文学の一般的な定義
   「集団の意識 F」 +「個人の意識f」

3 漱石の作品のテーマ
(1)分類
   「自我」・・・「それから」、「門」、「彼岸過迄」、「行人」
   「時代精神」・・「こころ」
   「家族の在り方」・・「道草」

(2)「自我」を扱った4編の共通の特徴
  ア 生活の資を他から得ていて働く必要がなかったり、働いていても出世競争から外れていたり、経済的に拘束されていなかった(経済的な自由度が自我にとって最重要の要件)。
  イ 四人とも家父長による縛りがないか、あったにしても弱かった。主体性を犠牲にしなければならない、そんな世のしがらみとは無縁の存在だった。
  ウ 個人主義者の正体が利己主義者かどうかは、女性に対する態度に如実に表れると漱石は認識し、作品の中で個人主義者と利己主義者を分けるフィルターとして三角関係を使った。それに従えば、4作品の主人公はいずれもエゴイストだった。

(3)間主観性
  ア 主観が単独で孤立して存在するのではなく、他者の主観との交流を通じて、他者と自己が共同的に働く。
  イ それぞれの自我は存在するようで存在せず、確かにあるのは相互のかかわりしかない。

4 「こころ」の読まれ方
(1)長く読まれてきた理由
  ア 読者は、役立つ、行動の具体例を得ることができる(人間学の教科書)。
  イ ベストセラーとしての条件を備えていた。
    ① 読者を引き込む物語性
    ② 作者自身の生活意欲が脈打つ作中人物
    ③ 主題が世間の関心事
    ④ 作者独自の見方
    ⑤ 素直な技法
    ⑥ 観察力
    ⑦ 作者が登場人物になり切る
    ⑧ 作者が自己中心的

(2)心理小説
  ア あたかも読者自身が、対象の人物に対し行動し働きかけ、その反応として私の中で生ずる意識の流れという形で、第三者の心理が読者に対して語られた。
  イ 読者自身がその場面に臨んでいるかのような緊迫感を味わうことができる。

(3)明治の時代精神
  ア 「こころ」で、漱石が読者に気づかせたかったのは、明治の時代精神の正体だった。それは「不思議な二面性」を孕んでいた。
  イ 一方では士農工商の身分的束縛から解放されたが、他方では解放のもたらした活力が、天皇を抱く寡頭制、軍国主義、帝国主義的拡張に利用され、最後は無残な敗戦で終わるという矛盾が、明治の時代精神だった。

「坊ちゃん」 [日本文学]

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  夏目漱石が39歳の1906年4月に発表した作品。「吾輩は猫である」が1905年1月から1906年8月にかけて発表されているので、その途中で書かれたものである。漱石はこの作品を発表した一年後の1907年4月に朝日新聞社に入社した。
  軽妙な筆致が冴える作品。漱石の作品の中では最も読みやすい。
  以下は、この後の作品と共通する点。
   ① 登場人物の何人かが遺産相続やお金の問題で苦い経験を持つ。
   ② 主人公が世の中に逆らって生きていく。
   ③ 主人公は経済的にやや余裕のある家の出身である。
   
1 登場人物
 ・坊ちゃん・・江戸っ子。曲がったことが嫌い。小さいころから乱暴で、周りから嫌われる。物理学校(現在の東京理科大学)卒業後、松山中学校へ数学の教師として赴任する。
 ・清(きよ)・・坊ちゃんの家の下女の婆さん。坊ちゃんの良き理解者。
 (以下、松山の中学の上司や同僚)
 ・山嵐・・数学の主任。会津出身。坊ちゃん同様、曲がったことが嫌い。
 ・赤シャツ・・教頭。文学士で大学を出ている。
 ・狸・・校長
 ・うらなり・・英語教師。

2 この作品のポイント
(1)主人公「坊ちゃん」と下女の清(きよ)との強いきずな
  ア 親兄弟に嫌われる中、小さい頃から清は坊ちゃんを大事にしてくれた。「あなたは真っすぐでよいご気性だ」とほめてくれた。坊ちゃんが将来、偉い人になると思い込んでいた。
  イ 坊ちゃんは、松山に赴任後直ぐ、清の夢を見た。坊ちゃんが清と離れてから、考えたことは・・
   ① 「清は、教育もない身分もない婆さんだが、人間としてはすこぶる尊い。遠くに来て初めてあの親切が分かる。」
   ② 「おれは清から三円借りている。おれは今に返そうなど他人がましい義理立てはしないつもりだ。清の美しい心にケチをつけることになる。」
   ③ 「俺は若い女も嫌いではないが、年寄りを見るとなんだか懐かしい心持がする。大方清が好きだから、その魂が方々のおばあさんに乗り移るんだろう。」
   ④ 「一所にいるうちはそうでもなかったが、こうして田舎に来てみると清はやっぱり善人だ。」
   ⑤ 「どう考えても清と一緒じゃなくっちゃ駄目だ。もしあの学校に長くでもいる模様なら、東京から呼び寄せてやろう。」


(2)遺産相続やお金の問題で苦い経験を持つ登場人物
  ・清(きよ)・・元は由緒ある家の出であるが、明治維新の時に零落して、奉公までするようになった。
  ・坊っちゃん・・両親が亡くなった後、兄がそれまで住んでいた家屋敷を売却した。大分金になったようだが詳しい事は一向知らぬ。兄が下宿に来て六百円出して、どうでも随意に使うがいい、その代わりあとは構わない、と言った。
  ・うらなり・・お父さんが生きている間は、お金はあるし、銀行の株も持っていて、万事都合がよかったが、お父さんが亡くなった後、だまされたようで、急に暮らし向きが思わしくなくなった。
 
3 自分の生き方と社会とのかかわり
 ・「世間の大部分の人は悪くなることを奨励しているように思う。悪くならなければ社会に成功しないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると難癖をつけて軽蔑する。」
 ・「本当に人間ほど当てにならないものはない。」ここに来てからまだ1か月、急に世の中を物騒に思い出した。」
 ・「赤シャツはともかく善い男じゃない。表と裏とは違った男だ。人間は竹のように真直ぐでなくちゃ頼もしくない。真直ぐなものはケンカをしても心持がいい。


「忘れられた日本人」 [日本文学]

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 岩波文庫の一冊。著者は民俗学者の宮本常一さん。もともとは1960年に出版されたもの。
 著者は1950年代に、国内各地の農漁村で古くからの人々の暮らしぶりに関する情報を収集した。

1 対馬の寄り合い
(1)村で取り決めを行う場合には、みんなの納得のいくまで何日でも話し合う。夜もなく昼もない。ゆうべも明け方近くまで話し合っていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなれば帰ってもいいのである。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまで話し合った。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。

(2)この寄り合い方式は近頃始まったものではない。村の申し合わせ記録の古いものは二百年近い前のものもある。

2 村の共同生活
  小さな村は共同生活をする場所としては狭すぎる。人間性を押しつぶさねばならぬ場合も多い。そうした生活の救いともなるのが人々の集まりによって人間のエネルギーを爆発させることであり、今一つは私生活の中で何とか自分の願望を果たそうとする世界を見つけることであった。前者は祭りとか家々の招宴の折に爆発して前後を忘れたばか騒ぎになり、後者の場合は姑と嫁の関係のようなもののほかに、もの盗みとなったり男女関係となって現れる。

3 名倉談義
(1)どの百姓家でもたいてい2年分ずつ食うもののたくわえを持つようにした。新米が出ると去年の分を食い始める。それまでは一昨年のを食うている。一生うまいコメを食うことはなかった。そうしないと飢饉年がしのげなかった。

(2)私ら貧乏だったし、それが当たり前と思っていた。あのころは女の子で学校へ行くものはよほど良い家でないとなかった。小学校へ行っていたものはこの辺りでは二人だけでした。私はそういうことで小学校というものへ一日も行ったことがない。

(3)女と仲ようなるのは何でもないことで、通り合わせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手が受け答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押しかけていけばよい。拒むもんではありません。

4 ある老婆
  愛媛県と高知県の県境の狭い山道で一人の老婆に出逢った。見た目にハンセン病患者と分かる傷痕を顔や手に残していた。道を聞かれたが地図を見てもわからず、分からないと答えた。どうしてここまで来たのだと尋ねると、「こういう業病で、人の歩くまともな道は歩けず、人里を通ることもできないので、こうした山道ばかり歩いてきたのだ」と答えた。老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。

5 私の祖父
  私の祖父は実によく働いたが財産は出来なかった。いつも朝4時に起きた、それから山へ行って一仕事して帰ってきて朝飯を食べる。朝飯といってもお粥である。それから田畑の仕事に出かける。昼までみっちり働いて昼食が済むと、夏ならば3時まで昼寝をし、何かを食べてまた田畑に出かける。そして暗くなるまで働く。雨の日はわら仕事をし、夜もまたしばらくは夜なべをした。仕事を終えると、神様、仏様と拝んで寝た。生活はいつまでたっても良くならなかった。

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