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「玉川上水」 [日本史]

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  羽村町教育員会、1987年刊。
  羽村町郷土博物館編。

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1 玉川上水の建設
(1)徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年以降、江戸の人口が次第に増加し、飲み水が足りなくなってきた。
 このため、1653年、玉川上水を建設する大工事が始まった。

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(2)これは、多摩川の水を、羽村から四谷大木戸まで堀を作って流し、大木戸からは地下に石や木で作った水道管を埋めて江戸の町中へ水を通すというものであった。
 羽村から四谷大木戸までは43キロメートル、この間の高低差は100メートルであった。
 (100メートルごとに23センチ)

 *ローマ時代に造られた、フランスのポン・デュ・ガールの水道橋で有名な水路は、水源から目的の街まで50キロメートルで高低差は17メートルであった。
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(3)幕府は、庄右衛門、清右衛門という兄弟に工事を命じ、6000両のお金を与えた。
 工事は、わずか7か月で完成した。
 これは、工事を始める前の測量や、道具などの準備がしっかりしていて、また、働く人を大勢集めることができたことによるとみられる。
 しかし、工事の途中でお金が足りなくなり、兄弟は自分たちの家屋敷を売ったりして3000両を工面して工事費用に充てた。

2 兄弟のその後
(1)幕府は、兄弟に褒美の金をあたえ、玉川という名字を持った武士にした。
 また、以下のような上水を管理する仕事につかせた。
 ① 町の中に新しい水道管を敷設
 ② 古くなった水道管の修理や取替
 ③ 上水の取り入れ口の羽村の堰(せき)や水門の維持、補修

(2)兄弟は、これらの仕事の費用を賄うため、上水を利用する武士や町人から水道料金を集めた。
 しかし、その後、兄弟は管理の役目を十分に果たしていないということで、幕府は兄弟の上水管理の仕事を取り上げ、戸〆(とじめ)という、家の門や戸を釘付けにしてしまう刑罰を与えた。

3 玉川上水の仕組み
(1)上水の取り入れ口
 多摩川が蛇行しているところで、堰を設けて、水をせき止めたり、流れの方向を変えて、水門へと水を取り込む。
 堰には、木の枠や蛇籠(じゃかご)という木や竹の籠に石を詰めたものを使った。
 また、水門では、水量の調節が行われた。
 大雨で水かさが増した時に、土や砂や石が上水の方に流れ込まないようにする仕組みも設けられていた。

(2)四谷大木戸
 玉川上水を流れてきた水を地下の水道管へ流す前に、芥留(あくたどめ)というところで流れてきたごみをさらった。
 また、水門があり、汚れた水や余分な水は水道管へ流さず、川に捨てることができた。
 玉川上水から流れてくる水が多すぎたり、少なすぎたりしたときは、使者を羽村に出し、水量の調節を依頼した。

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4 玉川上水の利用
(1)分水
 玉川上水には33か所の分水口が設けられ、水を小さな用水路に引いて、武蔵野地方の農民が利用できるようにした。
 武蔵野地方はもともと湧水が出るところ以外は水に恵まれず、玉川上水の水の利用により、多くの地域で農耕が可能になり、人口も増えていった。

(2)通船
 地域住民の希望により、明治時代になってから、船で行き来することが可能になった。
 認められた船の幅は1メートル50センチ以内と小さなものであったが、それでも多摩地方で産物を東京に運ぶには都合がよかった。

 しかし、船の航行は以下の理由で始まって2年で禁止されることになった。
 ① 馬などを利用したそれまでの運搬手段に携わっていた人たちの反発が強かった。
 ② 水が汚れ、飲み水に適さなくなってきた。


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加藤周一の天皇制論 [日本史]

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 *以下に拠る。
  「天皇制を論ず」 (1946年、東大新聞に掲載)
   「加藤周一自選集1 1937~1954」(岩波書店 2009年刊)から
   著者の加藤周一(1919~2008)は、医学博士で評論家。

 もし天皇制がなかったならば、明治から昭和にかけてあれほど無責任で強大な軍閥を育て上げることは不可能だったろう。
 敗戦後は、天皇の非神格化と非政治化が行われ、日本は好戦的になってはいない。
 今後、日本が好戦的な国に戻るかどうかは、以下により決まる。
 ① 天皇制の性質の変化
 ② 日本国外の政治・経済・軍事的な情勢
 ③ 日本国民の大多数の反軍国主義的感情

 もし、反軍国主義の国民感情が後退し、天皇の神格化または神秘化と、その法的権限の拡大が実現されるならば、一定の国際情勢の下で、天皇制は日本を再び好戦的にするために役立つだろう。

 1945年、敗戦が事実上決定的であった状況の下で、降伏か抗戦かを考えた日本の支配者層の念頭にあったのは、降伏の場合の天皇の地位であって、抗戦の場合の少なくとも何十万、あるいは何百万に達するかもしれない無益な人命の犠牲ではなかった。
 彼らにとっては、一人の天皇が、日本の国民の全体よりも大切であった。

 天皇制はなぜ速やかにやめなければならないか。
 問題は天皇制であって、天皇個人ではない。

 馬鹿げた侵略戦争を世界中に仕掛けた以上、日本は世界に対してその責任を取らなければならない。
 天皇制と封建主義が、日本を好戦的にした根本的理由である。
 その理由を除き、天皇制を廃し、封建的残滓を洗い、再び好戦的になりえないことを実行をもって態度に示さなければならない。

 もし天皇制がなかったならば、あれほど明らかな帝国主義的政策を何らの批判なしに強行することも、あれほど不合理な軍国的デマゴーグを国中に氾濫させることも、そして、あれほど狂信的で無責任な軍閥をのさばらせることも、不可能であったに違いない。

 2600年という荒唐無稽な年号、雑誌を発禁にする検閲、小学生から大臣に至るまで最敬礼を何度も繰り返す馬鹿げた儀式、国民に対して一片の責任も負わないという現人神。
 天皇制は、人々の理性を麻痺させ、人々の批判精神を沈黙させ、支配階級の独裁を容易にするために、また、そのためのみに役立った。
   

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「島原の乱」 [日本史]

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  中公新書、2005年刊。
  著者は、日本中世史を専門とする神田千里さん。

1 戦闘の概要
 島原の乱は、1637年10月25日に島原藩(現長崎県島原市)で始まった。
 当初は一揆勢が優勢で、島原城を包囲し、島原藩士たち約300名は島原城に立て籠もった。
 また、同時に、唐津藩の天草領(現熊本県上天草市など)でも蜂起があり、一揆勢3,600名ほどは、唐津藩軍との戦いで勝利を手にした。
 唐津藩の藩士は、富岡城に退却し、一揆勢は富岡城を包囲し、攻め立てた。
 しかし、一揆勢は城内まで深追いしたことから、大きな被害を受けてしまった。

 また、幕府軍の体制が整ってきたこともあって形勢は逆転し、島原並びに天草の一揆勢は、11月下旬から島原にある原城に籠城することになった。
 幕府軍は、原城を包囲、攻撃したが、一揆勢の抵抗は激しく、1月初めに幕府軍の総大将が討ち死にするという事態が発生した。
 このため、幕府軍は無理に攻めず、包囲して兵糧攻めにする作戦に変えた。

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2 農民を一揆に向かわせた要因は?
(1)島原・天草の一帯では深刻な飢饉が続いていたにもかかわらず、藩が厳しい年貢の取り立てを行ったため、農民に不満が強まっていた。
  (年貢を納めない農民の親や妻子を拷問して、無理やり年貢を納めさせた)

(2)この地域は、かってはクリスチャンの多いところであったが、徳川の世になり、仏教へ宗旨替えしたものが多かった。
 しかし、飢饉や重税などの厳しさが、キリスト教へすがる気持ちを呼び戻すことになった。
 また、飢饉などが、キリスト教を捨てた「天罰」であるとも考えられた。

(3)徳川家光が亡くなり、将軍が変わるという誤報が流れた。
 将軍が変わった時に、一揆をおこして窮状を訴えれば恩赦があり、厳しい年貢の取り立てがなくなるのでは、と考えられた。

3 一揆勢は、なぜ幕府軍に対抗できるだけの戦闘力を有していたか?
(1)各藩の軍隊は、武士だけで構成されていたわけではなく、「少数の武士+多数の農民」という形であった。
 一揆勢も「少数の浪人たち+多数の農民たち」ということであり、幕府軍も一揆勢も、身分構成に大した違いはなかった。

(2)刀狩り以降も、農民はいざという時の戦力と見られていたので、村々には刀や鉄砲など、一定量の武器が保有されていた。

(3)一揆勢は、村ごとにキリスト教への改宗と一揆への参加を強要し、従わない者は殺戮するという強硬手段により、その勢力を増大させた。

(4)キリシタンは「不死身」であり、鉄砲も矢も当たらないと信じたり、死んでも必ず生き返ると信じたりしていて、死を恐れずに戦った。

4 原城の落城
(1)原城に籠城した一揆勢は家族を含め3万人前後、包囲した幕府軍は12万であった。
 一揆勢は、籠城を始める際に大量のコメを城内に持ち込んだが、長く持ちこたえることはできなかった。
 2月21日、一揆勢は城から出撃して幕府軍に夜討ちをかけ、双方に大きな被害が出た。
 2月28日、幕府軍の総攻撃により、原城は落とされた。
 一揆勢のうち、それまでに投降したり、逃げ去ったものも多かったが、最後まで残っていた者は、皆殺しとなった。
 幕府軍も、死者2,800名、負傷者1万名弱と、相当な被害を出し、戦闘の激しさを物語っている。

(2)一揆勢の敗因は以下の通り。
 ① 村ごと無理やりキリスト教に改宗させられたものも多く、一揆勢が敗勢になると、そうした人々はすぐに一揆勢から離れていった。

 ② 海からのオランダ船による砲撃が一揆勢に被害を与え続けた。

 ③ 家族も含めて籠城したことから、早期に食料不足に陥った。

5 その後への影響
 島原の乱が、幕府に与えた衝撃は大きかった。
 島原並びに天草の城主は、責任を問われ、領地を没収された。
 また、日本人とヨーロッパ人の交流は厳しく制限されることになり、ポルトガルとは断交、オランダも長崎の出島に抑え込まれた。
 キリスト教は厳禁となり、宗門改めを行う寺請け制度が強化、実施された。
 武士並びに一般庶民層の双方を含む、社会全体に対する徹底したキリシタン摘発が始まった。


 
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「ヒロシマー絶後の記録」 [日本史]

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  日本ブックエース、2010年刊
 (原著は、中央社から1948年に刊行され、10数か国で翻訳出版された)
  著者は、小倉豊文さん(1899~1996)、元広島大学教授。

1 爆発の瞬間
 マグネシウムに点火した時のような青白い光、巨大な空を切るような鋭い閃光。
 入道雲のような白い雲の塊が、中心に向かって巻き込むように渦まきながら、横にぐんぐん拡大する。
 ドーンという鈍い、大きな轟音。
 同時に、息の根を一挙に止められたような風圧、爆風だ。
 猛烈な突風に、家屋や家財道具などが、一瞬に破壊して吹き飛ばされる。
 人間の悲鳴が聞こえた。

2 義理の姉の話
 家の中にいた長女が、つぶれた家の下敷きになった。
 助け出そうとしたが、気がいら立つばかりでどうにもできなかった。
 家の奥から煙が出始め、チョロチョロ炎も見えた。
 長女は「アツイヨー」と叫んでいた。
 しかし、自分にも、どんどん火の粉が降りかかり、火の熱もたえられなかった。
 「堪忍してよ」といいながら、駆け出してしまった。 
 「おかあちゃん、アツイヨー」という声がどこまでも後から追いかけてくるようで、たまらなかった。
 途中で、ほかの人の「助けてくれー」という悲鳴を何度も聞いた。

3 被災者の苦悩
(1)あるひとは、妻君が同じように家の下敷きなり、火が迫ってきた。
 妻君は、「すてておいて早く逃げて」と言った。
 その時の妻君の声と顔が、いつになっても忘れられないと、嘆いていた、

(2)抱いていた自分の子を爆風で吹き飛ばされ、どこに行ったか分からなくなってしまった女性が、狂ったように子供のことを叫び続けていた。
 相当ひどい自分のきずには気が付かず、髪を振り乱して走っていった。

(3)重症の、あるいは死んでしまった母親にくっついて離れない幼児を幾度か見かけた。

(4)妻は、原爆投下の2週間後に亡くなった。
 怪我や火傷はたいしたことなく楽観していたが、放射能にやられてしまった。
 口や鼻からの出血、血尿、高熱、下痢、嘔吐、貧血など、すべてその影響だった。
 多くの人が同じ症状で亡くなった。

4 被害の惨状
(1)死体、そして瀕死の重傷者がいたるところに横たわっていた。

(2)「救護所」では、助かりそうな負傷者の手当てを先にして、到底だめだと思われる重傷者は放りっぱなしにされた。
 医者も看護婦も、多くは死んだり怪我をしていたのだから、これもやむを得なかった。

(3)引き取り手のないおびただしい死体は、焼け跡の露天で、つぎからつぎと火葬にされた。
 ところによっては焼くのに手が回らず、まとめて埋めてしまったのも少なくなかった。
 直後の火災で、白骨になってしまった人も多い。

5 戦争の終結
(1)政府は、7月26日のポツダム宣言を「黙殺する」と大見えを切り、「本土決戦」、「一億玉砕を叫んでいた。
 しかし、原子爆弾の仕業だという噂を聞き、これで戦争は終わりになると思った。
 マッチ箱一つばかりの分量で、富士山ぐらいは吹き飛ばすと聞いたことがあった。

(2)軍部専制の政治と生活物資の欠乏に苦しみ続けた当時の国民一般の大多数の心情であった。
 加害者のアメリカよりも、軍部、政治家、官僚たちへの不満が強烈であった。

(3)アメリカが投下してくれた一発の原子爆弾により、日本の無条件降伏となった。
 連合軍の占領進駐以来、日本国民はデモクラシーの時代が来た、ヒューマニズムの時代が来た、といって喜んでいる。
 しかし、それは自ら求めて始まった革命ではなく、アメリカから与えられた革命だ。
 万事、アメリカに「おててひかれて」のよたよた歩きの革命だ。

 
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「本能寺の変 431年目の真実」 [日本史]

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  文芸社文庫、2013年刊。
  著者は、明智憲三郎さん。

  1582年6月2日早朝に起こった「本能寺の変」について、検討する。

1 明智光秀が謀反を決意した動機
(1)土岐氏再興の悲願
  光秀は、美濃守護職の土岐一族の出。
  土岐氏の盟主として、土岐氏再興を果たそうとしていた。

(2)盟友の長宗我部の危機
  信長は、1582年5月、四国の大部分を支配していた長宗我部元親に対して戦いを挑もうとしていた。
  しかし、以下のように光秀と長宗我部は親しい関係にあり、信長の長宗我部征伐を阻止したかった。
  ① 光秀の重臣、斎藤利三と、長宗我部元親の正室の兄は兄弟。
  ② その正室の出身である石谷家は土岐氏で、明智家とも親密な関係にあった。  
  ③ こうした関係から、光秀は長年、信長と長宗我部元親の間を取り持ってきた。

(3)信長の構想
  信長は、国内平定後は、国内の領地を三人の息子たちに分割統治させ、光秀を含む有力武将たちは中国大陸などの国外征服に派遣し、その地に領地に与えるという構想を描いていた。

  光秀は、近江・丹波という京都を含む重要地域を領土として与えられていたが、早晩、遠隔地へ移封されることは明らかで、さらには国外での戦闘に駆り出されることも十分予想された。
  信長に仕え続けても、いいことはないと思われた。

2 信長による家康征伐の企み
(1)信長は、武田勝頼を滅ぼした後の1582年4月、明智光秀、筒井順慶、細川忠興らの重臣を連れて、甲州に行った後、駿河、遠江などの家康の領地を見学している。
  これは、この重臣3名に家康の領地に侵攻させるための事前準備であった。

(2)家康は、信長の招きに応じて1582年5月15日に安土城を訪問し、その後、堺見物に向かった。
  6月2日には、京都の本能寺での茶会への招待を受けていた。

(3)信長にとって、家康との同盟関係は、甲斐の武田と対峙するためには必要であったが、武田が滅んだあと、家康との同盟は必要なくなった。

(4)信長は、家康をわずかな家来とともに本能寺へ招き、毛利攻めのためということで兵を伴って京にいる光秀に討たせるつもりだった。

3 光秀の企て
(1)光秀は、信長から家康討伐の計画を打ち明けられた。
  しかし、これは、光秀にとっては、信長を討つ、またとないチャンスであった。
  信長も、家康を安心させるために、僅かな小姓しか手元に置いていなかった。

(2)光秀は、細川藤孝(細川忠興の父)、筒井順慶、徳川家康などと謀反に関する同盟を結んだ。
  家康は、信長に狙われていることを知った。
  細川忠興の正室は、光秀の娘の「玉」(後のガラシャ)である。

(3)光秀軍は、予定通り、6月2日早朝、信長を本能寺にて討ち果たした。

4 光秀の誤算
(1)本能寺へ遅れてやってくるはずだった筒井順慶と細川忠興が来なかったものの、光秀の計画は成功しつつあった。
  6月5日、光秀は安土城へ入り、その後、美濃・尾張の平定を進めた。
  織田方の諸将も、光秀に恭順を示しつつあった。

(2)しかし、備中高松で毛利攻めをしていた秀吉による、思いがけない迅速な行動が、光秀にダメージを与えた。
  秀吉は、光秀の計画を事前に察知していた可能性が強い。
  秀吉は、6月6日には姫路にまで戻り、筒井順慶、細川藤孝父子ならびにその他諸将に対して、共同して行動するよう訴える書状を出していた。
  筒井順慶や細川藤孝父子は、光秀から離れ、秀吉側につくことを決めた。

(3)6月13日、山崎において、光秀軍は高山右近らの軍勢に攻められ、惨敗した。
  秀吉軍2万余は、まだ到着していなかった。
  光秀は敗走し、その途中で討ち取られた。

5 家康の動き
(1)家康は、事前に光秀の計画を知っていたので、本能寺の変の後、すぐに堺から三河に戻った。
  その後、家康は旧武田領の織田軍切り崩しに全力を挙げた。
  また、6月14日には、光秀応援のため、一部の兵を京都方面に動かし始めたが、光秀敗北の報を受け、引き返さざるをえなかった。

(2)家康は、光秀の悲願であった土岐氏再興を、実現させている。
  土岐一族の子孫の一人が沼田藩主となり、明治まで続いた。
  
  また、光秀の重臣、斎藤利三の娘「福」を二代将軍秀忠の側室に迎えた(乳母という名目で)。
  「福」は三代将軍家光を生み、春日局と呼ばれるようになった。

  家康は、光秀との同盟の約束を守ることができなかった償いをしようとしたのであろうか。


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「古代史講義」 [日本史]

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  ちくま新書、2018年1月刊。
  編者は佐藤信さん。各章を14名の古代史の専門家が書いている。

1 皇位継承の断絶
(1)継体天皇(在位507~531)が即位したのは、6世紀初頭。
  日本書紀などによれば、応神天皇の傍系の五代目ということであるが、北陸や近江を本拠に勢力を伸ばした有力地方豪族が新王朝を立てたとの見方が強い。
  系譜が切れていた確実な証拠はないが、事実としてこの時期の皇位継承は不安定だった。

(2)また、奈良時代(710~794)の天皇は、専制君主として強大な権力を獲得したものの、そのことがかえって度重なる政争を引き起こし、繰り返される粛清の果てに皇位継承候補が払底する事態にもなった。
  
(3)文武天皇(在位697~707)の後、元明、元正という二人の女帝が続き、その後、聖武天皇へ継承されたが、皇子がおらず、称徳天皇(女帝)の後、途絶した。
  文武天皇のいとこにあたる長屋王ならびにその夫人と三人の息子がすべて抹殺されるという事件も、一門途絶の一因となった。

(4)781年から806年に在位した桓武天皇は、天武天皇の一族ではなく、「新王統の創始」であった。

2 朝鮮とのつながり
(1)日本は、古くから朝鮮と強い結びつきがあった。
  6世紀から7世紀にかけて権力を握った蘇我氏は、渡来系氏族を組織して、王権の財政を握っていた。

(2)671年、当時の天皇は五十数名の旧百済の王族・官人を官僚機構の中に取り込み、自分がその上の存在であることを印象付けた。
  また、高句麗からの渡来者にも同様に対処した。

(3)桓武天皇の母親は、百済系氏族の出身であった。
  朝鮮からの渡来者が、皇族の中枢にまで入っていたことを示している。

3 律令制国家へ
  7世紀、豪族連合的なヤマト政権は、以下のことを含め、天皇を頂点とする官僚制的な国家へと変わっていった。
  ① 倭国から日本国への国号の変更
  ② 大王から天皇への君主号の変更

  701年の大宝律令制定によって日本の律令制は一応の完成を見た。
  それは、中国の律令制を手本として模倣しながら、多くの部分でそれを改変したものであった。 

  日本書紀などを読むと、諸国の民衆が天皇に直接奉仕する「一君万民」の「個別人身支配」が古代社会で貫徹していたかのような印象を受ける。
  しかし、実態としては、地方豪族の持つ支配権を統合することによって、はじめて集権的支配が成り立ったとみる「在地首長制」であった。

4 天平文化と正倉院宝物
  正倉院には、僅かな舶載品と圧倒的多数の国産品が伝わる。
  国産品には、舶載品を手本として、外来文化を吸収・血肉化しようとする努力の跡が認められる。
  素材については、外来高級材の紫檀の代わりに、楓、杉、欅などが用いられている。
  外来の文物を自らのものとして吸収・展開させたことが、天平文化の「国際色の豊かさ」の内実である。
  
  
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「偽金づくりと明治維新」 [日本史]

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  新人物往来社、2010年刊。
  著者は、徳永和喜さん。
 
1 明治新政府の偽金対応
(1)幕末から明治にかけての時期、多くの藩が偽金つくりに手を染めていた。
  これは各藩の財政が軍事費の増加によりひっ迫していたこと、ならびに徳川幕府の取り締まり能力が落ちてきていたため。
  
(2)日本全体の偽金の流通量は200万両に達していたとみられる。
  (1両=1万円とすると、現在の価値では200億円ほど)
  大阪・京都地域では、偽金が満ち溢れ、流通しているお金の70~80%は偽金であったという話もある。
  偽金の蔓延によりお金の流通量が過剰となったことから、物価騰貴が激しくなり、人々の生活に混乱をきたしていた。

(3)このため、明治新政府は金融の秩序を回復するため、偽金の製造を禁ずるとともに、その回収に努めた。
  偽金づくりの首謀者は、さらし首あるいは惨殺という厳しい刑罰を科することにした。
  また、市中の偽金を一掃するため、期限を区切って、減額して交換に応ずることとした。

2 薩摩藩の偽金づくり
(1)薩摩藩は、偽金つくりを開始した時期が早く、かつ、その量も多い、

(2)薩摩藩は、まず「琉球通宝」という通貨を鋳造発行することを幕府に願い出て、その許可を得る。
  「琉球通宝」は薩摩藩内で流通させるための通貨である。
  琉球は薩摩藩の管理下にあったが、当時、諸外国から琉球に対して開国要求が激しく、薩摩藩は防備の強化に迫られており、多額の軍備資金が必要であった。
  薩摩藩は、これを口実に、琉球防衛のためということで、幕府に「琉球通宝」の鋳造発行を認めさせた。
  薩摩藩は、このために銭の鋳造職人十数名を江戸から薩摩へ移住させた。

(3)その後、薩摩藩は軍備増強のための藩財源が枯渇していたことから、幕府が発行していた「天保通宝」の鋳造することを決断する。
   1862年に、薩摩藩士が横浜近くの生麦村でイギリス人を殺傷した生麦事件が発生し、報復のためのイギリス艦隊来襲に備える必要から、軍備の強化が喫緊の課題となっていた。

(4)薩英戦争が起こった1863年には、職工2千人を投入し、鋳造高は一日につき4千両、一か月で10万両に達していた。

(5)通貨の原料は、銅、亜鉛、錫、鉛などであった。
  薩摩藩は、領内の鉱山開発に積極的に取り組み、また、領内寺院の梵鐘、仏具なども、原料確保の対象となった。
  さらに、足りない分は、大阪や長崎など領外での買い付けが行われた。

(6)薩摩藩は、偽の二分金も鋳造した。
  金貨といっても、金をかぶせただけの偽物で、俗に「天ぷら金」といわれた。

  このように、薩摩藩は偽金造りにより資金を獲得し、軍備を増強して、幕府を倒すまでの力を蓄えた。


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「経営者・平清盛の失敗」 [日本史]

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 講談社、2011年刊。
 著者は、会計士の山田真哉さん。

1 日宋貿易
(1)平清盛の一族は、もともと伊勢の国を地盤としていた。
  伊勢の丹生(にう)鉱山では辰砂(しんしゃ)という赤色硫化水銀が採れた。
  辰砂は、漢方薬の原料や朱色の顔料になり、中国で珍重されていた。
  辰砂は日宋貿易の重要な輸出品目となり、平家の経済力の源となった。

(2)清盛の父、平忠盛は肥前国に役人として赴任し、そこで宋商人と貿易をおこなった。
  忠盛は、希少性の高い唐物を入手し、時の最高権力者である鳥羽上皇へ貢いだ。
  その結果、忠盛は豊かな国の国司を渡り歩き、富を蓄えることができた。

(3)清盛は、その富を背景に、博多~神戸間の瀬戸内海航路を開発した。
  それまでは宋船は博多に着き、博多にいる宋商人が輸入荷物の取り扱いを支配していた。
  清盛は、神戸へ宋船を乗り入れさせることにより、宋商人ではなく、自分たちで輸入を仕切ることを目指した。
  清盛は、神戸港建設の大規模工事を私財を投げ出して進めた。

2 宋銭の普及
(1)日本では、飛鳥時代ならびに奈良時代に和同開珎などの貨幣が使われていたが、国内での銅鉱山の枯渇や偽造貨幣の蔓延から、900年代後半には貨幣が使われなくなり、代わって絹や米が取引における交換手段となっていた。

(2)宋銭は当初、経筒を作るための材料として輸入されていた。
  (当時お経を経筒に入れ土中に埋めることが流行していた)
  この宋銭を、貨幣として流通させるようにしたのは清盛であった。
  宋銭は、材料としての価値がすでに認められていたので、人々は安心して交換手段として利用することができた。
  清盛は、宋銭の輸入を取り扱い、宋銭の販売益を独占できることになった。

(3)清盛が日本独自の貨幣を作らず、宋銭を利用したのは偽造対策のため。
  宋銭を使用する限り、偽造のリスクを自国で負うことはないと考えた。

3 社会の不安化の要因
  全国的に不平不満が溜まっていた。
  その要因は・・
 ① 平安時代中期ごろから気候が不順となり、農作物の収穫量が不安定になった。

 ② 宋銭の普及により、それまでの交換手段であった絹や米の価値が相対的に下落した。
   これにより、絹や米が主な収入源であった貴族や寺社、あるいは各地の有力武士の収入が目減りした。
   
   絹や米の価値減少は、一種のデフレーション。
   宋銭を持っている平家は有利となり、それ以外の人々は不利となった。

 ③ 平家はさらに宋銭を使って「銭貨出挙」という貸出に力を入れた。
  「銭貨出挙」は、1年4か月後に100%の利息をつけて返させるという高利貸し。
   今で言う多重債務者が急増した。

4 平家の対応
  「銭貨出挙」により借金をした大勢の人々が、高い利息を払うために銭を求めたことから、銭不足が進み、宋銭の価値がさらに高騰した(デフレの進行)。
  しかし、宋銭が外国通貨であったため、以下の理由により、平家は宋銭の流通量を適切に増加させることができなかった。
  ① 宋は、宋銭が国外に大量流出していたことから、抑制的な措置を取り始めていた。
  ② 当時の貿易船は帆船であり、季節風の影響を受けていたこともあって、急に往来を増やすことは難しかった。

5 平家の没落
  このように社会が不安化する状況において、1180年ごろから大飢饉が発生した。
  このため、コメの価値が一気に上昇し、一方、銭の価値が下落した(ハイパーインフレの発生)。
  この結果、借金をしていた人々は助かり、逆に銭を多量に保有していた平家は大きな打撃を被った。
  こうして財力を失った平家は軍事力を低下させ、力を盛り返した源氏に敗れることになった。



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「日本問答」 [日本史]

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  岩波新書の一冊、2017年11月刊。
  日本近世文化研究の田中優子さんと、松岡正剛さんの対談。

1 外国との関係
(1)中江兆民が、日本人には「恐外病」と「侮外病」の両方があると指摘している。(外国を恐れるのと、外国をさげすむこと)

(2)中国周辺諸国の中で、日本だけが中国を本当の基準にはしていない。
  用事があるときだけ使っている。
  ご都合主義ともいえるけど、いざという時に動ける、逃げられる、柔軟であるということが、お豆腐のようにもろい日本列島には必要だった。

2 天皇
(1)天皇家の正装が洋装なのは不思議。天皇家の服装というのはいつも「外」ばかり採用している。 
   (古代の天皇は中国の皇帝服を着て、明治に入ってからは洋装)

(2)「古事記」や「日本書紀」では天皇一族は天孫族、つまり天界からの到来者としてあらわされているが、実際には大陸や半島からの、すなわち海外からの到来者と言われている。

(3)明治憲法でうたった神武建国このかたの万世一系は創作されたもので、「古事記」も「日本書紀」も万世一系の普遍性はうたっていない。

(4)日本の王権は、ヨーロッパの王権神授説のように、神から授かったという形をとっていない。
   天皇が継承していくものは、玉体、つまり身体を通した個別的、物理的なものだから、「王権」ではない(権利ではない)。

3 信仰
(1)日本人の宗教とのかかわりは生活行事的。
   生活行事的であることはアジア的な特色でもあって、言い換えれば多神多仏的。
   どんな民族も、古代までさかのぼればみんな多神教だった。

(2)宗教が政治的にならなかったのもアジア的。
   アジアにも日本にも宗教革命がないし、宗教戦争もない。

(3)日本は仏教、神道、儒教などが併存し、時と場合に応じて使い分ける「自由選択宗教」。
   一つの宗教に自分を押し付けるのではなく、普遍かつ不変なものを求める必要はないという、信仰を超えた境地を持っている。

(4)日本は多神多仏の国であり、一神教的な世界観とは違う。
   キリスト教のような一神教を宗教と思い込んでいる人が多い。

4 キリシタン
(1)江戸社会にとってキリシタンというのは「乱を起こしそうな人」ということだった。
   天草一揆以来、何か不穏なことが起こるたびに「キリシタンのしわざだ」というふうになった。

(2)江戸時代を通して、各地でキリシタンが大量検挙された。
   キリスト教を禁令したにもかかわらず、根深く浸透していた。

5 神道
(1)神道は自前のロジックを持っていなかった。
   せいぜい蒙古襲来の時の神風思想程度のものしかなかった。
   このため、その正統性を儒学の力を借りて作ろうとした。

(2)室町時代にできた吉田神道は、仏教も道教も儒教も全部採り入れていた。

(3)「明神」も「権現」も、日本独特の神仏習合的なもの。
   豊臣秀吉は「豊国大明神」となり、また徳川家康は「東照大権現」となり、いずれも神君化された。

(4)日本各地にはお社があって、それぞれ祭神がいる。
   これらはほとんど体系だっていないし、そもそも日本人は思想の体系化が必要とも考えていなかった。
   それぞれの由緒やご利益さえはっきりしていればよかった。

6 国体
(1)水戸学が国体を言い出した時は、あくまでも手段に過ぎなかったが、明治以降になると、「国体」が目的化して、「国体」さえ守れば日本は安泰だという風に変わった。
   水戸学的な国体と、明治以降の大日本帝国と日本陸軍が作り上げた国体主義、あるいは教育勅語が押し付けた国体とは相当違う。

(2)戦後の日本は、憲法によって国体護持を保証してもらったうえで、アメリカと同盟に入った。
   しかし、天皇は「象徴」となった。
   これは形だけを護持し、「骨抜き」になった日本だ。

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「静かなる大地 松浦武四郎とアイヌ民族」 [日本史]

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  岩波現代文庫の一冊、2008年刊。原著は1988年刊。
  著者は、花崎皋平さん。

  松浦武四郎(1818~1888)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家。
  北海道、樺太、千島諸島を数度にわたり踏査した。

<松浦武四郎>
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1 蝦夷地に渡るまで
  松浦武四郎は伊勢の国の生まれで、16歳で江戸へ行ったのを皮切りに、全国をめぐる旅の魅力に取りつかれる。
  26歳になるまでに、蝦夷(北海道)を除き、全国をくまなく回った。
  長崎で、ロシア人の南下によって北方が侵略される危機が迫っているという話を聞き、蝦夷地への旅を決意する。
  
  1845年、28歳になり始めて蝦夷地へ渡った。
  函館から南端を海岸沿いに知床まで行き、戻ってきた。
  その後、全6回、蝦夷地は隅から隅まで、さらには南樺太や千島列島の択捉、国後まで調査した。
  松浦武四郎は、海岸沿いを進むだけではなく、川を上流までさかのぼったり、高さ1,000メートル以上の山に登ったりしている。
  未開の地を歩き続けるのに必要な頑強な体力を松浦武四郎は持っていたと思われる。
  見聞きした内容は克明に記録し、幕府に献上したり、出版して、旅の費用を稼いだ。

<1858年の足跡図>
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2 アイヌとの交流
  蝦夷地を旅するには、アイヌの道案内が必要であり、また、アイヌの住居に泊まり、話を聞いて情報を集めた。
  アイヌの人々からはいつも歓待を受け、その温和な性格に魅かれた。
  アイヌ人のやさしさは、身内の者に対してだけではなく、旅人や隣人へも分け隔てなく向けられていた。
  しかし、アイヌの人々は当時、和人の抑圧に苦しんでいた。

<松浦武四郎が描いたアイヌの猟師>
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3 蝦夷地の支配体制
  蝦夷地は、松前藩領となったり、幕府直轄となったり、二転三転している。
  しかし、支配機構は「場所請負制」というもので変わらず、これがアイヌの人たちを苦しめた。
  場所請負制は、本州の交易商人が一定の運上金を納付して、分割された地域における交易を一手に請け負うものである。
  請負人が取り扱う主要な商品は、西日本で肥料としての需要が高まったニシンかすであった。
  請負人は、アイヌを労働力として奴隷のように使った。

4 和人によるアイヌ人の抑圧
(1)アイヌ人の男性を強制徴用して、漁場などで働かせた。
   また、アイヌ人の女性は捕まえて自分の妾としたり、本州から来た漁夫や船頭の慰み者とした。
   夫がいる女性でも容赦はしなかった。
   夫婦で国後島へ送られ、夫は漁場へ、妻は男達の慰み者ということも少なくなかった。

   元々いたところでは働き手が少なくなり、猟や魚とりもできず、残された年寄りや子供は食べる物にも困った。

(2)徴用されたり、妾となった者が梅毒などの病気にかかると、蔵に放置され、薬も食事も与えられず、飢えて死んだ。
   また、妾となった女性が妊娠すると、毒草を飲ませ堕胎させた。  
   男は身体の続く限り働かされ、そうした男女は生涯家庭を持てず、親に会うこともできなかった。

(3)和人の風俗の強制が行われた。
   長く伸ばした髪の毛を切り、頭頂部にかけて剃って月代(さかやき)を作ることを強制した。
   ひげも剃り落とすように強制された。
   先祖伝来の風習を変えさせられることは、アイヌ人にとって耐え難いことであった。

(4)アイヌ人との交易における交易比率をアイヌ人の不利な方向へ変更し、収奪を強めた。
   アイヌ人が獲った鮭の干物、いりなまこ、ほしあわびなどの一定量で交換できる本州産のお米の量が、どんどん少なくなった。

(5)こうした圧政により、アイヌの人口は減少した。
   石狩を含む西蝦夷地の人口は、1822年に9,648人であったものが、1854年には5,253人、1873年には3,581人と急速に少なくなった。

5 コシャマインの戦い
  アイヌ人は、和人の抑圧に耐え切れず、再三にわたり反旗を翻したが、その最大の戦が1669年のコシャマインの戦いである。
  アイヌ人二千余名が、松前藩の本拠地に攻め寄せた。
  しかし、アイヌ人の武器は弓矢であり、鉄砲を持つ和人が体制を整えて戦うと勝ち目はなかった。 
  しかも、松前藩は謀略を使うことに慣れており、和議を装ってアイヌの首謀者を宴席に呼び、そこで斬り殺した。


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