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「マルクス 最後の旅」 [海外文学]

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 太田出版、2016年6月刊。原著は2017年刊。
 著者は、ドイツの社会学者、ハンス・ユルゲン・クリスマンスキさん。
 
 1882年2月16日、パリのリヨン駅から、カール・マルクス(1818~1883)は三人の娘、その婿たち、ならびに孫たちに見送られて、アルジェリアのアルジェに向けて旅立った。
 マルクスの妻、イェニィは前の年にがんで亡くなっていた。
 愛する者を失ったマルクスの嘆きは深く、健康もすぐれない。
 マルクスは、肺病にもかかっていた。
 ドイツの保守系の新聞は、マルクスも死に瀕していると書き立てていた。
 
 マルクスの友、エンゲルスはマルクスを温暖な地で長期間療養させようと手配をした。
 苦痛が緩和されれば、『資本論』の続刊の執筆も進むのではと期待していた。

 2月18日、マルクスはマルセイユ港でアルジェ行きの船に乗った。
 マルクスにとって、ヨーロッパの外に出るのは初めてだった。
 船は、総トン数1,163トンのあまり大きくない蒸気船だ。
 マルクスも含め一等客は狭い客室を与えられるが、二等客は34時間に及ぶ航海を、甲板上で防水シートを被って過ごすことになる。
 
 マルクスは、船室のベッドに横になり、咳の発作に襲われながら、酒を飲んでいた。
 機関室の騒音は耐え難く、船は縦に横に揺れた。
 夢うつつの中、ロンドンの亡命地と大陸との間の幾たびもの渡航を思い出した。
 青春時代のとどまるところを知らない知識欲、奔放な行動が今となっては懐かしい。
 労働運動の高まりの中、尊敬を集める理論家としての自分がいた。

 マルクスはパスポートを持っていない。
 エンゲルスがアルジェにいる、裁判官をしている友人に連絡をして、パスポートなしで入国できることになっていた。

 アルジェに到着して、マルクスはその裁判官の紹介で、あるペンションに落ち着いた。

 マルクスはヘビースモーカーで、何年も前から頑固な皮膚病に悩まされていた。
 慢性の気管支炎と胸膜炎も併発していた。
 また、アルコールの摂取は重篤な肝臓病へとつながっていた。
 当時の医学の水準では、できることと言えば、こうした保養旅行や、たいして頼りにならない保養所の医師に診てもらう程度のことでしかなかった。

 フランスの画家、オーギュスト・ルノワールも同じ時期に、アルジェリアに来ていた。
 当時、ルノワールは、印象派から離れ、自分の進むべき道を探していた。
 アルジェリアで描いた作品をいくつか残している。

 マルクスはお金を持つということをせず、いつも借金をしていた。
 定職を持とうとはしなかった。
 それでも、マルクス家の生活はプロレタリアの生活ではなく、上流階級のそれであった。
 マルクスは妻のイェニィが貴族階級の出であることを誇りにしていた。

 マルクスは4月のある日、アルジェリアの暑さに耐えかねて、写真館で自分の肖像写真を撮ってもらった後、床屋でひげを剃り落とし、髪の毛を短く切ってもらった。
 全く別人のようになった。

 マルクスは5月初めにアルジェリアを発ち、フランスに戻った。 
 そして、モンテカルロやパリを経由して、9月末にロンドンに戻った。
 しかし、ロンドンの霧にさらされて、気管支炎がぶり返してしまった。
 エンゲルスに強く勧められて、マルクスはイギリスの南端にあるワイト島に向かった。

 翌年1月、長女が38歳で亡くなった。
 母親と同じく、がんだった。

 マルクスはロンドンに戻ったが、咽頭炎、気管支炎、肺の潰瘍、胃や腸の不調などで、ほとんど書斎に閉じこもり、たびたびソファに横になった。
 エンゲルスは毎日様子を見に来た。

 エンゲルスはマルクスの前では常に自己を滅し、第二ヴァイオリンを弾いていた。
 
 1883年3月14日、マルクスは肘掛椅子に沈み込むようにして座り、もう目覚めることのない眠りに落ちていた。
 葬儀はハイゲイト貧民墓地で執り行われた。
 エンゲルスが弔辞を述べた。
 参列したのは親族のほかはわずかであった。

<ロンドンにあるマルクスの墓>
マルクスの墓.png

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魯迅「藤野先生」 [海外文学]

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  講談社文芸文庫(1998年刊)に拠る。

  中国の作家、魯迅(1881~1936)が1926年に描いた小文。
  生前、選集を日本で出版するに際して、魯迅本人からこの「藤野先生」を必ず入れてもらいたいとの話があった。

 魯迅は、1902年、21歳の時に日本に留学。
 東京で2年間、日本語を学んだ後、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学した。

<藤野先生>
藤野先生.png

 解剖学の教授は、色の黒いやせた先生で、八字ひげをはやし、眼鏡をかけ、ひと重ねにした大小さまざまな本を抱えて教室に入ってきた。
 これが藤野先生だった。
 先生は、服の着方がはなはだ無頓着で、時にはネクタイをするのを忘れることすらある。

 一週間ほどして、藤野先生は私を呼び、きちんとノートをとることができるか尋ねた。
 私は「少しできます」と答えた。
 先生は、私のノートを預かり、二、三日すると返してくれた。
 持ち帰って開けてみると驚いた。
 私の講義ノートは始めから終わりまで、すっかり朱筆で添削してあったばかりか、たくさんの抜けている部分が書き足されていた。
 先生は毎週、私のノートの添削を先生の講義が終わるまで続けてくれた。

 おかげで学年試験の私の成績は、同級の百余人の中で真ん中あたりで、落第せずに済んだ。
 しかし、一部の学生が、私の成績が良かったのは、藤野先生が講義ノートの添削を通じて、試験に出るところを教えていたに違いないと疑った。
 中国人は能力が劣っており、良い成績を取れるはずがないという偏見が原因だった。
 私は、このことを藤野先生に告げ、私と仲の良かった数人の同級生が、疑った学生に強く抗議をしてくれた。

 仙台で医学を2年間学ぶうちに、中国の現状を変えるために生きることを決意するようになった。
 私は、藤野先生を訪ね、医学の勉強を止め、仙台を去ることを告げた。
 藤野先生の顔には悲しみの色が浮かんだが、何も言わなかった。

 出発する前に、藤野先生は一枚の藤野先生の写真をくれた。
 裏には「惜別」と書いてあった。
 私は、北京に戻ってからも、その写真を、私の机から見えるところにかけてある。
 仕事に倦み疲れて、怠け心がおこってくると、いつも、顔を上げて、彼の黒い、痩せた顔を眺めた。
 そうすると、私にはたちまち良心がおこり、勇気が加えられるのである。
 
 * 太宰治は、魯迅と藤野先生の交流を題材にして、「惜別」という作品を1945年9月に出版した。
   

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チェーホフの短編 [海外文学]

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 *以下に拠る。
 「チェーホフの短編と手紙」
  みすず書房、2001年刊。 山田稔編。
  
  チェーホフ(1860~ 1904)は、ロシアを代表する劇作家であり、代表作は「桜の園」や「三人姉妹」など。
  また、多くの優れた短編も書いている。
  モスクワ大学医学部を卒業しており、本業は医師であった。

『ヴェーロチカ』
  彼は4月から8月まで、仕事の関係である田舎町に滞在した。
  そこで、彼はある老人と知り合い、郊外にあるその老人の家に毎日のように行くようになった。
  かれは、その家でいつも温かいもてなしを受けた。

  しかし、その町を離れ、ペテルブルグに戻る時期がやってきた。
  彼は、それまでのもてなしに感謝し、老人に別れを告げた。
  そして、その家の娘、ヴェーロチカにもお別れの挨拶をしに行った。
  ヴェーロチカは、二十一になる、美しい娘だった。
  スタイルがよく、端正な横顔と、緩やかな波打つ髪の持ち主だった。

  ヴェーロチカは、彼を500メートルほど先にある、家の敷地の外れまで送って行くことになった。
  若い二人は森の中をとりとめのない話をしながら歩いた。
  そして、敷地の外れまできて、二人は立ち止まり、話を続けた。 
  
  ヴェーロチカは、突然、肩を震わせ、彼に「わたくし・・あなたが好きなんです!」と告げた。
  ヴェーロチカは、さらに自分の気持ちを彼に向って話し続けた。
  彼は黙っていた。
  彼は、何を言えばいいのか、見当もつかずにいた。
  そして、ようやく彼女に向かって言った。
 「自分は、あなたにそれほど思っていただく価値はないように感じています。
  幸福というものは均衡を保っている必要があると思うんです。
  つまり、双方が同じように愛し合っていなければ・・」

  ヴェーロチカは、くるりと彼に背を向け、足早に屋敷に引き返していった。
  彼は、自分に腹を立て、自分の冷淡さや、女性に対する応対も知らぬ点を呪った。
 「俺は、いったいいつになったら、自分から進んで恋を語れるようになるんだろうか。
  もう、三十も目の前じゃないか。
  ヴェーロチカよりもすぐれた女性になど、俺は今まであったことがないし、これからも会えないだろうな」
  あれほど気に入っていた娘が、たった今、彼に愛を打ち明け、それを彼が実に不手際に、身もふたもなくはねつけたことが、どうにも信じられぬ思いだった。
  自己の異様なほどの冷たさの原因を見つけ出したかった。
  それは、単に、精神の無力であり、美を深く理解する能力の欠如であり、年より早い老化現象でしかなかった。

『浮気な女』
  彼女は、22歳でドイモフという31歳の医者と結婚した。
  彼は、二つの病院を掛け持ちして忙しそうにしている。
  彼女は、11時ごろに床を離れ、12時過ぎに邸を出て、仕立て屋や友人のところを回る。
  友人は、俳優、オペラ歌手、画家など、才能あふれた人たちだ。
  4時過ぎに夫と食事をした後、また、知人たちのところへ出かけ、それから劇か演奏会へ行って、夜中過ぎに帰る。
  毎週、彼女は夜会を開いた。
  夫は招待者への食事を作り、夜の11時半に皆を食堂へ招き入れる。

  4~6月の三か月間は、友人を連れて別荘に行き、7~8月の二か月間、ヴォルガ川の船旅に出かけた。
  彼女は画家に言い寄られ、身体を許してしまう。
  しかし、その後、彼女に対するその画家の態度は冷たかった。

  彼女は、夫の元へ戻った。
  何も知らない夫は、やさしく彼女を迎え、一緒に食事をしながら、ほれぼれと彼女を見つめ、うれしそうに笑った。
  しかし、夫は自分が欺かれているにのに気がつき始めた。
   
  彼女は、その後も画家を訪問した。
  そして、彼女は、愛してほしい、捨てないでほしい、可哀そうな自分を哀れんでほしいとせがんだ。
  ある日、彼女が画家のところに行くと、女が隠れたのに気がついた。
  何か重い物で画家の頭をぶんなぐって、そのまま逃げだしたかった。
  彼女は、泣くのをこらえて、その家から出た。

  すべてが終わったと感じた。
  夫を旅行に連れ出して、過去と手を切って、新しい生活を始めようと思った。

  家に帰ってみると、しかし、夫は彼女に、自分はジフテリアに感染したようだ、医者を呼んでくれ、と告げた。
  知り合いの医者が何人も、彼の治療に当たった。
  夫は、治療に当たった少年から感染してしまったようだ。
  重体であった。
  そして、息を引き取った。
  
  彼女は、あれは過ちだったと説明したかった。
  まだ、人生は楽しくも幸せにもなり得ることを、彼が稀にみる、非凡な、偉大な人物であることを、自分が一生彼を敬い、神に祈り、聖なる恐怖を抱き続けるだろうということを説明したかった。


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「理想の花嫁と結婚する方法」 [海外文学]

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  原書房、2014年刊。原著は2013年刊。
  著者は、イギリスのジャーナリストのウェンディ・ムーア。

  18世紀に児童文学で名声を博したイギリス人、トマス・デイ(1748~1789)の、理想の女性を求め続けた生涯について書いている。

  トマスは、1歳の時に父親がなくなり、莫大な財産を相続することになった。
  オックスフォード大学に入学し、学歴もお金も兼ね備えた。
  しかし、外見や態度はあまり魅力的ではない。
  子供の頃に天然痘にかかり、顔にその痕が残っていた。
  また、猫背で、髪は長く、服には気を使わず、みすぼらしく見えた。
  さらに、性格は陰気で、態度は横柄であった。

  加えて、彼の理想の結婚生活は、荒涼とした田舎の隠れ屋で一緒に暮らすことだった。   
  また、彼は妻となる女性に、聡明で、彼の考えを尊敬すること、ならびに、純潔で、純粋無垢であることを求めていた。
  こうした女性は、オックスフォードはもちろん、田舎をさすらっても見つかりそうになかった。
  完璧な女性を探すよりも、自分好みに教育できる少女を見つけ、その少女を教育して完璧な女性に育て上げる方がよいのでは、と考えるようになった。

  如何に教育するかについては、ルソーの「エミール」(1762年に出版)に書いていることに心酔していた。
  彼は、ルソーが自由と平等を唱えている点、ならびに、堕落した都会生活より田舎暮らしを進めている点などに賛同した。

  彼は、弁護士の友人を連れて、イギリス中西部にあるシュルーズベリー孤児院に行った。
  そこには多い時には600名近くの少年少女がいた。
  男の子は労働力として、工場主から希望が多く、女の子が多く残りがちであった。
  ふたりは、ずらりと並んだ少女たちの中から,ひとりの子を選んだ。
  少女の奉公先は、妻帯者に限られていたので、彼はもう一人の結婚している友人の名前を借りた。
  彼は、その子をサブリナと名付けた。
  そして、彼はサブリナの教育が失敗することを心配して、もうひとり孤児院から引き取ることにした。
  その子にはルクレティアという名前を付けた。
  サブリナは12歳で、亜麻色の髪に薄い色の瞳、ルクレティアは11歳で、金色の髪に青い瞳、どちらも美しい少女だった。

  女のずるさを身に着けていない、思いどおりにできる少女をふたり手に入れた。
  ルソー流で教育し、成功した方を将来の妻に選び、失敗した方はあっさり捨てるつもりだった。

  彼は、二人の少女を下宿に住まわせ、教育を施し、またフランスへも連れて行った。
  1年後、彼はいずれかに候補を絞り込むことにした。
  サブリナは、ほっそりとして、控えめで勉強熱心。
  ルクレティアは、ふっくらとして、快活で楽天的。
  外見に関しては甲乙つけがたいので、授業態度や柔軟性の点から、彼はサブリナを選んだ。
  ルクレティアは、婦人帽子屋に400ポンドの餞別付きで奉公に出した。
            (現在の価値で6万ポンド、1千万円弱)
  
  彼は、目立たずに二人で暮らすため、リッチフィールドというイギリス中部の町で一軒家を借りて移り住んだ。
  食事も含め家事はすべてサブリナがやらなければならなかった。
  彼からの授業も引き続き受けなければならなかった。

  使用人もいない状況で、独身男性が思春期の少女と一緒に暮らしていたら、卑劣な放蕩者、少女の方は愛人とみなされるのが当然だった。
  しかし、リッチフィールドの人々は、二人を黙認し、不適切とみなされることはなかった。

  リッチフィールドでの生活は1年間続き、サブリナが14歳になろうとしたとき、彼はサブリナの教育も失敗であったと考えるようになった。
  彼は、サブリナを近くの寄宿学校に入れた。
  しかし、寄宿学校で3年間を過ごし、17歳になったサブリナは、すらりとしたスタイルと栗色の巻き毛と、生き生きとした茶色の瞳が魅力的な、人目を惹く洗練された娘に成長していた。
  彼は、サブリナと結婚することを望むようになった。
  それを知ったサブリナはひどく動揺した。
  27歳の男と18歳の娘が結婚するのは問題はなかったが、サブリナはパニックに陥った。
  彼は、サブリナとの結婚をあきらめ、毎年50ポンド(現在の価値で120万円程度)を与えることにして、別れた。
  
  彼は結局、30歳の時にエスターという22歳の聡明で裕福な女性と結婚した。
  エスターは、ぼさぼさ頭の俗離れした彼に、心を奪われた。
  彼の政治理念や文学への情熱を心から尊敬した。
  エスターは偏屈な伴侶によく尽くした。
  彼は、児童作家として不朽の名声を得た。

  彼、トマス・デイは41歳で、馬から投げ出されて急死した。
  エスターは悲しみに暮れ、その6年後に亡くなった。
  エスターは、サブリナへの毎年の送金を、トマスの死後も続けていた。
  サブリナは、家政婦の仕事を続け、7人の孫娘に恵まれ、86歳で亡くなった。


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「オイディプス王」 [海外文学]

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  新潮文庫の一冊、1984年刊。
  紀元前429年にギリシャで初演の戯曲。
  作者は、悲劇作家のソポクレス(紀元前497~406)。
<ソポクレス>
ソポクレス.png

  ギリシャのテバイ国のライオス王はある少年を殺した罪で、自分の実の子により殺されるという神托を受けていた。
  ライオス王はイカオステという女性と結婚し、二人の間に子供が生まれた。
  ライオス王は神託を恐れて、その子供を殺すようにと部下に命じた。
  それから20年ほどたった後、ライオス王は旅の途中で何者かにより殺された。

  そのころテバイ国では、スフィンクスが通りかかった人々に謎をかけ、その謎を解けない者を次々と殺していた。
  困ったテバイ国は、この謎を説き明かした者に、テバイ国と妃のイカオステを与えると触れを出した。
  たまたま通りかかったコリントス王の王子オイディプスは、この謎を解き、スフィンクスは死んだ。
  オイディプスは、テバイ王となり、イカオステを妻にした。
  オイディプスとイカオステの間には、二男二女が生まれた。

  ある年、テバイ国に疫病が蔓延し、作物は枯れ果て、人々は苦しんだ。
  そこで、オイディプス王は、アポロンという神に救いを求めたが、アポロンはまず、前のライオス王を殺した犯人がテバイ国の中にいるので探し出し、復讐せよと命じたのだった。

  オイディプス王は、犯人を探し出すため、盲目の預言者ティレシアスの話を聞くことにした。
  ティレシアスは答えることを拒んでいたが、最後に「犯人はあなた、オイディプス王だ」と答えた。
  驚いたオイディプス王は、妻のイカオステにもライオス王が殺された時のことで知っていることを尋ねた。
  イカオステは、ライオス王が、道が三叉に分かれているところで殺されたこと、一行は5人であったことと答えた。
  不吉な予感を感じたオイディプス王は、5人のうちのたった一人の生き残りを田舎から呼び寄せることにした。

  オイディプス王は、イカオステに言った。
  「コリントスにいたとき、コリントス王は本当の自分の父親ではないという噂を耳にし、また、『おまえは母と交わり、父親を殺すであろう』という不幸に満ちた神託を受けた。
  私は、両親であるコリントス王と王妃にそのようなことはしたくないと思い、コリントスを去り、旅に出た。
  そして、旅の途中、三叉路のところで5人連れの一行に出会い、トラブルになって、一行を打ち殺してしまった。
  私が、ライオス王と殺したのであろうか。」

  コリントスから使いが来て、オイディプス王はコリントス王と王妃の子供ではなく、山の中から拾われた子であると告げた。

  オイディプス王は、自分が、父親のライオス王を山中で殺害し、母親のイカオステを妻にしていたことを悟った。
  「生まれるべきにあらざる人から生まれ、交わるべきにあらざる人と交わり、流してはならぬ人の血を流した呪うべき人間、そのがこの俺なのだ!」

  イカオステはすべてを知り、自ら命を絶った。
  オイディプス王は、イカオステが身に着けていた金の留金を引き抜き、それを自分の両方の目に、奥深く刺し込んだ。
  「もしこの目が見えようものなら、黄泉の国へ赴いたとき、どの目で父を見たらいいのか、惨めな母にしても同じこと、どの目で母を見たらいいのか!」
  

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「ある奴隷少女に起こった出来事」 [海外文学]

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  新潮文庫、2017年7月刊。
  著者は、アメリカのハリエット・アン・ジェイコブス(1813~1897)さん。
  この自叙伝は、当初、1861年に自費出版され、その後忘れ去られていたが、1990年代に至り再評価され、アメリカでベストセラーになった。

1 少女時代
  私は奴隷として生まれた。
  両親は、白人と黒人の混血だった。
  母は、私が6歳の時に亡くなった。
  12歳になった私は、近所に住む医者の幼い娘の所有物になった。
  私の弟も、その家の奴隷になった。
  その後,暫くして父親が亡くなったと知らされた。
  祖母だけが心のよりどころとなった。

  その家では冷たい扱いしか受けなかった。
  奴隷の食事には無関心で、何か食べるものにありつければ幸せだった。
  祖母は、食べ物や着る物を分け与えてくれた。
  
2 鞭うたれた奴隷
  ある奴隷が、天井の梁から吊るされ、何百回も鞭うたれた。
  牛革の鞭からは血がしたたり落ちた。
  男の苦しむ声が、何か月も私の耳に響き続けた。
  その男の妻が肌の白い子を産んだので、その男はその子供の父親は自分ではなく、彼らを所有している医者だと言ってしまったのだ。
  数か月後、医者はその夫婦を奴隷商人に売り飛ばした。

3 奴隷の売買
  奴隷の母が、7人の子供を連れて競売にかけられた。
  彼女は同じ町の男に買われ、7人の子供たちは奴隷商人に買われた。
  奴隷商人は、7人の子供たちを一番高い値段を払う主人に一人ずつ売り歩くつもりだ。
  母親は、「子供はみんないなくなった!」と、狂ったように叫んでいた。

4 医者の卑猥な言葉
  私が15歳になって間もなく、医者は私だけにいやらしい言葉をささやくようになった。
  私は、なるべく無関心にふるまい、軽蔑してみせることで、やり過ごそうとした。
  医者はずるがしこい男で、自分の目的を達成するためなら手段を選ばず、どんな卑劣なことでもやった。
  40歳も年上の卑劣な男と、同じ屋根の下に住むことを強要されていた。
  私は彼の所有物で、彼のどんな意思にも従わなければならない。
  奴隷の少女である限り、人間の形をした悪魔のような大人から加えられる辱め、暴力、死から、私たちを守ってくれる法律など、どこにもなかった。

5 奴隷制がもたらす堕落
  奴隷制から生まれる、品位の堕落、悪事、不道徳について、どんな言葉を尽くしても私は言い表すことができない。
  奴隷の少女たちは、みだらさと恐怖の中で育つ。
  少女が14歳か15歳になると、彼女を所有するご主人やその息子、監督人が、贈り物をして気を引こうとする。
  それで目的が果たせないと、彼らの意思に服従するまで、鞭で打たれるか、飢えさせられる。

  奴隷制は、黒人だけでなく、白人にとっても災いなのだ。
  それは白人の父親を残酷で好色にし、その息子を乱暴でみだらにし、それは娘を汚染し、妻をみじめにする。
  しかし、この邪な制度に起因し、蔓延する道徳の破壊について気づいている奴隷所有者はほとんどいない。

  奴隷の主人は、高い教育を受けた人物で、見た目には非の打ちどころのない紳士に見えた。
  またキリスト教徒であることを誇っていたが、彼こそが悪魔の最も忠実な信者というべきであろう。

6 逃亡
  私はは所有者の元から逃げた。
  そして、祖母の家の、光も空気もほとんど入ってこない、手足も動かす場所がない、薄暗い屋根裏部屋に逃げ込んだ。
  夏の暑さや冬の寒さに耐え、7年間もの間、そこに潜んでいた後、支援してくれる人の助けを借りて、北部に逃げ込んだ。



 
     
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「ローソン短編集」 [海外文学]

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  岩波文庫の一冊。
  ヘンリー・ローソン(1867~1922)はオーストラリアの国民的作家。
  オーストラリアの開拓期での、植民者たちの厳しい生活を描き、高い評価を得ている。

『家畜追いの妻』
  4人の小さな子と暮らす、家畜追いの妻。
  夫は、仕事に出かけ半年も戻っていない。
  家は、人里離れたところにあり、一番近い家まで30キロもある。

  時には、凶悪な顔つきの放浪者が、立ち寄ることもある。
  食べ物は与える。
  しかし、泊りたいと言ってきた時には、角材を握り、飼い犬の首輪をつかみながら、強い口調で追い返した。

  床下に蛇が入り込んだ。
  よその家で子供が蛇にかみ殺されたことがあるので、心配だ。
  飼い犬と妻は、夜通し寝ずに警戒した。
  朝方になり、蛇が床の隙間から出てきたところを、飼い犬が噛みつき、妻がこん棒で叩きのめした。

『ブッシュの俄か葬儀屋』
  老人は、牧羊犬と一緒に羊の飼育を任されていた。
  ある日、家から5キロほど離れたところを歩いていると、木の根元に、人間のミイラ化した遺体を見つけた。
  その遺体をよく調べてみると、それは知り合いの人間であることが分かった。
  息を引き取ってから、3か月は経っていると思われた。
  老人は、知り合いの遺体をこのまま野ざらしにしておくわけにはいかないと思い、かついで家まで持って帰った。

  翌日、穴を掘って遺体を埋葬した。
  こんな寂しい山奥まで来てくれる牧師はいないので、老人は自分で、うろ覚えの祈祷文をいくつか口の中で唱えた。

『飲み屋のワイフ』
  馬車には12人もの客が詰め込まれていた。
  客は疲れ切って、体がこわばり、凍えそうだった。
  馬を交換することになっているパブで一息つくのを、もう何時間も待ち望んでいた。
  
  ようやくパブに着いたが、そこの亭主が、ワイフが病気なので、静かにしてもらいたいということと、食べ物はなく、飲み物しか出せないと言った来た。
  出された酒を飲んでいると、今度は御者が、代わりの馬がまだ来ていないので、出発までしばらく時間がかかる、今晩は出発できないかも知れないと言った。

  客たちは、パブの亭主に頼んで、一人当たり18ペンスで泊めてもらうことにした。
  ベッド、ソファー、床にもみ殻の寝袋と、寝る場所は様々だ。
  そして、ようやくうとうとし始めたころに、馬が用意できたので、寒くて暗い中を出発することになった。
  客は身体を温めるため、さらに酒をひっかけ、また、馬車に酒を持ち込んだ。

  馬車に乗り込んだ客たちは、代わりの馬がいなかったというのは本当だろうか、と言い合った。
  ある客が御者に、あの亭主にはワイフがいるのか、と聞いた。
  御者は、3,4年前に出て行ったままようだ、と答えた。

  亭主は、せいぜい2時間ほどで、酒代と宿泊代を稼いだ。
  御者も幾分かの分け前をもらうのだろう。
  客たちは、馬車が遅れたうえに、金をふんだくられた。


  
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「クリスマス・キャロル」 [海外文学]

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  新潮文庫、2011年刊。
  著者は、イギリスの作家、チャールズ・ディケンズ(1812~1870)。
  原著は1843年、ディケンズが31歳の時に出版。

1 スクルージ
  ロンドンの片隅で小さな両替の商売を営んでいるスクルージは、交際を嫌う孤独で偏屈な老人。
  クリスマスイブの日、甥の青年にメリークリスマスと声を掛けられても、「ばかばかしい」と言って相手にしなかった。
  困っている人たちのために寄付を、と言って紳士が訪れてきたが、すぐに追い返した。
  たった一人の使用人がクリスマスの日を休日としてほしいと頼んできたのにも、さんざん文句を言いながらようやく認めた。

  <スクルージ>
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2 マーレイの亡霊
  スクルージは仕事を終えた後、パブで粗末な食事を済ませ、アパートの一室に帰った。
  古びた、暗い建物だ。
  火の前に座って、粥をすすろうとしたときに、7年前に死んだマーレイの幽霊が現れた。
  マーレイとスクルージは商売の共同経営者だった。

  幽霊には幽霊独特の地獄の雰囲気がこもっているので何かひどく恐ろしいところがあった。
  幽霊は言う。
 「誰しも人間であれば、その霊魂があちこちあまねく旅行しなければならないように定まっている。もし、生きている間に出て歩かなければ、死んでから世界中をさまよい歩かなければならないのが運命なのだ。私の魂は、生前、あの狭苦しい仕事場から他に出ることはなかった。だから、これから先、長い、つらい旅が待っているのさ。」

  幽霊は鎖につながれている。
 「この鎖は、生きている時に自分で作り、自分から進んで身に巻き付けたんだ。お前さんは、おれが死んでからもせっせと骨折って鎖を太くしているんだから、、お前さんの鎖は今では途方もなく大きな鎖になっていることだろうな。」

  マーレイの幽霊は、「これから三夜にわたって、三人の幽霊が現れる」といって去って行った。

3 第一の幽霊
  第一の幽霊が現れ、スクルージをスクルージが少年の頃の時代と場所に連れていった。
  そこには、スクルージの記憶にある場所と人々がおり、暗い部屋で机にしょんぼりとたった一人で本を読んでいる、少年時代のスクルージがいた。
  それを見たスクルージは、急に昔の自分をあわれみだし、「可哀そうな子だ」と言って泣いた。

  次に、幽霊はスクルージを、もっと大きくなったスクルージが奉公していた家に連れていった。
  その家のご夫妻を中心に家庭舞踏会が開かれていた。スクルージは、このご夫妻がスクルージも含め使用人をしあわせにしようと並外れた苦労をしていたことを思い出した。

  さらに、スクルージは、別れた妻との最後の時に連れて行かれた。
  妻は言う。
 「お金儲けという欲があなたをすっかり占領してしまった。私の愛なんか、あなたには何の値打ちもなくなってしまった。あなたの選んだ生活がどうぞお幸せであるようにお祈りします。」

  次の場面では、妻と娘が多くの子供たちと戯れていた。
  スクルージは、自分もあの仲間になれるのであれば、いくらでも出すのにと思った。
  同じような娘が自分を父と呼んでくれれば、霜枯れ果てた自分の生涯の冬に春の光をもたらすのにと思った。

4 第二の幽霊
  次の夜、第二の幽霊が現れた。
  第二の幽霊はスクルージを、クリスマスの準備に忙しい人で一杯の街中に連れていった。
  スクルージは幽霊に対して、「日曜日が安息日だということで、店を閉めさせて、人々がおいしいご馳走を食べる機会を奪っていませんか」と聞いた。
  幽霊は答えた。
 「世の中には、私らを知っていると称して、私らの名をかたって自分の情欲、傲慢、悪意、憎しみ、妬み、頑迷、利己主義の行為をやっているものがあるのだ(司祭など)。その者たちのしたことについては、その者たちを責めるようにしてもらいたい。我々ではなくね。」
  
  それから、スクルージはスクルージが雇っている使用人の家に連れていかれた。
  その使用人には、スクルージはわずかな給料しか与えていなかった。
  しかし、その家では、使用人の夫婦と子供たちがクリスマスの準備のために忙しく動き回っていた。とても楽しそうだった。
  そして、クリスマスイブの食事が始まった。
  彼らはとりたてて言うこともない家族だったが、幸福で感謝しており、互いに愛し合い、今日の暮らしに満足していた。

  第二の幽霊はさらにスクルージを、坑夫の家、灯台を守る二人の男たち、海上の船の中へ連れて行った。どこでもクリスマスイブを祝って楽しそうに過ごしていた。

  続いて、幽霊はスクルージを甥の家へ連れていった。
  甥や姪たちはスクルージの話をしていた。
 「僕はあの人が気の毒なんだ。あのかび臭い古ぼけた事務所や、ゴミだらけの部屋で一人ぼっちで考え込んでいたんじゃとても見つからないような愉快な仲間を失っている。あの人は死ぬまでクリスマスのことを罵るかも知れないけれど、僕は毎年、あの人にクリスマスのお祝いを言うんだ。

5 第三の幽霊
  最後の幽霊はゆっくりと厳かに、黙りこくって近づいてきた。
  幽霊はスクルージを、死んだ男がベッドに横たわる部屋に連れていった、
  何もかもはぎ取られ、誰も番をしてくれる者もなく、泣いてくれる者も世話をしてくれる者もいないまま、死体は横たわっていた。

  次いで、幽霊はスクルージを墓地に連れていった。
  幽霊はそこで、一つの墓を指さした。
  スクルージはぶるぶる震えながら、墓石に近づき、墓石に自分の名前が書いてあるのを見た。
  スクルージは「あのベッドに横たわっていた男は私なのですか?」と叫んだ。
 「私は今までの私と違います。私は心からクリスマスを尊び、一年中その気持ちで過ごすようにするつもりです。この墓石に書いてある名前を吹き消してよいとおっしゃってください。」
  幽霊は、彼を振り放して姿を消した。

6 ことの終わり
  スクルージは死んでいなかった。
  その日はまだ、クリスマスの日だった。
  スクルージは大きな七面鳥を買って、たった一人の使用人の家へ届けさせることにした。
  寄付を募っていた紳士に会い、多額の寄付をした。
  それから甥の家に行き、「ご馳走になりに来たよ。入れてくれるかい?」と言った。
  スクルージは真心のこもった歓迎を受け、素晴らしい宴会、素晴らしい和気あいあいの雰囲気を楽しんだ。
  翌日、事務所に出勤してきた使用人に、給料を上げてあげると約束した。

  スクルージは、ロンドンで、誰からも愛される良き友、良き主人、良き人となった。
  彼ほど慈愛に満ちた人間はまたといないと言ってよかった。



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「アラン島」 [海外文学]

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  みすず書房、2005年刊。 原書は1907年に出版された。
  著者は、J.M.シング(1871~1909)。アイルランドの劇作家。
  本書は、アラン島で地元の人との交流から得た情報を綴った紀行文。
  110年前に書かれたもので、当時の状況を伝える。

 アラン島 地図.png

アラン島 1.png
  
  アラン島は、アイルランドの西側にあり、三つの島からなる。
  岩だらけの島で、木はほとんどない。
  麦を生育しているが、藁を得るためで食用に出来るほどは収穫できない。
  土自体が少なく、海藻を砕いたものを混ぜて土を増やしている。

  人々は貧しく、生活は厳しいが、心は汚れていない。
  
1 地元の人の食事
(1)規則正しく食事をとる習慣がない。日中は、それぞれが空腹を感じた時に、紅茶とパン一切れをつまんだり、ジャガイモを食べたりしている。

(2)小食で、8~9時間も飲まず食わずで作業をする。

(3)ベーコン少々と塩漬けの魚以外は、動物性の食事をとらない。ベーコンにしていない肉は食べない。

2 アラン島の女性
(1)羞恥心や自意識がない。若くて美しい娘が、私の持って来た写真をもっとよく見ようとして、私の膝の上に横から身を乗り出してきたとき、人々の天真爛漫さを改めて強く感じた。

(2)アラン島の女性の人生は苦しみの連続となる。息子たちは成年に達するやいな島の外へ出なければならない。あるいは、島で暮らすとしても常に海の危険にさらされる運命にある。娘たちも島を出ていくか、さもなくば、子育てで疲れ果てる運命だ。

(3)男性が女性に見出す最大の美徳は多産であるということだ。子供をたくさん産んでくれるのがいい女だと考えている。

(4)ある男が私に、この島の娘と結婚することを薦めた。なかなかいい女たちだし、よく太った健康な娘たちだ、腕っぷしだって強くて、子供をたくさん産むうえに、無駄遣いはしないんだから、と言った。

3 ケルプ焼き
(1)ケルプは海藻を焼いてできる灰で、ヨードの原料となる。

(2)海岸の岩場に打ち上げられた海藻を、寄せては砕ける波の間から男たちが拾い、若い女たちがそれを崖上まで運ぶ。

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(3)晴れた日にその海藻を乾燥させ、窯で焼く。ケルプ焼きは12~24時間、ぶっ続けの作業となる。

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(4)できたケルプ灰は、ヨード含有量に応じて値段が決められ買い取られる。

4 病人
(1)病人はめったに出ないが、出ると他の島に医者と神父を、四人乗りのカヌーのような小舟で呼びに行く。海が荒れているときは命がけだ。

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(2)病人が亡くなる前には必ず神父のお祈りが必要になるので、万一のために医者と一緒に来てもらう。

(3)出産は女たちが協力し合ってすましてしまう。専門の助産婦を呼ぶ必要もない。

5 埋葬
(1)棺を納めるための墓穴は、その家族の祖先が埋まっている場所に掘られる。この島には、毎回別の場所に墓穴を掘るほどの土地の余裕はない。

(2)まず、地面の石をどけ、薄い土の層をはがして、そこに埋まっている古い棺を解体する。黒ずんだ板や骨のかけらがたくさん掘り出される。

6 万能選手
(1)ここには分業というものがない。個人の能力が多方面に発達している。人々の幅広い知識と技能は、精神の活発な働きを必要とし、知性を高める。

(2)例えば、熟練した漁師であり、途方もない度胸と機敏さで小舟を操り、畑仕事もできれば、ケルプ焼きもこなす。ゆりかごから棺の製作までお手の物である。

(3)やるべき仕事は季節ごとに移り変わるから、退屈というものを経験しないで済む。

(4)言語はアイルランド語とゲール語、そして時に英語を使いこなす。

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「ファウストとホムンクルス」 [海外文学]

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 慶應義塾大学出版会、2009年刊。
 著者はドイツの元外交官、マンフレート・オステンさん。

 ゲーテ(1749~1832)の著作の中から、彼の思想を探る。

1 加速化する時代ー悪魔的速度
 ゲーテは、西欧社会ではすべてのことが加速化しており、それにより傲慢さや不安があふれてきていると嘆く。一方、ゆっくりと動いている中国やイスラム社会に憧れる。
 
 西欧社会の加速化について、ニーチェは以下のように言う、
 「アメリカ人が金を求める際の、息つく暇もない性急な仕事ぶり、これは新世界の悪徳そのものであるが、それが感染を拡大し、古きヨーロッパを野蛮にし、奇妙極まりない愚かさを広めつつある。今、人々は休息を恥じる。長い沈思はどことなく後ろめたい気分にさせる。」

 「ゆっくりとした成長や先祖から受け継いできた伝統的なものを根こそぎ破壊したのがフランス革命だった。落ち着き不足から、我々の市民社会には新しい野蛮性が拡大する。行動する人々、すなわち落ち着きを失った人々は、時間のないことに、より価値をを置く。」

 また、マルクスとエンゲルスは・・
 「生産器具、つまりあらゆる生産関係、あらゆる社会的関係に絶えず革命を起こさなければブルジョワジーは存在しえない。製造過程の絶え間ない大変革、すべての社会階層を揺らし続ける振動、永遠の不確かさと変動は、ブルジョワジー時代を前時代からはっきりと区別する。」

 カフカは・・
 「人間を楽園から追放し、そこからますます遠ざけるのは、性急さである。」

 ゲーテは「ファウスト」で・・
 「運命が彼に自分では制御しえず、つねに前へ駆り立てる精神を授けたのだが、あまりにも性急な努力は地上の喜びを飛び越してしまう。」

 ナポレオンは現代的機動戦を実践した最初の人物。
 また、政治家としても、それまで無縁だった新しいテンポを導入し、彼の人格と成功の秘密である速さを新しい生活感情としてヨーロッパに強要した。

2 不安とホムンクルス
 ファウストは権力の絶頂にあり、幸福と完璧さの頂点にあると思い込んでいるが、一方では、不安が忍び込む。
「太陽は昇りもせず、また、沈みもしない。外部の感覚が完全でも、闇は内部に巣食うもの。そして、あらゆる財宝の何一つ、所有することができないことを思い知るのだ。」

 不安は、自らをとてつもない仕事に駆り立てる。
 ホムンクルスはゲーテが作り上げた、21世紀を予測させるような想像上のもの。

 ホムンクルスは「ファウスト」に登場する、母胎外で育てられた人工生命体。
 母胎という孵卵器の代わりに、精子はガラス製フラスコに密閉され、適温に維持された空間で、栄養を与えられて育つ。
 そして、40週後、人間の子供同様に闊達で、母胎から生まれた他の子供と同様にすべてに身体器官もそろっているが、非常に小さい人間となる。

 ホムンクルスは人間の傲慢さと好奇心から作り出されたもの。
 人間はまるで神のように、生命を創造する。
 しかし、自分が神に似ていることについては、不安を覚える。
 
 ホムンクルスは前代未聞の才能を余りあるほど有する。
 彼は全知のセラピストであり、人類の記憶の守護者となる。

 ホムンクルスはフラスコのガラスを突き破って外に出たいと願う。
 しかし、ホムンクルスはフラスコにとじこめられ、そこから逃げられない。

 ホムンクルスは、人間による際限のない科学技術の進化と、その成果物の悲劇性を現わしている。
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