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志賀直哉の短編小説 [日本文学]

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  以下に拠る。 
   「小僧の神様、城の崎にて」
     新潮文庫、1968年刊。

  志賀直哉(1883~1971)は、武者小路実篤らとともに同人雑誌「白樺」を1910年に創刊。
  短文を重ねる文章のうまさは他の追随を許さないと言われる。
  短編小説に佳作が多い。
  太宰治は志賀直哉を嫌い、また、志賀も太宰の「斜陽」などの作品を酷評した。

『佐々木の場合』
  佐々木は書生としてある富裕な家に住み込んでいたが、その家のお嬢さんのお守り役として働いていた、三歳年下で16歳の娘、トミと仲良くなった。
  ある日の夕方、佐々木はお嬢さんと一緒にいたトミを物置に誘った。
  トミはしばらくして一人で物置にやってきた。
  少ししてから外で悲鳴が聞こえた。
  お嬢さんが転んで倒れ、近くにあったたき火の残り火でひどくやけどをしていた。
  佐々木は数日後いたたまれずその家を飛び出した。
  トミも責任を感じたが、その後もお嬢さんの世話を続けた。

  七、八年後、佐々木は偶然、街でお嬢さんとトミを見かけ、トミに会いたいと連絡した。
  佐々木は、トミのことが気になって結婚していなかった。
  数回の手紙のやり取りののち、トミは以下のように書いてよこした。
 「あなたは私を大変気の毒がってくださるけれども、私は今少しも不幸ではない。ただ、お嬢様にいいご縁がないだけが自分の不幸である。一生お嬢様のおそばで働くつもりでいます。どうか自分のことは忘れてください。」

  佐々木は、トミの心を変えられると思っている。
  佐々木は、出世した今の自分を誇りに思っている。
  しかし、佐々木はエゴイストで、相手の気もちを分かろうとしない。
  トミが佐々木の妻になっても、それが必ずしも彼女の幸福を増すことになるとは言えない。
  佐々木には、トミが今持っている幸福がどんなものかは分かっていない。

『城の崎にて』
  山手線の電車に跳ね飛ばされて大怪我をした。
  退院後、養生のため城崎温泉に一人で数週間滞在することにした。
  
  部屋の縁側の椅子に座って、ハチの巣から忙しそうに出入りするハチを眺めていた。
  ある朝、一匹のハチが死んでいた。
  その死んだハチは三日ほど、そのままであったが、夜の間に雨が降り、その死んだハチは洗い流されてしまった。

  散歩していると、川で必死になって土手に這い上がろうとするネズミを見た。
  ネズミは何度試みても這い上がることはできなかった。
  そして川に流されていった。
  ネズミが、死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽くしている様子が妙に頭についた。
  死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいう苦しみや騒ぎは恐ろしいと思った。
  自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努力を続けなければならない。

  散歩道で石の上にいるイモリを見た。
  驚かそうと思って、イモリの近くを狙って小石を投げた。
  それがイモリに当たってしまった。
  イモリは死んだ。
  イモリにとっては全く不意の死であった。
  自分は電車に跳ねられても偶然死ななかった。
  イモリは偶然に死んだ。
  生きていることと死んでしまっていることと、それ両極ではなく、それほどに差はないように感じた。

『好人物の夫婦』
  18歳の女中が妊娠した。
  数か月前、妻は祖母の看病のため1か月ほど家を空けていた。
  その間、夫はその女中と二人だけになっていた。
  疑われても仕方がない。

  しかも、夫はその面では厳格ではない。
  独身時代に実家で女中と仲良くなったことがあった。
  結婚してからも、長期の旅行ではそういうこともあった。
  妻が留守の間に、女中が近くに寄ってくると、胸がどきどきした。
  女中はかわいい顔をしていた

  夫は妻が疑っているに違いないと思った。
  数日前から妻の元気がなくなっているように見えた。
  このままにしては置けないと思い、夫は妻に「女中の妊娠は、俺じゃないよ。俺はそういうことをしかねない人間だが、今回の場合、それは俺じゃない」と言った。
  妻は、唇を震わしていたが、「ありがとう」と言うと、その大きく開いた眼から涙がとめどなく流れてきた。また、「あなたがいつそれを言ってくださるか待っていたの」とも言った。
  妻は身体をブルブル震わしていた。



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「五重塔」 [日本文学]

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 岩波文庫の一冊。原著は1892年に出版され、岩波文庫へは1927年に収録された。
 著者の幸田露伴(1867~1947)は、主に明治時代に活躍した小説家。
 夏目漱石と同じ年に生まれたが、1916年に亡くなった漱石よりも31年も長生きした。
 漱石が小説を書き始めて間もなく、文体を美文調から口語文へ転換したのに対し、古風な文章を貫いた。

 幸田露伴は尾崎紅葉とともに、一時期、文壇をリードたが、後に読みやすい文章を書く漱石の人気に圧倒された。
 露伴のその著「努力論」の中で、「胃弱を患う人が胃腸薬を飲みながら、やわらかい粥などを食べるのは愚かなことだ。薬物と医療のみに頼って、健康法を尊重しないのは今の時代の人の欠点だ」と、漱石を皮肉っている。
 また、漱石が恋愛や家庭内の問題などをテーマにして小説を書くことについても、批判めいたことを言っている。

 「五重塔」は、「のっそり」というあだ名で呼ばれる大工の十兵衛の話。

 谷中感応寺では、新たに五重塔を建立するという計画が出来ていた。
 長年そのお寺に出入りし、本堂の建設もこなしていた棟梁の源太親分は、五重塔建立のための図面や下絵図なども作り、お寺に提出していた。
 源太は五重塔の注文も、当然、自分のところにいただけるものと思っていた。

 しかし、源太親分の下で世話になっていた大工の十兵衛は、どうしても自分が五重塔を立てたいと思った。
 十兵衛は、技量はあっても宝の持ち腐れで、その腕が評価されることはなかった。
 仕事が丁寧すぎて遅いという風に見られ、「のっそり」というあだ名さえつけられていた。
 
 十兵衛は夜も寝ずに五重塔の五十分の一の模型を作り、出来上がると谷中感応寺へ行き、お寺のトップである上人様にお会いしたいと取次をお願いした。
 最初は取次に出た人に相手にしてもらえなかったが、ようやく上人様に直接会うことができ、五重塔を造らせてもらいたいと必死にお願いした。
 
 上人は十兵衛の申し出に感服した。十兵衛はひな型を寺に持ち込み、上人に見てもらった。
 上人は、源太親分と十兵衛を寺に呼び寄せ、どちらがこの仕事をするかは、二人で相談して決めよ、と申し伝えた。

 帰り道、十兵衛はどちらかが譲らなければならないとすれば、自分が譲らなければならないのか、しかし、なんともつらい、と思い沈んだ。
 源太は家に帰り、いろいろ考えたが、せっかくの仕事を半分、人にくれてやるのは忌々しいが、それも男気のある態度かと考えたりした。

 源太親分は十兵衛の家に行き、「五重塔は二人で建てよう。俺を主にして、そなたは副になって力を貸してくれ」と切り出した。
 十兵衛は「それは嫌でございりまする」と返事した。
 「半分仕事を譲って下されるというのは御慈悲のようで、いやでござりまする。もう十兵衛はあきらめておりまする。身の程にもない考えを持ったのが間違い、私がばかでござりました。」

 源太親分は、十兵衛に対し「お前が主で、おれが副になっても良い」とまで言ったが、十兵衛は「一つの仕事を二人でするのは主でも副でもできませぬ」と答えた。

 上人は、源太親分から二人の相談の内容とともに「十兵衛に仕事を申し付けられても私は恨みはありません」との申し出があった。また、十兵衛からは涙ながらの辞退の申し出を受けた。
 上人は考えた末、十兵衛に仕事を与えることにして、「思う存分し遂げてみい。よう仕上がらばうれしいぞよ」と言った。

 源太親分は男気を出して、十兵衛に対してそれまでに準備していた設計図や下絵図、あるいは京都や奈良の党堂の情報を貸すので使ってほしいと、それらを差し出して申し出た。
 十兵衛はその申し出に対して「他人の巾着で自分の口を濡らすようなことは好きでなく、ご親切はありがたいのですが、そのままお持ち帰りください」と答えた。

 十兵衛は命がけで五重塔建立の仕事に取り組み、十兵衛の仕事ぶりに感化された職人たちもいつにも増して働き、五重塔は完成した。

 落成式を執り行う日も近づいたある夜、猛烈な風雨となり、五重塔は風にもまれ、今にも倒れそうな様子であった。
 寺の、上人様の下のものが心配になって、十兵衛を呼びにやった。
 十兵衛はその使いのものに、「五重塔はこれくらいの暴風雨で倒れたり、折れたりするようなもろいものではござりませぬ。十兵衛が出かけてまいるにも及びませぬ。御上人様も、これくらいの風が吹いたからといって、十兵衛を呼べとはおっしゃいますまい」と答えた。

 多くの建物や、浅草や芝の塔が損傷する中、谷中感応寺の五重塔は釘一本緩まず、板一枚剥がれなかったことに人々は讃嘆し、あれを造った十兵衛という人はなんとえらいものではないか、と噂した。

 <焼失前の谷中五重塔>
 当初、1644年に建立されたが、1772年の明和の大火で焼失した。
 1791年に再建されたが、1957年、放火により焼失した。
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「日本の古典に学びしなやかに生きる」 [日本文学]

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 著者は、作家の加賀乙彦さん。
 集英社、2015年刊。

 方丈記、徒然草、努力論、養生訓の四つの書籍を通じて、人間に生き方を学ぶ。

1 「方丈記」
 作者の鴨長明(1155~1216)は、裕福な神職の家柄に生まれ、生活に不自由はなかったが、官職には恵まれなかった。49歳の時、神職の地位を得る道を閉ざされたため、出家し、閑居生活に入った。
 (神職の家柄の人が仏門に入るというのはなかなか理解しにくいが)
 そして、57歳の時に、「方丈記」を執筆している。
鴨長明.png

 その主な内容は・・
 ア 人の生活は、流れる川に浮かぶあわのようなもので、できたり消えたり常に変化する。
 イ 災害が頻繁に起こり、容赦なく人々に襲いかかり、苦しめる。人はなすすべもない。
   財産を持っていてもなんの役にも立たない。
 ウ 山の中の3メートル四方の小さな住まいで十分だ。
   四季折々の自然と歌と静かな夜を友とする。
 エ 遁世して出家してからは、誰に恨みもなく、何かを恐れるということがない。
   命は天命に任せて、長生きをしたいとも、短命でありたいとも思わない。
   特別な望みはないし、不幸でありたいとも思わない。

2 「徒然草」
 作者の吉田兼好(1283~1350)も、神職の家柄の出であるが、30歳前後に出家、遁世した。
 徒然草は、47歳頃にまとめられた。
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 その主な内容は・・
 ア 人間はいつ死ぬかわからないということを知るべきだ。
 イ 人は、死はいつも身に迫っていることを心にとどめ、片時もおろそかにしてはならない。
 ウ 大事なことをやろうという人は、それ以外の様々なことをそっくりと捨てなければならない。
 エ 寸陰を惜しむ人は少ない。
   一瞬間の短さは、はっきり意識されなくとも、その短い時間を絶えず経過させると、生涯を終える最期の時はたちまちやってくる。
 オ 社交上の儀礼を決まり通りにやるならば、心の余裕もなくなり、一生はむなしく暮れてしまう。
 カ 無用なことをして時を過ごす人を、愚かな人とも、道理に外れた人ともいえる。
 キ 第一にすべきことを定めたら、他のことは捨て、そのことの達成に励むべきだ。
   どれもこれもと心で思っていては、どれも達成することは出来ない。

3 「努力論」
 作者の幸田露伴(1867~1947)は主に明治期に活躍した小説家。
 幕末に生まれ、第二次大戦後まで生きた。
 本書は、1912年、45歳の時に出版されたもの。
幸田露伴.png

 その主な内容は・・
 ア 努力は、結果的にうまくいったか行かなかったかによって、すべきかどうか考えてはいけない。努力が常に進むべき人間の本性であるから、努力すべきなのである。
 イ 努力してもうまくいかないことはある。
   それは、無理な願望に向かって努力しているか、あるいは基礎となり源泉となるべき準備の努力が欠けているからだ。
 ウ 自分の将来のことを占いなどによって推測しようとする人ほど可哀そうな人はいない。
   私は運命に支配されるのではなく、運命を支配する、すなわち自ら進んで運命を造る。
   世の中の成功者は、みな自分の意思や知恵や勤勉や人徳の力によって好結果を治め得たと信じている。

4 「養生訓」
 作者の貝原益軒(1630~1714)は江戸時代の儒学者。福岡藩に仕えた。
 本書は、1712年、82歳の時にまとめたもの。
貝原益軒.png

 その主な内容は・・
 ア 身体を損なうものは、内欲と外邪である。
   内欲とは飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲で、こらえて少なくすること。
   外邪とは、風・寒・暑・湿の四つで、恐れて防ぐこと。
 イ 病は気からで、怒らず、恐れず、驚かず、気を平らかに整えることが大事だ。
 ウ 人は毎日飲食する。慎み深く、欲をこらえれば病を防ぐ。
 エ 酒は少し飲むのであれば、陽気になり、血気をやわらげ、食を進め、愁いをなくし、とてもよい。
   しかし、飲みすぎるのであれば、これほど害になるものはない。





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太宰治 [日本文学]

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 *以下に拠る。
  「太宰と井伏」
     著者は文芸評論家の加藤典洋さん。
     講談社、2007年刊。
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1 20代の太宰治
(1)太宰は20代に4回の自殺未遂事件を起こしている。
  1929年(20歳) 弘前でのカルモチン嚥下による自殺未遂
  1930年(21歳) 鎌倉でのカルモチン嚥下による心中未遂(相手の女性は死亡)
  1935年(25歳) 鎌倉での縊首による自殺未遂
  1937年(27歳) 谷川岳でのカルモチンによる内縁の妻小山初代との心中未遂
   
(2)これ以外にも、以下のような自己破壊的行為を繰り返した。
   ・マルクス主義運動への接近
   ・自己暴露的な小説習作の執筆と発表
   ・3歳年下で芸妓見習いの女性(小山初代)との同棲
   ・鎮痛剤の乱用(1936年、26歳の時に脳病院に1か月間入院隔離される)

(3)自己破壊的な行為の背景には、富裕な地主の一族に生まれたといううしろめたさの感情があった。
  「金持ちの子というハンディキャップに、やけくそを起こしていたのだ。不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、厭世的にしていた。金持ちの子供は金持ちの子供らしく、大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。」

3 30代の太宰治
(1)1938年、28歳の時に、井伏鱒二の紹介で石原美知子と見合いして結婚。
   それまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をした。
   (小山初代とは心中未遂後に別れた)

(2)石原美和子との間に3人の子供ができ、作家としての活動も順調であった。
   1940年前後には、『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。
   また、亡くなる前年の1947年には『斜陽』を発表し、ベストセラー作家にもなっている。
   
(3)しかし、太宰の心には次第に以下のような鬱屈しt気持ちが芽生え、生活は次第にまた、自己破壊的な様相を帯びてきていた。
  ①「家庭の幸福」という小市民的願望の否定
    「私はいまでも、家に手土産をぶら下げて帰るなど、絶無であった。実に不潔な、だらしないことだと思っていた」

  ② 戦争で死んだ若い人間への同情と後めたさ
     太宰と同年代の多くの若者が戦争で死んだ。
     太宰は、32歳の時に徴兵検査を受けたが、結核の兆候があるということで徴兵を逃れている。

(4)太宰はまたも女性遍歴を重ね、薬物中毒の深みにはまりこむ。
   太宰は『人間失格』を書き終え、雑誌連載中の1948年6月、山崎富栄と玉川上水に入水し、6日後に二人の遺体が発見される。

   太宰が本当に死ぬ気でいたのかは定かではない。
   しかし、作家として、あるいは家庭人として、幸せをかみしめるような立場にいられなかったことは間違いない。

(5)21歳の時に心中未遂で相手の女性を死なせたことは、一生消えない傷であったはずだ。
   また、内縁の妻で心中未遂の相手であった小山初代は、太宰と別れて後、青森、北海道をへて、中国大陸に渡り、大連、青島などを水商売をしながら転々とし、1944年、33歳で病没した。

   妻の石原美和子(津島美和子)は太宰との間に、1男二女を産んだ。
   男の子は15歳で亡くなったものの、娘二人のうち一人は衆議院議員の妻に、もう一人は作家(津島佑子)となった。
   そして、1997年に85歳で亡くなった。

<津島美和子>
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「芥川龍之介」 [日本文学]

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 講談社文芸文庫の一冊。原著は1977年に出版された。
 著者は小説家の小島政二郎(1894~1994)。

 芥川龍之介(1892~1927)はノイローゼに悩まされ、35歳で服毒自殺により亡くなった。
 著者は、芥川と親しく交流し、突然の死を嘆いた。
 ただ、著者は芥川の小説については、ある意味、厳しい評価をしている。

1 芥川の小説
  芥川の作品は物語ではあったが、小説ではなかった。
  小説には生活、生活心理が書かれていなければならないが、芥川の作品にはそれがなかった。

  彼は、24歳で「羅生門」を書き、25歳で「鼻」を書き、26歳で短編集「羅生門」を出版した。
  漱石にも褒められ、自信を持ってしまった。

  物語は面白いが、小説は作中の人物に作者自身の生活を全部挙げて打ち込まなければ、感動や感銘を与えることができない。

  興味のあるテーマが、彼の明快な、やや学者的な文章で語られている。
  どれも面白いが、心を打ってこない。
  彼は、小説で素っ裸になって自己を語ったことは一度もなかった。

  晩年の、自己を語ろうとした作品はみんな失敗作だった。
  裸になることを極度に嫌った彼には、それは性格に反する行為だった。

2 芥川の文章
  彼の作品は、大変な苦労のうえ生み出されている。
  しかし、彼が苦労したのは、小説のためにではなく、「文章」のためだった。
  彼ほど聡明な作家が目的を間違えていた。
  小説はいい文章を書くことではなく、人間の真に肉迫することであるはずだ。

  芥川の洗練された、すべて格にはまった、完全に近い文章は、芥川の持っている「いいところ」をすべて殺してしまった悪文だ。

  漱石は、「吾輩は猫である」や「虞美人草」のような時代がかった文章を捨て、後半は平易な文章に変化している。芥川は、鴎外の文章の真似をし、そこから抜け出せなかった。

3 芥川の弱さ
(1)芥川は、小説家に一番大事な、自己本位の生活者になれなかった。これは・・、
    ・養子であったため、家族に気を使い、思うように自由な生活が出来なかった。
    ・周りと円満に過ごすという常識にとらわれ続けた。

(2)芥川は、世間話や議論をしている時は、新鮮で、溌溂としていて、自由自在で、実に面白い話相手だ。
   しかし、ひとたび文章を書くとなると、文章を整えることを第一とするために、せっかく人間として持っている新鮮さも、溌溂さも、ニュアンスの面白さも、みんな文章の犠牲にされ消えてしまった。

4 芥川の特技
  大変な速読家だった。
  邦文の書物や雑誌なら、三、四人と話をしながら読むことができた。
  また、普通の英文書も1日1200~1300ページは楽に読めた。

5 芥川の最期
  小説家としての行き詰まりから、体調を崩し、不眠、神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニー、痔など、色々な病気を一身に背負い込むようになっていった。

  体調が悪くなっても、周りの忠告にもかかわらず、へとへとの身体で無理して原稿を書くことをやめなかった。
  睡眠薬やアヘンエキスを常用し、薬を食べて生きているようだった。
  身体はどんどん痩せ、骨と皮ばかりになった。

  菊池寛のいた文芸春秋社は、金を出すから1年ほど休まないかと提案したが、芥川はそれを受けなかった。

  芥川の妻、文子は芥川の死後、以下のように述べている。
  「死に近い日々は、責め苦の連続のようでした。今はどんなにかその苦痛が去り、安らかな重いであろうかと思いました。」

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松尾芭蕉 [日本文学]

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 *以下に拠る。
    「芭蕉の表現」(上野洋三著、岩波現代文庫 2005年刊)
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1 俳諧師としての出発
  1644年、伊賀上野で生まれた芭蕉は、成年に達した後、藤堂藩に料理人として召し抱えられ、そこで主君の藤堂良忠の俳諧仲間に加わった。

  しかし、藤堂良忠が1666年に亡くなり、伊賀上野で俳諧を続けることが難しくなったことあり、芭蕉は1672年、29歳で江戸に出た。
  俳諧師として身を立てる自信も芭蕉にはあったものとみられる。

2 談林俳諧との出会い
  芭蕉は江戸で、西山宗因が起こした談林俳諧に加わる。
  談林俳諧は、現状打破をめざす運動であったが、以下のように過激化して行く。
  ① 遊里、劇場などの、当時の風俗があからさまに登場する。
  ② 表記方法が異様な形態となる。
  ③ 漢詩文的な素材が持ち込まれる。

  芭蕉は談林俳諧の中でそれなりの地位を確立していくが、生活は苦しく、また、談林俳諧と一線を画すことを思い、深川の草庵へ移る。
  そこで、芭蕉はやがて自分の表現を見出していく。

3 晩年の10年間
  芭蕉は、1684年、41歳で出版した「冬の日」を筆頭に、七つの選集(七部集)を出版する。
  初めの方の選集ではまだ、談林俳諧の影響を残していたが、46歳の時に行った「奥の細道」の大旅行を境にして、排風が変わった。

  47~48歳の時に出版した選集「ひさご」ならびに「猿蓑」が芭蕉の代表的選集となった。
  世の中の俳諧が堕落し、行きづまっていることを知らしめ、新たに俳諧が進むべき道を示した。

4 蕉風俳諧の確立
  芭蕉たち一門の俳諧表現の特徴は以下の通り。
  ① 歴史的事実や古典世界にしばられない自由な表現を行う。
    そこに滑稽(ユーモア)を見出す。

  ② 練磨され選び抜かれた美しい言葉である古典的言語をそのまま生かすことにより、自分の表現を生かす。

  ③ 伝統的詩情の底にあるものの本意・本情をそのまま生かしながら、表現を工夫する。
    例えば、「蛙(かわず)」と聞けば、誰しもその鳴き声によって晩春の哀歓を連想するが、その哀歓を「鳴き声・あわれ」などの語を用いないで表現する。

  ④ 雅・俗の区別にこだわらない。
    和歌は雅語に限り、俳諧は雅語に必ず俗語を加えなければならないというルールであった。
    俳諧は俗語により滑稽な性格を得たが、過度の滑稽から悪ふざけに転落した。
    芭蕉は、古典の世界が作り上げた約束事を尊重し、俳諧に「風雅」の道を開いた。

5 芭蕉の紀行文
  生涯のかなりの部分を旅に費やした芭蕉は、五つの紀行文を残している。
  (「野ざらし紀行」、「鹿島詣」、「笈の小文」、「更科紀行」、「奥の細道」)

  芭蕉が紀行文の制作に強い意欲を見せた理由は・・・
  ① 旅中、片田舎などで多少とも風雅の心得のある人物に出逢った時の喜びを、書きつけておきたかったこと。
  ② それが俳諧仲間において話の種となり、また、風雅の情をかきたてるよすがとする。


  芭蕉は1694年、51歳で亡くなった。
  芭蕉の生前、芭蕉一門の俳諧は少数派であった。
  しかし、弟子の支考が蕉風の確立に尽力し、芭蕉の死後三十数年にして、芭蕉が復興し、「古典」の仲間入りをすることになる。



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「夢十夜」 (その2) [日本文学]

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第六夜
  運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるというので見に行った。
  「よくああ無造作にノミを使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と感心していったら、隣の男が、「あれは眉や鼻をノミで作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、ノミと槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずがない」と言った。

  自分は初めて、彫刻はそんなものかと思った。
  そうなら誰にでもできることだと思い、急に自分も仁王を彫ってみたくなった。

  薪にするつもりだった樫の木を、勢い良く彫り始めてみたが、仁王は見当たらなかった。
  片っ端から彫ってみたが、どれもこれも仁王を隠しているのはなかった。
  (あたかも中にあるものを掘り出すような仕種こそ、天才の証)

運慶 仁王.png

第七夜
  黒い煙を吐く、大きな船に乗っていたが、孤独を感じ、つまらなく、死ぬことに決心した。
  あたりに人のいない時に、思い切って海へ飛び込んだ。
  ところが、自分の足が甲板を離れた瞬間、急に命が惜しくなった。
  心の底からよせばよかったと思った。
  しかし、もう遅い。
  大変大きな船で、身体は船を離れたけれども、すぐには海に着かない。
  ただ、次第次第に水に近づいてはくる。
  自分は、やっぱり乗っている方がよかったと悟りながら、無限の後悔と恐怖を抱いて、黒い波の方へ静かに落ちていった。
  (自殺する瞬間に後悔する人がどのくらいいるかは分からないが、死ぬ間際は暗い海の中に落ちていくような感覚なのだろうか)

第八夜
  床屋に行き、髪を刈ってもらうために、椅子に座った。
  正面の鏡から、窓の外を通る往来の人が見えた。
  床屋の男が、自分の後ろに来て、自分の頭を眺め出した。
  「頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」と自分はその男に聞いた。
  その男は何も答えずに、ちゃきちゃきと鋏を鳴らし始めた。

  帳場格子の中で、女が十円札(今の五千円札ほど)を勘定している。
  札の数を読んでいるが、いかにも早い。
  しかも札の数はどこまで行っても、尽きる様子がない。
  洗髪の後、戻ってみると、その女は見えなくなっていた。

  代を払って表に出ると、金魚売がいた。
  金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬杖をついてじっとしている。
  自分はしばらく立って、この金魚売を眺めていた。
  (他の人が、それぞれ自分の仕事をしているように見えるが、自分とのかかわりは少ない)

第九夜
  戦のために、夫は家を出ていった。
  若い妻は、子供を背負って、近くの八幡様に御百度を踏みに行くのが常であった。
  夫は侍であるから、弓矢の神の八幡へ、こうやって願を掛けたら、よもや聞かれぬ道理はなかろうと一途に思い詰めている。

  まず、拝殿の前で鈴を鳴らして、直ぐにしゃがんで柏手を打つ。
  それから一心不乱に夫の無事を祈る。
  その後、子供を背中から降ろし、細帯で縛り、もう片端を欄干にくくりつける。
  子供は、細帯の丈の許す限り、広縁の上を這いまわる。
  その間に、妻は二十間の敷石を行ったり来たり御百度を踏む。

  こういう風に、幾晩となく、夜も寝ずに心配していた夫は、とっくの昔に浪士のために殺されていた。
  (戦で命をなくす者も多かったであろうが、このような妻と子供は、この後、生活をしていくことができたのであろうか?)

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第十夜
  男は水菓子屋で、きれいな女の人が買った品物が重そうだったので、その人の家まで持って行ってあげることにした。
  二人は電車に乗り、山に行き、非常に広い原の草の上を歩き、絶壁のてっぺんに出た。
  女は男に、ここから飛び込んでご覧なさい、と言った。
  男は再三辞退した。
  女は、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますが、ようござんすかと聞いた。
  男は豚が大嫌いであった。

  すると豚が鼻を鳴らしてやって来た。男が豚をステッキで打つと、豚は絶壁の下に落ちていった。
  しかし、見ると、幾万匹か数え切れぬ豚が、群れをなして一直線に、男をめがけて鼻を鳴らして来ている。
  男は、必死に豚の鼻頭を七日六晩、叩き続けた。
  とうとう精魂が尽きて、しまいに豚に舐められてしまった。

  七日目の晩に家に戻ったが、急に熱がどっと出て、床に就いたが、助かるまいとみられた。
  (きれいな女の人は危険?)

 
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「夢十夜」 (その1) [日本文学]

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  夏目漱石が41歳の時の作品。
  1908年7月から8月にかけて、朝日新聞に連載。

  10日間にわたる夢の内容を記述するという構成。

第一夜
  女が死ぬ直前、墓のそばで待っていてください、また会いに来ますから、と言った。
  百年待っていてください、と言って死んだ。  
  自分は女の言う通り待った。
  勘定してもしつくせないほど、赤い日が頭の上を通り越して行った。
  
  すると、青い茎が延び、細長いつぼみが、花びらを開いた。
  真っ白な百合が、鼻の先で匂った。
  ぽたりと露が落ち、花は自分の重みでふらふらと動いた。
  自分は、白い花びらに接吻した。
  百年はもう来ていたんだなと、この時初めて気がついた。
  (女が百合になって約束通り会いに来た)

第二夜
  禅寺で、和尚から与えられた「無とは何か」という課題が解けない。
  和尚は、侍なら悟れぬはずはない、お前は侍ではあるまい、人間の屑だ、と罵った。
  時計が次の刻を打つまでに悟ってみせる。そして、和尚の首を取る。
  悟れなければ、自刃する。
  
  しかし、どうしても悟ることができない。
  頭が変になった。周りのものが有って無いような、無くって有るように見えた。
  そのとき時計がチーンとなった。
  侍は、右手をすぐ短刀にかけた。
 (侍は、無の境地に達したのに、死のうとしている?)

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第三夜
  眼が見えない子供をおぶって、歩いている。
  子供が森の方に行くように指示をする。
  「背中に小さい小僧がくっついて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照らして、寸分の事実も漏らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。」

  杉の根のところで、その子は「お前がおれを殺したのはちょうど百年前だね」と言った。
  自分は、今から百年前に、この杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が、こつぜんと頭の中に起こった。
  おれは人殺しだったんだなと初めて気がついた。
 (前世に重罪を犯していたことを、子供によって自覚させられる。子供は鏡?)

第四夜
  爺さんが、柳の木の下にいた三、四人の子供たちを相手にしていた。
  爺さんは、手ぬぐいを地面に置き、「今に、その手ぬぐいが蛇になる」と言った。
  爺さんは、笛を吹いて、ぐるぐる回り出した。
  手ぬぐいは一向に動かなかった。

  爺さんは、手ぬぐいを箱の中にいれ、「箱の中で蛇になる」と言いながら、柳の下を抜けて、細い道を真直ぐに降りていった。
  河の岸へ出て、爺さんはざぶざぶ河の中へ入り出した。

  だんだん腰から、胸の方まで水につかって見えなくなる。
  そうして顔も頭もまるで見えなくなってしまった。
  自分は、爺さんが向こう岸に上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、たった一人いつまでも待っていた。
  けれども爺さんは、とうとう上がってこなかった。
  (大人は知りたいことを教えてくれないまま、いなくなる?)

第五夜
  大将は敵に捕まえられたが、殺される前に一目、思っている女に会いたいと言った。
  敵の大将は、夜が明けて鶏が鳴くまでに女が来るのであれば、合わせてやろうと言った。
  女は馬に乗って駆け付けようとした。

  しかし、真っ暗な道のそばで、コケコッコウという鳥の声が聞こえた。
  馬は前脚のひづめを堅い岩の上にはっしと刻み込んでとまった。
  コケコッコウと鶏がもう一声鳴いた。
  女はアッと言って、馬とともにまともに前へのめった。
  岩の下は深い淵であった。
  鶏の鳴くマネをしたのはあまのじゃくである。
  (死ぬ前に愛し合う二人が対面するとことができるという感動的な話をぶち壊すのが、アマノジャクの本領)
  
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「明暗」 [日本文学]

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  夏目漱石の最期の作品。1916年5月から12月まで朝日新聞に連載。
  漱石の病状悪化により、連載は途中で途絶えたが、それでも文庫本で600ページの、漱石の作品では最も長いものになっている。
  未完の作品ではあるが、夫婦の内面の葛藤に鋭く切り込んでおり、漱石の傑作のひとつである。

  主人公は、津田とお延の夫婦。 結婚したのは半年前。
  東京で暮らしているが、出会ったのはそれぞれの実家がある京都。
 
1 小説のポイント
 この小説のポイントは以下の3点。

 ① お金の問題
  津田は勤めに出ているが、毎月の給料では足らず、京都の父から仕送りを受け、それは賞与で返す約束になっていた。
  しかし、津田が賞与での返済を守らなかったため、父が毎月の仕送りを止めた、
  このため、津田とお延は足りない分をどうするか、悩む。

  周りの人たちからは、いろいろ言われる。
  お延がしている、津田からもらった指輪を問題にする人もいる。

 ② 津田とお延との関係
  お延は津田の気持ちが今ひとつわからない。
  お延は、津田がなにか大切なことを隠しているのではないかと疑う。

 ③ 津田の、清子に対する思い
  津田は、清子と一緒になるつもりでいたが、清子は1年前に津田と別れ、他の男性と結婚した。
  津田は、お延と結婚したが、清子への思いが頭の片隅から離れない。
  清子が、流産の体力回復のために温泉場に行っているのを聞き、津田は会いに行く。
  別れた時の清子の気持ちを確認し、清子への思いにけりをつけようとするため。

2 お延の気持ち
(1)津田は手前勝手
  自分は精一杯、朝夕尽くしている。
  しかし、夫の要求する犠牲には際限がない。夫が親切に親切を返してくれない。
 「夫というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生活する海綿に過ぎないのだろうか」

(2)結婚してしてしまった自分
  たいして年の違わない、結婚前の従妹が、いつまでも子供らしく、気苦労のなさそうに初々しく、処女として水の滴るばかりの姿に、軽い嫉妬を覚えた。

 「処女であったころ、自分にもかってこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」

  お延は心の中で従妹に言った。
 「あなたは私より純潔です。あなたは今に、夫の愛をつなぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽くしてすら、夫はことによるとおなたにつらく当たるかも知れません。」

(3)叔父叔母夫婦を見て
  お延は今の津田に満足してはいなかった。
  しかし、未来の自分も、この叔母のように脂気が抜けてゆくだろうとは考えられなかった。
  女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真に恐ろしい生存であるとしか、若い彼女には見えなかった。

(4)結婚がうまくゆくという自信
  自分が津田を精一杯愛しうるという信念があった。
  同時に、津田から精一杯愛されうるという期待も安心もあった。

  結婚前、千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日に至る間に、太陽に黒い斑点ができるように、思い違い、勘違いの痕跡で、すでに汚れていた。

3 津田の生き方
(1)人生観
  物事に生ぬるく触れてゆく、微笑して過ぎる、なんにも執着しない、のんきに、ずぼらに、淡白に、鷹揚に、善良に、世の中を歩いてゆく。

(2)お延から見た津田
  腹の奥で相手を下に見る冷やかさがあった。
  自分の手に余るあるものが潜んでいると思った。
  容易におこらない人であった。

(3)お金に関する見栄
  自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際よりはるかよけいな額に見積もったところを、彼女に向かって吹聴した。
  必要な場合は、いくらでも父から補助を仰ぐことができる、月々の支出に困る憂いはない、と話した。
  このため、父からの送金が途絶え、お延から軽蔑されるのを深く恐れた。


(小説は、津田が温泉場で清子に会い、打ち解けてきたところで、余韻をもって終わっている。)

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「蜻蛉日記」 [日本文学]

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 作者は藤原道綱の母(936~995)と呼ばれる人(実名は分からない)。
 作者の19歳から39歳までの、結婚生活の悲哀が描かれている。
 
 作者は19歳で、当時の右大臣の三男である藤原兼家から求婚され、妻となる。
 作者も藤原一族の子ではあったが、夫の家柄の方がはるかに高かった。
 また、この時、兼家にはすでに時姫という妻がいた。
 一夫多妻制の時代であり、止むをえない。
 なお、先に妻であった時姫と作者との間に、正妻と側室というような優劣はない。

 また、当時の結婚は、妻が両親などと暮らしていた家にそのままいて、夫が通ってくるのをひたすら待つという通い婚。
 妻が夫の家に行くのは極めてはしたない行為とみなされていた。

 家柄の違いにもかかわらず、作者が求婚に応じたのは、それなりに自分に自信あってのことと思われる。
 作者は、本朝三美人の一人といわれるほど、美しかった。
 また、当時の上流社会で大変重要な技能であった和歌に関しても優れた才能を持っていた。
 作者はこのように才色兼備の女性であった。

 しかし、結婚の翌年、作者が妊娠して子供ができたころ、兼家に新たな三番目の妻ができたことを知り、作者のプライドはズタズタになる。
 夜明け前に、兼家が作者の家にやって来たが、作者は門を開けさせなかった。
 兼家が三番目の妻のところに行った後、次の歌を書いて、兼家のところに届けさせた。
 「嘆きつつ独り寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る」
 (泣きながら夜が明けるまでひとりで寝るのがどんなに長いものかご存知でしょうか)
 (百人一首に採用された名歌である)

 三番目の妻が男子を出産した。しかし、5年ほどで、三番目の妻は兼家の寵愛を失う。
 作者は、うれしい気持ちを、「あの女は言う価値もないつまらぬ素性である。いい気になっていたのが、突然こんなことになり、どんな気持ちがしただろう。私が苦しんでいるより、もう少し余計に嘆いているだろうと思うと、今こそ胸のつかえがおりて、すっきりした」と書いている。

 兼家にとり作者は、どこに出しても恥ずかしくない美貌の歌人。一方、時姫は容色ならびに歌の腕前の両方で作者にはかなわない。
 しかし、時姫は兼家との間に三男二女をもうけた。
 これらの子供たちは、それぞれ栄達を遂げ、時姫の評価は高まった。
 作者が35歳のころ、兼家は新居を作り、そこに時姫と子供たちを呼び寄せた。
 作者と時姫との間に決定的な差がついてしまった。

 作者は、すべてのことを運命として受け入れるような受け身の姿勢はとらず、兼家に冷たい態度をとることもあったため、気持ちが離れてしまったのだろうか。

 しかし、このように自分というものを持っていたため、過去を振り返り、人に読んでもらうためのものを書く気になったのだと思われる。

 蜻蛉日記の冒頭で作者は、「世の中にたくさんある古い物語をのぞいてみると、どれもこれもきれいごと、うそばっかり。そんなものでさえ面白がられるのだから、人並みでない私の身の上をありのままの日記にしたら、もっと珍しいものになるだろう」と書いている。
 
 時姫との競争では決して勝利したとは言えない身の上を、作者がわざわざ書き残して、人に知らしめることを選んだのはどうしてだろうか。
 以下のようなことがその理由であろうか。
 ① 男性中心の社会で、女性としてのプライドを捨てずに生きてきたという自負心があった。
 ② 兼家との結婚生活で、幸せな時期も少なからずあったことを知ってほしかった。
 ③ 兼家との間にやり取りした、数多くの和歌を書き残しておきたかった。

 本作品の成立は975年頃と考えられており、女性がこうした作品を書く道を切り開いた。
 このあと、和泉式部日記、紫式部日記、更級日記などの日記のほか、枕草子や源氏物語など、女性が文芸の分野で華々しく活躍することになる。

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