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「幕末の世直し 万人の戦争状態」 [日本史]

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  吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」の一冊。2010年刊。
  著者は、日本近世史を専門とする須田務さん。

  江戸時代後半から末期にかけて、幕藩体制の崩壊の動きを、地方で頻発した騒動から見ていく。

1 伝馬(てんま)騒動
  1764年2月から翌年1月にかけて、武州(現在の埼玉県東京都神奈川県一帯)を中心に中山道周辺の1,000か村の百姓たち20万人が、幕府の施策に反対して、強訴、打ちこわしを起こした。

  関東地域で初めて発生した大規模広域化した百姓一揆であった。
  一揆の側は、不参加の村は打ちこわすと脅して、百姓を参加させた。
  原因は、わいろを受け取った老中首座の役人が、さらなる使役を百姓に課したことにあった。

2 上州絹一揆
  1781年6月、上州(現在の群馬県一帯)の百姓2万人が、絹取引の仕組みを変更するという命令に反対して立ち上がった。
  一揆勢は、変更を決定した老中首座の居城である高崎城を包囲した。
  幕府の権力者の居城が一揆勢に包囲されるというのは、前代未聞であった。
  その後、一揆勢は多くの有力商人の屋敷を打ちこわした。

3 天明江戸打ちこわし
  1783年から始まった天明の飢饉により、江戸では米価の上昇が続いた。
  困窮した貧民は、江戸全体で1,000軒の米穀商や質屋を打ちこわした。
  参加したのは日雇いや職人であったが、規律を保ち、沈着に行動していたといわれる。

4 農村部の経済格差拡大
  幕府が財政補てんのために始めた公金貸し付けの結果、農村部で経済格差が拡大していった。
  富裕な百姓は、地主経営を安定させ、金貸し、在郷商人として儲けた。
  一方では、土地を手放し、小作人に転落する小農がいた。

  財政難は幕府だけではなく、全国の幕藩領主共通の問題となり、彼らは特権商人と結託し、収奪を強めた。
  没落した百姓のせがれたちは、農業と親を捨て、宿場などの商業地に流入した。

5 甲州(現在の山梨県)騒動
  天保の飢饉が深刻化していた1836年、飢餓に苦しむ郡内地域(現在の大月市周辺)で始まった。
  一揆勢の当初のねらいは、米価の引き下げと豪農・豪商からの米の借り入れであった。
  しかし、次第に打ちこわしや盗みが目的になって行った。
  一揆勢に渡世人・無宿といった人たちが加わり、刀などの武器を持つようになった。
  一揆勢は甲府城下並びにその周辺で、打ちこわしを繰り返した。

  甲州の大部分は幕府の直轄地であったが、軍事力は脆弱で一揆勢を鎮圧出来なかった。
  このため、隣の諏訪藩に鎮圧の要請が出された。
  また、村々・一般百姓に一揆勢殺害を命令した。

  支配地域の治安を維持できなかった幕府の権威は地に落ちた。

6 自衛組織の出現
  1863年、幕府は代官陣屋を警備する民兵組織を作った。
  多摩地域では、代官が農民銃隊というものを組織した。

  また、打ちこわしを恐れる豪農たちは、自衛にための防衛組織を作るようになった。
  治安維持に関する幕府への信頼は失われていった。

  農兵の設置は江戸時代の兵農分離の原則を破る、身分制度の根幹にかかわる重大問題である。

7 天狗党の乱
  1864年、水戸藩尊王攘夷派のうち過激な者たち約60名が、幕府に尊王攘夷を迫るため筑波山に挙兵した。
  天狗党は約8か月間にわたり、北関東地域の町村に対して金銭や食料等の強要を行い、幕府軍と交戦して、北関東各地を戦場に陥れた。
  近隣各藩から集められた幕府軍は初戦は勝利したが、天狗党の夜襲に総崩れとなり、敗走した。
  その後、天狗党の総勢1,000名は京都に向かうため、中山道を進み、信州を抜け、加賀藩に投降した。
  幕府はこのうち352名を処刑した。水戸藩に戻された者も多くは幽閉された。

  天狗党の乱で、北関東の多くの町村が焼かれ、人々は天狗党の暴力に恐怖し、幕府・天狗党双方から金品を強要、強奪された。
  幕府軍は敗退し、人々を守れなかった。
   
8 戊辰戦争
  1868年1月、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が始まった。
  同年2月、新政府軍が中山道碓氷峠にまで迫ると、高崎に近い幕府直轄領の役人たちは、屋敷を捨てて、江戸に向かい逃走してしまった。
  地域の弱小藩に力はなく、上州地域は権力の空白地帯となってしまった。
  このため、世直し運動が頻発するなど混乱を極めることになった。


切支丹弾圧への道 [日本史]

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 *「切支丹と統一政権」(岡美穂子氏執筆)に拠る。
    岩波講座「日本の歴史 第10巻」所収

1 信長の対応
(1)信長は全国統一を目指すうえで、武装した宗教勢力が大きな障害になると感じ、1574年の長島一揆で一向宗門徒2万人を殺害し、また、同じ年に比叡山で3~4千人を焼き討ちにした。

(2)同じころ、京都での布教を始めつつあったイエズス会宣教師を謁見して、庇護することを約束している。

(3)信長は、多くの僧侶を殺害し、その寺院を破壊するよりは、宣教師を庇護してその教えを広めさせることが仏教勢力の弱体化を進めるうえで効果的と考えた。

2 日本におけるキリスト教の布教
(1)フランシスコ・ザビエルの布教当初、日本人の通訳が「聖母マリア」を「観音」と訳していたこともあり、彼らの宗教が仏教の一種であると誤認されていた。宣教師たちはそれに気づき、用語を変更して正しい理解を得るよう努めたが、日本人の誤解は容易に払しょくされなかった。

(2)宣教師たちは、各地に病院を設立したり、相互扶助組織を整備したりして、信者獲得の助けとした。こうした施設の運営には多額の資金が必要であり、イエズス会修道士は、貿易にも携わるようになった。

(3)日本での布教に際しては、イエズス会からの宣教師だけでは人数が足りず、日本人修道士が活躍した。彼らはキリスト教義を深く修得する間もないまま、信徒指導に駆り出されたといわれている。

3 秀吉の伴天連追放令
(1)秀吉は、九州を平定した1587年、伴天連追放令を公布した。伴天連とは外国から来た宣教士を指し、20日以内に国外へ退去せよというものであった。

(2)秀吉が伴天連追放令を交付した理由は・・
  ① もともと伊勢信仰の強い九州地域でキリスト教の布教が進んだため。寄進の減少を危惧した伊勢神宮が信長に働きかけた。

  ② キリスト教へ改宗した大名による領内の寺社破壊、領民の集団改宗などが進み、地方政権と宗教が結束して、秀吉に対して軍事的脅威となることが懸念された。

  ③ ポルトガル人商人が日本人を奴隷として東南アジアへ売り飛ばすことを行い、宣教師がそれを黙認していたことを許せなかった。

(3)伴天連追放令は、その時に日本にいた宣教師の国外退去を命ずるものであったが、新たに日本に宣教師が来ることを禁じていなかった。このため、大半の宣教師は日本にとどまったままであり、秀吉はそれを黙認していた。

4 スペイン人の活動と26聖人殉教
(1)1596年、秀吉はスペイン人の6名の宣教師並びに日本人の伝道師等、合わせて26名を捕らえ、長崎で処刑した。

(2)その理由は・・
   ① スペイン人が1571年以降、フィリピンのマニラを占拠していて、日本にとり脅威となっていた。
   ② 伴天連追放令により日本での布教が難しくなっていた宣教師のなかには、マニラのスペイン人に対し日本侵攻をするよう画策する者がいた。
   ③ スペイン人宣教師の中には、禁じている布教活動を行う者がいた。

5 徳川幕府の切支丹弾圧
(1)徳川幕府の時代になっても、切支丹は全国的に表立って取り締まりを受ける対象ではなかったものの、その潜在的な危険意識は幕府中枢部に継続的に存在した。

(2)このため、1612年以降、キリスト教を信仰することの禁止の布告ならびに宣教師の国外追放処分が相次いで実施された。

(3)キリスト教信仰が一定の成功を収めていた九州、京都、東北などでは取り締まりが厳しく、棄教に応じず殉教した切支丹の数は全国で1万人ほどと推定されている。

(4)また、1614~15年の大阪の陣で多くの切支丹が大阪方に味方をしたことが、徳川幕府の切支丹に対する対応をより厳しいものにした。

(5)さらに1637年の島原の乱の発生により、徳川幕府は切支丹の取り締まりと殲滅を徹底して行うことになった。

日本の発明王 田中久重 [日本史]

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* 「からくり儀右衛門 日本の発明王 田中久重伝」(林洋海著 現代書館刊)に拠る。 

 田中久重は1799年に、今の久留米市でべっ甲細工師の長男として生まれた。
 久重は、家業のべっ甲細工には関心がなく、発明工夫に非凡な才能を見せていた。
 15歳になったとき、家業は弟に継がせ、自分は発明工夫で身を立てることを決意した。
 久重は寝食を忘れて「考案」に没頭した。
 そして、柄入り絣を織る機械やからくり人形を作るようになった。
 16歳の時に作った久重のからくり人形は絶賛を浴びた。

 久重のからくり人形は、全くの独創ではなく、土佐出身の細川半蔵頼直という人が書いた「機巧図彙」という本を参考にしている。時計やからくり人形の構造などを精密に図解、解説したもので、当時の技術水準の高さを示している。

 この時代になると、蘭学者を中心に、広く世に役立つ知識や技術は秘匿せずに公開するという考え方が広まり、「機巧図彙」が発刊されたのもそうした時代の変化が背景にある。

 久重は、新しいからくり人形を次々に発表し、久留米だけではなく、他国での興行も行った。
 大阪で行った興行では、1日の入場者数が1万人を超え、それが五十余日に及び、莫大な収入を得た。一方、江戸では長雨の影響で、客が入らず、多額の損失を被ったりした。

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 久重は35歳の時に居を久留米から大阪に移した。
 大阪では、からくり人形のような興行ものではなく、世の中に役立つ発明と商品作りを目指した。
  
 38歳の時、大塩平八郎の乱に伴う火災で焼け出され、知り合いを頼って京都に移った。
 京都では無尽灯の販売が好調で、工房の職人も増やした。
   *無尽灯・・圧縮空気による給油機構を使った長時間継続使用できるオイルランプ。ろうそくの10倍の明るさであった。

 久重は経営の安定した44歳の時、一念発起して、「報時館」というところで、天文学、暦学、数学などを学んだ。

 その後、天文観測計器、測量機器、外科用手術器具、酒・茶などの配膳ロボット、消火ポンプなどの商品を販売するようになった。
 その当時作った須弥山儀(しゅみせんぎ)(和時計)は制作に3年を要した。

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 久重51歳の時に、「万年自鳴鐘」の開発に着手、わずか1年で完成した。
   ・そのころの時刻は、今と違い、日の出と日の入りの間を昼、夜ともに6で割り1刻とする。
    従って、1刻の長さが季節により変わる。これをはじめて自動的に表示可能とした。
   ・1回ゼンマイをまけば、1年間は動く。
   ・部品は1000点。すべて、やすりなどの道具を使い、手作業で製作したもの。

 日本の和時計製作技術は、この「万年自鳴鐘」で絶頂に達したといわれている。
 久重はこの「万年自鳴鐘」を1台しか作らず、そのころ時計のコレクターとして知られていた松江公から、2,000両(現在の価値にして2億6,000万円)で引き合いがあったが、手放さなかった。

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 54歳の時に久重は請われて京都を離れ、佐賀に向かう。
 肥前国佐賀藩の精煉方に着任し、蒸気機関車や蒸気船を作り、また、反射炉や大砲製造に貢献した。
 これらに使われた金属加工技術の正確さは、現代の技術者から見ても素晴らしいもので、洋式旋盤のない時代にどのように作られたのか、想像できないという。

 ぺリーが蒸気船で来航し、また、幕末の変動激しい時期であった。
 久重68歳の時に、将軍慶喜が大政を奉還、天皇が王政復古を宣言した。
 戊辰戦争では、佐賀藩の大砲が威力を発揮した。

 明治の時代になり、73歳で久重は、できたばかりの工部省に請われて東京に向かった。
 東京に居を構えたのち、久重は自分の製造所を立ち上げた。
 田中製造所の誕生であった。
 できることは何でもやったが、電気事業に力を入れた。
 久重は工部省に通い、電気や通信機器の技術を必死に会得した。
 工部省のお雇い外国人と話をするため、英語も勉強した。

 こうした努力のおかげで、田中製造所は工部省からの電信機器類の製造を一手に引き受け、経営は軌道に乗った。
 田中製造所で久重から指導を受けた者の中から、後に現在まで続く電気機器あるいは機械機器製造会社を立ち上げたものも少なくない。

 久重77歳の時に、田中製造所は工部省の指定工場となり、工場を現在の銀座8丁目に移転した。

 79歳の時に田中製造所は電話機を完成させ、工部省に納めた。
 日本の電信電話は田中一門の技術により作り上げられたといわれ、田中製造所は官営工場を除いて、民間最大の工場に成長した。

 しかし、政府が電信機器製造を官営にすることになり、工部省が従業員ともども引き取ることになった。

 久重は83歳で亡くなった。
 久重の養子の大吉は、久重の死後、海軍省からの発注を得て、当時の東京芝区にあらたに田中製造所を設立した。
 これが芝浦製作所の前身で、のちの東芝である。
 

文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵) [日本史]

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  以下に拠る。
   「文禄・慶長の役」 中野等著  吉川弘文館。2008年刊。
   「朝鮮から見た文禄・慶長の役」 李啓煌著 岩波講座「日本歴史 第10巻」所収 2014年刊。

  秀吉は、以下の通り、二度にわたり朝鮮へ出兵した。
    文禄の役(1592~1593)
    慶長の役(1597~1598)

1 秀吉の日本平定と朝鮮出兵
(1)秀吉は、1582年の信長死後、一歩一歩、我が国のトップの地位を確立していった。

(2)1583年には柴田勝家を打ち破り、1584年には小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦い、講和して支配下に置いた。

(3)また、1585年には紀伊、四国、越中を、1587年には九州を平定した。さらに1590年には、北条氏討伐し、またその後奥羽を制圧し、全国を支配下におさめた。
  
(4)その帰路、秀吉は早くも小西行長、毛利吉成に大陸侵攻の具体的準備を指示している。侵攻の拠点を肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に置くことも決定している。

2 なぜ、秀吉は大陸侵攻を急いだのか
   秀吉の意図は明確にはなっていないが、以下のようなことが考えられる。
 
  ① 徳川、毛利、前田、上杉などの、信長の時代からの有力大名が多く残っており、秀吉の権力基盤はいまだ盤石ではなかった。このため、対外戦争を行うことにより、自己の力を誇示するとともに、有力大名のエネルギーを消耗させ、国内での権力闘争を回避しようとした。

  ② 小西、小早川、加藤、宇喜多など、自分の近い武将に戦功を挙げさせ、恩賞として領地を与えることにより力をつけさせ、自己の権力基盤を強固なものにしようとした。

  ③ 東南アジアを植民地化した、スペインなどの欧州列強の脅威に備えるため、いまだ植民地化していない朝鮮、琉球、明などを自己の支配下に置き、スペインなどの欧州列強に対抗しようとした。

3 朝鮮への侵攻と戦況
(1)1591年には、朝鮮への侵攻のため、以下のような準備を開始した。

   ① 肥前名護屋で秀吉のための御座所の建設を開始
   ② 秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、対外侵攻に専心する体制へ
   ③ 秀吉、大阪から肥前名護屋へ向けて出陣
   ④ 全国から、大名並びにその軍勢が肥前名護屋に集まった。

(2)1592年3月、約16万人の軍勢が9隊に編成されて、朝鮮へ侵攻した。なお、徳川家康、前田利家などの有力大名は、肥前名護屋まで兵を伴って駆け付けていたが、秀吉から、朝鮮へ渡る命令は出なかった。

(3)当初は、朝鮮軍を破り、順調に北進した。5月初め漢城(現在のソウル)に入り、また、6月中旬には、平壌に入ることができた。

(4)7月中旬には明の応援軍が到着し、朝鮮軍とともに平壌の日本軍を攻めるも大敗を喫した。その後、日本軍は明ならびに朝鮮の軍勢2万と対峙し、膠着状態が続いた。

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4 日本軍の問題点
(1)日本軍の配置が朝鮮の中部、北部の都市に片寄ったため、南部地域が手薄となり、兵站線、連絡路を絶たれる危険性が生じた。

(2)南海岸地域に兵力が少なくなり、日本水軍が陸から支援を得ることが難しくなった。

(3)日本水軍の力が弱く、5月から6月にかけて、朝鮮水軍の攻撃により大敗を喫した。このため、南西部の制海権を朝鮮側に奪われ、海路を利用して朝鮮西海岸へ進撃することができなくなった。また、9月の釜山沖海戦で日本軍が敗れ、朝鮮と九州との間の連絡路が絶たれる危険性が生じた。

5 戦況の悪化
(1)南部地域では朝鮮の兵力増大が顕著で、日本軍は防戦一方になった。10月には、日本兵2万が朝鮮の拠点を攻めるも大敗した。

(2)1593年1月、平壌の日本軍は明・朝鮮軍の攻撃を受け、漢城まで撤退した。冬になり寒さが耐え難く、戦闘の長期化とともに、厭戦の雰囲気が出てきた.日本軍は、漢城郊外の戦闘で大敗を喫し、漢城の防御も危うくなってきた。

(3)3月以降、兵糧の欠乏を理由に、釜山まで撤退して、南海岸にて長期駐留することを目指した。

6 戦闘の終息
(1)大規模な戦闘が7月を最後に終息した。日本軍は、南海岸一帯に城を築き、約4万の兵を残した。5万の兵は8~9月に日本へ帰還した(約5万の将兵は戦死した)。

(2)その後、戦争終結のための講和交渉が行われたが、お互いに相手の降伏を要求したため、妥結の見込みはなかった。

7 慶長の再派兵
(1)1596年、講和交渉は最終的に決裂し、秀吉は朝鮮への再度の派兵を決め、総勢12万の兵が集められた。

(2)1597年1月から再上陸が始まり、朝鮮南部を中心に戦闘が行われた。しかし、朝鮮並びに明軍の反攻があり、戦闘は一進一退となった。

(3)こうした中、秀吉が1598年8月に亡くなり、再度講和交渉が進められることになった。日本軍は12月にかけて朝鮮から撤退した。

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8 その後への影響
(1)大陸への侵攻により、自己の政権基盤を確固たるものにするという秀吉の意図とは逆に、政権を弱体化させることになった。秀吉に近い位置にいた諸大名も疲弊した、

(2)一方、朝鮮の戦闘へ自己の兵を投入することなく力を温存した家康が、秀吉亡き後の権力を握ることになった、

(3)明もこの戦役で体力を消耗し、1644年に滅亡した。

(4)朝鮮の李氏王朝は滅亡することなく、1910年に日本に併合されるまで生き延びた。


外国人が見た昔の日本の風俗 [日本史]

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  中世日本の風俗は、西欧の影響を受けた近現代のそれとはかなり違う。
  外国人が書き残した書物から、見てみたい。

1 「ヨーロッパ文化と日本文化」 (岩波文庫)
    著者のルイス・フロイス(1532~1597)はイエズス会の宣教師として来日。
    信長。秀吉の時代を中心に、35年間日本で布教を行い、長崎で生涯を終えた。

(1)女性の貞操
  「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。」
  (この時代には処女の純潔や貞操を重んずる観念は薄かった。キリシタンの信仰が伝わったとき、教会で大いに風俗矯正に力を尽くしたため、信徒の間には純潔を尊ぶ観念が植え付けられた。)

(2)離縁
  「ヨーロッパでは、妻を離別することは罪悪であるうえに、最大の不名誉である。日本では、意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる。」
  (妻の実家と協議のうえ離婚する場合もあるが、一般には夫の一方的意志によって行われた。)

(3)女性の行動
  「ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことは極めて大事なことで、厳格に行われる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、独りで好きなところに出かける。」

  「ヨーロッパの妻は夫の許可がなくては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。」

2 「回想の明治維新」 (岩波文庫)
    著者は亡命ロシア人革命家のメーチニコフ(1838~1888)。
    維新革命を果たした日本に魅せられて、明治7年から1年半、日本に滞在した。

(1)衣服
   「横浜の鉄道駅にひしめく群衆は・・『紺色の』群衆と呼ぶにふさわしい。なぜなら群衆全体が、大も小も、老いも若きも、男女、身分の別なく、まるで制服ででもあるかのように、一様にインジゴ色のくすんだ色合いの着物に身を包んでいた。」

(2)裸
   「平民身分の日本人はズボンを全くはかない。・・日本人のこうした裸好きを私が初めて目にしたのは、横浜の駅頭であった。」

   「人力車の人足たちは暑い季節ともなると、われ先にその赤銅色の体を圧迫する衣服をすべて脱ぎ捨て、腰のまわりに最小限の手ぬぐいか帯のようなものを巻き付ける姿になる。」

(3)浴場
   「政府は、公衆浴場では男湯と女湯をしっかり区切るよう命じている。・・たしかに男女混浴こそできないが、好きな連中が双眼鏡でも持って、女湯で入浴する日本の女たちに見ほれるとしても、誰もそれを妨げたりしない。」

(4)純潔
   「世界のすべての古い文化的民族の例にもれず、日本人も外国人と接触する以前から、夫婦間の貞節という意味で、とりたてて処女のごとき純潔を特徴としてきたわけではない。」

(5)読み書き
   「日本は、中国と同じく、ロシアやラテン系諸国よりも識字率が極めて高い。読み書きの能力など、日本のすべての国民にとって、あって当たり前と考えられている。」

<飛脚>
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<浴場>
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「古事記の禁忌 天皇の正体」 [日本史]

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  新潮文庫の一冊。2013年刊。
  著者は歴史作家の関裕二さん。

1 渡来人の影響
(1)四世紀末以降、多くの渡来人が、朝鮮半島から日本列島へやってきて、知識と技術をもたらした。渡来人は、土木工事、金属冶金、鉱山開発などを可能とし、日本の権力者にとって、多くの渡来人を抱えることが力や富の源泉となった。

(2)渡来人の出身地は主に新羅または百済であったが、この二つの国は長年、敵対関係にあった。このためは、渡来人は日本に来てからも、その出自によりお互いに排他意識を持っていた。
    
(3)例えば、秦氏は5世紀に新羅から渡ってきたといわれ、一方、藤原氏は百済にそのルーツがあるといわれていた。秦氏と藤原氏との反目は、天皇をも巻き込み、朝廷の政治に大きな影響を与えた。

(4)「日本書紀」は親百済、「古事記」は親新羅と、外交問題に関して異なる立場となっている。

2 天皇や錦の御旗の魔力は、どこから生まれてきたものなのだろうか。
(1)天皇は「多神教的な神」であり、神は時に祟り、時に恵みをもたらす存在なのである。

(2)祭司王としての天皇は、「日本書紀」の説明に従えば、天照大神ら皇祖神の霊を継承し、皇祖神そのものになることで、権威を獲得したきた。

3 天皇の役割
(1)律令制度のなかの天皇という存在は、太政官で議論され、決定した案件を「追認」し、太政官は書類に天皇御璽を押印し、その書類が正式な天皇の命令となるというものであった。つまり、天皇に独裁的な権力は与えられず、太政官が実権を握るのが、日本の律令システムの原則であった。

(2)天皇はそれでもなお超法規的存在たり得たし、一方で貴族は法令をてこにして天皇の独走に歯止めをかけることができた。その時々のバランスによって、振り子はどちらにでも傾きえたのである。

(3)藤原氏は律令の規定をあいまいに解釈することによって、天皇を魔法の杖に仕立てあげた。普段は、律令の規定を順守し、いざとなったら、天皇の命令を引き出し、藤原氏の思い通りの政局運営を可能にした。

4 なぜ武士は天皇をつぶさなかったのか
(1)源氏や平氏が天皇の末裔であったこと、ならびに彼らの権威の源泉が天皇だったことなどがその理由。

(2)東国で成長した平氏や源氏は、権力を握るために東北蝦夷征討を企てた藤原氏を東北の民が嫌っていること、その一方で天皇家の権威に跪くことを、目の当たりにしてきた。

(3)武士は「腕力」を振り回して実権を握るが、権威、正統性を天皇の権威に頼った。

(4)多神教世界では、独裁者は排除され、絶対的な権力を持ったものは嫌われる。武士は「宗教的な権威に守られた権力者」を目指した。

5 明治政府の天皇制並びに「古事記」と「日本書記」の利用
(1)明治政府は、国家の精神的支柱に天皇という「古色蒼然たる遺物」を利用し、その幻想を「古事記」と「日本書記」によって補った。

(2)天皇の起源と歴史の正当性を伝えるために、「古事記」と「日本書記」を合体させ、これを「記紀神話」と一体化させてしまった。

6 現在に残る風習
(1)広隆寺本尊は聖徳太子三十三歳像で、歴代天皇は、即位儀礼に用いた服をこの像に送り続けてきた。だから、今着ている服は今上天皇のもの。

(2)出雲国造家の当主、出雲国造が亡くなると、死は伏せられ、遺骸を座らせ、食事の用意をし、生きているように振舞わせる。そして、国造の後継ぎは神事を急ぎ執り行い、霊を継承する。



「日本の古代国家」 [日本史]

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  岩波文庫の一冊。著者は古代史及び中世史専攻の石母田正さん(1912-1986)。
  もともとは1971年に出版されたもの。
  推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を分析している。
  その第一章「国家成立史における国際的契機」から、いくつかのトピックスをひろってみると・・

1 女王卑弥呼
(1)女王卑弥呼は以下の二つの顔を持っていた。
  ① 国内に対してはシャーマン的女王としての存在
  ② 対外的には「親魏倭王」としての存在
(2)中国が魏、呉、蜀の三国に分かれ、魏は朝鮮の高句麗と手を結ぶ呉により南北から挟み撃ちに会う恐れを感じていた。このため、魏は日本の邪馬台国と友好関係を求めた。
(3)アジア的社会の下では、他民族との交通が重要になればなるほど、その機能を独占する王権は「開明的」となり、内部的な地位はそれにより強化される。
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2 中国、朝鮮との窓口の独占
(1)中央の大王(天皇)を軸とした支配層が、中国および朝鮮の先進的な統治技術、国家機構、法典等を輸入し、享受することによって、国際的交通から疎外され、共同体的諸関係に縛られていた人民に対する階級的優位を体制化した。
(2)例えば、中国の律令国家とその複雑な官僚機構は、「文書主義」を基本とし、文字の使用と統治技術が不可分の関係にあった。日本の支配層は漢字・漢文を習得し、国家機構の運営に利用し、文字を持たない人民を統治した。国家が単に武力によって支配するのでは長続きはせず、知的労働が支配階級により独占されることにより、律令国家は数世紀にわたって日本人民を支配しえた。

3 「天皇」という呼称
(1)「天皇」という呼称が使用される前は「大王」が使われていた。「大王」が不都合となったのは・・・
  ① 朝鮮の新羅が「大王」という呼称を自ら使い始めた。新羅は日本の朝貢国で、日本の方が格上なのに、同じ「大王」という同格の呼称を使用するのは不都合であった。
  ② 日本は当時、隋の朝貢国の一つであったが、ほかの国と違い「大国」であることを隋に認めさせ、それを新羅に対する外交上の圧力にしようとした。

(2) 「天皇」という称号は、朝鮮の諸王の「大王」と違い、また中国の君主の「天子」や「皇帝」とも違うことから使用されるようになった。
(3)推古朝の対隋外交には、中国王朝の世界帝国的秩序の内部に、自らの「大国」としての秩序を形成しようとした意図がみられるのであって、「天皇」の呼称の成立はそのことを象徴するものである。

4 東アジアの動向と日本への影響
(1)唐帝国の出現(618)と朝鮮三国間の戦争という新しい局面に対し、蘇我氏専制という当時の状況はそのせまさ、閉鎖性から当時の状況に対応しえないことは当時の支配層に広く認識されていた。
(2)646年の大化の改新の政策の一つは新しい国際関係に対応するための国内の体制を固めることにあった。国内政治では、王民制から公民制への転換を目指した。また、国際面では、新羅を媒介として唐と結ぶことを試みた。

(3)朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の三国が並立していたが、唐は新羅と組み、高句麗、百済に対し高圧的な姿勢を強め、また日本に対し、新羅を支援するように言ってくるなど、朝鮮半島の緊張が高まった。日本は唐ならびに新羅と対峙する可能性が出てくるなど、危機意識が高まったこのため、国内では以下のような動きがあった。
   ① 難波から大和への遷都(653年)
   ② 第三次遣唐使の派遣(654年)
   ③ 女帝斉明天皇の即位と皇太子中大兄皇子も執政(655年)
   ④ 防御のための石垣の設置などの大土木工事(656年)
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(4)唐と新羅の連合軍は百済並びに高句麗を攻撃し、660年に百済が、さらに668年には高句麗が、いずれも唐と新羅の連合軍により滅亡した。日本は百済の再興を図る勢力を応援するため朝鮮へ出兵したが、白村江の戦いで敗れ、撤退した。

(5)日本では、646年の大化の改新以降、進められてきた律令国家の建設を急ぐことになり、701年の大宝律令により一応の完成を見ることになる。

5 新羅征討計画
(1)天平期(729-749年)に入っても、新羅との対立、緊張関係は続き、759年に新羅相征討計画が決定された。この決定の背後にあったのは・・・
 ① 唐において安禄山、史思明の乱が発生し、内部的な動揺から唐には新羅を救援する余裕がないと見た。
 ② 難所である朝鮮海峡を渡るために必要な兵員、装備、輸送手段、軍隊の質等に目途をつけた。
   ・3年以内に船500艘を建造することを諸国に命じた。
   ・4万の兵士を諸国に割り当て。
(2)この戦争計画は実施されることはなかったが、これらの周到な戦争準備はは財政面の蓄積や公民の帳簿の整備があることにより、初めて可能となるものであった。
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「明治維新という幻想」 [日本史]

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  著者は森田健司さん。洋泉社の歴史新書の一冊。
  封建的な体制であった徳川幕府・江戸時代を再評価し、それを打ち破った明治新政府の暴力性を批判する。

1 明治維新直前の徳川幕府には勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、榎本武揚、徳川慶喜など、優秀な人材が多かった。
   勝海舟・・西郷隆盛との会談により、一切の武力衝突をすることなく、江戸城を新政府軍に明け渡し、江戸を戦火から守った。交渉や仲介の巧みさと、暴力の衝突を回避させることに関して、勝の右に出る者はいなかった。
   山岡鉄舟・・駿府に赴き西郷に会い、慶喜の恭順の意を伝えるとともに、勝・西郷の会談のための事前の打ち合わせを行った。
   高橋泥舟・・慶喜に朝廷への恭順を勧めた。
   榎本武揚・・航海術を身につけ、戊辰戦争を最後まで戦い、新政府でも要職に就いた。
   徳川慶喜・・速やかに大政奉還を行った。鳥羽・伏見の戦いを最後に、その後は一切の武力行使を行わなかったうえ、朝廷への恭順の意を示して謹慎までした。これにより、戊辰戦争の被害が最小限に抑えられた。旧幕府軍と新政府軍が死力を尽くして戦う内戦が繰り広げられていれば、日本の分裂と英仏による植民地化が行われていたに違いない。慶喜は日本を救った。

2 新政府の要人たち、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などは品性や美学が甚だしく欠如していた。
   西郷隆盛・・戦好きで、問題の解決を暴力、武力に頼る軍人。明治10年、西南戦争で自害。
   大久保利通・・新政府のリーダーとして版籍奉還、廃藩置県など国の形を変える大仕事を行ったが、明治11年に暗殺された。
   木戸孝允・・長州藩のリーダー的存在。明治10年に病死。
   伊藤博文・・大久保亡き後、明治政府を背負うことになる。初代総理大臣。明治42年に朝鮮で暗殺される。

 * 本書の感想
    ア 明治維新により日本の近代化が可能となったという新政府が作り上げた歴史観を否定し、世の中が安定し平和であった江戸時代を評価している。しかし、幕藩体制は世襲の弊害により、実行力のあるリーダーを得ることができず、内部崩壊が進んでいたのではないか。幕府内に優秀な人材がいたとしても、リーダーが怠慢であれば体制全体を支えることは出来ない。本書はそういう意味ではピントがすれている懐古趣味的な本。

    イ 徳川慶喜が幕府を放り出したことで戦禍が少なくて済んだとしても、リーダーとしては無責任ではなかったか。最後まで戦った一部の藩には構わず、自分は謹慎して身の安全を願り、武士の精神は微塵も見られなかった。

 * 明治維新について知りたい点
    ア 徳川御三家の一つである水戸藩でなぜ尊王攘夷思想が発展したのか。
      尊王攘夷思想が幕藩体制の強化につながると考えたのか。
    イ その水戸学に傾倒していた一橋慶喜がなぜ第十五代将軍に選ばれたのか。
    ウ 徳川御三家の尾張藩や紀州藩は徳川幕藩体制の危機的な状況において、どのような動きをしたのか。
    エ 朝廷が薩長の軍事行動にお墨付きを与えたのはなぜか。
    オ イギリスはなぜ薩長を支援したか。
    カ 幕府軍の武器が薩長軍のそれよりも劣っていたのはなぜか。徳川幕府に優秀な人物が揃っていたならば、なぜ外国からの武器の購入などにより軍備の充実を十分に図らなかったのか。
    キ 新政府は、なぜ攘夷思想から欧米をまねた近代化(文明開化)へと考えを素早く切り替えることができたのか。

「日本人はどこから来たのか?」 [日本史]

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  著者は国立科学博物館の海部陽介さん。2016年2月に文芸春秋から出された本。
  世界各地の遺跡の年代調査比較、DNA分析、石器の比較研究などから、人類がアジアそして日本へとどのような道を辿ったのかを探る。

1 人類の進化
(1)人類は大きく分けて、原人、旧人、新人に分かれ、いずれもアフリカで生まれた。
(2)原人は250万年前にアフリカに生まれ、石器文化を発達させ、また道具を使った。185万年前にアフリカを出て、アジアへ進出した。北京原人、ジャワ原人は原人の仲間。原人は5万年前に絶滅したと言われる。
(3)旧人は80万年前にアフリカで生まれた。ヨーロッパのネアンデルタール人は旧人に属し、中期旧石器文化を担った。アジアにも進出したが、4万年前に絶滅した。
(4)新人(ホモサピエンス)は20万年前にアフリカで生まれた。ヨーロッパのクロマニヨン人は後期旧石器文化を生み出した。5万年前にアジアへ進出した。新人(ホモサピエンス)は現在の人類の祖先である。
      
2 新人(ホモサピエンス)のアジアへの進出
  ホモサピエンスは、アジアへは以下のルートで拡散した。
  ① ヒマラヤ南ルート
      中近東から、インド、東南アジア、更に4万7千年前にはオーストラリアへまで到達。
  ② ヒマラヤ北ルート
     ・4万6千年前にはバイカル湖周辺などの南シベリアへ。
     ・3万3千年前には北極海周辺まで進出。
     ・モンゴル、中国、さらに3万5千年前には朝鮮へ。

3 氷河期に寒冷地へ進出できた理由
(1)この時代は氷河期で現在より寒冷であったが、ウマ、トナカイ、シカ、マンモスなどの動物を追って進出したとみられる。
(2)ホモサピエンスが冬季の極寒に耐えることができたのは・・・
  ① 胴長短足で太めの体形へ変化。
   (赤道付近のアフリカ人は細身で腕と足が長い)
  ② 凹凸の少ない平坦な顔面形態
   (東北アジア人に多い)
  ③ 技術力の進化。
   (食料保存技術、火を使って暖を取る、衣服の進化など)

4 日本への進出ルート
(1)日本では3万8千年前に、それまで無人の野だった日本へ、対馬、沖縄、北海道の3ルートから別々に、人類が進出した。(日本では、原人や旧人の化石は見つかっていない)
(2)北海道ルートからはヒマラヤ北ルートのホモサピエンスが渡ってきた。このころ北海道は大陸と地続きであった。
(3)沖縄ルートからはヒマラヤ南ルートのホモサピエンスが琉球列島を船で渡ってきた。台湾から島伝いではあるが、黒潮を横断し、何か所か100キロを超える困難な航海が必要であった。
(4)対馬ルートからは、北ルートと南ルートのホモサピエンスが東アジアのどこかで融合した後、日本への進出を果たした。朝鮮半島からやはり船で困難な航海のうえ渡ってきた。
 
5 日本人の成立  
(1)これらのルートから日本に渡ったホモサピエンスが、1万5千年前頃から縄文時代の担い手となった。
(2)2500年前頃、水稲耕作技術や金属器などとともに大陸からかなりの規模の集団が渡来し、弥生時代の担い手となった。
(3)縄文人の系譜を受け継ぐ在来系の人々と、大陸からの渡来系の人々が様々に混血した結果として、歴史時代の日本人が形成された。渡来系弥生人の遺伝的影響は本州、四国、九州で強く、アイヌや琉球の人々では弱かった。
  <三つのルート>
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「シュリーマン旅行記 清国・日本」 [日本史]

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  遺跡発掘家シュリーマンは、世界旅行の途中の1865年6月から3か月間、幕末の日本に滞在した。徳川慶喜が大政奉還をする2年前である。そこで見たことを詳しく書き残した。

1 清潔さと皮膚
 「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町の至る所にある公衆浴場に通っている。しかし、にもかかわらず日本には他のどの国よりも皮膚病が多い。疥癬を病んでいない下僕を見つけるのに苦労するほどだ。この病気の唯一の原因は、日本人が米と同様に主食にしている生魚(刺身)にある。」

 *皮膚病の蔓延は刺身ではなく銭湯が原因ではないかと言われている。

2 公衆浴場
 「老若男女が一緒に湯につかっている。なんと清らかな素朴さであろう。初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はそう叫んだ。すべての者が男女混浴を容認しており、幼いころからこうした浴場に通うことが習慣になっている人々にとって、男女混浴は恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。」

3 家具
 「日本には家具の類が一切ない。せいぜい部屋の片隅に持ち運びのできる小さなかまど(長火鉢)があるぐらいのものである。日本に来て私は、ヨーロッパで必要不可欠だとみなされていたものの大部分は、もともとあったものではなく、文明が作り出したものであることに気が付いた。寝室を満たしている豪華な家具調度など、ちっとも必要でないし、それらが便利だと思うのはただ慣れ親しんでいるからに過ぎないこと、それら抜きでも十分やっていけるのだと分かったのである。」

3 浅草観音寺
 「お堂には仏像の傍らに、優雅な魅力に富んだ江戸の花魁の肖像画がかけられている。他国では娼婦の身分は卑しく恥ずかしいものとされている。ところが日本人は花魁を尊い職業と考え、彼女らを崇めさえしている。日本の宗教について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級は懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺と民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じりあっているのである。浅草観音の広い境内には、見世物小屋などがある。かくも雑多な娯楽が真面目な宗教心と調和するとは私にはとても思えないのだが。」

4 日本の文明
 「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国以上に行きわたっている。日本では男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。だが、文明という言葉が、キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させることを意味するならば、日本国民は少しも文明化されていないと言わざるを得ない。」

<江戸の銭湯>
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