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天安門事件 [世界史]

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 *以下に拠る。
  「鄧小平 現代中国の父」
   日本経済新聞出版社、2013年刊。
   著者は、ハーバード大学のエズラ・F・ヴォーゲルさん。

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1 胡耀邦の死去
 1989年4月15日、胡耀邦が73歳で亡くなった。
 彼は、1982年から1987年にかけて総書記を務め、鄧小平の後継者と目されていた時期もあった。
 しかし、民主化に理解があり開明的な指導者であっため、保守派からの攻撃を受け、失脚していた。
 胡耀邦の死をきっかけに、追悼と民主化を叫ぶ学生デモが発生した。
 デモは、民主主義を積極的に推進せず、胡耀邦の取り組みを消極的にしか評価しなかった鄧小平への暗黙の批判でもあった。
 また、学生たちは、インフレと汚職官僚に反対するスローガンを掲げ、一般市民の支持も得ていた。
 4月22日には胡耀邦の告別式が執り行われ、天安門広場には約20万人が集まった。
 
2 4月26日の社説
 告別式の翌日以降もデモが収束しないため、鄧小平はデモ隊に対して断固とした姿勢をとる必要があると感じ、4月26日の「人民日報」の社説で、デモ隊に対する厳しい非難を展開した。
 先導する学生リーダー達を逮捕するぞという、政府からのあからさまな脅しであった。
 しかし、これは裏目に出た。
 デモに参加する学生の数は増え、また、一般市民の支持も強まった。

3 ゴルバチョフの訪中
 5月15~18日に、ソ連のゴルバチョフ首相の北京訪問が予定されていた。
 30年もの間、冷え切っていた中国とロシアの関係が正常化することを記念した歴史的な行事であった。
 鄧小平にとっては、自身が長年の重要懸案を解決したという栄光の時でもあった。
 欧米の報道陣も集まってくる。
 鄧小平は、その前に、天安門広場でテント生活を続ける学生達を何としても一掃したいと思った。
 
 しかし、過激派の学生リーダーたちは、逆に抗議活動をエスカレートさせることを考え、ハンストという新たな手段に訴えた。
 ハンストによる死者は出なかったが、8千人以上の学生が病院に搬送され、一般市民の注目をより強く集めることになった。
 ゴルバチョフが中国にいる間に、広場の学生の数は日に日に増えていった。
 5月18日には、120万人が結集していたと言われている。

4 軍隊の投入
 鄧小平は、軍隊を投入して戒厳令を布告する覚悟を固めていた。
 趙紫陽らリベラル派の幹部たちは、暴力的弾圧を回避するため、最後の死に物狂いの努力を試みた。
 鄧小平の強硬な姿勢が変わらないことを知り、趙紫陽は総書記を辞任することを決めた。
 5月28日、趙紫陽は自宅に軟禁された。

5 市民による軍隊阻止
 ゴルバチョフが北京を発った5月19日、5万人の兵士が北京に向かった。
 しかし、東西南北から北京に侵入しようとした軍隊を、北京の市民が妨害し、完全に立ち往生させた。
 道路だけではなく、電車や地下鉄も封鎖されてしまった。
 市民の間では、学生に対する同情とともに、戒厳令に対する反感が強かった。
 また、この時点では兵士に対して、流血事件を起こしてはならないという指示が出ており、武器も携行していなかった。

6 武力行使へ
 鄧小平は、いったん兵を撤退させた後、十分な戦車、装甲車、トラック、武装兵を準備するよう命じた。
 北京郊外に、国中から集められた15万人の軍隊が配置された。
 道路が封鎖されないよう、主要道路に少しずつ武装した兵士を送り込んだ。
 ほとんどの学生は、自分たちのデモが銃撃戦という事態を招くとは想像していなかった。

 6月3日夜から4日の未明にかけて、軍隊が北京中心部への進軍を始め、一部の道路では数千人の市民がそれを阻止しようとした。
 軍隊は、最後は実弾を発射し、トラックや装甲車は市民を跳ね飛ばして進んだ。

 軍隊が天安門広場に入ってきた午前1時頃には、約10万人のデモ隊がなお天安門広場に残っていた。
 そこに四方八方から実弾が撃ち込まれた。
 夜明け前の午前5時40分には、デモ隊は天安門広場から完全にいなくなった。
 死亡者数は少なくとも500人、負傷者は数千人に上ったとみられている。



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「中国はいかにチベットを侵略したか」 [世界史]

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  講談社インターナショナル、2006年刊。
  著者は、アメリカの作家、マイケル・ダナムさん。
 
 チベットは、17世紀から、元や清国と敵対することなく、独立を維持していた。
 しかし、20世紀に入ると、イギリスとの関係が深まるようになった。
 イギリスの支援により、軍隊の近代化が進められた時期もあったが、強い影響力を持つ仏教界は、非暴力主義の仏教とは相いれないとして、軍備の強化には反対した。

 ダライ・ラマ13世の死後、1940年に4歳で即位したダライ・ラマ14世に統治能力はなく、チベット国内は混乱した。
 一方、国民党との闘いに勝利した毛沢東は、1949年、中華人民共和国の建国を宣言するとともに、チベットを「帝国主義者」から解放するために、人民軍をチベットに侵攻させると発表した。
 中国は、チベットとイギリスとの関係を口実に、チベットへの侵攻を正当化しようとした。

 いまだ第二次世界大戦直後の混乱から脱しておらず、チベットに救いの手を伸べる国はいなかった。
 1947年に独立したばかりのインドは、中国との友好関係維持を優先し、チベットの危機から目をそらした。
 1950年3月、中国軍は東チベットのカム地域に侵攻を開始した。
 3万人以上の兵が東チベットに入り、道路の敷設も進めた。
 中国軍は、乱暴や略奪はせず、辺境地域を手なずけ、僧院にたっぷりと贈り物をすることから始めた。
 また、各地に診療所を設置し、地域住民全てに医療サービスを提供した。

 1950年6月、朝鮮戦争が始まった。
 世界の目は朝鮮にくぎ付けとなり、チベットに関心を持つ人は少なかった。
 
 1950年10月、中国軍は東チベットから首都ラサのある中央部に向けて進軍し、チベット軍との戦いは11日間で終わった。
 
 チベットは、国際連合に訴えの手紙を出した。
 しかし、インドもイギリスも、このチベットからの訴えに目を向けることはなかった。
 国際連合の場で、チベット問題が議論されることはなかった。

 1951年5月、チベットは無理やり中国との協定に署名させられた。
 仏教界は、この協定を支持した。
 僧院の既得権が中国によって守られるのであれば、中国の保護下に入ってもかまわないと考えた。

 首都ラサに中国軍ならびの中国商人が入ってきた。
 チベット軍は解体となった。
 解雇された数千名のチベット兵は飢餓に苦しめられ、次第に抵抗運動に参加するようになった。
 中国は、インドから大量の食糧を輸入して、飢餓の緩和に努めた。

 また、中国はチベットを完全に自分のコントロール下に置くため、チベットとインドとの交易はすべて中国を経由するということをインドに認めさせた。
 
 中国の巧妙な懐柔策も、北東チベットに住むゴロク族には通じなかった。
 ゴロク族は恐れ知らずで有名で、中国軍に対してゲリラ戦で抵抗した。
 僧院を焼き払うという中国軍の暴挙により、僧職者たちも抵抗運動に加わり始めた。
 チベットの人々は、中国軍により道路建設に駆り出され、遊牧地を取り上げられた。
 子供たちは思想教育を受けるため、親から引き離された。
 一般の人々も共産主義教育を強制的に受けさせられた。

 中国は、1,000万人の中国人をチベットに移住させることを計画していた。
 
 各地で中国軍と地元民や僧兵ととの衝突が起こった。
 抵抗した人々は殺され、僧院は破壊された。
 ある僧院では、千人以上の僧侶が僧院の庭で一斉射撃により殺された。
 僧院の財宝は略奪された。
 多くの人が、広場に連れ出され、人々が見守る中で、見せしめのために殴り殺された。

 中国は、1950年代、外国のジャーナリストがチベットに入ることを認めなかった。
 チベット人が大量虐殺されていたことが、チベットの外に漏れることはなかった。
 
 チベットは、中国の植民地となった。
 チベット国内にあった7000の僧院の90パーセントは破壊された。
 高等教育は中国語で行われている。
 チベットの総人口6百万人をはるかに上回る中国人が移住してきた。
 チベット人は、社会、経済、政治のいたるところで片隅に追いやられている。


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ヒトラーはなぜ、ユダヤ人を抹殺しようとしたのか [世界史]

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  *以下に拠る。
    「シャーデンフロイデ 人の不幸を喜ぶ私たちの闇」
     勁草書房、2018年1月刊。
     著者は、アメリカの社会心理学者、リチャード・H・スミスさん。

 ヒトラーは、ウィーンに出てきて、ユダヤ人が強大な影響力を持っていることを目の当たりにする。
 ウィーンでは、ユダヤ人は全人口の9%を占めているに過ぎなかったが、弁護士の60%、医師の半数以上、広告会社重役の90%、新聞編集者の70%を占めていた。
 このほか、銀行や小売業、あるいは学問や芸術の方でもユダヤ人が活躍していた。

 ヒトラーは、ひそかにユダヤ人に感心するとともに、ねたんだ。
 さらに、ユダヤ人がマルクス主義的な要素の政治的主張をしたのを見て、反共主義に凝り固まっていたヒトラーは、反ユダヤ主義に傾いた。
 社会民主党系の新聞が、圧倒的にユダヤ人により編集されていることが分かり、ユダヤ人は脅威であるという感覚を強く持ったのだ。

 ヒトラーは、ドイツ国民の支持を得るために、ユダヤ人を利用するようになった。

 ユダヤ人は、昔から、生活の質を高く保つことを心掛けていた。
 例えば・・
  ・子供の教育を重視した。
  ・まじめで慈善を施す。
  ・過激な犯罪に走ることが少ない。
  ・安定した家庭生活を大事にする。

 このようなユダヤ人の質の高い生活をうらやみ、嫉妬や反感を抱いてしまう人がいたとしても、それが人間の本性なのである。

 ヒトラーは「劣ったユダヤ人と優れたアーリア人」という主張を浸透させるため、ユダヤ人の特徴に対して、軽蔑を呼び起こすよう仕向けた。
 ① ユダヤ人に特徴的な衣装や長いもみあげなどの外見(汚らしい)
 ② ユダヤ人による芸術、文学、演劇の否定(嫌らしい)
 ③ ユダヤ人の諸方面での活躍を「寄生虫」的と非難(強欲)

 当時、ドイツは第一次大戦での敗戦の後、猛烈なインフレや過重な賠償負担など、経済的に苦しい状況が続いていた。
 ヒトラーは、第一次大戦での屈辱と、それに付随する経済問題の責任をユダヤ人に求めた。
 ユダヤ人は、共産主義者たちと手を組んで、ドイツを乗っ取ろうとしていると訴えた。

 ユダヤ人の多くは、ドイツの文化へ同化しようとしていた。
 しかし、ドイツに馴染もうとするユダヤ人の努力こそが、彼らが陰謀を抱いている証拠だと、ヒトラーは考えた。

 多くのドイツ人は、より不幸なユダヤ人を見ることで、自分たちの厳しい状況に対する不満を忘れた。

 「どんな人の心の中にも犬がいる。放たれる獣のような犬が。」
 誰の中にも、他人の痛みから満足を得るという心の闇を持っている。
 ドイツでは、すべての制約が解き放たれ、獣たちは野放しになった。

 ドイツ軍兵士たちは、ユダヤ人捕虜に向けて、憎悪と軽蔑を示した。
 逆らった捕虜は絞首刑となり、看守たちはそれを嘲笑した。

 多くのドイツ人が、組織的かつ無情に実施された、600万人を超えるユダヤ人の虐殺に関与した。
 しかも、それが無理やり強いられての関与ではなく、時には楽しみながら行われた。



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「失敗だらけの人類史」(その2) [世界史]

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<オーストラリアのウサギ>

  日経ナショナル ジオグラフィック社、2018年1月刊。
  著者は、アメリカのノンフィクション作家、ステファン・ウェイアさん。

1 オーストラリアにウサギを放つ
  1859年、トーマス・オースティンという資産家が、24匹のウサギをイギリスから取り寄せ、おオーストラリアの島南端にある自分の所有地に放した。
  オースティンは、故郷のイギリスと同じように、ウサギ狩りを楽しみたかったのだ。
  持ち込まれたウサギは、環境が適していたことや天敵の不在から、急激に増えた。
  10年後には、彼の所有する農地はウサギに食べつくされ裸地になって放棄された。
  政府は、駆除を推進したり、全長1150キロに渡るウサギ除けフェンスを設置したりした。
  
  しかし、増加の勢いは止まらず、生息域はオーストラリア全域に広がった。
  1940年代にはウサギの推定個体数は、8億匹に達した。
  ウサギは、オーストラリア固有の動植物に壊滅的な打撃を与えた。
  在来種の70パーセントほどが姿を消したと推定されている。

<ウサギの拡散>
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2 救命ボートが不足していたタイタニック号
  タイタニック号は、1912年、イギリスからアメリカへの処女航海で沈没した。
  この船を建造した船会社は、「絶対に沈まない船」と謳っていた。
  定員3,500名に対し、この時の乗客は2,210名であった。
  しかし、積んでいた救命ボート20艘の合計定員数は1,178名にしか過ぎなかった。
  実際に救命ボートに乗れたのは、それよりも少なく、死者数は1,503名に達した。

  タイタニック号の設計書では48艘の救命ボートを積むようになっていたが、船会社は甲板のスペースを広くとることを優先し、救命ボートの数を半分以下にした。

  それを指示した船会社の社長もこの船に乗っていた。
  救命ボートへは女性や子供が優先されたにもかかわらず、数少ない男性の一人として、救命ボートに乗り、彼は生き延びた。
  しかし、自己の責任を問われ、非難を受け続けた。

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3 紛争の火種となった、チャーチルの描いた中近東の国境線
  後にイギリスの首相となる、ウィンストン・チャーチルは、1921年に植民地相となり、中近東を担当した。
  当時の中近東は、第一次世界大戦でドイツに味方したオスマン帝国が倒れ、混乱状態にあった。
  中近東方面で、イギリスにとって最も重要な地域はスエズ運河のあるエジプトだった。
  スエズ運河はインドに通ずる需要な交通路だ。
  一方、原油はいまだ発見されておらず、イギリスが支配していたものの、中近東のその他の地域の重要度は低かった。

  チャーチルは、早く片をつけたかった。
  そして、以下の過ちを犯し、その後の紛争の火種を作った。
 ① イギリスを支持してくれる見返りに、現地の政治権力者に分割して引き渡した。
  現在のサウジアラビアは、イブン・サウードに委ね、王政の支配が復活した。
  ファイサルとアブドウツラーという兄弟はイラクとヨルダンの国王として擁立された。
  チャーチルは、この地域に民主的な政治体制を作ることや、それぞれの国民が新しいリーダーを受け入れるかどうかといったことには関心がなかった。

 ② シーア派、スンニ派、クルド族というそれぞれ対立する人々を、イラクという一つの国に放り込んだ。
 (オスマン帝国時代には、各民族はモスル、バグダッド、バスラという別々の州を与えられていた。)
  この結果、イラク国内で、宗派対立、部族対立が今に至るまで続くことになった。
  また、部外者とみなされるような人物を国王として押し付けたことで、サダム・フセインの台頭と圧政を許すことになった。

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「失敗だらけの人類史」(その1) [世界史]

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  日経ナショナル ジオグラフィック社、2018年1月刊。
  著者は、アメリカのノンフィクション作家、ステファン・ウェイアさん。

1 カルタゴの将軍 ハンニバル(BC247~183)
 カルタゴ(現在のチュニジア)はローマ帝国の攻勢に苦しめられていた。
 地中海の制海権はローマ側に抑えられており、カルタゴ領であったシチリア、コルシカ、サルディニアなどの島々が次々と攻め取られていた。
 ハンニバルは、スペインから、さらにアルプス山脈を越えてイタリアに攻め込むことを決断する。
 5万の兵、9千頭の軍馬、37頭の象を従えて出発した。
 しかし、途中で、大河や諸部族に悩まされた。
 さらにアルプス越えでは、吹雪や氷の地面、雪崩などで、兵の半数と大半の軍馬を失うことになった。
 それでもハンニバルは、残りの軍勢を引きつれて、ローマ軍に果敢に攻撃を仕掛け、勝利を収めた。
 しかし、ローマ軍は態勢を整え、カルタゴから来た応援軍を全滅させる一方、ハンニバルの軍勢には攻撃を仕掛けず、持久戦に持ち込んだ。
 結局、ハンニバルは15年間、イタリアの各地を転戦したが、ローマを陥れることはできなかった。
 逆にカルタゴ本土がローマ軍に脅かされるようになった。
 このため、ハンニバルはカルタゴへ戻ったが、ローマ軍の攻撃を止めることはできなかった。

 ハンニバルがローマを陥落させていれば、その後のヨーロッパの歴史は大きく変わっていたであろう。

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2 皇帝ネロ(AD37~68)とローマの大火
 ネロはAD54年にローマの皇帝になった。
 歴史家タキトウスによると、ネロは、ギリシャ建築に心酔し、ローマの都を一から作り直し、壮麗な都に生まれ変わらせようという計画にとりつかれた。
 ネロは、新たな宮殿を造営する場所を作るため、ローマの街に火を放った。
 ローマの3分の2が灰燼に帰し、多くの人々が命を落とした。
 ネロは、その後、新しい都を建設するための資金を徴収し始めた。
 人々の不満が高まったが、ネロは大火を、浸透し始めていたキリスト教の信者によるものとして、多くのキリスト教徒を処刑した。
 しかし、帝国全土で急速に秩序が乱れ、各地で反乱が起き、ネロは追い詰められて、自害した。

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3 オランダがマンハッタン島を手放す
 オランダは、1625年、現在のニューヨークのマンハッタン島の南端に、小さな植民地を築いた。 そして、翌年、島の残りを先住民から、わずか60ギルダー相当の品物と交換して、手に入れた。
 マンハッタン島は、「ニューアムステルダム」としてオランダの拠点となるが、第二次英蘭戦争のさなかの1664年に、イギリス軍により占領されてしまう。
 その後、オランダとイギリスの間で和平交渉が進められ、結局、オランダはインドネシアにあるラン島という小島をイギリスから譲り受ける代わりに、マンハッタン島の領有権をイギリスに渡してしまった。

 ラン島は、香辛料の中でも珍重されていたナツメグの産地だった。
 オランダは、インドネシアで香辛料の産地を多く押さえていたが、ラン島はイギリスが保有していた。
 オランダは、ラン島をイギリスから譲り受けることにより、ナツメグ取引を完全に支配できると考えた。

 しかし、その後、ナツメグ栽培は世界中で可能となるようになり、ラン島でのナツメグ栽培は廃れ、ラン島の価値はなくなった。
 現在のラン島の人口は1,200人にしか過ぎない。
 一方、マンハッタンは北米の中心都市として、昼間人口は330万人に達している。
 
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「モンゴルvs.西欧vs.イスラム」 [世界史]

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<ジンギスハン>

  講談社選書メチエ、2004年刊。
  著者は、伊藤敏樹さん。

1 モンゴル軍の西進
 1196年、ジンギスハンがモンゴル民族のリーダーとなり、周辺の他民族を制覇し始めた。
 1215年には、「金」の中都(北京)を征服し、また、西側の「西遼」を倒した。
 さらに、1220年、カスピ海の南東部にあったホラズムの首都サマルカンドを攻略した。

 モンゴル軍は、交易で富み、産物豊かな中央アジアの各地を襲撃した。
 どの城市でも問答無用の攻撃命令を出し、抵抗すれば住民を皆殺しにし、富を略奪し、街を徹底破壊した。

 その後、モンゴル軍は、ペルシャ、アゼルバイジャン、グルジア、コーカサスなど、西アジア一帯を次々と襲った。

2 イスラム圏ならびにキリスト教圏への侵攻
 ジンギスハンが1228年、この世を去り、モンゴル軍の攻勢はしばらく途絶えた。
 しかし、1231年ころから、モンゴル軍の西進が、イスラム圏とキリスト教圏の二方面に分かれて、再開されることになった。

 イスラム圏を目指したモンゴル軍に対して、イスラムの法王、カリフは全イスラムに聖戦を呼びかけ、兵力の動員を図った。
 しかし、1243年、セルジュク・トルコは敗れ、モンゴルの従属国となった。
 さらに、メソポタミアからシリアへと、モンゴル軍は進撃していった。

 キリスト教国を目指したモンゴル軍は、現在のロシア西部や、カスピ海並びに黒海北部を征服していった。 
 モンゴル軍は、さらにハンガリーやポーランドに攻め入った。
 1241年、モンゴル軍とドイツ・ポーランド連合軍との間で、大規模な戦闘があった。
 モンゴル軍は勝利したが、自軍も多大な犠牲を強いられた。
 その後、10万の軍勢で防御を固めていた、ハンガリーのブダペストを襲い、多くの住民を殺戮して、街を奪取した。

3 西ヨーロッパの反応
 ロシアや東欧でのモンゴル軍の蛮行は、西ヨーロッパにもすぐ伝わった。
 また、西アジアのイスラム諸国からは、モンゴル軍に対して共同して戦うよう依頼を受けていた。
 神聖ローマ皇帝は、モンゴル軍から最後通牒を突き付けられてもいた。

 一方、モンゴル軍からフランスのルイ王に対して、共同してイスラム圏を攻めようという呼びかけも届いていた。
 ルイ王は、この呼びかけに応ずる形で、十字軍を組織して、エジプトに遠征した。
 モンゴル軍の要請を拒否すれば、その攻撃を受けることを恐れた。
 しかし、1250年、十字軍とエジプト軍との戦いは、エジプト軍の大勝利に終わった。

4 モンゴル軍のイスラム侵攻
 十字軍団が敗退したため、モンゴル軍は単独でイスラム圏を征服すべく、バグダッドを目指した。 
 1258年、バクダッドは陥落し、モンゴル軍は殺戮、略奪、放火を繰り返した。
 カリフをはじめ、80万人が犠牲になったと言われている。

 モンゴル軍は、さらにエジプトを目指した。
 しかし、十字軍を破ったエジプト軍は、モンゴル軍を跳ね返す。
 1260年の戦いで、モンゴル軍は壊滅的な敗北を喫した。

5 モンゴルの落日
 その後、モンゴル、イスラム、西ヨーロッパは、三つ巴の戦いを繰り広げる。
 エジプトを中心とするイスラムは、西ヨーロッパへ侵攻する勢いを見せる。
 しかし、西ヨーロッパは、モンゴル並びにイスラムの攻勢に耐え、何とか持ちこたえる。
 そうした中で、モンゴル軍の勢いは次第に衰えることになる。

 中国を支配していた「元」は、内紛や経済の混乱により力を失い、1368年、「明」の台頭を許した。
 中近東を支配したイル・ハン国は1350年に消滅。
 西アジアのチャガタイ・ハン国は、14世紀後半にティムール朝に取って代わられた。
 ロシア・東欧地域を支配したキプチャク・ハン国は、1502年、モスクワ大公国に敗れ、領土を縮小、1783年に滅亡した。
 
<以下、山川出版社「要説世界史」に拠る>
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「人種主義の歴史」 [世界史]

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  みすず書房、2009年刊。原著は2002年刊。
  著者は、アメリカの歴史学者、ジョージ・M・フレドリクソン(1934~2008)。

1 中世ヨーロッパの人種主義
(1)ギリシャ人、ローマ人、そして初期のキリスト教徒には人種的な差別の考え方はなかった。
  ローマ時代において、市民も奴隷も、あらゆる肌の色の人がいた。

(2)しかし、キリスト教が国教として確立されて以降、ユダヤ教徒はキリストの受難に直接的な責任を負う人々だということが迫害の根拠となった
  ユダヤ教徒は、キリスト教を信じないがゆえに、「人間以下の存在」あるいは「悪の代理人」とみなされ、十字軍遠征に際して、あるいは、ペスト蔓延時など、機会あるごとに迫害、虐殺された。

(3)ヨーロッパが周辺部にまで拡大する過程において、ヨーロッパの端にいたアイルランド人やスラブ民族あるいはムスリムに偏見と差別が向けられた。

2 黒人に対する差別
(1)中世ヨーロッパにおいては、黒人に対する嫌悪感はなく、黒人でさえキリスト教に改宗するということで、むしろ好ましいイメージさえあった。

(2)しかし、15世紀以降、アフリカへの航海が容易となり、アフリカ人奴隷が容易に手に入るようになった後、黒人に対する見方が変わった。
  ヨーロッパ人の奴隷は次第に少なくなっていった。
  アフリカ人は、仕入れやすかっただけではなく、非キリスト教徒であったため、捕らえて隷属させ、残忍な扱いをすることに抵抗感が少なかった。

(3)ヨーロッパ人は、アフリカ人の肌の黒さを、神自らがアフリカ人を奴隷の人種であると指定した呪いの指標であると考えるようになった。

(4)17世紀のアメリカでは、奴隷は改宗しても解放されないことが法律によって明確にされた。
  奴隷になるのは異教徒であるからではなく、異教徒を祖先に持つことによるとされた。

3 スペインにおける人種差別
(1)中世のスペインでは、キリスト教徒、ムスリム、ユダヤ教徒が平和的に共存していたが、14世紀後半以降、ムスリムとユダヤ教徒への差別が増大した。

(2)多くのユダヤ教徒がキリスト教へ改宗したが、それでも「ユダヤ教徒を祖先に持つ」ということで迫害の対象となった。
  「宗教」ではなく「人種」そのものが迫害の根拠となった。
  ムスリムも同様な根拠で、その多くが国を追われた。

(3)スペイン人は、新大陸においても、アメリカ先住民は非合理的な存在であり、奴隷化することによってのみスペイン人に役立たせ、キリスト教に従わせることができると考えた。

4 近代的人種主義
(1)近代的人種主義は、以下の二形態からなる。
  ① 肌の色に規定された白人至上主義
  ② 反セム主義(反ユダヤ主義)

(2)身体的な特徴によって分類される、人間の基本形としての人種という基本的概念が生み出されたのは、18世紀になってからである。
  ドイツの人類学者、ブルーメンンバッハは、コーカサス人、モンゴル人、エチオピア人、アメリカ人(先住民)、マレー人の5種類に分類した。
  白人種の起源をコーカサス人としたのは、コーカサス(黒海とカスピ海に挟まれた地域)に住む人々が美しいと評判であったから。

(3)民俗学者の間では、人間の起源について以下の二つの考え方が対立した。
  ① 単一起源説
     すべての人間はアダムの子孫である。
  ② 多元発生説
     才能や能力において大きく異なる三種から五種の人間が別々に作られた。

(4)ドイツの哲学者、ヘルダーは文化による人種主義を提唱した。
  彼は、一つの民族は、一つの場所でその祖先を生み出したのと同じ物理的環境にいるべきで、異国文化の影響は汚染の源であると考えた。
  彼は、ヨーロッパのユダヤ人をアジア的な砂漠の民とみなし、明らかにヨーロッパには場違いだと述べた。

5 人種主義の強まり
(1)反セム主義
  18世紀から19世紀にかけて、社会的・政治的な最下層民の地位に閉じ込められていたゲットーのユダヤ教徒の開放が、ヨーロッパで起こった。
  ユダヤ人は、市民権を保証され、商業のみならず、法律や医薬の専門家になり、芸術の分野でも活躍するようになった。

  しかし、ユダヤ人のこうした活躍は、ユダヤ人が権力を持ち、政治的な支配を行うのではないかという不安を人々に引き起こした。
  ユダヤ人の侵略の犠牲者であるドイツ人は、極悪非道な企みをはかるユダヤ人に逆襲し、懲罰する時が来たのだと警告する者もいた。

(2)アメリカの人種主義
  奴隷制の擁護者は、高まる奴隷廃止論に対抗した。
  南部の福音主義派キリスト教徒は、黒人は生来劣等であり、奴隷であるという考えを持ち続けた。
  また、南北戦争後の人種主義では、黒人男性は白人女性を性的に誘惑する野獣と考えられた。
  さらに、「ダーウィニズム」を人種的に適用して、黒人のような劣等な種族は生存競争を生き抜けない、と主張した。


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「カチンの森」 [世界史]

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  みすず書房、2010年刊。
  著者は、ロシア生まれの社会学者、ヴィクトル・ザスラフスキー。
  アメリカやイタリアの大学で教えた。

1 ポーランドの分割
  1939年8月23日、スターリンのソ連とヒトラーのドイツは独ソ不可侵条約を締結し、同時に秘密協定でポーランドを東西に分割して、それぞれの支配下に置くことを決めた。
  同年9月1日、ドイツはポーランドへの侵入を開始し、第二次世界大戦が始まることになった。
  ソ連は9月17日に侵攻を始めたが、ドイツ軍に対峙していたポーランド軍は、背後からのソ連軍の攻撃には脆く、12日間で戦闘は終了した。

2 捕虜の処遇と弾圧
  約25万人のポーランド軍将兵がソ連軍の捕虜となった。
  このうち、ドイツ支配地域出身の捕虜はドイツ軍に引き渡された。
  ユダヤ人捕虜は、ナチスの迫害を恐れてソ連にとどまることを希望したが認められなかった。
  また、同志であるはずの共産党員の捕虜も、反共に凝り固まったナチスの手に引き渡たされた。

  さらに、スターリンなどソ連の幹部は、1940年3月、以下のことを決めた。
  ① 反抗する可能性があるとみられる将兵など、25,700名を銃殺する。
  ② その家族、2万数千世帯をカザフスタンへ追放する。

  将兵の銃殺は実行された。
  (KGB議長の手紙によると、カチンの森で4,421人、スタロベスク収容所で3,820人、オスタシュコフ収容所で6,311人、西ウクライナと西ベラルーシの収容所と監獄で7,305人の合計21,857人が銃殺された。)
  また、カザフスタンに送られた家族は、厳しい寒さを防ぐための衣服もなく、また、食料不足から、病気や飢えにより倒れた。
  ソ連支配地域に残ったポーランド人も、ソ連の厳しい弾圧を受け、40万人以上が投獄、追放、銃殺の憂き目にあった。

3 ドイツによる告発
  1941年6月、ドイツはソ連に対する攻撃を開始、ソ連が支配していたポーランド東部地域も占領した。
  そして、1943年4月、ドイツは、ポーランドのカチンにほど近い森の中で、ソ連軍に射殺された数千のポーランド将校の死体を発見したと発表した。
  このころ、独ソ戦は、次第にソ連有利に転換しつつあり、ドイツは、ソ連と他の連合国とを分断する材料として、この事件を利用しようとした。

  ソ連は、この虐殺は、1941年6月以降、ドイツ軍によりなされたものと主張した。
  しかし、1943年の法医学専門家による調査は、殺害は1940年春に行われたものであると断じた。
  死体を解剖の結果、頭蓋骨の内壁に、死後3年経つとはじめて形成される物質が見つかった。
  墓穴の上に植えられた木も。3年の樹齢だった。
  また、将校たちの死体には結婚指輪や金歯が残されていたが、ナチスドイツによる犯行であるとしたら、そうした金製品は身体から剥ぎとられていたであろう。

4 ソ連による真実の公表と謝罪
  ソ連は、第二次世界大戦終結後も、ドイツ軍の犯罪であるという主張を変えなかった。
  しかし、虐殺から50年経った1990年、その年に大統領に就任したゴルバチョフは、ソ連の犯罪をようやく認め、ポーランド国民に公式に謝罪した。
  さらに、1992年にはゴルバチョフの後を継いだエリツインが、ソ連共産党の幹部会がポーランド人捕虜の銃殺を決定した議事録や、その他の内部資料を公表した。

  それによると、数千人を特別列車で輸送し、たった三、四週間で射殺し、その後死体を隠した。
  ほとんどの犠牲者は、後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。
  射殺は、ソ連秘密警察の特別部隊が実行した。
  秘密警察には数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。

5 スターリンとヒトラーの共同謀議
  ソ連とドイツによるポーランドの分割は、独ソ不可侵条約に付随する秘密協定で決められた。
  両国は、ポーランド占領地域で予想される抵抗運動の核となりそうな人々を抹殺することでも合意していた可能性がある。
  この点については、さらに調査研究が必要である。


  

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スペイン内戦 [世界史]

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  *以下に拠る。
    「スペイン内戦」
       明石書店、世界歴史叢書、2009年刊。原著は2006年に改訂版を出版。
       著者は、イギリスのポール・ブレストン。
    「カタロニア賛歌」
       岩波文庫、1992年刊。原著は1938年刊。
       著者は、イギリスの作家、ジョージ・オーウェル。

1 内戦の概要
  第二次世界大戦直前の1936年7月から1939年3月までの2年9か月間の内戦。
  スペインでは、1936年1月に総選挙で、共和派や社会主義者などからなる人民戦線派が勝利し、立憲君主制から共和制に移行した。
  同年7月、フランコ将軍に率いられた反乱軍は、共和国政府打倒を目指して一斉蜂起した。
  右派の反乱軍と、左派の共和国政府との戦いであった。

  右派の反乱軍を、ヒットラーのドイツならびにムッソリーニのイタリアが支援した。
  共和国政府は、ソ連の支援を受けた。
  イギリスやフランスは、この内戦を傍観する姿勢に終始した。

2 戦いの様相
  共和国政府側の主力は義勇兵であった。
  わずかな給金を得るため、多くの少年たちが義勇兵に加わった。
  武器は、手入れの悪い、旧式のライフル銃や機関銃で、それも量的にひどく不足していた。
  少年たちの多くは、銃の使い方を全く知らなかった。

  前線は、お互いに塹壕を掘って対峙する、第一次世界大戦に似たものであった.
  しかし、ドイツやイタリアから、飛行機並びに武器弾薬の供与を受けた反乱軍は、次第に優勢となった。
  イギリスやフランスは、ドイツやイタリアと本格的な戦闘状態になることや、スペインに共産主義政権ができることを恐れた。
  1939年3月、反乱軍はマドリッドに入り、内線は終結した。

  なお、ドイツ、イタリアのファシズム政権に近づきつつあった日本政府は、内戦ぼっ発から半年後の1937年12月に反乱軍政権をスペインの政府として承認している。

3 内戦終結後
  フランコは立憲君主制を復活させ、独裁体制を確立した。
  彼は、共和国軍兵士やその支持者を収容所に送り込み、そして殺害した。
  反乱軍兵士は、共和国軍の旧支配地域の住民に対し、無差別に強姦、略奪、殺害を繰り返した。

  フランコの残虐行為を逃れて、フランスに亡命した数万のスペイン人は、フランスを占領したナチスドイツ軍により捕らえられ、収容所に入れられた。
  その多くは、フランス海岸線の防衛施設の建設に駆り出されたりした。
  また、アウシュビッツなどのナチ収容所に送り込まれたものもいた。

  フランコは、戦後国際社会で、ヒトラーやムッソリーニの協力者という負の側面よりも、スペインの共産化を阻止したという面をアピールし、冷戦の深刻化という国際状況にも助けられ、生き延びた。
  フランコの独裁体制は、彼が亡くなる1975年まで続いた。
  その後は、国の民主化が進められることになった。

4 ピカソとキャパ
  1937年、ドイツ空軍は、共和国軍の支配地域であったスペイン北東部の町ゲルニカを無差別爆撃した。
  千名以上の死者が出たとみられている。
  共和国を支持していたスペインの画家パブロ・ピカソは、この悲劇をキャンバスに描き、「ゲルニカ」と名付けて、1937年にパリ万博に出品した。

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  ロバート・キャパが、スペイン内戦で銃弾に倒れる共和国軍兵士を撮影した「崩れ落ちる兵士」も有名である。

キャパ.png

5 カタルーニャ州の独立運動
  近年、スペインからの分離独立運動が盛んになっているカタルーニャ州は、スペイン内戦時、共和国軍の拠点地域の一つであった。
  フランコ政権が最も弾圧した地域でもあり、そういったことが今回の分離独立運動の背景にあるのかもしれない。

 
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「神と革命 ロシア革命の知られざる真実」 [世界史]

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  筑摩選書の一冊、2017年10月刊。
  著者は、ロシア政治研究の下斗米伸夫さん。
  
  ロシア革命には、ロシア正教の異端派である「古儀式派」が深くかかわっていた。
  1917年当初、わずか5千名のボリシェビキ党、そのなかでも圧倒的少数派であったレーニンが10月革命を成功させたのは、この「古儀式派」の助けがあったからだ。

1 「古儀式派」とは?
  ロシア正教会内部で生じた1666年の宗教論争の際に、正教会主流派が主張した儀式改革に異を唱え、分派した。
  「古儀式派」は異端とみなされ、1905年までは公には認められなかった。
  教会を持つこともできず、また、いろいろな弾圧を受けたが、しぶとく生き残った。
  
  「古儀式派」の人々は、しばしば「ソビエト」と呼ばれた信徒集団を、農村や工場、あるいは兵舎でも作っていた。
  また、彼らは、西欧プロテスタントと似た勤勉を重視し、企業活動を通じてロシアの経済発展に貢献した。
  彼らの人口は、最盛期にはロシア帝国の総人口の3分の1の2千万人以上ともいわれたが、ソ連崩壊後の今は200万人程度とされる。

<古儀式派信徒>
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2 ロシア革命と「古儀式派」
  「古儀式派」はロシア帝国体制内の「反対派」であった。
  こうした人々を、政治的な運動や革命に動員しようという動きは19世紀半ばころには始まっていた。
  「古儀式派」の資本家の中には、社会主義政党に金銭面での支援をする者もいた。
  日露戦争で、同派の人々が多かったコサック兵の多くが戦死し、正当な扱いを受けなかったことに不満が高まった。
  
  時の支配権力層に強い不満を持ち、組織的な動きをし始めていた「古儀式派」を、ボリシェビキが利用した。
  1903年の第二回社会民主労働党大会で、レーニンなどによって、「古儀式派」との戦略的同盟が検討された。

3 ソビエト
  ソビエトの起源は、教会を持てなかった「古儀式派」の企業労働者の集まりにあった。
  ソビエトとは。もともと「会議」とか「評議会」を意味した。
  教会を持たない「古儀式派」の人々は、このソビエトにより連帯し、様々な問題を解決していた。
  また、企業労働者のソビエトは、その代表が企業主と労働条件の交渉を行うという労働組合的側面も有していた。

  レーニンは当初は、党独自の組織作りを狙ったが、1917年の時点ではソビエトを利用した組織作りへ方針を転換していた。

4 無神論と宗教
  共産主義思想は「宗教は阿片なり」というスローガンをもって表されるように、無神論である。
  しかし、ロシア革命の時点では、多くの労働者兵士、そして党員たちが福音書を手にして、革命を推進していた。
  また、革命後のソビエト政府内部にも、古儀式派と深い関係があったボリシェビキ党員が参画していた。
  レーニンらの無神論的な原理主義者と、古儀式派党員との複合体であったと言える。

5 両派の対立
  しかし、共産主義者と古儀式派勢力は、次第に対立するようになる。
  農民からは、共産主義者が自分たちを赤軍兵士に駆り出し、馬と穀物を取り上げる権力者としか映らなくなる。
  また、共産主義者が無神論的立場を強化すれば、古儀式派信徒は態度を硬化させる。
  古儀式派も絡んだ反共産党蜂起が起こるようになった。


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