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神権天皇制の確立と帝国主義への道 [日本史]

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 *以下に拠る。
   「日本ナショナリズムの歴史 Ⅱ 神権天皇制の確立と帝国主義への道」
    高文研、2017年9月刊。
    著者は梅田正巳さん。

1 討幕派はなぜ神権天皇を求めたのか?
 倒幕の中心的勢力となった薩長の中下級武士たちは、外国からの脅威が高まる危機的状況を利用し、封建身分制度の閉塞的状況から抜け出し、自分たちの活躍を幕府打倒に求めた。

 幕府や諸大名、さらにはそれを支える上級武士たちも、世襲を繰り返す中で、能力の劣化が著しく、危機的状況に対応できなかった。

 しかし、幕薩長の中下級武士たちは、幕府を倒し新しい国家体制を築き上げるためには、その正統性を必要とした。
 それには天皇を活用するのがもっともよかった。
 天皇の権威は名目上のものになっていたが、国学や水戸学派の尊王思想を取り入れ、天皇に神性の権威と万能の力を持つ神になってもらうことで、彼らの力強い味方とすることができた。

 幕薩長の中下級武士たちは、同じく不満を抱く朝廷の下級公家と密かに示し合わせ、15歳の明治天皇を取り込むことに成功した。

 さらに、天皇の神格化を強固なものにすることにより、人々の心を明治新政府に結集させることができると考えた。
 
2 天皇巡行
 明治維新のころ、一般庶民にとって天皇の存在はあまり知られていなかった。
 江戸時代の260年間を通じて、天皇は京都御所から一歩も外に出ることはなかった。
 
 このため、天皇を利用して人々の心を新政府に結集させるためには、天皇のありがたさを人々に知らしめる必要があった。
 そこで実施したのが・・
  ① 居所を京都から東京へ変える(1869年)。
  ② 地方へ巡幸する(1868~1908年の40年間で91回)

 天皇の巡幸は、それまでその存在さえ知らなかった民衆に対し、この国の最高統治者のイメージを植え付けていった。

3 軍人勅諭と教育勅語
(1)明治政府は、軍人勅諭(1882年)、大日本帝国憲法(1890年)、教育勅語(1890年)などを作り、また、紀元節などの祝日を創設して、神権天皇のイメージを人々に植え付けようとした。
   軍人勅諭、大日本帝国憲法、教育勅語は、いずれも政府上層部が作成したものであるが、明治天皇が人々に授けるという形になっていた。

(2)軍人勅諭の内容は・・
  ① 我が国の軍隊は、神武天皇以来、代々天皇によって統率されてきた。
    700年間の武家政治の時代もあったが、維新により本来の姿に戻った。
  ② 軍人は忠節を尽くすべし。
  ③ 義は山岳よりも重く、死は鳥の羽毛よりも軽い。
  ④ 上官の命令はすなわち天皇の命令だ。

(3)大日本帝国憲法では、天皇に関して以下のように記載された。
  ① 大日本帝国は万世一系の天皇が統治する。
  ② 天皇は神聖にして侵すべからず。
  ③ 天皇は国の元首にして統治権を総攬する。

(4)教育勅語の内容は・・
  ① 我が臣民は、よく忠に励み、よく孝に励み、みなが心を一つにして、代々その美風をつくりあげてきた。
  ② 汝ら臣民は・・・非常事態の時には大義に勇気を奮って国家につくし、そうして皇室の運命が永遠に続くように守らなければならない。
 
(4)祝日として以下の日が決められた。
    紀元節(2月11日)・・神武天皇が即位した日とされた。
    天長節(11月3日)・・明治天皇の誕生日。戦後は文化の日となった。


 このようにして明治政府は天皇を神格化して、人々をその臣民として服従させ、徴兵制により人々を戦場に送ることを可能にした。



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「『神国思想』の展開と明治維新」 [日本史]

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  以下に拠る。
   「日本ナショナリズムの歴史 1 『神国思想』の展開と明治維新」
    高文研、2017年9月刊。
    著者は梅田正巳さん。

1 国学の勃興
(1)日本のナショナリズムの源流
   ナショナリズムとは、他国との関係において、自分たちの国の独自の歴史や文化を確認し、かつそれを誇示したいと思う心情。
   本居宣長は、長年に渡って文化や知識を輸入してきた中国を嫌い、日本固有のものとして古事記を発掘し、それに基づいて天皇の尊さを説いた。

(2)中国嫌い
  宣長は、当時、日本人に広く親しまれていた儒教を、中国から来たものとして嫌った。
  中国には定まった君主がおらず、権力を奪い合ってきた。
  知力ある者が人々を手なずけ、権力を奪って君主となり、うまく国を治めた者が「聖人」として崇拝された。
  しかし、聖人の説いていることは、要するに、人の国を奪おうとすることと、奪われまいとすることの二つに過ぎない。

(3)古事記の発掘
  宣長は、古事記に日本固有のものを求めた。
  古事記はそれまで、ほとんど読む人はいなかったが、宣長は35年の年月をかけて読み解いた。
  そして、天照大御神から続くこの国や天皇のありがたさ、尊さを説いた。
  
  宣長は、天皇について以下のように言う。
  ① 日本は「日の神」天照大御神が生まれた国。  
  ② 天皇はその神の座を代々受け継いできた「神」
  ③ 天皇の地位は、天地のある限り、永遠に受け継がれる。

  この考え方は、幕末の勤皇思想の中核となり、明治維新後の帝国憲法で、日本の「国体」として規定されることになる。

  宣長は、古事記に書いてある以下のような記述もすべて真実であると考えた。
  ① イザナギノミコトの左の眼から生まれたのが、「日の神」天照大御神
  ② 山幸彦はトヨタマヒメと結婚したが、トヨタマヒメは自分がワニであることを山幸彦に知られてしまい、海に帰ってしまう。
  ③ トヨタマヒメの妹であるタマヨリヒメが結婚して生んだのが初代の天皇である神武天皇。
   (トヨタマヒメはワニだったので、妹のタマヨリヒメもワニ?)
  ④ 夫婦の神が潮水をかき回して引き上げたところ、潮水がしたたり落ち、それが重なって島ができ、そこで山川草木を生み出し、この世界を作り出した。

2 水戸学
  水戸学は、水戸藩がはじめた「大日本史」編纂事業の中で形成されていった。
  水戸学も国学と同様、天皇を中心にして、異国からの侵攻を排除するという「尊王攘夷」思想に収斂していく。
  徳川幕府を支える御三家のひとつである水戸藩で何故、倒幕のイデオロギーとなる「尊王攘夷」思想が創り出されたのであろうか。

  水戸学では、人徳を体現するものが天皇、その天皇を尊重しながら土地と人民を統治するのが幕府であると位置づけていた。しかし、異国からの脅威が高まりつつあり、政治を改革し、防衛を強化しなければ、その体制を維持できないと考えた。

  尊王攘夷をスローガンとする政治運動が全国で展開されるにいたり、水戸学は本居宣長の国学とともに、この運動に理論的根拠を与える役割を果たした。

3 古代から続く天皇制
(1)平安時代まで
  古代は天皇を中心にして、中央集権国家を形成していく時代である。
  陰惨な権力争いが頻発して、皇統は断絶の危機に何度か瀕している。
  途切れることなく続いていたのかは不明であるが、なんとか権力者としての地位は保持していた。

  その後、摂関政治、院政の時代となり、藤原氏が影響力を強めることはあったが、権力の源泉としての天皇の地位は保持されていた。

(2)武家の時代
  武家が権力を掌握して以降の650年間、天皇家は権力を完全に失いながらも何故存続することができたのだろうか。

  天皇家が存続できたのは武家の権力維持のために、天皇家の利用価値があったため。
  それは天皇家が飛鳥・奈良・平安時代の600年間の長きにわたり国家統治の頂点の位置に居続けたことからくる権威である。
  武家の権力は、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川と移り変わったが、どの権力も政権を奪取した当初は天下を治める圧倒的な力を持っていなかった。
  このため、「正統性」を獲得するため、天皇を利用した。

  例えば、徳川政権は以下のように利用して、天皇・朝廷をその幕藩体制の中に組み込んだ。
  ① 幕府のトップが代替わりするごとに、天皇から「征夷大将軍」の叙任を受けることにより、幕府支配の正統性を確認した。

  ② 徳川将軍家が他の大名とは異なる特別な存在であることを示すため、天皇家の一族または摂家から正室を迎えた。

  ③ 天皇の叙任する官位体系を大名にも適用、ただしその官位決定権は幕府が掌握して、大名統制のためのに利用した。

4 明治維新と天皇の復権
  幕府打倒を目指した薩長勢力もその正統性を必要とし、国学や水戸学で主張された「尊王」思想に飛びついた。
  そして、薩長勢力は公家と結びつき、幕府打倒の名目と正統性を得ることができた。
  その協力の見返りとして、武家の時代のような名目的な形での存在ではなく、天皇は新たに構築された国家体制の中核に、神格化された形で位置づけられることになった。

  明治新政府は、天皇の権威を借りつつ、思い通りの改革を実施することができた。
  

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日本建国の秘密 [日本史]

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  *以下に拠る。
   「日本史入門講座、日本建国の秘密の巻」 徳間書店、2007年刊
    著者は、フリージャーナリストの井沢元彦さん

1 天皇家の由来
  天皇家は古くから日本にいた縄文人ではなく、農耕技術とともに海を渡ってきた弥生人。
  天皇家の儀礼には、狩猟民族的なものは一つもない。
  天皇が自ら行うお田植えや、穀物の実りが豊かであるように五穀豊穣を祈る新嘗祭(にいなめさい)、大嘗祭(だいじょうさい)など、農耕儀礼ばかり。

  天皇家は農耕技術プラス鉄器をもって渡来し、権力を獲得していった。
  鉄製の農具はそれまでの青銅製の農具に比べ、はるかに生産性が高く、また、武器としても優れたものであった。

  最初は九州を拠点とし、その後、東に向かい近畿地方まで征服していったとみられる。

2 天皇陵
  現在、天皇陵は宮内庁が認めないため。基本的に発掘できない。
  天皇陵に関して問題とされるのは・・
  ① 「何々天皇陵」と言われているものが本当にその天皇の陵なのか?
    (例えば、神武天皇陵や雄略天皇陵)
  ② 天皇陵以外の古墳についても、宮内庁が発掘を認めていない。

  宮内庁は、天皇陵の調査により、天皇家の出自に関する材料が出てくるのを恐れているのではないか。

3 万世一系
  天皇家は万世一系ということになっているが、古代において三回ぐらいは王朝交代があった可能性は否定できない。
  例えば、仲哀天皇(在位2世紀末頃)の子供が応神天皇(在位3世紀後半)とされているが、仲哀天皇が亡くなったのは6月11日で、応神天皇が生まれtのが翌年の12月14日。明らかに、応神天皇は仲哀天皇の子供ではなく、他の男性の子供であり、血筋は断絶している。

  また、継体天皇(在位6世紀前半)は、一応皇族ではあったものの、越前を治めていた人物に過ぎなかった。しかし、天皇の後継ぎが絶えてしまったため、都に戻り、前の天皇の娘と結婚して天皇の位に就いた。継体天皇の5世前の祖先が天皇(3世紀後半に在位の応神天皇)ということであったが、真実は分からない。

  「継体」というのは「正当な後継ぎ」という意味。わざわざこのような言葉を使うのは不自然だ。

4 天智天皇と天武天皇
  天智天皇(在位668~672)と天武天皇(673~686)は兄弟ということになっている。
  兄の天智天皇の没後、その子供の大友皇子に天武天皇(当時は大海人皇子)が戦いを仕掛け、殺害した(壬申の乱)。

  天智天皇の時代に日本は朝鮮で白村江の戦いに敗れ、豪族が疲弊していたことが天武天皇側が勝利した一因。
  また、天智天皇が百済系、天武天皇が新羅系という見方もある。

  白村江の戦いは、日本が友好国の百済を応援するために出兵して戦ったもの。
  百済の王族と日本の天皇家とは血縁関係にあったのが、日本が朝鮮に大軍を送り込んだ理由ではないかとみられる。

  天武天皇の後、その子孫が天皇を継いでいたが血筋が途絶えたため、約百年後の782年に天智天皇の子孫である光仁天皇が即位する。
  その後、天武天皇系の天皇9名の位牌は菩提寺から抹殺されてしまった。
  天智天皇には新羅の血が混じっていたことが、天皇家の系譜から抹殺しようとした理由かもしれない。


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「刀狩り」 [日本史]

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 岩波新書の一冊、2005年刊。
 著者は、日本中世史を専門とする藤木久志さん。

1 秀吉による刀狩り
(1)村々の農民が武装を必要とした理由
 ① 農作物を食い荒らす害獣を駆除するため
 ② 盗み、放火、殺人などの犯罪に対処するため(村の責任で対処する必要があった)
 ③ 境界紛争など、村の縄張りを確保するため
 ④ 武士同士の戦乱から村を守るため

(2)百姓の区別
  サムライ・・刀を差す大人の百姓(ある村では全体の三分の一ほど)
  カマサシ・・刀を差す資格のない小百姓(刀の代わりに鎌を指す)

  戦国時代のサムライは戦争が忙しく、農業を営む余裕がなかった。
  村の耕作はカマサシの家族に任せられた。

  戦国大名は、サムライに対して、弓、やり、鉄砲などを持参して他の戦国大名との戦いに参加するよう呼びかけた。
  サムライたちは、負けて逃げ落ちていくものを捕らえ、追いはぎのようなこともした。

(3)秀吉の刀狩令
  1588年に諸国の大名たちに発令された。
  内容は以下の通り。
  ① 百姓が、刀、弓、やり、鉄砲、その他の武具を所持することを禁ずる。
  ② 百姓たちが武具を所持していると、年貢を納めるのを渋ったり、一揆を企てたり、不法を企んだりするので、それぞれ責任をもって百姓たちから武具を没収して、献上せよ。
  ③ 集められた武具は大仏建立のために使われる。
    百姓は大仏の御利益が得られるし、また、耕作に専念して安定した暮らしができる。

  刀狩りのねらいは、武士に奉公して戦う者と、奉公せず、戦わない百姓との差別化である。

  ただし、村々が完全に非武装化したわけではなく、他からの暴力的な攻撃を防ぐための最低限の武力は温存されていたとみられる。

(4)浪人停止令
  1590年、秀吉は村から浪人を追い出せ、という命令を出した。
  戦乱期には、略奪を目当てに戦場を渡り歩く百姓の雑兵が多かったが、戦争がなくなり、世の中が平和になると、主を持たず、田畑の耕作もしない浪人が村々にあふれた。
  秀吉は、こうした浪人を村から追い出し、百姓の非武装化と治安の維持を図った。

(5)海賊停止令
  同じ1590年、海上の平和を確立するため、秀吉は海賊行為の禁止と、その取り締まりを各領主の責任とした。
  対象は主に、村上海賊などの瀬戸内海の海賊、そして、東シナ海で暗躍する倭寇であった。
  狙いは内国海上交通の円滑化や、中国との貿易の推進であった。

(6)喧嘩停止令
  村々の間の入会権や水利権の争いで、百姓たちが集団で武器を使い、人を死傷することを禁止するもの。
  この命令に違反して殺傷が行われた場合は、それぞれの村の代表者数名が処刑の処分となった。
  ただし、代表者の身代わりに、抱えていた乞食を処刑のために差し出すこともあった。
  村々では、予期される処罰のために、普段から村として乞食を養っていた。

2 徳川幕府による規制
(1)喧嘩停止令
  秀忠の時代に再度、喧嘩停止令が発布された。
  この時代になっても、武装手段を有し、他の村とのもめ事を暴力で解決しようとする事例が少なからず見られたことを示している。
  違反した村、加勢した村は厳しく罰せられた。

(2)刀狩り
  徳川幕府からの統一的な規制はなく、各藩により規制の厳しさに違いが生じていた。
  一揆が多発した藩では、藩独自で刀狩りを行うこともあった。
  しかし、百姓たちが武具を保有したいという意欲は極めて強く、百姓たちが非武装化されることはなかった。

(3)規制の実態
  百姓・町人が帯刀することは禁止できなかったが、長い柄、派手な色を禁ずるなど、武士との差が明確になるような規制が出された。
  このような規制が出るということは、無宿者だけではなく、百姓・町人の帯刀が広範囲に見られたことを現わしている。

  1720年に書かれた文書では・・
  ① 江戸の町人はみな脇差を指していた。
  ② 脇差の寸法は一尺八寸(54㎝)内を守っていた。
  ③ しかし、1683年になり、町人の帯刀は一切禁止となった。

  ただ、帯刀が禁止となっても、刀が没収されたわけではなかった。
  帯刀の禁止も十分には守られなかった。

(4)鉄砲の規制
  鉄砲は猟銃に限り認められていた。
  しかし、それが村を徘徊するやくざなどの悪党に流れ、農村部の治安の悪化をもたらした。
  
  また、18世紀中ごろまでは、百姓、領主ともに一揆では鉄砲を使わないという合意ができていた。
  一揆における百姓の側の持ち物は殺傷能力の劣る農具などが中心で、暴力的な破壊は差し控えられていた。
  しかし、18世紀後半になり、一揆の激しさが増し、容易に鎮圧できなくなると、領主側から鉄砲を使用する事例が出てきた。
  幕末に近くなると、一揆の打ちこわしや悪党からの攻撃を防ぐため、豪農たちは私兵を雇い集団武装化するようになった。

  関東を中心に幕末期に、農村部での混乱と破壊が進んでいった。


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「婚姻の話」 [日本史]

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 岩波文庫の一冊、2017年7月刊。収録されたものの多くは1946~1947年に雑誌に発表された。
 著者は、民俗学者の柳田国男(1875~1962)。

 今は廃れつつある、日本の婚姻に関する地方の風習を集めた。

1 主婦になることの難しさ
  大家族でも主婦は一人。主婦の数は今よりはるかに少なかった。
  主婦とその他の婦女の格差は大きかった。
  主婦以外の婦女は、子供を産むことや老後の生活に難しさがあった。
  このため、年頃の女性は、相手方の選択に合格して主婦になろうとした。
  相手について、勝手なえり好みをしてはいられなかった。

2 不用の者
  大家族の世において、家々の主婦として地位を得られなかった女性は、どうなってもいい女、生涯の計画の立てにくい者であった。
  中には遊女に身を落とすものも少なくなかった。
  ことにいったん獲得した主婦の地位を失った者の境遇はみじめであった。
  離婚していったん実家に帰れば、再婚することは難しかった。

  主婦にならなくても男を得ることは可能であったが、棄てられやすかった。

  このため、女性は主婦の地位を得ようと必死になり、またいったん得たその地位を維持するためすべてのことに従順でいなければならなかった。
  
3 婚姻に関する慣習
  ・友達の力を借りた。
  ・同じ部落の中から配偶者を見つけるのを原則としていた。
  ・娘は16を過ぎると歯を染めて自ら結婚に適することを示した。
  。必ず一人の男の妻問い(通ってくる求婚)に応じなければならなかった。

  部落外の男が通ってくることについては、部落の男が妨害した。
  部落内の恋愛遊戯はかなり自由で、貞節は主婦となってからの道徳であるかのように考えていた地方もあった。

4 娘組の宿
  娘たちがそこに泊まったり、仕事を持ち寄って時間を過ごし、夜明け頃に家に帰る。
  そこに若者が遊びに来て、仕事を手伝ったり、世間話をしたりする。

  娘組の宿と若者組の宿との間で、互いに来往しあい、多くの夫婦がこの交際の間に成立した。

5 夜話し
  年頃の娘のある家へ、夜分に若者たちが数人で公然と来訪する。
  夏は門のところに涼み台、冬は炉端の夜なべ座へ、何の用事もなしにぶらりと訪れる。
  訪問を受ける家も、一同が歓迎し、なるだけ長くいてくれるように、親たちは苦心した。

6 山行き、山遊び
  春から夏にかけて、若者や娘が山菜を採りに行く。
  あるいは草刈りかごを背負って山に入る。
  また、山の上にある神社の祭りに集まる。
  未婚者はここで相手を選び、家に帰って相談して決める。

7 嫁盗み
  娘が知らない相手に不意に盗まれるということもあったが、娘が相手のことを知っていて盗み去られることを承知していたことも少なくなかった。
  嫁盗みにより、女が満足し、仲の良い幸福な婚姻を成立させた例が多かったからこそ、こうした風習が長く続いた。

  母親たちは娘に盗まれた場合の心得を伝えていた。
  ① 泣いたり騒いだりしないこと。
  ② 相手を見定め、どうしても心に染まない男であったら、はっきりと不承諾の気持ちを伝えること。
  ③ これならと思う男であれば、十分念を押してから、婚姻に同意する。

8 結婚と労働の助け合い
  家と家との縁組は、労働の助け合いを意味した。
  そこではお互いの労働力の均衡ということが大事であった。
  労働力があまりに不足する家へ嫁にやるということは、本人が苦労するのに加え、出した家の者たちも応援が必要になることがあり、できれば避けたかった。
  農作業の繁忙期に援助を送ることを姻戚の義理とする風習があった。

  逆に、労働力が不足する家では、嫁を早くもらいたがった。
  嫁盗みという手段に出る理由のひとつもそこにあった。

  しかし、農作業の方法も次第に改良され、また、個々の農場の大きさが一般に縮小し、こういう互いの援助がさして必要ではなくなってきた。
  嫁入り先の選定の基準が、働き手の問題から、本人の幸福の方へ次第に変わって行った。
  
9 嫁入り資金の不足
  嫁を出す方の家で、嫁入りのお金が不足する場合、盗んでくれるなら結婚を許すということもあった。
  盗まれるとなると、一切表向きの儀式は無くなる。
  嫁の身の回りの品も、盗んだ方の家が調えることになっていた。
  世間の人たちは、内情をみな知っていたが、それでもそういうことで問題となることはなかった。


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「天皇制と進化論」 [日本史]

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  青弓社、2009年刊。
  著者は、歴史社会学を専門とする右田裕規さん。

1 進化論と皇国史観
  戦前に強制された皇国史観と、同時代に人々を引き付けたダーウィン進化論との相容れない関係がどのように処理されてきたか。

  アメリカでは20世紀初頭以来、「神が人間を作った」という聖書の記述を信ずるキリスト教信者の圧力により、学校で生物進化論の教育を行うことを禁止する時代が長く続いた。

  日本でも明治の初め以来、天皇は天照大神の子孫であり、大和民族も同じく神の末裔とする皇国史観を国民に教育することが強制されていた。
  皇国史観に反する言論は不敬罪等の法律により厳しく取り締まられた。
 「天皇も人間」というだけで、天皇の尊厳を冒とくしているとされた。
 「ヒトは現存する他のほ乳動物と同じ祖先から進化した動物である」というダーウィンの進化論とは相容れない。

  それまでの宗教的な考えでは、ヒトを他の動物と区別し、高級・霊妙な存在とみなしていた。
  しかし、ヒトと動物の祖先は同じという考えからは、人の身分や属性、血統や家柄も取るに足らないものと見えてくる。

2 皇国史観側の主張
  皇国史観側の論者は以下のように主張して、皇国史観と進化論の矛盾を解消して見せた(佐々木高行、1907年発表)。
  ① 人間は生物の中でも、最も進化した生存競争の勝利者である。
  ② 人間の中でも大和民族は、最も高い位置にいる。
  ③ それは、君主である天皇が臣民と同祖であり、相助け合って進んできたから。
  ④ この忠君愛国の基礎に立って進歩し続ける大和民族が適者生存の最優等者であり、その中で最も優れて尊いのが天皇である。

  また、加藤弘之という、皇国史観と進化論の双方を信ずる学者は、以下のような折り合いをつける(1908年)。
  「人類は進化により生じたものである。人間界が起こり、民族が分かれ日本民族ができて以来、その宗家たる天皇が統治の大権を掌握して、我々臣民が服従の義務を尽くすという君臣の関係が出来上がった。」

3 反体制側の主張
  それに対して、明治の左翼運動家は進化論をベースに、皇国史観を以下のように批判する。
  ① 人間の先祖が猿であっても、単細胞生物であっても、今日の人間の価値に関係はない。
  ② 人間だけ別物にして、神の作り給うたものとしたところで、それで人間の価値が増すわけではない。
  ③ 2500年の歴史を有する神国は他の諸国とは訳が違うというような幼稚なる国自慢や、吾輩の家柄は東照神君以来、十幾代、連綿たる名家であるから、百姓町人とは血統が違っているのだというような階級思想は、ばかばかしく見えてくる。

  大正から昭和にかけて、体制側から皇国史観や国体思想など反科学的思想が強化された時代には、反体制側は以下のように主張している。
  ① 日本のように大衆と科学との乖離が著しいところでは、科学的な考え方、科学的精神を大衆の間に浸潤させることが急務。
  ② 迷信打破は、遅れた大衆層を非科学から守る最低の目標。
  ③ 天文学的宇宙論や生物進化論などを通じて、科学的な考え方、科学的精神を大衆の間に浸潤させ、広範な大衆層の教養を高めることは極めて重要。

4 進化論の取り締まり
  思想を取り締まる警察は、生物進化論を危険思想として認識しながらも黙認を続け、そういった書物は発禁処分を受けることはなかった。
  また、天皇の聖性や皇国史観を明瞭に否定・冒涜しない限り、不敬罪に問われることもなかった。
  産業・軍事力の発展を担うべき国内の自然科学界の保護育成という国家的要請が重視されていたということが、科学の一分野として生物進化論が許容されていた背景にあった。

5 学校教育における取り扱い
  ただし、戦前の小学校では進化論が教えられることはなかった。
  それに対し戦後は、小学校で進化論が詳しく教えられるようになった。
  その意図が以下のように説明されている。
 「日本国民は合理的精神に乏しく、科学的水準が低い。批判的精神に欠け、権威に盲従しやすい。例えば、これまでの教科書では、神が国土や山川草木を生んだとか、神風が吹いて敵軍を滅ぼしたとかの神話や伝説が、あたかも歴史的事実であるかのように記されていたのに、生徒はそれを疑うことなく、その真相やその意味を極めようともしなかった。このように教育された国民は、竹やりをもって近代兵器に立ち向かおうとしたり、門の柱に爆弾除けの護り札をはったり、神風による最後の勝利を信じたりした。軍国主義や極端な国家主義は日本国民のこうした弱点につけ込んで行われた。」

6 昭和天皇と進化論
  昭和天皇が生物学を研究するようになったのは、以下の理由によるようだ。
  ① 当初は歴史を好んだようだが、深く歴史を探求していくと色々と差しさわりが出てくる。
    例えば、昭和天皇は、先祖が神であるということについて疑念を表明されて周囲を驚かせたことがある。
    このため、歴史の勉強は好ましくないということになった。
  ② その点、生物学研究であれば特に害もないと思われた。
  ③ 加えて、野山を散策して標本を採集するということであれば、健康によく、気晴らしにもなる。

  進化論との関係の懸念はあったが、研究が形態学的分野にとどまってる限りは問題なかろうということであった、

  昭和天皇はダーウィンの進化論を当然承知していたと思われるが、それと皇国史観や国体主義との矛盾についてどのように考えていたのかは不明である。
  

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新渡戸稲造 [日本史]

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 *以下に拠る。
  「明治のサムライ 『武士道』新渡戸稲造、軍部とたたかう」
    文春新書 2008年刊。
    著者は比較文明論を専門とする太田尚樹さん。

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  新渡戸稲造(1862~1933)は、明治から昭和にかけての激動期に、国際的な感覚をもって内外で活躍した人物。
  その活躍の範囲は、以下の通り。
  ① 英文書籍「武士道」をアメリカで出版
  ② 台湾総督府殖産局長
  ③ 一高校長、東京女子大名誉学長
  ④ 国際連盟事務次長
  ⑤ 貴族院議員

1 札幌農学校卒業まで
  新渡戸稲造は、幕末の1862年、岩手県盛岡市で生まれた。
  東京英語学校で英語を学んだ後、16歳で札幌農学校に入学した。
  同期生には、終生の友となる内村鑑三や宮部金吾らがいた。
  教師はみなアメリカ人で、授業や日常生活はすべて英語であった。

  初代教頭であったウィリアム・クラークは、新渡戸が入学するときにはすでにアメリカへ帰国していたが、その教育方針は以下のようなものであった。
  ① 知育偏重を排し、人格主義の教育、人物養成に重点を置く
  ② キリスト教を基礎に置き、バイブルを尊重する

  その影響から、新渡戸や内村をはじめ学生の多くがキリスト教の洗礼を受けるようになった。
  成績は、新渡戸、内村、宮部の三人で常にトップを争った。

  新渡戸は、在学中にイギリスの哲学者、トーマス・カーライルの著書を読み、大きな影響を受けた。
  新渡戸はカーライルの本を何十回も読み、以下のようなことを学んだ。
  ① 人生は、能力や小細工ではなく、真面目なものが最後に成功する。
  ② 人間は、剛気と優しさを持たなければならない。
  ③ 理想の中に現実があり、現実の中に理想がある。
  ④ 人生において重んずべきは、人格である。

2 アメリカとドイツへの留学
  新渡戸は、札幌農学校卒業後、東大へ入学した。
  入学に際しての面接で新渡戸は面接官に対して、「東大で英文学の勉強を希望するのは、自分が将来、太平洋の(日米の)懸け橋になりたいと思っているため」と答えた。

  その後、22歳でアメリカに渡り、首都ワシントン近郊にあるジョンズ・ホプキンズ大学に入学した。
  そこで、新渡戸は後に大統領となるトーマス・ウィルソンと親しくなった。
  また、同大学在学中にフレンド教会(クエーカー派)に入会した。
  さらに、将来結婚することになるメアリー・エルキントンとも出会っている。

  25歳の時には、札幌農学校からの金銭的サポートを受けて、ドイツに留学する。
  ボン大学並びにベルリン大学で学んだ。

  ドイツから日本へ帰国する途中でアメリカに立ち寄り、メアリー・エルキントンと結婚した。
  新渡戸は29歳になっていた。

3 「武士道」出版へ
  札幌農学校の教授として札幌に戻り、多くの科目を担当したほか、自宅での日曜日ごとのバイブル・クラス、私立中学校の校長兼任、夜間学校の創設など、多くのことに携わった。
  しかし、せっかくできた子供が病死するという不幸も重なって、心身の衰弱を覚え、3年後には札幌を離れることになった。

  カリフォルニア州サンフランシスコ郊外の保養地で病気療養する間に英文で書き上げたのが「武士道」という書籍である。
  西欧人の考え方の基盤にキリスト教があるように、日本人の倫理観の底にあるものとして武士道を捉え、アメリカの人々に日本人の思考構造を理解してもらおうとした。
  1905年、日露戦争の勝利により日本が欧米の注目を集めるようになると、この本も売れ出した。
  原書は英語であるが、日本語のほか、ドイツ語、ロシア語、イタリア語などに翻訳された。
  セオドア・ルーズベルト大統領も愛読したと言われる。

4 その後の活躍
(1)台湾総督府
  新渡戸は39歳の時に、請われて日本の植民地となっていた台湾に行く。
  そこで、甘藷栽培を推進し、台湾に砂糖産業を確立させた。

(2)一高校長
  その後、京都大学教授として日本に戻ったが、44歳の時に東京にある第一高等学校の校長に就任した。
  それまでの一高はバンカラ的、保守的な傾向が強かったが、新渡戸は人格主義、教養重視、社会性尊重に改めた。
  新渡戸の人柄は多くの学生をひきつけ、その中から河合栄治郎、矢内原忠雄、田中耕太郎、鶴見祐輔など数多くの学者、知識人を輩出することになる。
  また、谷崎潤一郎、和辻哲郎、芥川龍之介、菊池寛などの文学者も新渡戸の薫陶を受けた。

(3)国際連盟事務次長
  第一次大戦後に設立された国際連盟の初代の事務次長として、新渡戸が選ばれ、57歳の時にロンドン、その後、ジュネーブに赴任した。
  7年間、総会、理事会の運営に携わるほか、ヨーロッパ各地を講演して廻った。

(4)日米関係改善のための活動
  日本に戻り、貴族院議員に選ばれる一方、太平洋問題調査会理事長として、太平洋地域の平和のため、外国の代表団の理解を得るために活動した。
  
  1932年、70歳の時には、対日感情が悪化するアメリカへ行き、各地で主要な政治家と面談するとともに講演活動を行った。
  新渡戸は数度にわたり昭和天皇に対して国際情勢に関する進講を行っていたが、厳しくなる一方の日米関係を天皇が憂慮して、天皇から新渡戸に対して、日米関係の改善のために努力してくれ、と言われれば、老躯に鞭打ってアメリカを回らざるを得なかったと思われる。

  1933年、新渡戸は71歳の時にカナダで倒れ、帰らぬ人となった。
  日本は、新渡戸が亡くなる8か月前に、国際連盟を脱退していた。

5 新渡戸の保守的な側面
  国際的な知識人として内外で活躍した新渡戸であるが、その保守主義的、帝国主義的側面も指摘されている。

 ① 満州事変での日本の行動を肯定している。
   関東軍は1931年9月、南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始して、満州事変が始まった(柳条湖事件)。
   新渡戸は「私は満州事変については、我らの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる」と言っている。

 ② 朝鮮人の苦しい生活ぶりをもとに、韓国併合を支持した。
   新渡戸は朝鮮人を「有史前紀」の民であり、その習風は「死の習風」である、と言った。
   また、「原始的人民」であり、「野性的気こん」もない、と書いている。

 ③ アイヌ民族の自治を目指す活動には否定的であった。
   新渡戸は、アイヌ民族を「臆病で消滅に瀕した民族」であると、書いている。

  *②と③は「明治日本の植民地支配」(井上勝生著、岩波書店 2013年刊)に拠る。

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内村鑑三 [日本史]

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 *「内村鑑三」(関根正雄著、清水書院センチュリーブックス、1967年刊)に拠る。

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 内村鑑三(1861~1930)は、明治から大正にかけて活躍した思想家。
 キリスト教の信仰に根差した社会批判も行った。

1 成長の過程
  高崎藩士の長男として江戸で生まれた。幼少のころから儒教教育を受けた。
  17歳の時に札幌農学校に入学。そこでキリスト教に出逢った。
  また、そこで同級の新渡戸稲造や宮部金吾と親交を深めた。

  22歳で東京に戻り、農商務省に勤務した後、24歳の時にアメリカに渡った。
  アメリカでは、精神障害児の施設で働いたのち、マサチューセッツ州にある名門、アマースト大学に入学、27歳の時に卒業した。

  28歳の時に帰国。
  いくつかの学校で教師となった後、30歳の時に第一高等中学校のの嘱託教員となった、

2 不敬事件
(1)天皇の神格化
  明治政府は明治憲法が公布されるにあたり、自分たちの政治的権威を維持するために、天皇制を強化する必要があると判断し、1887年ごろから天皇の神格化を推し進めた。

  具体的には・・
  ① 天皇・皇后両陛下の写真を各府県や学校に配布し、この写真を拝む儀式を行わせた。
  ② 教育勅語が発布され、天皇の署名がある文書が配布された。
   (「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ」と、天皇のために命を懸けることも必要と説いている。)

(2)教育勅語の奉読式
  内村が勤務する一高において、1891年1月、教育勅語の奉読式が行われ、教員及び生徒が順次、天皇の署名のある教育勅語の文書に対して、お辞儀をすることになった。
 
  内村はキリスト教徒であり、宗教的な対象である天皇からの文書に対して、礼拝のような行為をすることは出来ないと考え、頭を少し下げるにとどめた。
  これが大問題となった。内村は辞職に追い込まれた。
  天皇の神格化を進め、神道を国教としようとする明治政府にとって、キリスト教徒による否定は許容することができないものであった。

(3)天皇制に対する、内村の考え
  内村は天皇制を必ずしも否定せず、皇室を敬愛する気持ちも持っていた。
  しかし、彼は、人間を神に祀り上げる天皇制は認めることは出来なかった。
  内村は、「日本の滅びる兆がある。人間を神として崇めるところに人間の堕落がある」と後年、語っている。

  教育勅語についても、重要なのは勅語に向かってお辞儀をすることではなく、勅語の内容を教育の現場において実行することである、天皇もそれを望んでいるはず、と語っている。

3 日清戦争、日露戦争
  内村は、戦争開始にあたって、朝鮮から清国の影響を排除した方が朝鮮のプラスになるとして。戦争遂行を支持した。
  しかし、戦争が、日本国民の領土的・経済的野心を満足させるという結果のみに終わったことに憤慨し、「正義の戦い」ではなく、「海賊のような戦い」だと述べ、戦争支持を撤回した。

  内村は、10年後の日露戦争においては、「戦争絶対廃止論者」として、強く非戦論を唱えた。
  「戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を収めることができるはずがない」と論じた。

4 足尾銅山鉱毒問題
  古河財閥が開発を進めた、栃木県の足尾銅山で公害問題が発生し、6万ヘクタールの水田が使用不能となり、30万人の農民を飢餓に至らしめた。
  公害が発生したのは・・
  ① 銅鉱の坑木用に流域の山林を乱伐したために、氾濫が頻発した。
  ② 氾濫により、鉱毒が水田に流れ込んだ。

  内村は、惨状を目の当りにして、古河財閥と明治政府を繰り返し批判した。
  内村は、この問題を単に社会問題としてではなく、人間の問題としてとらえ、「鉱毒問題の毒は、実は山から出る毒ではなくして、人の心に湧き出る毒である」と論じた。

5 日本への失望
  内村は当時の日本の以下のような状況に次第に失望の感を強めた。
  ・国家を私物化する藩閥政治家
  ・それと結託した実業家
  ・彼らにへつらう官吏
  ・酔っぱらえば「馬賊同然の言語を発する」忠君愛国の教育家
  ・彼らに教育された自慢好きの国民

  内村は、以後、社会問題から遠ざかり、既存の宗教団体に拘束されない自由な伝道者としての道を進むことになる。


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「幕末の世直し 万人の戦争状態」 [日本史]

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  吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」の一冊。2010年刊。
  著者は、日本近世史を専門とする須田務さん。

  江戸時代後半から末期にかけて、幕藩体制の崩壊の動きを、地方で頻発した騒動から見ていく。

1 伝馬(てんま)騒動
  1764年2月から翌年1月にかけて、武州(現在の埼玉県、東京都、神奈川県一帯)を中心に中山道周辺の1,000か村の百姓たち20万人が、幕府の施策に反対して、強訴、打ちこわしを起こした。

  関東地域で初めて発生した大規模広域化した百姓一揆であった。
  一揆の側は、不参加の村は打ちこわすと脅して、百姓を参加させた。
  原因は、わいろを受け取った老中首座の役人が、さらなる使役を百姓に課したことにあった。

2 上州絹一揆
  1781年6月、上州(現在の群馬県一帯)の百姓2万人が、絹取引の仕組みを変更するという命令に反対して立ち上がった。
  一揆勢は、変更を決定した老中首座の居城である高崎城を包囲した。
  幕府の権力者の居城が一揆勢に包囲されるというのは、前代未聞であった。
  その後、一揆勢は多くの有力商人の屋敷を打ちこわした。

3 天明江戸打ちこわし
  1783年から始まった天明の飢饉により、江戸では米価の上昇が続いた。
  困窮した貧民は、江戸全体で1,000軒の米穀商や質屋を打ちこわした。
  参加したのは日雇いや職人であったが、規律を保ち、沈着に行動していたといわれる。

4 農村部の経済格差拡大
  幕府が財政補てんのために始めた公金貸し付けの結果、農村部で経済格差が拡大していった。
  富裕な百姓は、地主経営を安定させ、金貸し、在郷商人として儲けた。
  一方では、土地を手放し、小作人に転落する小農がいた。

  財政難は幕府だけではなく、全国の幕藩領主共通の問題となり、彼らは特権商人と結託し、収奪を強めた。
  没落した百姓のせがれたちは、農業と親を捨て、宿場などの商業地に流入した。

5 甲州(現在の山梨県)騒動
  天保の飢饉が深刻化していた1836年、飢餓に苦しむ郡内地域(現在の大月市周辺)で始まった。
  一揆勢の当初のねらいは、米価の引き下げと豪農・豪商からの米の借り入れであった。
  しかし、次第に打ちこわしや盗みが目的になって行った。
  一揆勢に渡世人・無宿といった人たちが加わり、刀などの武器を持つようになった。
  一揆勢は甲府城下並びにその周辺で、打ちこわしを繰り返した。

  甲州の大部分は幕府の直轄地であったが、軍事力は脆弱で一揆勢を鎮圧出来なかった。
  このため、隣の諏訪藩に鎮圧の要請が出された。
  また、村々・一般百姓に一揆勢殺害を命令した。

  支配地域の治安を維持できなかった幕府の権威は地に落ちた。

6 自衛組織の出現
  1863年、幕府は代官陣屋を警備する民兵組織を作った。
  多摩地域では、代官が農民銃隊というものを組織した。

  また、打ちこわしを恐れる豪農たちは、自衛にための防衛組織を作るようになった。
  治安維持に関する幕府への信頼は失われていった。

  農兵の設置は江戸時代の兵農分離の原則を破る、身分制度の根幹にかかわる重大問題である。

7 天狗党の乱
  1864年、水戸藩尊王攘夷派のうち過激な者たち約60名が、幕府に尊王攘夷を迫るため筑波山に挙兵した。
  天狗党は約8か月間にわたり、北関東地域の町村に対して金銭や食料等の強要を行い、幕府軍と交戦して、北関東各地を戦場に陥れた。
  近隣各藩から集められた幕府軍は初戦は勝利したが、天狗党の夜襲に総崩れとなり、敗走した。
  その後、天狗党の総勢1,000名は京都に向かうため、中山道を進み、信州を抜け、加賀藩に投降した。
  幕府はこのうち352名を処刑した。水戸藩に戻された者も多くは幽閉された。

  天狗党の乱で、北関東の多くの町村が焼かれ、人々は天狗党の暴力に恐怖し、幕府・天狗党双方から金品を強要、強奪された。
  幕府軍は敗退し、人々を守れなかった。
   
8 戊辰戦争
  1868年1月、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が始まった。
  同年2月、新政府軍が中山道碓氷峠にまで迫ると、高崎に近い幕府直轄領の役人たちは、屋敷を捨てて、江戸に向かい逃走してしまった。
  地域の弱小藩に力はなく、上州地域は権力の空白地帯となってしまった。
  このため、世直し運動が頻発するなど混乱を極めることになった。


切支丹弾圧への道 [日本史]

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 *「切支丹と統一政権」(岡美穂子氏執筆)に拠る。
    岩波講座「日本の歴史 第10巻」所収

1 信長の対応
(1)信長は全国統一を目指すうえで、武装した宗教勢力が大きな障害になると感じ、1574年の長島一揆で一向宗門徒2万人を殺害し、また、同じ年に比叡山で3~4千人を焼き討ちにした。

(2)同じころ、京都での布教を始めつつあったイエズス会宣教師を謁見して、庇護することを約束している。

(3)信長は、多くの僧侶を殺害し、その寺院を破壊するよりは、宣教師を庇護してその教えを広めさせることが仏教勢力の弱体化を進めるうえで効果的と考えた。

2 日本におけるキリスト教の布教
(1)フランシスコ・ザビエルの布教当初、日本人の通訳が「聖母マリア」を「観音」と訳していたこともあり、彼らの宗教が仏教の一種であると誤認されていた。宣教師たちはそれに気づき、用語を変更して正しい理解を得るよう努めたが、日本人の誤解は容易に払しょくされなかった。

(2)宣教師たちは、各地に病院を設立したり、相互扶助組織を整備したりして、信者獲得の助けとした。こうした施設の運営には多額の資金が必要であり、イエズス会修道士は、貿易にも携わるようになった。

(3)日本での布教に際しては、イエズス会からの宣教師だけでは人数が足りず、日本人修道士が活躍した。彼らはキリスト教義を深く修得する間もないまま、信徒指導に駆り出されたといわれている。

3 秀吉の伴天連追放令
(1)秀吉は、九州を平定した1587年、伴天連追放令を公布した。伴天連とは外国から来た宣教士を指し、20日以内に国外へ退去せよというものであった。

(2)秀吉が伴天連追放令を交付した理由は・・
  ① もともと伊勢信仰の強い九州地域でキリスト教の布教が進んだため。寄進の減少を危惧した伊勢神宮が信長に働きかけた。

  ② キリスト教へ改宗した大名による領内の寺社破壊、領民の集団改宗などが進み、地方政権と宗教が結束して、秀吉に対して軍事的脅威となることが懸念された。

  ③ ポルトガル人商人が日本人を奴隷として東南アジアへ売り飛ばすことを行い、宣教師がそれを黙認していたことを許せなかった。

(3)伴天連追放令は、その時に日本にいた宣教師の国外退去を命ずるものであったが、新たに日本に宣教師が来ることを禁じていなかった。このため、大半の宣教師は日本にとどまったままであり、秀吉はそれを黙認していた。

4 スペイン人の活動と26聖人殉教
(1)1596年、秀吉はスペイン人の6名の宣教師並びに日本人の伝道師等、合わせて26名を捕らえ、長崎で処刑した。

(2)その理由は・・
   ① スペイン人が1571年以降、フィリピンのマニラを占拠していて、日本にとり脅威となっていた。
   ② 伴天連追放令により日本での布教が難しくなっていた宣教師のなかには、マニラのスペイン人に対し日本侵攻をするよう画策する者がいた。
   ③ スペイン人宣教師の中には、禁じている布教活動を行う者がいた。

5 徳川幕府の切支丹弾圧
(1)徳川幕府の時代になっても、切支丹は全国的に表立って取り締まりを受ける対象ではなかったものの、その潜在的な危険意識は幕府中枢部に継続的に存在した。

(2)このため、1612年以降、キリスト教を信仰することの禁止の布告ならびに宣教師の国外追放処分が相次いで実施された。

(3)キリスト教信仰が一定の成功を収めていた九州、京都、東北などでは取り締まりが厳しく、棄教に応じず殉教した切支丹の数は全国で1万人ほどと推定されている。

(4)また、1614~15年の大阪の陣で多くの切支丹が大阪方に味方をしたことが、徳川幕府の切支丹に対する対応をより厳しいものにした。

(5)さらに1637年の島原の乱の発生により、徳川幕府は切支丹の取り締まりと殲滅を徹底して行うことになった。