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「古事記の禁忌 天皇の正体」 [日本史]

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  新潮文庫の一冊。2013年刊。
  著者は歴史作家の関裕二さん。

1 渡来人の影響
(1)四世紀末以降、多くの渡来人が、朝鮮半島から日本列島へやってきて、知識と技術をもたらした。渡来人は、土木工事、金属冶金、鉱山開発などを可能とし、日本の権力者にとって、多くの渡来人を抱えることが力や富の源泉となった。

(2)渡来人の出身地は主に新羅または百済であったが、この二つの国は長年、敵対関係にあった。このためは、渡来人は日本に来てからも、その出自によりお互いに排他意識を持っていた。
    
(3)例えば、秦氏は5世紀に新羅から渡ってきたといわれ、一方、藤原氏は百済にそのルーツがあるといわれていた。秦氏と藤原氏との反目は、天皇をも巻き込み、朝廷の政治に大きな影響を与えた。

(4)「日本書紀」は親百済、「古事記」は親新羅と、外交問題に関して異なる立場となっている。

2 天皇や錦の御旗の魔力は、どこから生まれてきたものなのだろうか。
(1)天皇は「多神教的な神」であり、神は時に祟り、時に恵みをもたらす存在なのである。

(2)祭司王としての天皇は、「日本書紀」の説明に従えば、天照大神ら皇祖神の霊を継承し、皇祖神そのものになることで、権威を獲得したきた。

3 天皇の役割
(1)律令制度のなかの天皇という存在は、太政官で議論され、決定した案件を「追認」し、太政官は書類に天皇御璽を押印し、その書類が正式な天皇の命令となるというものであった。つまり、天皇に独裁的な権力は与えられず、太政官が実権を握るのが、日本の律令システムの原則であった。

(2)天皇はそれでもなお超法規的存在たり得たし、一方で貴族は法令をてこにして天皇の独走に歯止めをかけることができた。その時々のバランスによって、振り子はどちらにでも傾きえたのである。

(3)藤原氏は律令の規定をあいまいに解釈することによって、天皇を魔法の杖に仕立てあげた。普段は、律令の規定を順守し、いざとなったら、天皇の命令を引き出し、藤原氏の思い通りの政局運営を可能にした。

4 なぜ武士は天皇をつぶさなかったのか
(1)源氏や平氏が天皇の末裔であったこと、ならびに彼らの権威の源泉が天皇だったことなどがその理由。

(2)東国で成長した平氏や源氏は、権力を握るために東北蝦夷征討を企てた藤原氏を東北の民が嫌っていること、その一方で天皇家の権威に跪くことを、目の当たりにしてきた。

(3)武士は「腕力」を振り回して実権を握るが、権威、正統性を天皇の権威に頼った。

(4)多神教世界では、独裁者は排除され、絶対的な権力を持ったものは嫌われる。武士は「宗教的な権威に守られた権力者」を目指した。

5 明治政府の天皇制並びに「古事記」と「日本書記」の利用
(1)明治政府は、国家の精神的支柱に天皇という「古色蒼然たる遺物」を利用し、その幻想を「古事記」と「日本書記」によって補った。

(2)天皇の起源と歴史の正当性を伝えるために、「古事記」と「日本書記」を合体させ、これを「記紀神話」と一体化させてしまった。

6 現在に残る風習
(1)広隆寺本尊は聖徳太子三十三歳像で、歴代天皇は、即位儀礼に用いた服をこの像に送り続けてきた。だから、今着ている服は今上天皇のもの。

(2)出雲国造家の当主、出雲国造が亡くなると、死は伏せられ、遺骸を座らせ、食事の用意をし、生きているように振舞わせる。そして、国造の後継ぎは神事を急ぎ執り行い、霊を継承する。



「日本の古代国家」 [日本史]

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  岩波文庫の一冊。著者は古代史及び中世史専攻の石母田正さん(1912-1986)。
  もともとは1971年に出版されたもの。
  推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を分析している。
  その第一章「国家成立史における国際的契機」から、いくつかのトピックスをひろってみると・・

1 女王卑弥呼
(1)女王卑弥呼は以下の二つの顔を持っていた。
  ① 国内に対してはシャーマン的女王としての存在
  ② 対外的には「親魏倭王」としての存在
(2)中国が魏、呉、蜀の三国に分かれ、魏は朝鮮の高句麗と手を結ぶ呉により南北から挟み撃ちに会う恐れを感じていた。このため、魏は日本の邪馬台国と友好関係を求めた。
(3)アジア的社会の下では、他民族との交通が重要になればなるほど、その機能を独占する王権は「開明的」となり、内部的な地位はそれにより強化される。
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2 中国、朝鮮との窓口の独占
(1)中央の大王(天皇)を軸とした支配層が、中国および朝鮮の先進的な統治技術、国家機構、法典等を輸入し、享受することによって、国際的交通から疎外され、共同体的諸関係に縛られていた人民に対する階級的優位を体制化した。
(2)例えば、中国の律令国家とその複雑な官僚機構は、「文書主義」を基本とし、文字の使用と統治技術が不可分の関係にあった。日本の支配層は漢字・漢文を習得し、国家機構の運営に利用し、文字を持たない人民を統治した。国家が単に武力によって支配するのでは長続きはせず、知的労働が支配階級により独占されることにより、律令国家は数世紀にわたって日本人民を支配しえた。

3 「天皇」という呼称
(1)「天皇」という呼称が使用される前は「大王」が使われていた。「大王」が不都合となったのは・・・
  ① 朝鮮の新羅が「大王」という呼称を自ら使い始めた。新羅は日本の朝貢国で、日本の方が格上なのに、同じ「大王」という同格の呼称を使用するのは不都合であった。
  ② 日本は当時、隋の朝貢国の一つであったが、ほかの国と違い「大国」であることを隋に認めさせ、それを新羅に対する外交上の圧力にしようとした。

(2) 「天皇」という称号は、朝鮮の諸王の「大王」と違い、また中国の君主の「天子」や「皇帝」とも違うことから使用されるようになった。
(3)推古朝の対隋外交には、中国王朝の世界帝国的秩序の内部に、自らの「大国」としての秩序を形成しようとした意図がみられるのであって、「天皇」の呼称の成立はそのことを象徴するものである。

4 東アジアの動向と日本への影響
(1)唐帝国の出現(618)と朝鮮三国間の戦争という新しい局面に対し、蘇我氏専制という当時の状況はそのせまさ、閉鎖性から当時の状況に対応しえないことは当時の支配層に広く認識されていた。
(2)646年の大化の改新の政策の一つは新しい国際関係に対応するための国内の体制を固めることにあった。国内政治では、王民制から公民制への転換を目指した。また、国際面では、新羅を媒介として唐と結ぶことを試みた。

(3)朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の三国が並立していたが、唐は新羅と組み、高句麗、百済に対し高圧的な姿勢を強め、また日本に対し、新羅を支援するように言ってくるなど、朝鮮半島の緊張が高まった。日本は唐ならびに新羅と対峙する可能性が出てくるなど、危機意識が高まったこのため、国内では以下のような動きがあった。
   ① 難波から大和への遷都(653年)
   ② 第三次遣唐使の派遣(654年)
   ③ 女帝斉明天皇の即位と皇太子中大兄皇子も執政(655年)
   ④ 防御のための石垣の設置などの大土木工事(656年)
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(4)唐と新羅の連合軍は百済並びに高句麗を攻撃し、660年に百済が、さらに668年には高句麗が、いずれも唐と新羅の連合軍により滅亡した。日本は百済の再興を図る勢力を応援するため朝鮮へ出兵したが、白村江の戦いで敗れ、撤退した。

(5)日本では、646年の大化の改新以降、進められてきた律令国家の建設を急ぐことになり、701年の大宝律令により一応の完成を見ることになる。

5 新羅征討計画
(1)天平期(729-749年)に入っても、新羅との対立、緊張関係は続き、759年に新羅相征討計画が決定された。この決定の背後にあったのは・・・
 ① 唐において安禄山、史思明の乱が発生し、内部的な動揺から唐には新羅を救援する余裕がないと見た。
 ② 難所である朝鮮海峡を渡るために必要な兵員、装備、輸送手段、軍隊の質等に目途をつけた。
   ・3年以内に船500艘を建造することを諸国に命じた。
   ・4万の兵士を諸国に割り当て。
(2)この戦争計画は実施されることはなかったが、これらの周到な戦争準備はは財政面の蓄積や公民の帳簿の整備があることにより、初めて可能となるものであった。
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「明治維新という幻想」 [日本史]

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  著者は森田健司さん。洋泉社の歴史新書の一冊。
  封建的な体制であった徳川幕府・江戸時代を再評価し、それを打ち破った明治新政府の暴力性を批判する。

1 明治維新直前の徳川幕府には勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、榎本武揚、徳川慶喜など、優秀な人材が多かった。
   勝海舟・・西郷隆盛との会談により、一切の武力衝突をすることなく、江戸城を新政府軍に明け渡し、江戸を戦火から守った。交渉や仲介の巧みさと、暴力の衝突を回避させることに関して、勝の右に出る者はいなかった。
   山岡鉄舟・・駿府に赴き西郷に会い、慶喜の恭順の意を伝えるとともに、勝・西郷の会談のための事前の打ち合わせを行った。
   高橋泥舟・・慶喜に朝廷への恭順を勧めた。
   榎本武揚・・航海術を身につけ、戊辰戦争を最後まで戦い、新政府でも要職に就いた。
   徳川慶喜・・速やかに大政奉還を行った。鳥羽・伏見の戦いを最後に、その後は一切の武力行使を行わなかったうえ、朝廷への恭順の意を示して謹慎までした。これにより、戊辰戦争の被害が最小限に抑えられた。旧幕府軍と新政府軍が死力を尽くして戦う内戦が繰り広げられていれば、日本の分裂と英仏による植民地化が行われていたに違いない。慶喜は日本を救った。

2 新政府の要人たち、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などは品性や美学が甚だしく欠如していた。
   西郷隆盛・・戦好きで、問題の解決を暴力、武力に頼る軍人。明治10年、西南戦争で自害。
   大久保利通・・新政府のリーダーとして版籍奉還、廃藩置県など国の形を変える大仕事を行ったが、明治11年に暗殺された。
   木戸孝允・・長州藩のリーダー的存在。明治10年に病死。
   伊藤博文・・大久保亡き後、明治政府を背負うことになる。初代総理大臣。明治42年に朝鮮で暗殺される。

 * 本書の感想
    ア 明治維新により日本の近代化が可能となったという新政府が作り上げた歴史観を否定し、世の中が安定し平和であった江戸時代を評価している。しかし、幕藩体制は世襲の弊害により、実行力のあるリーダーを得ることができず、内部崩壊が進んでいたのではないか。幕府内に優秀な人材がいたとしても、リーダーが怠慢であれば体制全体を支えることは出来ない。本書はそういう意味ではピントがすれている懐古趣味的な本。

    イ 徳川慶喜が幕府を放り出したことで戦禍が少なくて済んだとしても、リーダーとしては無責任ではなかったか。最後まで戦った一部の藩には構わず、自分は謹慎して身の安全を願り、武士の精神は微塵も見られなかった。

 * 明治維新について知りたい点
    ア 徳川御三家の一つである水戸藩でなぜ尊王攘夷思想が発展したのか。
      尊王攘夷思想が幕藩体制の強化につながると考えたのか。
    イ その水戸学に傾倒していた一橋慶喜がなぜ第十五代将軍に選ばれたのか。
    ウ 徳川御三家の尾張藩や紀州藩は徳川幕藩体制の危機的な状況において、どのような動きをしたのか。
    エ 朝廷が薩長の軍事行動にお墨付きを与えたのはなぜか。
    オ イギリスはなぜ薩長を支援したか。
    カ 幕府軍の武器が薩長軍のそれよりも劣っていたのはなぜか。徳川幕府に優秀な人物が揃っていたならば、なぜ外国からの武器の購入などにより軍備の充実を十分に図らなかったのか。
    キ 新政府は、なぜ攘夷思想から欧米をまねた近代化(文明開化)へと考えを素早く切り替えることができたのか。

「日本人はどこから来たのか?」 [日本史]

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  著者は国立科学博物館の海部陽介さん。2016年2月に文芸春秋から出された本。
  世界各地の遺跡の年代調査比較、DNA分析、石器の比較研究などから、人類がアジアそして日本へとどのような道を辿ったのかを探る。

1 人類の進化
(1)人類は大きく分けて、原人、旧人、新人に分かれ、いずれもアフリカで生まれた。
(2)原人は250万年前にアフリカに生まれ、石器文化を発達させ、また道具を使った。185万年前にアフリカを出て、アジアへ進出した。北京原人、ジャワ原人は原人の仲間。原人は5万年前に絶滅したと言われる。
(3)旧人は80万年前にアフリカで生まれた。ヨーロッパのネアンデルタール人は旧人に属し、中期旧石器文化を担った。アジアにも進出したが、4万年前に絶滅した。
(4)新人(ホモサピエンス)は20万年前にアフリカで生まれた。ヨーロッパのクロマニヨン人は後期旧石器文化を生み出した。5万年前にアジアへ進出した。新人(ホモサピエンス)は現在の人類の祖先である。
      
2 新人(ホモサピエンス)のアジアへの進出
  ホモサピエンスは、アジアへは以下のルートで拡散した。
  ① ヒマラヤ南ルート
      中近東から、インド、東南アジア、更に4万7千年前にはオーストラリアへまで到達。
  ② ヒマラヤ北ルート
     ・4万6千年前にはバイカル湖周辺などの南シベリアへ。
     ・3万3千年前には北極海周辺まで進出。
     ・モンゴル、中国、さらに3万5千年前には朝鮮へ。

3 氷河期に寒冷地へ進出できた理由
(1)この時代は氷河期で現在より寒冷であったが、ウマ、トナカイ、シカ、マンモスなどの動物を追って進出したとみられる。
(2)ホモサピエンスが冬季の極寒に耐えることができたのは・・・
  ① 胴長短足で太めの体形へ変化。
   (赤道付近のアフリカ人は細身で腕と足が長い)
  ② 凹凸の少ない平坦な顔面形態
   (東北アジア人に多い)
  ③ 技術力の進化。
   (食料保存技術、火を使って暖を取る、衣服の進化など)

4 日本への進出ルート
(1)日本では3万8千年前に、それまで無人の野だった日本へ、対馬、沖縄、北海道の3ルートから別々に、人類が進出した。(日本では、原人や旧人の化石は見つかっていない)
(2)北海道ルートからはヒマラヤ北ルートのホモサピエンスが渡ってきた。このころ北海道は大陸と地続きであった。
(3)沖縄ルートからはヒマラヤ南ルートのホモサピエンスが琉球列島を船で渡ってきた。台湾から島伝いではあるが、黒潮を横断し、何か所か100キロを超える困難な航海が必要であった。
(4)対馬ルートからは、北ルートと南ルートのホモサピエンスが東アジアのどこかで融合した後、日本への進出を果たした。朝鮮半島からやはり船で困難な航海のうえ渡ってきた。
 
5 日本人の成立  
(1)これらのルートから日本に渡ったホモサピエンスが、1万5千年前頃から縄文時代の担い手となった。
(2)2500年前頃、水稲耕作技術や金属器などとともに大陸からかなりの規模の集団が渡来し、弥生時代の担い手となった。
(3)縄文人の系譜を受け継ぐ在来系の人々と、大陸からの渡来系の人々が様々に混血した結果として、歴史時代の日本人が形成された。渡来系弥生人の遺伝的影響は本州、四国、九州で強く、アイヌや琉球の人々では弱かった。
  <三つのルート>
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「シュリーマン旅行記 清国・日本」 [日本史]

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  遺跡発掘家シュリーマンは、世界旅行の途中の1865年6月から3か月間、幕末の日本に滞在した。徳川慶喜が大政奉還をする2年前である。そこで見たことを詳しく書き残した。

1 清潔さと皮膚
 「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町の至る所にある公衆浴場に通っている。しかし、にもかかわらず日本には他のどの国よりも皮膚病が多い。疥癬を病んでいない下僕を見つけるのに苦労するほどだ。この病気の唯一の原因は、日本人が米と同様に主食にしている生魚(刺身)にある。」

 *皮膚病の蔓延は刺身ではなく銭湯が原因ではないかと言われている。

2 公衆浴場
 「老若男女が一緒に湯につかっている。なんと清らかな素朴さであろう。初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はそう叫んだ。すべての者が男女混浴を容認しており、幼いころからこうした浴場に通うことが習慣になっている人々にとって、男女混浴は恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。」

3 家具
 「日本には家具の類が一切ない。せいぜい部屋の片隅に持ち運びのできる小さなかまど(長火鉢)があるぐらいのものである。日本に来て私は、ヨーロッパで必要不可欠だとみなされていたものの大部分は、もともとあったものではなく、文明が作り出したものであることに気が付いた。寝室を満たしている豪華な家具調度など、ちっとも必要でないし、それらが便利だと思うのはただ慣れ親しんでいるからに過ぎないこと、それら抜きでも十分やっていけるのだと分かったのである。」

3 浅草観音寺
 「お堂には仏像の傍らに、優雅な魅力に富んだ江戸の花魁の肖像画がかけられている。他国では娼婦の身分は卑しく恥ずかしいものとされている。ところが日本人は花魁を尊い職業と考え、彼女らを崇めさえしている。日本の宗教について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級は懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺と民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じりあっているのである。浅草観音の広い境内には、見世物小屋などがある。かくも雑多な娯楽が真面目な宗教心と調和するとは私にはとても思えないのだが。」

4 日本の文明
 「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国以上に行きわたっている。日本では男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。だが、文明という言葉が、キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させることを意味するならば、日本国民は少しも文明化されていないと言わざるを得ない。」

<江戸の銭湯>
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「古墳とはなにか」 [日本史]

IMG_20170109_0001.jpg  2011年に出版された角川選書の1冊。著者は松木武彦さんという考古学者。神話ではなく、日本の古代の実相を知りたくて読んだ。

1 日本の古代は縄文時代、弥生時代、古墳時代と続く。

2 縄文時代
   紀元前7~8世紀までの時代で、狩猟採集が中心。この時代、東日本を中心に人口が増加し、大きな集落もできた。紀元前3500年頃からは、西日本で雑穀や豆の栽培が始まり、人口も増加した。この時代の墓は、穴を掘って遺骸を埋めるだけで、副葬品も少ない。

3 弥生時代
   紀元前10世紀頃から始まった、朝鮮半島から九州北部への稲作技術を伴う人の移動により生まれた。灌漑を建設して管理する権限が政治権力を生み出し、武力によって物事を解決したり他人を支配したりする思想が発生した。この時代、木の棺が使用されるようになり、石を埋葬に使うこともさかんになった。また、紀元前1世紀には、九州北部で多量の鏡や青銅の武器、玉類などのおびただしい副葬品を伴った古墳が造られた。鏡は中国前漢王朝のもので、中国との交流を示している。古墳の内容の違いはその時代にすでに階層的な序列や政治的、宗教的な秩序が存在していたことを示している。例えば、九州北部一円の長たちが寄り集まった一種の連合組織があったものと思われる。

4 古墳時代
 A 紀元後3世紀から6世紀にかけての時代。前方後円墳という巨大古墳が造られた。
 B 巨大古墳は、副葬品の数、棺の入念さ、墳丘の規模など、一般と隔絶したものであり、葬られた人の神格化をはかる宗教的な装置となっている。弥生末期の不安定な時期に、不安定さを解消してくれる支配者に信頼や崇高が集まる、人々は支配者に威信をもっと高め、その力を目に見える形に演出して安心を得ようと、支配者をまつる儀礼にたくさんのコストをつぎ込む。
 C 弥生時代の中心は九州北部であったが、古墳時代の中心は畿内へ移る。その理由として考えられることは・・・
   ア 鉄器の生産は九州北部で発展したが、畿内では逆に鉄器が希少なため、支配層が鉄器を独占し、権威の基盤となった。
   イ 九州北部は大陸からの文物や技術の受け入れ窓口であったが、それらが列島各地に行き渡るに従い、交通の中間点である畿内の重要性が増した。
   ウ 自分たちの安寧や救済を願う新興の宗教が3世紀前半ごろに畿内をその本拠として全土的に広まった。
 D 4世紀後半になると、それまで奈良盆地東南部に限られていた巨大古墳の築造が各地に分散するようになる。労働力と経済的パワーが他の地方に集積し始めた。この時代の支配構造は「王」と「諸侯」という封建的な構造を持っていた。
   「王」・・巨墳を築く莫大な資力と人力を集め、列島の広い範囲を覆うカルトの最高権威者として思想的な求心力の中心に立つ。
   「諸侯」・・それぞれの土地や人々を支配する権限を「王」から認められ、カルトや世界観の上では王を上位と仰ぐ従属性を見せる。
 E この時代の社会の変化としては・・・
   ア 鉄器生産の新しい技術をたずさえて海を渡ってきた朝鮮半島からの移住者が住む町が出てきた。
   イ 武器製作や古墳造営に関連する鍛冶、木材加工、漆芸、埴輪製作などの手工業生産が統合された場所が出来てきた。こうした産業拠点へ素材を集中させて体系的に生産する新しいシステムも現れた。
   ゥ 鍛冶から作られる鉄の開墾具や農具は、農業生産発展に貢献した。
   エ 各地の産物が遠距離交易ルートでやりとりされ、支配者はこうした遠距離交易を統制することを権力の拠りどころとした。
 
5 脱古墳社会
   巨大な古墳は7世紀には衰退するが、それはなぜか?
 A 自給自足経済の確立
    6世紀に鉄鉱石や砂鉄から鉄を作り出す製鉄技術が日本にも根付いた。その結果、基幹資源としての鉄を海外から手に入れるための外交や武力を基盤とした王侯の権威が低下した。王侯が神々の世界の列せられる英雄から世俗の支配者へと引きずりおろされた。
 B 仏教の伝来
    6世紀に日本に仏教が伝来した。仏教が、墳墓造営や支配者の神格化の拠りどころとなっていた在地の伝統宗教を衰退させた。

* この本を興味深く読んだが、まだまだわからないことは多い。
  1 朝鮮からの移住民の規模と支配関係。稲作をもたらした朝鮮人や鉄器の技術をもたらした朝鮮人は既存の縄文人や弥生人を支配したのか、あるいは共存したのか。古くからの縄文人は辺地に追いやられたのか。
  2 巨大古墳を造ることができるような労働力や資源を何故確保できたか。宗教や対外的な権威だけではなく、武力による直接的な支配があったのではないだろうか。
  3 天皇家はどのようにその基盤を確立したか。なぜ、伝統宗教の神社神道が生き残ったのか。伝統宗教では多くの民を従属させることができなくなって、仏教に頼ったのではないか。

「明治医事往来」 [日本史]

14805726658371915562621.jpg  明治時代の医療や衛生状況を当時の新聞文学作品等から探ったもの。トピックスをいくつか拾ってみると・・・
1 平均年齢は明治20年代までは20歳台、明治30年代にようやく30歳台にになった。平均寿命を押し下げた要因は以下の通り。栄養の不足や衛生事情の悪さが影響している。
 A  乳児死亡率の高さ
     生後1歳未満死亡率15%以上(現在は0.2%)
 B 伝染病の蔓延
     結核、梅毒、コレラ、疱瘡、赤痢、腸チフス、インフルエンザ、ペストなど
2 当時のお医者さんのについて以下のように新聞などで書かれていたとのこと。現在とあまり変わっていないようにも思える。
 A 「町医者では診察料が取りにくい。そこでその補充策として盛んに薬を盛りかける風が行われる。
 B 医科大学の教授連は、その専門技術家たるを頼んで専横を極め、公私混淆、驕慢至らざるなく、さながら治外法権の観を呈し・・・一種の伏魔殿ともいうべき状態。
3 歯科医は今と違い、恵まれていたようだ。歯科医がたいへん少なかったため(明治34年で、全国で400名足らず)。このため、当時、歯科医は一般医以上にもうかる商売であった。「歯医者には因襲に伴う一種言うべからざる悪習が残っていて、その暴利根性はとても医者などの及ぶところでない。悪い歯医者にかかって目の玉が飛び出すほどぼられた話は沢山ある」とのこと。
4 運悪く伝染病に感染すると、そのあとは悲惨であった。
 A ハンセン病
   ・明治中頃の統計では3万とも4万ともいわれ、潜在人口は百万ともいわれた。
   ・ハンセン病に冒された者は家族から因果を含められ、いくばくかの金銭を持たされ、故郷から追われ、帰ることのない放浪者の身となり、野たれ死にする。
 B ペスト
   ・ ペスト菌はネズミの寄生するノミを媒介して人間に感染し、いったん感染すると助かる見込みは少なかった。
   ・ 紡績工場で使用する輸入原綿にネズミが紛れ込んで国内に入ってきた。政府は対策としてネズミを一匹五銭で買い上げることでネズミの撲滅を図った。全国でとらえられたネズミは年間3百万匹を超え、ネズミ捕りを商売にする者もあらわれたという。

幕末期に日本はなぜアヘンの流入を防ぐことができたか [日本史]

1480339747593-677075910.jpg  18世紀にイギリス中国へインド産のアヘンを大量に輸出しました。中国(清朝)は有害であるということで輸入を制限しようとしましたが、イギリスは戦争を仕掛け(1840年のアヘン戦争)、中国を屈服させてインドからのアヘンの輸出をさらに大きく拡大させました。中国国内ではアヘンが蔓延し、経済が疲弊するとともに軍隊の戦闘意欲にも影響を与えることになりました。
 日本は1854年以降、次々と欧米列強各国と通商条約を締結し開国を進めることになりますが、中国とは違って日本はなぜアヘンの流入を防ぐことができたのでしょうか。岩波新書の加藤祐三著「イギリスとアジア」では以下の点を挙げています。
1 幕府役人は通商条約締結時には、中国におけるアヘンの弊害ならびにアヘン戦争の惨禍に関する情報を入手しており、アヘンに対する危機意識を持っていた。
2 日本はまずアメリカと通商条約を締結した。アメリカはアヘンを日本へ輸出することは考えておらず、アヘン輸入禁止条項を通商条約に入れることを提案した。アメリカとの通商条約がその後の各国との通商条約のモデルとなり、イギリスとの通商条約にもアヘン輸入禁止条項が盛り込まれた(アメリカはイギリスがアヘンを使って日本へ食い込むことを阻止しようとしたのではないか?)。
3 イギリスは、中国での1856年の第二次アヘン戦争、インドでの1857年のセポイの反乱など、中国とインドとの対応に追われて、日本にまで手が回らなかった(イギリスはその後、1868年の戊辰戦争では薩長を応援し、巻き返しを図ることになる)。

 江戸幕府が開国をぎりぎりまで遅らせたことにより、中国の惨状に関する情報を参考にすることができたことが幸いした思います。

「官賊と幕臣たち」 [日本史]

14796801509361335795344.jpg  著者は原田伊織氏。「列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート」という副題がついている。この本の骨子は以下の通り。使っている言葉の割には目新しいことを書いていない。センセーショナルに書いてはいるが、深い歴史観があるわけでもない。
1 幕末期、幕府の優秀な幕臣が欧米列強と対等に交渉し、開国の道を開いた。
2 薩長が幕府を倒した要因は・・・
 A テロリズムを用い、京都を恐怖に陥れた。
 B 一部の公家を用い、天皇を担ぐことができた。
 C イギリスの軍事的な支援を得た。
 
 明治維新について考えるポイントとしては・・・
1 やり方に問題があったとしても戊辰戦争が日本近代化の幕を開けたことは間違いない。幕藩体制のままでは中央集権国家の確立や欧米をまねた制度の近代化は難しかった。どうしても幕藩体制の破壊が必要であった。
2 薩長が勝利した要因は、天皇を担いだこととイギリスの支援。幕府が倒された要因は、諸藩をコントロールする力が衰えていたことと軍備近代化に遅れを取ったこと。
3 日本が列強の植民地化を避けることができたのは、安定した社会体制と教育レベルの高い人々の存在であった。宗教やあへんといった社会を混乱させるための道具が入り込む余地を与えなかった。
4 日本ではその時々の支配者または破壊者により天皇を利用するということが続けられてきた。勤勉な国民や高い技術力を持つ割には日本の政治は遅れており、時に太平洋戦争のような大失敗を犯す要因になっている。
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