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「おだやかな死」 [海外文学]

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ボーヴォワール.jpg

  著者は、フランスの実存主義作家、シモーヌ・ド・ボーヴォワール。
  この作品は、著者の母親の入院と死について書いたもの。

1 母について
  結婚生活としてはうまくいった方で、自分をいたわってくれるふたりの娘があり、ある程度の暮らしができたので、母は戦争の終わりごろまでは、自分の運命に不平を言うことをしなかった。
  愛情深く、快活で、母の微笑は私をこの上なく喜ばせた。

  私たちに対する母の愛は深いと同時に、排他的なものだった。
  妹に対して特別に、母は支配力を確保することに固執した。
  そして、私達姉妹が仲のいいのに嫉妬した。

  母は不器用さから他人との関係を壊していた。
  母は自分の困っていることを誰にも話すことができなかった。

2 母の病気
  一人で暮らしている77歳の母が、浴室でころんで大腿骨を骨折した。
  母は2時間も床の上をはいまわって、やっと電話機のところに辿り着いた。
  病院の医師は、手術はしない、3か月安静にしていれば折れた個所はくっつくであろう、と言った。

  胃と肺のレントゲンを撮った。どこも何ともないというのである。採血の結果も常態だった。
  腸のレントゲンを撮った。
  腫瘍ができて小腸をふさいでいる。母はがんになっているのだ。

  開腹手術をして、がん性の大きな腫瘍を取り出した。
  腹腔に2リットルの膿ががあった。腹腔破裂だ。

  私は医師に「苦しめないでください」と言った。医師は「苦しみませんよ」と言ってくれたが。
  死と拷問の苦しみの間の競争が始まったのだ。

  私が15歳の時、叔父が胃がんで亡くなった。
  何日も叔父は「殺してくれ。私のピストルをよこせ。可哀そうだとは思わないのか」と叫び続けたということを後で聞かされた。
  
  母は私達が自分のそばにいるものと思い込んでいる。
  しかし、私達はすでに彼女の人生の反対側に位置しているのだ。
  母はずっと遠いところで、人間的孤独の中でもがいている。

  分析の結果によれば、腫瘍は非常に毒性の強い肉腫だった。
  からだじゅうに転移が始まっていた。

  母は幻覚に悩まされた。
  「誰かが私を箱に入れる。」 「私をつれて行かせないでおくれ!」

3 母の看護
  看護していた妹は、神経をすり減らしていた。私も頭に血がのぼっていた。
  何よりも私たちを苦しめたのは、母の危篤状態の苦しみであり、また回復であり、私たち自身の矛盾した気持だった。
  苦しみと死のかけくらべの中に身を置いて、私達は死の方が先にゴールに入ってくれることを熱心に望んだ。
  そのくせ、最後のけいれんが起こりはしないかという恐怖が私たちの胸を苦しめた。

4 最後の苦しみ
  夜中ひどく苦しんだ。「からだ中がいたい!」 モルヒネの注射をした。
  病人が目を開けた時、視線はどんよりと乱れていた。
  
  私はこの瀕死の病人に心身ともに吸い寄せられていた。
  母は、腐敗しかけている自分の肉体から無限に遠いところで、私達のウソの作り出す雑音で耳をいっぱいにしながら、安らい、夢見ている。
  病気が治るという激しい希望の中に全身を凝集させながら。

  けいれんを起こして、病人はうめいた。「我慢できない。」
  それから、半分嗚咽になりながら、子供のような声で、「ああ切ない」と叫ぶ。
  私は母のからだにさわり、話しかけた。
  しかし、母の苦悩の中に入り込むことは不可能だった。

  医師は、鎮痛剤で母の苦痛をだますよりほかにない、と言った。
  私たちは「モルヒネで臨終の苦しみが防げますか?」と聞いた。
  医師は「必要な量は投与します」と答えた。

  病人は再び寝入った。寝息がほとんど感じられないので、私は「動揺なしに、寝息が止まってくれたらありがたいけど」と思った。

  しかし、母は臀部のやけどのような痛みでまた眠りを覚まされた。
  モルヒネ注射。効果なし。一昨日と同じように、私は母の手を握り、励ます。
  母は再び眠ったが、両手は冷え切っていた。

  そして、それでおしまいだった。

5 葬儀に向けて
  黒塗りの霊柩車で、病院から棺に入った遺体を引き取った。
  妹は短くすすり上げた。
  「たったひとつの慰めは、私もいつかこうなるってことだわ」と妹は私に言った。
  その通り。私たちは自分自身の埋葬の稽古に立ち会っているのだった。
  不幸は、万人に共通のこの冒険を、各人が単独で生きるということである。


「アンデスの奇蹟」 [海外文学]

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  1972年、南米アンデスの、雪が積もる山中に墜落した飛行機の乗客が、亡くなった人の肉を食べて生き延び、生還したという衝撃の実話。
  2006年出版された本書の著者の一人、ナンド・バラードさんはその生還者。
 
  この事件については、1973年に「ALIVE(生きてこそ)」という本が出版され、ベストセラーとなった。また、何回か映画化もされている。

1 飛行機の遭難
  1972年10月、ウルグアイのラグビーチームを乗せた乗員乗客45名のウルグアイ空軍チャーター機がアンデス山脈の高度3,700メートル地点に衝突、墜落した。

  飛行機はプロペラ機で飛行高度に限界があり、アンデス山脈の高峰の間を抜けていく必要があった。
  また、当日の悪天候が操縦士を苦しめた。
  「突然、期待が横へ滑りながら急降下した。その後四回、乱気流のポケットへまともに突っ込んだらしく、飛行機の胴体に鋭い上下動を感じた。」

  「私たちは濃い雲の中を飛んでいるが、雲の切れ目の向こうを、一瞬、岩と雪の巨大な壁が通り過ぎた。操縦士は必死の思いで急上昇を試みた。次の瞬間、金属が何かに打ち当たるような、そら恐ろしい騒音が響いた。突如、頭上に空が開けた。凍える寒気が顔面を叩きつけた。私は、信じがたいほどの力で自分の座席からもぎり取られ、前方へ投げ飛ばされた。」

2 生存者
  45名のうち27名が生き残った。重傷者は私を含め三人。
  私の頭蓋の割れた部分はまたくっつきあってきていた。
  あとは、両脚を複雑骨折している者と、右ふくらはぎの筋肉を骨からむしり取られている者。
  医師はいたが、手持ちの医療品は悲しいほど少なかった。
  
  食料や衣料をかき集め、仲間が全員生き延びられるように、全力を尽くした。

3 寒気と渇きと飢え
  生存者を最初に襲った苦しみは、寒気だった。
  季節はすでに春先だったが、アンデス山中はまだ冬の真ん中にあり、二十四時間ぶっ通しで吹雪くこともあった。

  また、渇きも生存者を苦しめた。
  雪が積もった氷河の上にいるが、効率的な融雪の手段を持っていない。
  しかし、座席についているアルミの薄板を集め、日差しで雪が解けるような工夫をして、何とかしのいだ。

  墜落から1週間。食料は尽きた。
  高所では平地以上に、体が熱量を必要とする。一日1,500カロリーは必要だ。
  しかし、事故以来、一日数百カロリーしかとっていなかった。ここ数日はゼロ。
  何度も何度も機体の中を漁りまわった。食べられるものは何もなかった。

4 亡くなった人の肉
  「なんとしても、何か食べられるものを見つけなければ、という重圧に耐えながら、私は大分長いこと、三、四十メートルの近間にある、唯一食べられるものを、見てみないふりをしてきた。」

  「私の気持ちは、雪の下に横たわる凍結する死体の周辺から、遠く離れることがなくなった。私たちが生き延びる唯一の可能性はあの死体にある、と承知していた。」

  「数日にわたって、私達は五人でその問題について話し合い、結局みんなに集まってもらって、この話を持ち出そうということになった。」

  その話し合いで、一人が「神様がそんなこと許してくれるだろうか?」と言ったのに対し、ある者が「食べないということは、自ら死を選択すること。神は、我々があらゆる手段を尽くして生き延びることを望んでいる。私はそう信じる」と答えた。食べて生き延びることにした。

5 雪崩
  事故から16日目、雪崩が襲ってきた。
  一人を除いて全員が雪に埋まって見えなくなった。
  一人また一人、掘り出されると、そのまま雪の掘り起こしに加わる。
  しかし、懸命の努力にもかかわらず、全員を救出することは出来なかった。
  生存者は27名から19名になった。
  機体の中も雪のせいで狭くなり、また、毛布などもなくなった。

6 脱出へ
  11月17日、事故から36日目、東に向かって比較的元気な三人が派遣隊として出発することになった。
  しかし、途中で東側に進んでも山中を脱することは難しいと判断して、機体の処へ戻った。

  今度は西に向かって進むことにした。
  高所の希薄な空気、そして厳しい寒気が難敵であった。
  12月12日、事故から61日目、西に向かって三人は出発した。
  (一人は途中で引き返し、二人になった)
  二人は出発して4日目に5,000メートルを超える峰を超え、川に沿って進み、12月21日、10日目に農夫に出逢った。

  22日に6人、23日に8名がヘリコプターにより救出された。生存者は16人であった。
  このニュースは「クリスマスの奇蹟」として世界中を駆け巡った。

  「多くの報道機関はセンセーショナリズムを煽るような形で、私達が生きんがために何を食べたか取り上げた。私たちが救助された直後に、カトリック教会の大幹部が声明を出した・・教会の教理に照らしても私たちが死んだ者の肉体を食べたことは、罪にならない、と。私たちが自死することこそ罪になる、と協会幹部が世界に向かって公言した。さらに、死んだ仲間たちの両親の多くが、私たちの行動を支持すると、公の場で発言してくれた。」

  30年後、生き残った16名はウルグアイの各方面で活躍している。
  

「鳥のいない空 シンドラーに救われた少女」 [海外文学]

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  著者はステラ・ミュラー・マディさん。ポーランドに住んでいたユダヤ人。
  著者とその家族は、ゲットーへ、そして強制収容所へ入れられる。
  本書はその回想記。

1 ゲットー
  ステラは1942年、やっと12歳になった女の子
  ゲットーという、ドイツ軍が指定したユダヤ人居住区の建物の一室で、父母並びに兄とともに暮らす。
  
  病院で虐殺が行われた。病院の中庭でドイツ兵が患者を全員撃ち殺した。
  広場では人がトラックにどんどん押し込められ、駅に運び、家畜用の貨車に載せられ、強制収容所に送られる。

  10歳までの子供だけを集めた建物から、子供たちが次から次とトラックに載せられた。
  門に向かって一人の女の子が車道の真ん中を駆け出した。
  人形を抱えて。5歳くらい?
  しゃがみこんだドイツ兵が片膝を立てて射撃の姿勢を取り、そして銃声。
  女の子は人形を抱えたまま倒れ、動かなくなった。

  世界は私達を忘れ、そして見捨てています。
  どこからも最低限の援助さえ来ません。
  関心も持たれていないのです。

2 強制収容所へ
  強制収容所の中のバラックには電球ランプもなくろうそくが一本。
  壁に沿って並ぶ板張りベッド。すさまじい臭い。湿気と汚物。
  毛布の中に並んだ無数の灰色の顔。

  洗面所は、たくさんの丸い穴の開いた板があるだけ。ものすごい臭気。
  ここでは16歳であれば労働を与えられ、とりあえずは生きられる。
  両親は、書類を偽ってステラを16歳として働けるようにした。髪も短く切った。

  昼食のスープを受け取った。鼻が曲がるほどの不快なにおい。
  鍋で作った褐色の汚物。どうにかこの汚物を何口か飲み込んだ。

  収容所の外を監視されながら行進することがあった。
  道には大勢の地元の人が来ていた。反応はさまざま。
  無関心を装う人。涙をぬぐう人。
  「頑張るんだぞ」と声がある一方、「消え失せろ、ユダ野郎」と叫ぶ人もいた。

3 収容所での殺戮
  土がうずたかく盛られているそばを通った。高台の周囲には溝が深く掘られていた。
  おびただしい数の手足が、無造作に、もつれあって地面から突き出ていた。
  この高台に、トラックが毎日途切れることなくやって来た。
  銃声の途切れる日はなかった。

  移送されてきた人々の中に子供が二人いた。10歳ぐらいの少年と4歳ぐらいの女の子。
  少年は女の子の頭を自分の胸に押し当てながら溝の底に立った。
  少年の肩は震え続けていた。機関銃の連射音。
  大声で笑いながらトラックに戻るドイツ兵。この人たちも同じ人間なのに。

  ある朝、収容所から二人が脱走した。収容されている2万人全員が広場に集められた。
  脱走者が見つかるまで、そこに居なければならなかった。
  立ったまま、水を飲むことも許されない。
  声を出しただけで、ひどく殴られた。失神した人にムチがふり降ろされた。
  翌朝になっても脱走者は見つからず、立ったまま。
  ドイツ兵は「十数え」を行うと言った。順番に10人ごとに一人殺される。
  数えながらやって来たドイツ兵は、隣の女の人を引っ張り出した。
  涙がこぼれてきた。わずかな違いが生死を分けた。

4 アウシュビッツへ
  その後、家族とともにガス室のあるアウシュビッツ収容所に送られる。
  そこで、シラミが腿に入り込み、大きな潰瘍となってしまう。
  化膿と高熱で瀕死の状態となる。
  病気になるとすぐに殺される収容所で、親切な医師にかくまわれ治療を受ける。
  2週間もの昏睡状態から奇跡的に脱する。

5 シンドラーの工場へ
  ユダヤ人を労働者として使う、オスカー・シンドラーの工場へ、運よく移ることができた。
  収容所よりは恵まれた生活ができたが、そこにもドイツ人の監督官がいた。
  ドイツ軍の敗色濃厚な中、その監督官はそこのユダヤ人の絶滅と工場の閉鎖を企てたが、シンドラーはなんとかそうした事態を防ぐことができた。

  最後は食料もほとんど届かなくなったが、生き延びることができた。

「フランス短編傑作選」 [海外文学]

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  岩波文庫の一冊。
  19~20世紀に活躍したフランスの作家の短編を中心に集めている。
  そのうちの二作品。いずれも愛に関する話。

1 「ヴェラ」 オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン(1838~1889)
  愛の不可思議な力には限りがない。

  パリの豪壮な屋敷に住む伯爵は、結婚して6か月の最愛の伯爵夫人を失う。
  「死」は突如、雷のように襲ってきた。
  夜、激しい抱擁に恍惚となって我を忘れ、そのため心臓が悦楽に耐え切れずに息絶えたのであった。

  伯爵は、地下墓所での悲しい儀式の後、屋敷に戻った。
  彼は年老いた下僕とともに、伯爵夫人がそこにいるかの如くの生活を始めた。
  伯爵は、最愛の妻の死を全く忘れて暮らしていた。
  伯爵も下僕も、自分たちが何をしているかわからなかった。
  どこまでが幻想で、どこまでが現実なのか区別しがたくなっていた。

  1年が過ぎたある夜、伯爵夫人が冥界の奥から、かぐわしい自分の香りの残るこの部屋へ戻ろうと、可憐にも努めていた。
  彼女は伯爵のもとへ戻ってきたいと思った。
  
  伯爵はそれに気づき、彼女がここにいることは、この自分の存在同様に確実なことだ、と伯爵は平静に考えた。
  信念の力によって、復活の道が彼女のところまで届いたのだ。
  彼はそばへ駆け寄った。
  二人の唇は合わされた。
  
  突然、伯爵は身をふるわせた。
  ふと何か不吉なことを思い出したように、
  「ああ、そうだった。何をぼんやりしているんだろう。お前は死んだのだったな。」

  この言葉が発せられたとたん、燃えるがごとき白い幻は空に戻り、伯爵の腕の中ではかなくもかき消えた。
  彼の夢は一挙についえ去った。

  彼はつぶやいた。
  「お前の所まで行くには、どの道を行けばいいのか。そちらへ行ける道を教えてくれ・・」

2 「ある少女の告白」 マルセル・プルースト(1871~1922)
  14歳の時、一つ年上の従兄が、後悔と愛欲でたちまち体が震え出すようなことを教えた。
  彼の話を聞き、手をなでられるがままにしながら私は、毒されている快楽を味わっていた。
  このことを母に打ち明けると、母は大したことではないとやさしく言ってくれたので、私の良心の重荷は次第に軽くなっていった。
  
  16歳のころ社交界に連れていかれ、質の悪い不良に恋をするようになった。
  彼は不意をつくようにして私を悪の道に誘い込み、悪い考えが私のうちにひとりでに目覚ますようにならせていった。
  私は、若い娘はみな同じようなことをしていて、親はただ知らぬふりをしているだけだということが呑み込めるようになった。

  私が生涯で一番くだらない人間であったこの時期に、私は皆からいちばん賞賛された。
  すり減った良心の奥底で、こうした的外れの賛辞に絶望的な恥ずかしさを覚えていた。

  20歳の冬、ある青年との結婚を承諾した。
  そして、告解師にこれまでの罪のすべてを打ち明けた。
  告解師はフィアンセには打ち明けなくともよいが、二度と過ちを起こさないと誓うことで、罪の許しを授けてくれた、

  間近に迫った私の結婚を祝って乾杯が行われた。
  私は、ぶどう酒そしてシャンパンと杯を重ねてしまった。
  そこに私の過去の過ちに最大の責任がある青年が近づいてきた。
  私は彼にについて行き、部屋に鍵をかけ、抱き合った。
  
  近くの鏡の中で、きらきらかがやく眼から上気した頬、顔全体が官能的な、おろかしい、けものじみた喜びに息づいていた。

  そのとき、母がバルコニーの上から、あきれ返った表情で私をながめているのが見えた。
  母は後ろに倒れた。卒中におそわれたのだ。

  私は危うく失敗するところだった。 
  狙いはちゃんとつけたのだが、引き金の引き方がまずかった。
  でも弾丸は摘出できず、心臓に異常が生じている。
  もうそう長いことはないだろう。私は死ぬのだ。



人間を食う話 [海外文学]

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<魯迅>

  中国での、人間を食う話。
  一つはフィクションで、もう一つはノンフィクション。

1 魯迅「狂人日記」
  ・魯迅(1881~1936)は戦前の中国を代表する小説家。
  ・「狂人日記」は、狂人の手記により、中国の古い社会制度や家族制度の虚偽を暴露することを意図しているという。

 「ぐるになっておれを食う人間が、おれの兄貴なのだ。人間を食うのがおれの兄貴だ。おれは人間を食う人間の弟だ。おれ自身が食われてしまっても、おれは依然として人間を食う人間の弟だ。」

 「自分では人間が食いたいくせに、他人から食われまいとする。だから疑心暗鬼で、お互いじろじろ相手を盗み見て・・・。 

  こんな考えを棄てて、安心して仕事をし、往来を歩き、飯を食い、眠ったら、どんなに気持ちがいいだろう。それはほんの一跨ぎ、一つの関を越えるだけだ。だが、やつらはお互いに励ましあい、お互いにけん制しあって、死んでもこの一歩を踏み越そうとしないのだ。」

 「たぶん大昔は、人間が野蛮だったころは、だれでも少しは人間を食ったんでしょうね。それが後になると、考えが分かれたために、ある者は人間を食わなくなって、ひたすらよくなろうと努力し、そして人間になりました。まっとうな人間になりました。

  ところが、あるものは相変わらず人間を食った。この人間を食う人間は、人間を食わない人間に比べて、どんなに恥ずかしいでしょうね。」

 「俺の妹は五つになったばかりだった。かわいい、いじらしい様子が今も眼に浮かぶ。おふくろは泣き通しだった。妹は兄貴に食われた。」

2 ユン・チアン「ワイルド・スワン」
  ・ユン・チアン(1952~)は中国生まれで、現在ロンドン在住の作家。
  ・「ワイルド・スワン」は、文化革命時代の自分の祖父母や両親について書き綴ったもの。
 
 <ユン・チアン>
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 「(毛沢東の躍進政策の失敗により発生した)1958~1961年の飢饉の救済に当たっていた担当官が、四川省では7百万人が死んだと話していた。これはこの地域の人口の10%にあたる。中国全体では飢饉により3千万人が亡くなったとみられている。」

 「1960年のある日、叔母の隣に住んでいた3歳の娘がいなくなった。数週間後、その娘の親が娘が来ていた服とそっくりな服を着ている子を見つけた。

  その服を調べたら自分の娘のマークがあった。その親は警察に通報した。取り調べの結果、その服を着ていた子の両親は、数多くの幼児を誘拐して殺害し、ウサギの肉として法外な値段で売っていたことが分かった。

  犯罪を犯した二人は直ぐに処刑され、事件が公になることはなかった。しかし、幼児の殺害は当時、広範囲に行われていたといわれている。」

 「ある村落では、35%の農夫が死んだ。父の友人の話であるが、ある日、農夫が駆け込んできて、ひどい罪を犯してしまったと叫んだ。彼は、罰してくれと言った。

  その後の調べで、彼は自分の赤ん坊を殺し、食べてしまったことが分かった。飢餓は制御不能な力となり、彼にナイフを持たせてしまった。警察は彼を逮捕し、見せしめのため、射殺した。」

 「毛沢東は、飢饉をソ連による過酷な借金取りたてや自然災害のせいにした。またある時、毛沢東は飢饉の原因の70%は自然災害で、30%が人災であると言った。これに対して、劉少奇は30%が自然災害で、70%が人災と言い、後に毛沢東により失脚させられた。」


ゴーゴリ「外套」 [海外文学]

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  ロシアの小説家、ニコライ・ゴーゴリ(1809~1852)の代表作の一つ。
  うだつの上がらない、しかし、自分なりに生きようとした下級役人の悲しい物語。
  この作品はその後の小説家に多大な影響を与えたといわれており、芥川龍之介もその一人で、彼の小説「芋粥」の構成は「外套」の影響を受けた。

1 主人公は、役所の同じ席、同じ地位、同じ職務で、長い間働いている。
  清書というのが彼の仕事。愛情をこめて、この仕事に取り組んだ。
  周りから悪ふざけをされても、彼は一度も間違えずに、仕事を続けた。
  彼ほど自分の職務に忠実に生きている人物を見つけ出すことは難しい。
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2 あまりにも耐えられない悪ふざけをされると、彼は声に出して言います。
  「わたしをそっとしておいてください。なぜ、あなた方は私をいじめるのですか?」

3 彼は自分の服装には全くこだわりませんでした。その制服は本来の緑色を失い、何か赤茶けた麦粉色になっています。また、彼はどんな娯楽にも身をゆだねることはありませんでした。年に400ルーブルをもらい、満足して暮らす人間の穏やかな生活が流れて行きました。

4 貧しい人々にとって手ごわい敵が、北国の厳しい寒さです。朝、出勤する人々を強烈で刺すような一撃をくらわすのです。彼は役所に向かう決まった距離をできる限り早く駆け抜けるよう努めました。しかし、いつからか背中や肩がいやに冷え込むように感じるようになりました。家で外套をよく見るとそのあたりがボロボロに破れています。

5 彼は仕立て屋に直してもらおうと、その外套を仕立屋のところに持って行きました。彼は修理代として2ルーブル以上は支払うまいと心に決めていました。仕立屋は、長い時間をかけてその外套を点検して、彼に言いました。
  「修理は無理です。ひどいものですよ! つぎ当ては無理ですな。全くぼろぼろで、針で触ればたちまち破けてしまいます。新調するしかありませんな。」

6 外套を新調するには80ルーブルかかる。そんな大金をどうやって作ればいいのだろうか。
  彼はいざというときのために、貯金箱に数年かけて40ルーブルほど貯めていた。
  残りは普段の生活をさらに切り詰めることにした。
  晩にお茶を飲むのをやめ、夜ごとローソクに火をともすのをやめる。
  晩の空腹をやり過ごすこともできるようになった。
  外套の新調という目的に向かって、彼はなぜか生き生きとして、性格さえも強くなった。

7 そしてようやく彼は仕立屋に外套を作ってもらうことができた。
  外套は実にピッタリ、しっくりと仕上がっていた。
  彼はそれを着て、役所に出勤した。
  役所の誰もが、彼にお祝いや挨拶を述べた。
  彼の上司が、お祝いに今晩、自分の家でお祝いの会をやろうといった。
  彼は行きたくなかったが、断り切れなかった。

8 彼はその会に出かけ、シャンパンも飲まされた。真夜中の12時に、会はまだ途中であったが、彼はそっと部屋を出て、外套を羽織り、帰宅の途に就いた。
  人気のない道が長く続く。
  広場を通り抜けようとしたとき、ひげを生やした連中が道をふさぎ、外套をはぎ取られてしまった。
  近くの交番に駆け込みましたが、明日、警察署長のところに行きなさいと、言われた。翌日、そのとおり警察署長のところに行ったが、直ぐに調べてくれるかどうかは分からなかった。

9 あくる日、古いぼろぼろの上っ張りを着て役所に行った。多くの同僚は追いはぎの話に心を痛めた。ある同僚が、さる高官へお願いした方がいいとアドバイスした。彼が、そのとおりその高官のところに行き、ようやく面談することができ、来訪の目的を話すと、 その高官は声を強く張り上げていった。
 「誰に向かって話しているのか、知っとるのかね? あんたの前にいるのが誰なのかわかっておるのか?」

10 彼はこんなに厳しく叱責されたのは人生で初めてのことだった。かれは吹きすさぶ吹雪の中を口をぽかんと開け、やっと家に辿り着いた。
  彼はベッドに倒れこんで横になった。
  翌日になるとひどい高熱が出ているのが分かった。
  医者が来た時には手の施しようがなかった。
  彼は全く意味不明のことを語り続けて息を引き取った。

11 彼は、誰の興味も引かず、誰の注目を浴びることもなく、この世から消え、埋もれてしまった。
  役所での嘲笑をおとなしく耐え、特別な仕事をしないまま、墓に入ってしまった。
  それでも人生の終わりに外套という姿を変えたお客が、貧しい生活を一瞬でも生き生きさせ、まばゆいほどの輝きを与えた。
  役所では、彼の死が知らされ、その翌日には彼の席に別の新しい官吏が座っていた。

チェーホフ「桜の園」 [海外文学]

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<舞台>
桜の園 舞台.jpg

  ロシアの劇作家、チェーホフ(1860~1904)が、1903年に発表した戯曲。
  時代が大きく変わろうとする中で、何もすることができず、ただ流れに身を任せ、没落してゆく女主人を描く。

  所有する農奴から得るお金で優雅に暮らしていた者たちも、真に人間らしい生活をするためには、自分自身が働かなければならない時代になったのだと、主張する。

  しかし、それを理解できる者と理解できない者とがいる。

1 広大な桜の園を有する邸宅の持ち主である女主人は、夫を亡くし、その一月後には男の子が近くの川で溺死するという不幸が続き、いたたまれずパリへ行っていたが、6年ぶりに帰ってきた。

2 それまでの散財の結果、彼女はもう借入金利息を払うお金もなく、桜の園も含め邸宅は競売にかけられようとしている。

 「あたしはいつでもお金をきちがいのようにパッパッと使い捨てました。そして、借金ばかりする人のところへお嫁に行きました、あたしの夫はシャンパンのために死にました。そして、坊やが溺れました。そして私は外国へ発って行きました。不幸せにもあたしは別の人を愛して、一緒になりました。しかし、あのひとは私から巻き上げるだけ巻き上げて私を捨て、他の人と一緒になり私を捨てました。」

3 屋敷に出入りする若者や商人が女主人に意見をする。
 「うぬぼれはやめなければいけません。ただ働くことだけが必要なんです。」
 「ちゃんとした人間がどんなに少ないかわかるためには、何かやり始めるのに限ります。」
 「現在を生き始めるためには、過去の罪を償い、それとけりをつけなければならない。だが、それは苦しみによって、また、並々ならぬ絶え間のない勤労によってのみ、罪を償うことできるのです。」

4 しかし、女主人の浪費癖は治らない。
 ア 従僕に食べさせるものにも事欠くのにもかかわらず、通りがかった旅の浮浪者に金貨を恵んでしまう。

 イ 邸宅が競売にかかる日に、楽隊を入れ、舞踏会を開く。

5 邸宅の競売は、結局、出入りの商人が落とした。その商人が言う・・

 「読み書きもろくにできず、冬もはだしで駆けずり回っていたこの私が、この世にまたとないほど美しい領地を買ったんだ。私の祖父や親父はそこの奴隷だった。台所へさえも通してもらえなかった、その領地を私は買った。」

 「みんな見に来たまえ。私が桜の園に斧を入れるのを。樹が地面に倒れるのを。我々はうんと別荘を建てるんだ。そして、我々の孫やひ孫はそこに新しい生活を見るんだ。」

6 邸宅で暮らしていた人々が、そこを去る日が来る。娘たちは働く覚悟を決めるが、女主人は相変わらず、人を頼りに生きることしかできない。

    女主人    ・・ パリへ行く。親戚が送ってくれたお金で暮らすが、直にお金は尽きる。
    その娘 17歳 ・・「私は、中学卒業の資格試験に通り、それから働いて、ママを助けるわ。」
    その養女 24歳・・ よその家の家政婦になる。
    女主人の兄     銀行に勤める。


ゲーテの天才論 [海外文学]

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<70歳の頃のゲーテ>

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  エッカーマンが書いた「ゲーテとの対話」(1848年出版)の第三部1828年の章で、ゲーテの天才についての考えが紹介されている。

1 永続性を生む生産力
(1)天才とは、影響力を持ち永続性を生む生産力だ。世代から世代へと働き続け、早急には衰えたり尽き果てたりすることのない生産力だ。大切なことは、ただその着想、その行為に、生命があるかどうか、あとあとまで生命を持ち続けられるかどうかだ。モーツアルトの全作品には、世代から世代へと働き続け、早急には衰えたり尽き果てたりすることのない生産力がある。

(2)作品や事業の量が多いからといって、生産的な人間とはいえない。わずかな作品でも、永続しうる生命を内に蔵していればよい。ゴールドスミス(イギリスの詩人)はほんのわずかな詩しか書かなかったが、彼は詩人として誠に生産的だった。そのわずかな作品が、永続しうる生命を内に蔵してるから。

(3)天才的な生産力というのは、人物の精神にだけ宿っているだけではなく、身体もそれに極めて大きな影響力を持っている。ナポレオンは花崗岩でできた人間だと言われたが、このひとはどんな無理なことでもやったし、またそうするだけの力もあった。わずかな睡眠とわずかな食事で最高度の精神活動を続けた。

2 反復する思春期
(1)偉大なことを成し遂げるには、若くなくてはいけない。しかし、天才的な人物では、反復する思春期がある。

(2)天才的な人物の場合、エンテレヒーが強力で、それが肉体にみなぎってこれを生かし、単にその組織に作用してこれを強化し、向上させるばかりでなく、更に強烈な精神力によって、永遠の青春という特権を、絶えず主張する。彼らはつねに、一時的な若返りが繰り返し起こるように見える。私が、反復的な思春期と呼びたいのは、じつにこのことなのさ。

  *エンテレヒー : 一定方向へ向かう活動的な生きた力。「エネルギー」に類似。

3 無理をしない
(1)欠乏した生産力を無理に引っ張り出そうとしたりしないことだ。そんな方法で無理に書き上げても、すべてそれが看取されて、大きな欠陥となるものだよ。

(2)私がすすめたいのは、決して無理をしないことだ。生産的でない日や時間にはいつでも、むしろ雑談をするなり、居眠りでもしていた方がいい。そんなときに物を書いたって、後で嫌な思いをするだけだ。

4 生産力をかき立てる力
(1)ぶどう酒には生産力をかき立てる力がある。しかし、時と場合が問題で、ある人には役立つものも、他の人には毒になる。

(2)生産的にする力は、休息や睡眠のなかにある。また、逆に、運動のなかにもある。戸外の新鮮な空気は、もともと我々におあつらえ向きの場所だ。まるでそこでは、神の精神がじかに人間にふきつけ、神の力が影響を及ぼしているかのように思われる。

5 逝くべき時
(1)人間というものは、再び無に帰するよりほかないものさ。

(2)並外れた人間ならだれでも、使命を担い、その遂行を天職としている。しかし、彼はそれを遂行してしまうと、もはやその姿のままでこの地上にいる必要はない。モーツアルトが死んだのは36歳、ラファエロもほぼ同じ年齢だったし、バイロンだってほんの少し長生きしただけだ。しかし、みんな自分の使命をきわめて完璧に果たし、逝くべき時に逝ったといえよう。他の人たちにもなすべき仕事を残しておくために。
  

モンテーニュの死生観 [海外文学]

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 モンテーニュ(1533~1592)はフランスの思想家で、「エセー」を1580年に出版した。

 そこに書かれたモンテーニュの死生観を拾ってみたい。
 そのポイントは・・
 ① 死は突然やってくる。いつも、やるべきことは片付けておけ。
 ② 不幸が多くなった時は死ぬべき時だ。
 ③ ひとはなかなか自分が死ぬとは思わないものだ。
 ④ 死ぬときは周りにあまり人がいない方がよい。
 ⑤ 死ぬのは突然の方がよい。
 ⑥ 死にかけた時でなければ死を考えるな

(Ⅰ-20)どんなに老いぼれても、体内にまだ20年の寿命があると考えないものはいない。お前はなんと愚かなやつだ。死は我々の不意を打つ幾通りの方法をもっているのだろうか。

    明け行く毎日をお前の最後の日と思え。そうすれば当てにしない日はおまえの儲けとなる。あらかじめ死を考えておくことは自由を考えることである。死の習得は我々をあらゆる隷属と拘束から解放する。生命の喪失がいささかも不幸でないと悟った者にとってはこの世に何の不幸もない。

    あるものは娘を嫁がせないうちに、あるいは子供の教育を見てやれないうちに世を去らねばならぬことを嘆く。ある者は妻との別れを、ある者は息子との別れを。私は、いつでも、何も哀惜せずに、死ねるような気持になっている。私はすべての絆から解放されている。みんなに半ばお別れを済ましている。

(Ⅰ-33)生きることの幸せよりも不幸せが多くなった時は死ぬべき時であり、苦痛や不快を忍びながら生き続けるのは自然の法則に反する。

(Ⅱ-13) 人はなかなか死期に達したとは思わないものだ。これが自分の最後だと覚悟して死ぬ人はほとんどない。「他の人たちはもっと病気が重かったが死ななかった。おまえは人が思うほど見込みがなくはない。それに、いざというときには、神様がいろんな奇跡をお示しになった」と、耳元にささやく。

     ある者は、病気にかかったので自殺するために断食を選んだところ、図らずも病気が治り、健康を回復した。しかし、その人はせっかくここまで来たのだから、わざわざ改めて出直すことはない、と断食を続けた。断食にはいくらかの快感がなくもなかった。衰弱によって心臓が弱ってゆくのを経験した人々は、少しも苦痛感がなく、むしろ睡眠や急速に移ってゆくときのようなある快感を感ずると言っている。

(Ⅲ-9)私は家族の者たちから離れたところで死にたい。私は瀕死の病人が、いかにもみじめに、いっぱいの人に取り囲まれているのを何度も見た。この人だかりが彼を窒息させるのである。瀕死の病人の心は、他の連中の見せかけのごまかしの泣き声を聞けば、おそらく憤慨で締め付けられるであろう。

    こういう大事な瀬戸際には病人の気持ちに合った優しい手が必要なので、その手でもって病人のちょうどひりひりするところをさすってやらねばならない。

(Ⅲ-12)急激で確実な不幸に会う方が、長い間、不幸にびくびくしているよりもつらくない。我々は死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱す。もし我々が着実に平静に生きることを知ったとすれば、同じように死ぬことも知るであろう。

     死にかけた時でなければ死を考えるな。その方が、死そのものと長期にわたる死の予想とで、二重に攻め立てられるよりも美しい。最も思いがけない死が、最も幸せで気楽な死だ。必要になる前から苦しむ人は必要以上に苦しむ。

サマセット・モームの「読書案内」 [海外文学]

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  岩波文庫の一冊。原書名は「Books and you」で、1940年に出版された。
  サマセット・モーム(1874~1965)はイギリスの小説家。

1 楽しく読める
  書物の求める第一の条件は、楽しく読めるということ。
  楽しく読めるために必要なことは・・
   ① 人間に関する事柄に興味を覚えるだけの能力を持っている。
   ② ある程度、想像力を働かせることができる。

  好奇心もなければ、同情心も持たぬとあっては、どのような書物にせよ、楽しく読めるはずがない。

2 人生の避難所
  読書の習慣を身につけることは、人生のほとんどすべての不幸からあなたを守る、避難所ができることである。

  読書のように、相手がなくても楽しめる遊びは他に何もない。
  いつでも気の向いたときにはじめ、好きなだけ続け、他の用事がおこったら、直ちにやめることができる。
  公共図書館が利用でき、廉価版が手に入る、今日のような恵まれた時代に、読書くらい、わずかな元手で楽しめる娯楽は他にない。

3 読書の仕方
(1)同時並行
   ア 必ずしも1冊ずつ片づけてゆかねばならないということもない。同時に、何冊か読んでもよい。私たちは、その日その日によって気分が違うし、また、ある一冊を読もうとする熱意は、同じ1日のうちでも、その時々によって度合いを異にする。

   イ 朝は科学書や哲学書を、仕事が終わった午後は歴史や随筆を、夕方は小説を読む。また、いつでも読めるように詩集を1冊手近なところに置く。寝るときには少しも心をかき乱されることのない書物を1冊枕元に用意する。

(2)飛ばし読み
   ア 優れた書物であっても、そのある部分は現代の読者にとっては退屈でしかない。18世紀が非常に愛好した道徳上の議論にしても、19世紀に喜ばれた長々しい風景描写にしても、今日の私たちにはわずらわしく思えて、もはや読む気を起こさせない。

   イ しかし、飛ばして読む方法をどうやって学んだらよいか。私には、いまだにそのコツが呑み込めない。自分にとって役に立つかもしれぬものを、読み落とすことがありはしないか、それが気になって、退屈としか思えぬ箇所まで読んでしまう。

4 ベストセラー
    私は、出版後2~3年間は、人が何と言おうと、それにつられてベストセラーを読むことがないように心がけている。世間で非常な歓迎を受けている書物で、出版後2~3年もたってみると、読まないでおいても、私にとっていっこうに痛痒を感じない書物になってしまっているのがいかに数多くあるか、誠に驚くほどである。

5 モームの選んだ代表的な小説10編
 バルザック 「ゴリオ爺さん」
 フィールディング「トム・ジョーンズ」
 ディッケンズ「デイヴィッド・コッパーフィールド」
 トルストイ 「戦争と平和」
 メルヴィル 「モービー・ディック(白鯨)」
 エミリー・ブロンテ「嵐が丘」
 スタンダール「赤と黒」
 ドフトエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
 フローベール「ボヴァリー夫人」
 オースティン「高慢と偏見」

  このなかでも、モービー・ディック、嵐が丘、カラマーゾフの兄弟を最高の地位を占めるものとしている。

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