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「『いき』の構造」 [日本文学]

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  著者は哲学者の九鬼周造(1888~1941)。
  本論は1930年に発表したもの。

  日本人が使う「いき」という言葉が、どのような意味を持っているのか、多面的に分析している。

1 「いき」の意味内容を形成する特徴
(1)媚態
   媚態とは異性を意識して、自分との関係を構築しようとする態度。
   「なまめかしさ」、「つやっぽさ」、「色気」などを含む。
   異性との関係が構築されて、緊張性を失うと媚態はおのずから消滅する。
   媚態は異性の征服をとりあえずの目的とする。

   永井荷風が「歓楽」の中で、「得ようとして、得た後の女ほど情けないものはない」といっているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によってもたらされた。

(2)意気
   「いき」の中には、江戸っ子の気概が契機として含まれている。
   野暮と化け物は箱根より東に住まないということを「生粋」の江戸っ子は誇りとした。
   「いき」のうちには溌溂として武士道の理想が生きている。

(3)諦め
   運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。
   「いき」は垢抜けしていなくてはならぬ。
   あっさり、すっきりした心持でなくてはならない。

   異性に対する純朴な信頼を失って、さっぱりと諦める心は決して無代価で生まれたものではない。
   せち辛い、つれない浮世の洗練を経て、すっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた、みれんのない恬淡無碍の心である。
   野暮はもまれて無碍となる。

2 対立する関係
  人間の一般的なもの
    自身の区別     上品 - 下品
    他に対する主張   派手 - 地味
  異性との関係
    自身の区別     いき - 野暮
    他に対する主張   甘味 - 渋味

  「いき」は以下を意味している。
    ・世態人情に通暁すること
    ・異性的特殊社会に明るいこと
    ・垢抜けしていること

3 「いき」の表現
(1)自然形式としての表現
  A 言葉づかい
     一語を普通よりもやや長く引いて発音し、その後、急に抑揚をつけて言い切る。

  B 姿勢、身振りなどの表情
     姿勢を軽く崩す。
     姿体の一元的平衡を破ることによって、異性へ向かう能動性および異性を迎えうる受動性を表現する。
    「いき」は異性への方向性をほのかに暗示するもの。

  C 服装
    薄物を身にまとう。
    薄物の透かしによる異性への通路解放と、薄物の覆いによる通路封鎖。

  D からだ
    姿がほっそりとして柳腰。細面の顔。
    眼と口と頬とに弛緩と緊張。流し目。
    薄化粧。略式の髪。素足。
    手を軽くそらせたり、曲げる手付き。
    
(2)芸術形式としての表現
  A 模様
    縞(しま)が「いき」とみなされる。
    横縞よりも縦縞の方が「いき」である。
    曲線を有する模様は、すっきりした「いき」の表現とはならない。
    幾何学的模様に対して絵画的模様は決して「いき」ではない。

  B 色彩
    あまり雑多な色どりを持つもことは「いき」ではない。
    「いき」を表わすのは決して派手な色ではあり得ない。
    「いき」な色とは、灰色、褐色、青色の三系統のいずれかに属する。


有島武郎「小さき者へ」「生れ出ずる悩み」 [日本文学]

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  有島武郎(1878~1923)は、明治・大正期の小説家。札幌農学校やハーバード大学で学んだ後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加した。

「小さき者へ」
  1918年、著者が40歳の時に発表。妻は当時不治の病とされた結核に侵され、1916年、27歳で亡くなった。
  この作品は妻が遺した3人の子供たちに宛てる形で書かれている。

  君たちの母上は、病気の真相を明かされ、遠く離れた海岸近くの病院に入院することになった。
  母上は全快しない限り、たとえ死ぬとしてもお前たちに会わない覚悟を決め、この決心を変えなかった。
  会わないことにした理由は・・
  ① 病菌をお前たちに伝えることを恐れた。
  ② お前たちを見ることによって、自分の決心が揺らぐことを恐れた。
  ③ お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちに一生、暗い思い出、大きな傷を残すことを恐れた。

  葬式の時は、女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさせてもらいたい、とお前たちの母上は書き残した。

「生れ出ずる者の悩み」
  この作品も1918年に発表したもの。北海道岩内町の船主の子息をモデルにして書かれた。
  絵画への愛着を持ちつつ、生活苦から父親や兄とともに厳しい漁師としての生活を続ける主人公を描く。

  ある日、札幌に住む著者のもとに、16~17歳の少年が訪ねてきて、自分の描いた画を見てもらいたいと言い出した。
  それらは、少しの修練も経てはいないらしい幼稚な技巧ではあったけれども、その中には不思議に力がこもっていた。
  そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その画が与える全体の効果にもしっかりとまとまった気分が行き渡っていた。

  その少年は、「また持ってきますから見てください」といって帰って行ったが、その後、訪ねてくることはなかった。

  それから10年目のある日、その少年からスケッチ帖が送られてきた。
  それは山と樹木ばかりが描かれたものだったが、明らかに本当の芸術家のみが描き得る深刻な自然の肖像画だった。
  彼に会うことにした。彼は吹雪の中をやって来た。
  彼は筋肉質の大きな青年に成長していた。

  厳しい漁師としての生活の中で、たまにある空いた日にスケッチ帖と鉛筆をもって家を出るのだった。
  すべてのことを忘れて一心不乱にスケッチを描くことに魂を打ち込んだ。
  朝の山には朝の命が、昼の山には昼の命があった。
  夕方の山にはまたしめやかな夕方の山の命がある。

  絵画への愛着は彼を死ぬほど苦しめるものであった。

  しかし、君が一人の漁師として一生を過ごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、それは君がただ独りで忍ばねばならない煩悶だ。
  痩せ地に落とされた雑草の種子のように弱々しく頭をもたげて、一つのすぐれた魂は悩んでいる。
 

「小出楢重随筆集」 [日本文学]

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  岩波文庫の一冊。1987年刊。
  小出 楢重(1887~1931)は、大正から昭和初期に活躍した洋画家。

1 「裸婦漫談」
  日本の女は形が悪い、何といっても裸体は西洋人でないと駄目だとは一般の人のよく言うことだ。そして日本の油絵に現れた女の形を見て不体裁だと言って笑いたがるのだ。

  それでは、笑う本人は西洋人の女に恋をしたかというとそうでもない。
  私は人種同士が持つ特別な親しみというものが、非常に人間には存在するものだと思っている。
  よほど特別仕立ての人間でない限りは、人は同じ人種と結婚したがるものだ。

  日本人の裸を最もうまく描いたものは、何といっても浮世絵だと思う。
  浮世絵に現れた裸体の美しさは、いかに西洋人が描いた理想的という素敵な裸体画よりも、人を感動せしめるかは私が言わなくとも知れている事実である。

2 「胃腑漫談」
  総じて病人というものは病気を死なぬ程度において、十分重く見て欲しがるものらしい。
  「君の病気は重大な病気だよ。なかなか得がたく珍しい種類のもので、まず病中の王様だね」くらいに賞賛するとずいぶん喜ぶものだ。
  しかし、決して死ぬと言ってはいけない。

  私なども、自分の胃病を軽蔑されたりすると、多少癪に障ることがある。
  おれのはそんなくだらないケチな胃病とは違うんだと威張ってみたくなることがある。

  私の胃病は、胃のアトニーというもので、胃の筋肉が無力となって、いつも居眠りをしているのだそうだ。一種のサボタージュだと見ていい。食欲が起こってこないのだ。

3 「骨人」
  脂肪過多はどうも夏向きでない。でぶでぶと肥えた人たちは、真夏において殊に閉口しているのを私はよく見る。
  何といっても夏は私のような骨人の世界だ。
  私のほかにも、幽霊、人魂、骸骨、妖怪、セミ、トンボ、蜘蛛の巣、浴衣、すいかなどいろいろと控えていて夏を楽しんでいる。

  私はまた夏を好く以外、すべて温かそうなもの、陽気なもの、明るいもの、肥えたもの、脂肪多き女と食物、豚のカツレツ、ストーブ、火、火鉢、湯たんぽ、こたつ、毛織物、締め切った障子、紅の色などというものを好み、なつかしむ心甚だしい。

4 「大阪弁漫談」
  大阪で発祥したところの浄るりを東京人が語ると、本当の浄るりとは聞こえない。浄瑠璃の標準語はなんといっても大阪弁である。

  東京で私は忠臣蔵の茶屋場をみた。役者は全部東京弁で演じていた。
  従ってその一力楼は、京都ではなく両国の川べりであるらしい気がした。

  今の新しい大阪人は、全くうっかりとものが言えない時代となっている。
  だからなるべく若い大阪人は大阪弁を隠そうと努めているようである。
  また、近頃は大阪弁に標準語のころもを着せた半端な言葉が現れだしたようである。

  私は、私の無礼が許される程度の仲間においては、なるべく私の感情を充分気取らずに述べえるところの、本当の大阪弁を使わしてもらうのである。
  すると、あらゆる私の心の親密さが全部ぞろぞろと湧き出してしまうのを感じる。

5 「下手もの漫談」  
  ただ食事のために作った茶碗など、日常の卑近なるものでありながら、その職人の熟練やその時代の美しい心がけなどがよく表れた結果、芸術家の苦心の作品よりももっと平易で親しみやすい、気取らぬ美しさが偶然にも現れているといった品物に対して、骨董屋は下手ものと呼んでいる。

  日本人は何から何まで本物でなければ承知しない癖があるが、私は世界を美しくするものは何も本金であり本物の真珠でも、ダイヤモンドでもないと思っている。それは土であり石ころであり、粘土であり、ガラスであり、一枚の紙であり画布である。
  ただそれへ人間の心が可愛らしく素直に熱心に働いたところに、あらゆる美しきものが現れるものだと考えている。

「自由画稿」(寺田寅彦の随筆) [日本文学]

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  寺田寅彦(1878~1935)は物理学者。
  熊本の第五高等学校在学時に、英語教師の夏目漱石に師事して以来、
  漱石が没するまで最も親しい弟子の一人として交流を続けた。
  多くの随筆を書いたほか、俳句にも造詣が深かった。

  寺田寅彦は1935年12月に亡くなったが、その年の1月から5月にかけて「自由画稿」という
表題で、18のテーマの随筆を雑誌に連載した。
 (岩波文庫「寺田寅彦随筆集 第五巻」所収)

  そのうちのいくつかを拾ってみると・・

1 腹の立つ元旦
  正月元旦というと必ず機嫌が悪くなる人が少なくない。
  普通の日であればそれほどにも感じないような些細なことが、正月であるがためにどうも気になるのだ。
  1年に1回、特別な日を設けて、理由など構わずに、とにもかくにもめでたい日と決めてしまってしいてめでたがるのがよいのかどうか。

2 こじきの体験
  子供の時分、郷里の高知では正月14日の晩に子供らが「粥釣り」と称して、近所の家を回って米やあずきや切り餅をもらって歩いて、それで翌朝15日の福の粥を作るという古い習慣があった。

  こんな年中行事は郷里でも、もうとうの昔に無くなってしまって、若い人たちにはそんなことがあったということさえ知られていないかもしれない。

3 灸治
  大学2年の終わりに病気をして1年休学していた時に灸をしてもらった。
  少しずつ増やし、おしまいには20ぐらいずつすえる。

  上から下へ痛さの種類が少しずつ変わる。
  上の方は男性的な痛さで、少し肩に力を入れて力んでいれば何でもない。
  腰の方へ下がっていくと、痛さが女性的になって、かゆいようなくすぐったいような泣きたいような痛さになる。

  1日分の灸治が終わって、平手でぱたぱたと背中をたたいた後で、灸穴へ一つ一つ墨を塗る。
  これは化膿しないためだと言うが、墨汁の膠質粒子が外から入るばい菌を食い止め、また既に付着したのを吸い取る効能があるかもしれない。

4 歯
  歯の役目は食物を咀嚼し、敵にかみつき、パイプをくわえ、ラッパの口金を唇に押し付けるなどのほかに、もっと重要な仕事に関係している。
  それは我々の言語を組み立てている因子の中でも最も重要な子音のあるものの発音に必須な器械の一つとして役立つからである。

  これがないとあらゆる歯音が消滅して、言語の成分はそれだけ貧弱になってしまうであろう。
  このようにものを食うための器械としての歯や舌が同時に言語の器械として二重の役目を務めているのは造化の妙用というか天然の経済というか、考えてみると不思議なことである。

5 うじの効用
  鳥やねずみや猫の死骸が道端や縁の下にころがっていると、またたく間に蛆が繁殖して腐肉の最期の一片まできれいにしゃぶり尽くして白骨と羽毛のみを残す。

  戦場で負傷した傷に手当てをする余裕がなくてうっちゃらかしておくと化膿してそれにうじが繁殖する。そのうじがきれいに膿をなめ尽くして傷が癒える。

  ハエを取り尽くすことはほとんど不可能に近いばかりでなく、これを絶滅すると同時にうじもこの世界から姿を消す。するとそこいらの物陰に色々のたんぱく質が腐敗して色々のばい菌を繁殖させ、そのばい菌は回りまわってやはりどこかで人間に仇をするかもしれない。

6 毛ぎらい
  虫やそれに類したものに対する毛ぎらいは一応の説明がこじつけられそうな気がするが、人と人との間に感じる毛ぎらいやまた、なんとなく虫が好く好かないの現象はなかなかこんな生易しいこじつけは許さないであろう。

  それはとにかく、年を取るに従って色々な毛ぎらいがだんだんその強度を減じてくることは事実である。そして同時に好きなものへの欲望も減少する。

7 透明人間
  ウェルズの原作では、人間の肉も骨も血も一切の組成物質の屈折率をほぼ空気の屈折率と同一にすれば不可視になると説明している。

  一見どんなに荒唐無稽に見える空想でも、現在の可能性の延長としてみた時に、それが不可能だという証明は出来ないという種類のものもずいぶんある。例えば、人間の寿命を百歳以上に延長するとか、男女の性を取り換えるとかいう種類の空想はそうにわかに否定することができない種類に属する。しかし透明人間の空想はこれとはよほど趣を異にしている。
  

正岡子規の病気との戦い [日本文学]

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*ドナルド・キーン「正岡子規」に拠る。新潮社、2012年刊。
 
  子規は22歳の時に初めて喀血した。
  診察した医師は原因を肺病と診断した。
  肺病は当時、不治の病だった。

  数か月の療養ののち、学校に復帰し、その後、新聞社に勤務。
  新聞記者としての仕事の傍ら、俳句革新の道を歩むようになる。

  1894年、子規27歳の時に日清戦争が始まった。
  子規は、現地に赴き従軍記者となることを希望した。
  「どうかして従軍しなければ男に生まれた甲斐がない」と思った。

  新聞社の同僚たちは子規の病気のことを知っていて、死にに行くようなものだからと子規を思いとどまらせようとした。しかし、無駄だった。

  従軍記者の仕事は子規の体を痛めた。
  翌年、日本へ帰国する船上で、喀血した。
  日本に到着するまで喀血は続き、自分の足で歩いて船を降りることができなかった。
  直ぐに入院したが、全く血の気がなく、横になったまま、動くことも話すこともできないほどひどい容態だった。
  子規は奇跡的に生き延びた。

  しかし、29歳の時には病気による衰弱のため、子規はめったに家から外に出ることがなくなった。ほとんど自宅監禁に等しかった。

  1901年、34歳の時に「墨汁一滴」という随筆を164回にわたり日本新聞に連載した。
  ほとんど動けない状態になった後もなお、子規が毎日随筆を書き続けることは奇跡だった。
  座ることも立つこともできない子規は、寝床の上にピンで留められた紙に原稿を書くことを強いられた。
  途方もない意志力を持つ人間だからこそ、日々それを貫くことができたのだった。
  絶え間ない苦痛をものともせず、子規は新しい話題を見つけては自分の意見を詳しく語るのだった。

  子規が亡くなる1902年5月から、日本新聞紙上に「病床六尺」という随筆を書き始めた。
  「病床六尺、これが我が世界である。
   しかも、この六尺の病床が余には広すぎるのである。
   わずかに手を延ばして畳に触れることはあるが、布団の外にまで足を延ばして体をくつろぐこともできない。
   甚だしいときは極端の苦痛に苦しめられて、五分も一寸も体の動けないことがある。」

   6月には、叔父にあてて書いた手紙で・・
   「この苦痛がおさまるということもないので、早くお暇乞いしたいとは存じますが、精神はまだ確かなので今すぐには死にそうにもありません。このままいつまで苦しめられることかと困っている次第です。」

  亡くなる前の1~2年は、日課として短文を「日本新聞」に出し、毎朝その自分の文章を見ることを唯一の楽しみにしていた。そういうことをして子規は自ら生きる方法を講じていた。子規の体は殆ど死んでいたのを常に精神的に自ら生きる工夫を凝らしていた。

  亡くなる直前の寄稿文。
 「支那や朝鮮では今でも拷問をするそうだが、自分は昨日以来昼夜の別なく五体すきなしという拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。」
 「人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかし、そんなに極度にまで想像したような苦痛が自分のこの身のうえに来るとは想像せられぬことである」

 そのころの子規の俳句
 「俳病の夢見みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか」

 辞世の句
 「糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 仏かな」

  臨終前には大分足に水を持っていた。そこで少しでも足を動かすとたちまち全体に大震動を与えるような痛みを感じたのでその叫喚は激しいものであった。子規自身ばかりでなく、家族の方々や我々まで戦々恐々として病床のそばにいた。

  1902年9月19日未明、子規は亡くなった。35歳だった。



「島木赤彦臨終記」 [日本文学]

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<島木赤彦>

  島木赤彦(1876~1926)は、明治・大正期に活躍したアララギ派の歌人。
  胃がんにより、1926年、下諏訪町の自宅で51歳で亡くなった。

  「島木赤彦臨終記」は友人で医師・歌人の斎藤茂吉がその年の5月に雑誌で発表したもの。
  (岩波文庫「斎藤茂吉随筆集」所収)

<3月1日>
  がんが肝臓に転移して、黄疸の症状がでてきた。
  また、腰の痛みのためにあおむけに寝ることができず、こたつにうつぶせになることが多かった。
  本人はがんであることは知らされておらず、病気を退治できると思っていた。

<3月21日>
  この頃の作 「神経の痛みに負けて泣かねども 夜ごと寝られねば心弱るなり」
  また、「身のおきどころがない。座っていても玉のような汗が額から出てくる。いかんともしようがない」ということであった。

<3月22日>
  顔面は純黄色に変じ、縦横無数のしわができ、頬がこけていた。
  話は出来るが、つらそうであった。

<3月23日>
  家人に、来客の接待について指示を出していた。
  強心のための注射、ならびに神経痛のための注射を打ってもらった。
  注射が効いて、いろいろ話することができた。
  夜、「今晩、俺はまいるかも知れない」といった。

<3月25日>
  意識が濁りかけた。
  あおむけに寝るようになった。

<3月26日>
  縦横無数のしわが全く取れて、沈痛の顔貌がごく平安な顔貌に変わった。
  意識はすでに清明ではなかった。
  瞳はもはや大きくなっていた。
  問いかけに返事をするも、非常にかすかな声であった。
  急に脈拍が悪くなることがあった。
  3時間おきに強心の注射を打った。
  夜、息も脈も細り、体が冷えかけた。

<3月27日>
  朝、脈拍はもはや弱く不正で、脈が飛ぶことがあった。
  息も終焉に近いことを示していた。
  平安な顔貌にいくらか苦しみの表情が出てきた。
  時々唸りがあった。
  脈拍が触れなくなった。
  血縁者は、かわるがわる立って口唇を潤した。
  主治医の静粛な診査があり、息は全く絶えた。
  友島木赤彦君はついに没した。

  親族、友人など約40名が枕頭に集まっていた。


<島木赤彦の代表作>
  「土肥の海 漕ぎ出でて見れば 白雪を天に懸けたり 不二の高根は 」

  「湖の氷はとけて なほさむし三日月の影 波にうつろふ」

  「信濃路はいつ春にならむ夕づく日 入りてしまらく 黄なる空のいろ」

太宰治「斜陽」 [日本文学]

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  太宰治が、39歳で亡くなる約1年前の1947年に発表した作品。

  主人公のかず子は旧家に生まれるが、一家は戦後の混乱の中で没落する。
  かず子は一度結婚したが、離婚して家に戻っている。
  父はすでに亡く、母とともに、西片町(文京区)の家を捨て、伊豆の山荘に移る。

  そして、戦地から弟の直治が戻ってくる。
  しかし、直治は麻薬に溺れ、酒に溺れ、大きな借金を作る。

  かず子は不安に苛まれる。
  「どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのだろうか。」

  かず子は、29歳になり、直治の知人の小説家、上原二郎に心を寄せるようになる。
  上原に会ったのは6年前に一度だけ、二人でお酒を飲み、キスをされた。それだけ。

  かず子は思い切って上原に手紙を書く。それも、三度も。しかし返事はなかった。

  「私はただ私自身の生命が、こんな日常生活の中で、葉が散らないで腐っていくように、立ちつくしたままおのずから腐っていくのをありありと予感せられるのが、恐ろしいのです。とても、たまらないのです。」

  「(キスをされたことは)私の運命を決するほどの重大なことだったような気がして、あなたがしたわしくて、これが、恋かもしれぬと思ったら、とても心細く頼りなく、独りでめそめそ泣きました。あなたは、他の男の人と、まるで違っています。わたしはあなたの赤ちゃんが欲しいのです。」

  「あなたは、小説ではずいぶん恋の冒険みたいなことをお書きになり、世間からもひどい悪漢のようにうわさされていながら、本当は、常識家なんでしょう。私には、常識ということが、わからないんです。好きなことが出来さえすれば、それはいいい生活だと思います。私はあなたの赤ちゃんを産みたいのです。」

  「私、不良が好きなの。そうして、私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、ないような気がするの。」

  「世間でよいといわれ、尊敬されている人たちは、みな嘘つきで、にせものなのを、私は知っているんです。私は世間を信用していないんです。札つきの不良だけが、私の味方なんです。」

  「人間の生活って、あんまりみじめ。生まれてこない方がよかったとみんなが考えているこの現実。みじめすぎます。生まれてきてよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。」

  母は結核で亡くなり、かず子は東京に出て、上原に会う決意をする。
  荻窪の自宅、阿佐ヶ谷、西荻の飲み屋と探し回り、ようやく酒浸りの上原に会う。
  そして結ばれる。
  かず子は上原の寝顔を見て・・
  「この世にまたとないくらいに、とても、美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、その人の髪をなでながら、私の方からキスをした。」

  直治は自殺していた。

  かず子は望み通りに子供を授かった。
  「私たちの身のまわりにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま。海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、みじろぎもせず、狸寝入りで寝そべっているんですもの。」

  「私には、旧い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足があるのでございます。」
  「恋しい人の子を産み、育てることが、私の道徳革命の完成なのでございます。」

  
  * 太宰治の代表作の一つで、発表当時、爆発的な人気を得たとのこと。
    戦後の混乱期に、没落する旧家の御嬢さんが、6年前に一度だけ会ったことのある小説家を慕い、その子を産みたいと思う。そして、それが実現し、古い道徳を打ち破ったと思う。
  
    現在では、このストーリーに心打たれる人は少ないのではないか。
    世間知らずの御嬢さんの無鉄砲な行動としか映らない。

    それよりも、「上原二郎」を太宰治本人としてみた場合、太宰の放蕩な生活の言いわけを、主人公のかず子に言わせているのが気になる。太宰の放蕩な生活ぶりが、古い道徳を打ち破ることに貢献しているとは決して思われない。
   

谷崎潤一郎「恋愛及び色情」 [日本文学]

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  谷崎が1931年に発表したエッセー。
  「谷崎潤一郎随筆集」(岩波文庫)に収録されている。

  男女関係などについて、西洋と日本を比較して論じている。

1 恋愛小説
 西洋では、昔から男女の恋愛関係ばかりを扱っているので、恋愛関係でなければ文学の題材にならないように考える癖がついてしまった。しかし、文学の領域というのは元来、もっと広いはずだ。(ラフカディオ・ハーン)

 西洋にも政治小説、社会小説、探偵小説などの「恋愛のない小説」はあったが、「低級」なものとされていた。

 東洋には、恋愛を卑しめる気風がある。
 わが国には古来、恋愛を扱った小説や戯曲があるが、そういったものは文学の末流、婦女子の手すさび、士君子の余技とされていた。一人前の男子の生涯を賭すべき仕事でないとされた。

2 平安朝の男女関係
 妻が何の理由もなしに夫を疎んずる。夫はそういう妻に対して愛想をつかすでもなく、女の家の外に立って歌を歌いつつ哀しみを訴える。

  このような女々し男は、恋愛文学が同じく流行した江戸時代においても見られない。江戸時代は男らしい男がもてた。

  平安朝の男女関係には、女性崇拝の精神がある。女を自分以下に見下して愛撫するのでなく、自分以上に仰ぎ見てその前にひざまずく心である。

  平安朝の貴族生活においては、女が男のうえに君臨しないまでも、少なくとも男と同様に自由であり、男の女に対する態度が、後世のように暴君的でなく、随分丁寧で、物柔らかに、時にはこの世の中の最も美しいもの、貴いものとして扱っていた様子がうかがわれる。

  そのころの日記や、物語や、贈答の和歌などを読むと、女は多く男から尊敬されており、ある場合には男の方から哀願的態度に出たりして、決して後世のように男子の意思に蹂躙されていない。

3 恋愛の解放
  明治に入ってからの西洋文学の流入は、我が国に「恋愛の解放」、「性欲の解放」をもたらした。われらは完全に恋愛や性欲を卑しいとする我らの祖先の慎みを忘れ、旧い社会の礼儀を捨てた。

  「三四郎」や「虞美人草」の女主人公は、柔和で奥床しいことを理想とした旧日本の女性の子孫でなく、なんとなく西洋の小説中の人物のような気がする。あの当時、そういう女が多く実際にいたわけではないとしても、社会はいわゆる「自覚ある女」の出現を望み、かつ夢見ていた。

4 日本人の性欲
  われわれは性生活においてはなはだ淡白な、あくどい娯楽に耐えられない人種であることは確かである。開港地の売春婦に聞いてみると、外国人に比べて日本人ははるかにその方の欲望が少ないという。

  日本人には伝統的に恋愛や色情を卑しむ思想がしみ込んでいて、それが心を憂鬱にさせ、逆に肉体に影響するのかもしれない。また、日本という国はその多くがべとべとした季節であるから、あくどい歓楽にはまことに不向きである。

  季節がそんな具合であるから、食物もまた淡白であり、住居の形式も開放的であって、これが大いに影響している。

5 西洋の女性と日本の女性
  西洋の夫人の肉体は、色つやといい、釣り合いといい、遠く眺めるときははなはだ魅惑的であるけれども、近く寄ると、きめが粗く、うぶげがぼうぼうと生えていたりして、案外興ざめする。また、見たところでは四肢がスッキリしているから堅太りのように思えるが、実際には肉付きが柔らかで、ぶくぶくしている。

  西洋の婦人は抱擁するよりも、より多く見るに適したものであり、東洋の婦人はその反対である。

漱石とその妻 鏡子 [日本文学]

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  漱石は私生活ではわがままなところがある。妻の鏡子は、のびのびと育てられ、思ったことは口に出す方であった。このため、漱石の神経が高ぶったときには、よくケンカもした。漱石が妻に対して、出ていけ、と言ったこともあったようだ。しかし、妻の鏡子はそのような漱石のわがままに耐え、次第に文壇で名声を得る漱石を支え続けた。お互いに相手を必要とし続けた夫婦でなかったかと思う。

1 大正3年11月、漱石47歳の時の日記に妻の鏡子について以下のように記述している。

 「妻は私が黙っていると決して向こうから口を利かない女である。ある時私は膳に向かって箸を取ると、その箸が汚れていたのでそれを見ていた。すると妻が汚れていますかと聞いた。それから膳を下げて向こうに行った時、下女に、またこっちから話させられたといった。」

 「妻は朝寝坊である。小言を言うとなお起きない。時とすると9時でも10時でも寝ている。妻は頭が悪いということをきっと口実にする。早く起きるとあとで仕事をすることができない終日ぼんやりとしていると主張する。それで子供が学校へ行ってしまってすべてが片付いた時分にのそのそと起きてくる。そのくせどこかへ約束があって行く時は何時だろうが驚くべく早く起きる。」

2 漱石が36歳の時、結婚して7年目であるが、妻の鏡子が一度、実家へ2か月ほど戻ったことがある。神経衰弱が昂じて妻や子供につらく当たるので、一度離れて住んでみた方が症状の改善に役立つのでは、との考えから実行したもの。

  「(お医者さんに漱石の病気について聞いてみると)ああいう病気は一生治りきるということがないものだ。それから病気の説明をいろいろ詳しく聞かしてくださいました。私もそれを聞いてなるほどと思いました。ようやく腹が決まりました。」(「漱石の思い出」夏目鏡子述)

  「母から夏目にどうかまあといった具合に謝ってもらって、そこでようやく千駄木に帰ることになりました。私はこの時、今度はどんなことがあっても決して動くまいと決心して参りました。」(同上)

3 神経衰弱が昂じていた時期には、家庭内で修羅場めいたことも起こっていたようで、漱石の方から、妻の鏡子に対して、離縁するから実家に帰れ、というようなことも言ったようだ。

  「私を里に返そうというので、父に引き取れと手紙をやったものです。父は、鏡子は理由がないから絶対に離縁は受けないというし、私もまた同意だ。第一、夫婦の離縁問題は双方合意のうえでなければ法律が許さない。しかし、もしどうあっても鏡子がいやだから離縁なさろうというのなら、裁判所に願いを出してください、とこう出たのです。(漱石は)いっこうそんなものは受け取りもしなかったような顔をして、すましておりました。」(同上)

4 しかし、漱石は妻を深く愛していたように思う。
 ロンドンではさみしさが募り、妻の鏡子に対して以下のような手紙を書く。

 「国を出てから半年ばかりになる。少々嫌になって帰りたくなった。お前の手紙は二本きたばかりだ。その後の消息は分からない。多分無事だろうと思っている。段々日が経つと、国のことをいろいろ思う。俺のような不人情なものでも、しきりにお前が恋しい。これだけは奇特と言ってほめてもらわなければならぬ。」

 「二週間に一度くらいずつは書面をよこさなくてはいかん。」

5 妻の鏡子も漱石を愛していたように思う。漱石が修善寺で吐血をして危篤となったときは必死に看病をした。

 「病床のつれづれに妻より吐血の時の模様を聞く。慄然たるものあり。妻は五、六日なにも食わなかった由。」(漱石の日記)


漱石の食事と病気 [日本文学]

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   日本を代表する文豪も、食生活はかなり乱暴であった。
   このため、数々の病気に悩まされた。

   以下の書籍に拠る。
   「日常生活の漱石」 黒須純一郎著 中央大学出版部 2008年刊
   「漱石の思い出」  夏目鏡子述  文春文庫

1 食事や酒・たばこの嗜好
(1)大飯食い
    「吾輩は猫である」の苦沙彌先生についてであるが、「彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色をおびて弾力のない不活発な徴候をあらわして居る。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジアスターゼを飲む」とある。

(2)下戸
    「私は上戸党の方じゃありません。一杯飲んでも真っ赤になるくらいですから、到底酒の御交際は出来ません」(「漱石談話」)

(3)ヘビースモーカー
    「煙草は好きです。病中でもやめられません。朝早く目覚めた時にも、食後にも喫みます。なるべくシガーがいいのですが、安くないので、大抵敷島などをふかしているのです。日に二箱位は大丈夫でしょう。」(「漱石談話」)

    「一度止したこともあったが、煙草を吸わぬことが別に自慢にもならぬと思ったから、また吸い出した。余り吸って舌が荒れたり、胃が悪くなったりすればちょっと止すが、治ればまた吸う。」(「文士の生活」)


(4)濃厚な食事
    「淡白な物は私には食えない。私は濃厚な物がいい。シナ料理、西洋料理が結構である。日本料理などは食べたいとは思わぬ。幼稚な味覚で、油っこい物を好くというだけである。」(「文士の生活」)

(5)甘党
    「盲腸炎に罹った。これは毎晩、寺の門前に売りに来る汁粉を、規則正しく毎晩食ったからである。」(「満漢ところどころ」)

    「菓子皿の中を見ると、立派な羊羹が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合いが滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。」(「草枕」)

2 病気
(1)胃潰瘍
    43歳の時に胃潰瘍と診断され、入院した。その後、退院して、療養のため修善寺温泉に滞在したが、そこで大吐血をして、一時危篤状態になった。49歳で亡くなったが、死因は胃潰瘍による大内出血。
   「小生は、その後あいかわらず胃病に苦しみおり候処、10日ほど前決意、長与の胃腸病院へ参り候処、胃潰瘍の疑いにてついに入院することに相成り候」(安倍能成への手紙)

(2)糖尿病
    甘党で大飯食いのため、糖尿病になる。
   「ちょっと医者に見てもらったら、小便を試験してこれは糖分があるという。コイツにはまいったね。それで自宅には器械がないから、糖分のパーセントを大学で調べてもらってくれろというんだがね。僕の療治法はそのパーセントで決まるんだそうだ。」(菅虎雄への手紙)

(3)痔疾
    44歳の時に、痔の手術を受けた。
    通院と往診を繰り返し、数回の切開でいったんは小康を得たが、翌年、再度悪化。本格的な痔ろうの手術を受けた。術後の経過は極めて良好で、痔疾は完治した。

   「明暗」の冒頭に、痔疾の治療に関する、主人公の津田に対する医者の説明が出てくる。
   「やはり穴が腸まで続いているんでした。この前探ったときは、途中に瘢痕の隆起があったので、ついそこが行き止まりとばっかり思って、ああ言ったんですが、今日、疎通を良くするために、そいつをがりがり掻き落としてみると、まだ奥があるんです。」

(4)リューマチ
   晩年、リューマチにも悩まされた。
   「リューマチで腕が痛みます。続けて机によることができません。」(山本笑月への手紙)

(5)神経症
  A ロンドンでの憂鬱
   「近頃非常に不愉快なり。下らぬことが気にかかる。神経症かと怪しまるる。」(日記)

   「近頃は神経衰弱にて気分すぐれず、はなはだ困りおり候。」(妻の鏡子への手紙)

  B 妻の鏡子の回顧談(「漱石の思い出」に拠る)
    ロンドンから帰国直後、漱石36歳の時
   「6月の梅雨期ごろからぐんぐん頭が悪くなって、7月に入ってはますます悪くなる一方です。夜中に何が癪に障るのか、むやみと癇癪を起して、枕と言わず何といわず、手あたり次第のものをほおり出します。子供が泣いたと言っては怒り出しますし、時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当たり散らしております。」

    46歳の時
   「暮れから妙に顔が火照って、てかてかしているので、変だ変だと思っておりますと、またも例の頭がひどくなって参りました。ちょうどこの前に一番ひどかった時から10年目に当たります。この年は正月から6月までが一番ひどくて、あげくの果てはとうとうまたもや胃を悪くして寝込んでしまいました。胃が悪くなると、それでだんだん頭の方は治ってくるのでしたが、この時ははじめは両方でしたから、ずいぶん大変でございました。」


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