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「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 [世界史]

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  著者は池内恵さん。 新潮選書、2016年5月刊。

  中東地域では、長い歴史な中で色々な民族がこの地域で混じりあい、そこに欧米の列強が勢力拡大を目指して、影響力を行使しようとしてきた。
  イギリスとフランスの間で締結されたサイクス=ピコ協定が、現在の混乱の元凶といわれることもあるが、列強の介入がなかったとして、果たしてこの地域に自律的に各民族の国家ができたかどうかは不確かである。

1 サイクス=ピコ協定とは
  第一次大戦中の1916年、ドイツ側で戦っていたオスマン帝国の崩壊を見越して、多様な民族、宗派、部族が複雑にひしめく中東地域に、新たな国際秩序を作るための解決策として、イギリスとフランスの間で締結され、ロシアもこれに合意したもの。

  これにより、以下が決まった。
   ① イギリスは、イラクのバスラからバクダッドのかけての地域を直接統治。
   ② フランスは、現在のトルコの東南部地域を直接統治。
   ③ それぞれの直接統治地域の中間地域を緩衝地帯として、半分に分けそれぞれの勢力圏とする。
   ④ 現在のトルコ東部のアルメニア人やクルド人が多く住む地域をロシアの勢力圏とする。

<オスマン帝国の領土>
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<サイクス=ピコ協定による分割>
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2 現在のトルコの地域
  しかし、サイクス=ピコ協定の通りに進んだわけではなく、以下の二つ条約により、現在のトルコが確立されてい行くことになった。

 A セーブル条約
  第一次大戦が終了し、オスマン帝国が実際に崩壊した後、フランスは与えられた地域を実効支配できず、オスマン帝国のもとで抑圧されていた少数民族が武装化して台頭してきた。

  このため、1920年に締結されたセーブル条約では、現地の勢力が獲得した実効支配を、列強や周辺諸国が認め、恒久化しようとした。
  これによって、オスマン帝国の主要部(現在のトルコ)は極端に細切れな諸民族の領土として分割されることになった。

 B ローザンヌ条約
  しかし、列強の保護のもとであっても、あまりに細分化され、経済的にも政治的にも、また軍事的にも自立が困難なものだった。

  一方、トルコ人ら民族主義者が設立したアンカラ政府は、セーブル条約による領土の細分化を拒否し、トルコ独立戦争を引き起こした。
  アンカラ政府軍は、近隣諸国の侵入を阻止し、支配下の諸民族の蜂起を実力で平定した。
  この結果、連合国はアンカラ政府を承認し、1923年に締結したローザンヌ条約で、現在のトルコとほぼ同じ領土を認めることになった。

4 中近東のアラブ人地域
  イギリスは、第一次大戦中、ドイツと同盟したオスマン帝国を揺さぶるため、その支配下にあったアラブ人に接近した。
  そして、アラビア半島のメッカの首長であったハーレム家のフサインに、将来のアラブ国家設立を約束した。
  その後、英国は、フサインの次男をヨルダンの国王に、三男をイラクの国王にした。
  しかし、フサインの後継となった長男は、厳格な信仰を掲げたサウド家により、倒されてしまう。

  この間、1917年には、イギリスはユダヤ系の貴族ロスチャイルドに対し、パレスチナにユダヤ人の国を建設することに賛同し、支援を約束している。

  このように、イギリスの場当たり主義的な動きにより、次第に現在ある中東の国々が形作られてゆく。

5 民族の混在
  現在のトルコには、トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、クルド人が混在している。
  その理由の一端は以下のことにある。
  
  ① ギリシャ人は、トルコ南部に幅広く存在していたが、1923年のトルコ独立の際に、ギリシャとの間で住民交換を行い、トルコにいるギリシャ人を追い出し、ギリシャにいるトルコ人をひきとった。
  しかし、それでも多くのギリシャ人がトルコに残った。

  ② アルメニア人はトルコ東部に多数住んでいたが、第一次大戦初期、オスマン帝国はアルメニア人がロシアと内通する敵性分子であるとして、その一部をトルコ南部に移住させた。この間、多数のアルメニア人が虐殺された。

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6 クルド人
  6千万人といわれるクルド人が現在まで自分の国を持てていないのは、オスマン帝国の崩壊の過程において、最後までオスマン帝国の側に立っていたことが影響している。

  しかし、フセイン政権の崩壊の後の2006年、イラクのクルド人は正式に自治政府を認められた。
  また、シリア北部のクルド人は、ISとの戦いにおいて存在感を高めており、シリアの混乱が収束した後、自治が認められる可能性がある。
  
  シリアの自治が認められるようになると、残るのはトルコ内のクルド人の自治の問題のみとなり、クルド人とトルコ軍との戦いが激しくなることが考えられる。

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「ペスト大流行」 [世界史]

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 岩波新書の一冊。1983年刊。著者は村上陽一郎さん。

1 ペスト
  ノミがペスト菌を媒介し、ネズミや人間がノミに咬まれて伝染する。
  もっとも一般的な腺ペストは、突然の高熱で始まり、脳神経系がおかされ錯乱したり、筋肉が麻痺する。
  鼠径部のリンパ腺が腫れ、全身の皮膚に出血性の紫斑や膿胞が現れる。
  発症後3~5日目あたりがヤマで、死亡率は30~40%程度。

  抗生物質が効くので、適切な治療がなされる限り、現在では致命的な病気ではなくなってきている。

2 ペストの流行
  ペストは古くから、エジプトなど中東で記録されている。
  その後、他地域との交流の進展により、ペスト菌の伝播も次第にその範囲を広げていった。
  6~8世紀ごろには、中東からヨーロッパ南部にかけて何回か、大規模な流行が見られた。
  しかし、その後約300年間、ペストはヨーロッパから姿を消した。

  しかし、11世紀に入り、ペストはヨーロッパで再燃する。
  11世紀末ごろから始まった十字軍遠征により、中東に生息するクマネズミが十字軍の艦船に乗りヨーロッパに進出したといわれる。

  ヨーロッパは13世紀、農業の生産力増大や都市の発達などがみられ、人口も増加した。
  しかし、14世紀にはいると、こうした繁栄にかげりが見え始め、そうした時期に、史上最強の致命的なペストの大流行がヨーロッパを襲った。

3 14世紀のペスト流行
  ペスト流行の要因として以下のようなことが挙げられている。
  ① 地震や洪水などの災害、とそれに伴う飢饉などにより、人々の抵抗力が低下していた。
  ② アジア大陸での大飢饉により、アジアのクマネズミが大量にヨーロッパへ流れ込んだ。
  ③ 商業路が発達し、商人の移動が頻繁になっていた。

  また、中国でペストの流行が始まり、それが「元」の版図拡大に伴い、ヨーロッパへもたらされたという説もある。

  いずれにせよ、1347年、ペストの流行がヨーロッパで始まった。
  コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)をはじめ、イタリアのベネツィアなどの地中海沿岸、さらにはイタリア北部、フランス、イギリスと広がり、1349年にはスウェーデン、ポーランド、ロシアなどヨーロッパ北部を巻き込むことになった。

  イギリスでは、オックスフォードもロンドンも、全イングランドがすさまじいまでの被害を受け、十人に一人がかろうじて生き残ることができるといった有様だった。
  ペストが襲うのは、主として若い人、強壮な人々であった。
  老人や病弱者は、その手から免れた。
  
  ヨーロッパはその後、1353年頃まで三回の大流行に見舞われた。
  14世紀末ごろにペストの流行は終息し、ヨーロッパは17世紀の大流行までしばらくはペストの恐怖から解放された。

4 死者数の推定
  ペストの大流行直前の時点で、ヨーロッパの人口はおよそ1億人とみられている。
  ヨーロッパ全体のペストによる死亡率を「4分の1」とすると、死者数は2,500万人となる。
  
  また、当時のヨーロッパの都市部と軍部の人口比を3対7として、都市部の死亡率を50%、郡部の死亡率を20%と仮定すると、死亡者数は2,900万人となる。

5 ペスト流行の影響
(1)ペストの流行がかなり下火になった1374年になって、病気の蔓延を防止するため、患者を隔離するということが行われ始めるようになった。しかし、実際には患者を遺棄するに近いものであった。

(2)ペスト大流行という異常事態は、通常差別されている人々に対する差別を強めるものであった。ユダヤ人は悪疫流行の張本人であるとされ、公式に、あるいは非公式に処刑された。
   ユダヤ人の居住地区は焼き討ちに会い、また、キリスト教徒のユダヤ人に対する借財や負債はすべて棒引きというお触れが出された。

(3)ペストの流行により、農村における労働力は大きく減少した。
   このため、領主たちは土地を農民に賃貸したり、高い労賃を払って労働者を雇用する必要に迫られた。
   中世の封建的荘園制度の自壊がこれにより始まった。

(4)ペストの恐怖から身を守るため、神にすがる姿勢が強まり、経済の停滞にもかかわらず、教会に対する寄付が増えた。各地の教会は潤沢な資金に恵まれて、聖堂の新築や改装、あるいは絵画の発注を行った。

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スターリンが引き起こしたウクライナ大飢饉 [世界史]

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 *「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」に拠る。
  (ティモシー・スナイダー著 筑摩書房 2015年刊)

1 殺戮の規模
  1933年から1945年にかけての約12年間に、ヨーロッパ中央部(現在のポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ロシア西部)で、ナチスとソ連の政権は1,400万人を殺害した。
  (ナチスにより900万人、ソ連により500万人)

  ユダヤ人、ベラルーシ人、ウクライナ人、ポーランド人、ロシア人、バルト人など、古くからこの地域に暮らしてきた人々が犠牲となった。
  1,400万人には、独ソ戦の兵士の犠牲者(双方合わせて1,600万人)は含まれていない。  

  1933年、スターリンはウクライナの飢えた農民からすべての食料を奪い取り、餓死させた。 
  この時期のソ連全体に餓死者は、ウクライナで330万人、カザフスタンで130万人、ロシアで150万人、合わせて610万人に達したとみられている。
 
2 ウクライナの大飢饉
  これは天災によるものではなく、スターリンの過酷な政策による人災であった。
  1930年、ウクライナは豊作に恵まれた。
  しかし、1931年は集団化政策の失敗や富裕層の強制移住などもあり、不作であった。
  しかし、共産党指導部は1930年の生産量を基準に政府への納付量を決めた。
  翌年の作付け用の種子も差し出すように命じられた。
  割り当てられた量を納付できない農民は、収容所に送られた。
  
  スターリンは納付された穀物を外国に輸出して外貨を稼ぎ、工業化や軍事化のための機械や原料を購入することを優先した。

  1932年秋の時点で、穀物輸出を一時的に停止し、300万トンあった備蓄穀物の一部を解放すれば、数百万人もの餓死者を出すことはなかった。
  しかし、スターリンはそうした政策を採ることはせず、ウクライナ農民から食料を略奪する動きを強めた。

  例えば、農民が作物をくすねることのないよう、畑のあちこちに監視塔を立てた。
  また、1933年初め、ウクライナ全土に飢饉が広がりつつあった時に、国境を封鎖して、農民がよその国へ逃げられないようにした。
  都市への出入りも禁止して、かれらが物乞いに行けないようにもした。

  ウクライナの農民は、収容所の中で、食料を絶たれたような状況になった。
  まったくと言ってよいほど食料は無くなり、人肉が唯一の食料となった。
  人肉を取引する闇市場が登場した。
  警察は人肉を取り扱ったものを摘発した。
  1932年から1933年にかけて、少なくとも2,505人が有罪判決を受けたが、実際の件数はこれをはるかに超えていたとみられる。
  親がわが子を殺して食べたり、また、親が自分たちが死んだあとは遺体を食べてくれと子供に頼んでいたケースもあった。

  餓死したおびただしい遺体の処理は地元民が行った。
  埋めた遺体の数に応じてお金が支払われたため、衰弱した病弱者を生きているうちに埋めてしまうということも発生した。

3 ナチスドイツによる虐殺
  1939年9月、ドイツ軍とソ連軍は東西からポーランドに侵攻し、同国の領土を分割して支配した。  
  独ソ分割統治時(1939~1941)ならびに独ソ戦争時(1941~1945)に、多くの人が犠牲になった。
  ドイツによる主な虐殺は以下の通り。
    ユダヤ人           540万人
    ソビエト人戦争捕虜の餓死     300万人
    占領都市の住民の餓死       100万人
    ポーランド人、ベラルーシ人の銃殺  50万人


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フロイト [世界史]

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 *「フロイト」(鈴村金彌著、 清水書院センチュリーブックス、1966年刊)に拠る。
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1 フロイトの生涯
 ジクムント・フロイト(1856~1939)はオーストリアの精神科医、精神医学者。
 ユダヤ人の家庭に生まれ、ウィーン大学で精神医療を中心に医学を学び、医師の資格を取得した。
 ウィーンの総合病院で色々な科の診療を経験した後、神経病の診療を行うようになった。
 
 39歳の時に「ヒステリー研究」、44歳の時に「夢の解釈」という書籍を出版したが、多くの批判を浴び、賛同者は少なかった。
 46歳になったころから、フロイトのもとに若い賛同者が集まるようになり、51歳になってようやく、オーストリアはもとより、アメリカ、イギリス、ドイツの高名な学者がフロイトの学説に注目し、賛意を表するようになった。
 フロイトの学説は一躍、世界の注目の的となった。

 67歳になり、顎と口蓋にあった腫瘍の切除術を受けた。
 これががんのために彼が受けた33回の手術の1回目であった。
 82歳の時に、ナチスに追われウイーンを去り、ロンドンに亡命した。
 その地で翌年、亡くなった。

2 フロイトの学説
(1)リビドー
  性愛の欲動をゆり動かす心的エネルギー。
 「人間は幼児期からすでに、性愛エネルギーが活動している」という幼児性欲論は、激しい非難を受けた。

(2)エディプス・コンプレクス
  男児が母親への愛着を無意識のうちに強く感じ、それに反して、父親に対する関心は無意識のうちに薄らぐというような、5歳ごろを頂点として持つ複雑な心境を指す。 

(3)性的潜在期
  もの心のつく時期で、また性感も抑圧される時期。
  性的なエネルギーが昇華されて、精神的・文化的な活動力となる時期。
  子供の教育には極めて重要な時期となる。

(4)心的装置
  A 以下の三つから成り立つ。
   「エス」  遺伝的・生物的に規定されたさまざまな欲動。

   「自我」  エスの願望や欲動と外界の現実世界の事情とをはっきり区別し、両者の関係を判断する。それにより、知覚・記憶・思考などの高級な精神機能を発達させる。エスと環境との間の仲介者としてエスの欲動エネルギーの発散を延期させたり、コントロールしたり、阻止したりする。

   「超自我」 エディプス・コンプレクスを抑圧するという自分自身の内部からくる要求。道徳上の審判の役割を果たす。

  B パーソナリティ
    上記の三要素の強弱により、違ったパーソナリティとなる。
 
   我の強い人・・強い自我を持っており、エスや超自我が弱い。
   道徳的な人・・超自我にエネルギーを集中しており、自我やエスが弱い。
   衝動的な人・・エスが心的エネルギーの大部分を占めている。

(5)自我防衛のメカニズム
   自我が危機的状況接近の合図として不安を引き起こし、エスの快感原則がそれに呼応して危機状況から逃れようとする心の動き。
   このメカニズムが働いても、それが自我の防衛の失敗に終わると、自我は不安に直面し神経症に陥る。
   健康な自我が発達するためには、自我防衛のメカニズムが適度に働くことが必要。

3 平和に関するアインシュタインとの質疑応答
  1932年、ドイツでヒトラーが現れ、平和が脅かされつつある状況で、国際連盟の主導により、アインシュタインが質問し、フロイトがそれに応えるという、書簡でのやり取りが行われた。

 A アインシュタインの質問
   国家を絶対に服従させるような超国家機構をもつには程遠い状態にある。
   どうしてほんの少数の支配者が、国民大衆を屈服させ、戦争に導くことができるのか。
   支配者が、新聞や学校や宗教団体などを手中に収めて、多数者を狂乱状態や献身状態にまで熱狂させることができるのはどうしてか。
   人間の精神を発達させて、憎悪や殺戮のような精神の病に対する抵抗力を持たせることは出来ないのか。

 B フロイトの回答
   人間相互の間の衝突は、暴力を用いることによってのみ解決がつく。
   動物界で行われていることと同じで、人間だけが例外ではない。
   歴史的にも、強い攻撃的・破壊的欲望を示す残虐行為が無数にある。
   人間の攻撃的傾向を矯正しようと望んでも全然見込みがないと思われる。
   確実に戦争を防止するためには、あらゆる利害の衝突に際して判決を下すことをまかされる中心的な「暴力」を新しく設定する必要がある。
   しかし、個々の国家が、そうした機関に「力」を譲渡するというのは難しい。

   ただ、文化の発達により促進されるものは、すべて戦争防止の役に立つ、ということは言える。
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「ユダヤ人とドイツ」 [世界史]

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 講談社現代新書の一冊。1991年刊。
 著者は、古代教会史を専門とする大澤武男さん。

 キリスト教的ユダヤ人観では、ユダヤ人は救世主キリストを殺し、永遠に神から呪われ、放浪の身分にある人たちである。

 11世紀末、第一回十字軍のドイツ人参加者は、遠路聖地へ向かう資金を稼ぐため、ライン川沿いにある豊かなユダヤ人地区を次々と襲い、略奪と殺戮を重ね、異教徒征伐をすると同時に、資金、物資の調達をした。

 それに続く第二回、第三回の十字軍による迫害をはじめ、政治危機や社会不安、人災、天災、凶作、ペストなどを契機とした民衆の激昂、極度の不安や怒り、宗教的狂信、偏見、誤解等によりユダヤ人は繰り返し迫害された。

 両替、質屋、金貸し業を主たる職業としていたユダヤ人は、住居や身分の不安定性から、他の地域へ移住しても困らないよう自己の財産を金、銀、貨幣等で蓄えていた。宗教的な迫害にかこつけて、実態はしばしばユダヤ人の持つ財産の掠奪であった。また、ユダヤ人から借金の証文を奪い、焼き捨てることも迫害の重要なねらいであった。

 ユダヤ人というと「高利貸」というイメージがあるが、13世紀ごろまでには、公職のみならずほとんどすべての職業から締め出され、金貸し業が唯一残された仕事であった。なお、当時、キリスト教徒は利息を取って金を貸すことを禁止されていたが、ユダヤ人にはこうした制限はなかった。

 しかし、キリスト教徒から見ると、ユダヤ人は高利貸で暴利を得ているとされ、場合によっては奪い取っても良いものというような、略奪を正当化する考えが形成されていった。

 キリスト教徒とユダヤ人の分離が推進され、「ゲットー」というユダヤ人の居住区形成につながった。

 一方、15世紀末に始まる大陸発見時代とそれに伴う商品経済の著しい拡大は、ユダヤ人の経済活動を大いに有利な方向へ変化させていった。
 ユダヤ人は金融業を営むかたわら、広域商取引に乗り出した。
 また、多くのドイツ諸侯が経済力を蓄えたユダヤ人を側近に召し抱えた。
 そうしたユダヤ人の役割は・・
 ① 戦費や軍事物資の調達者
 ② 国家財政の顧問、資金提供者
 ③ 貨幣の鋳造、提供者

 20世紀初頭まで、ドイツの王侯、貴族とユダヤ人資本家との関係は切り離せない深い結びつきがあった。

 このように一部のユダヤ人の活動の場は広がっていったものの、ユダヤ人の基本的人権という面に関しては、中世の状態と大きくは変わらなかった。
 ユダヤ人の解放を行ったのは、ナポレオン率いるフランス革命軍であった。
 フランス革命軍はユダヤ人をゲットーから解放し、ユダヤ人に市民権が与えられ、自由と平等を付与した。
 しかし、ナポレオンの敗退とともに、ユダヤ人の対する処遇も後退することになった。

 19世紀中頃から始まったドイツの産業革命で、ユダヤ人の果たした役割は大きかった。
 鉄鋼業、繊維工業、鉄道敷設、海運業など、ユダヤ人により行われた。
 また、フランクフルトの銀行の7分の6はユダヤ人の経営であった。
 1900年頃、ドイツの人口の1%にしか過ぎなかったユダヤ人は、平均してドイツ人の6.7倍の富を蓄えていた。

 このようなユダヤ人の繁栄の一方で、ドイツ人の間に「反ユダヤ主義」が芽生えることになった。
 「反ユダヤ主義」には「怒り」と「恐れ」が含まれていた。
 「怒り」とは、19世紀初頭以来のユダヤ人解放による、彼らの著しい経済的進出に対するドイツ社会の嫉妬。
 「恐れ」とは、目覚まし進出を見せる異質の小数派ユダヤ人に対する、自信を持てないドイツ民族の感情である。

 第一次大戦では、ユダヤ人はドイツ軍の兵士として積極的に参加した。
 しかし、敗戦に終わり、ベルサイユ条約による過酷な賠償請求に打ちひしがれるドイツ人の中で、敗戦の責任はユダヤ人にあるという根拠のない主張が、一般ドイツ人の共感を呼ぶことになった。

 この後、「反ユダヤ主義」がドイツ人の間に浸透していった要因としては・・
 ① 東ヨーロッパからの東方ユダヤ人の流入
 ② 戦争中の物資補給悪化の責任をユダヤ人に転嫁
 ③ ポーランドやロシアからドイツへ逃れてきたユダヤ人共産主義者の存在

 そして、ヒトラーの狂気へと続く・・

「ジプシー」 [世界史]

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  白水社の文庫クセジュの一冊。2007年11月刊。
  著者は、社会学を専門とするフランスのニコル・マルティネスさん。

1 ジプシーとは
(1)かって農村地帯の村から村を、また町から町を、こんにちでは都市の周縁部や都心のスラムに定住することの多いヨーロッパの遊動民。

(2)同じ文化を持つ、同じ起源の人間集団ということではない。

(3)英語圏では現在、一般に「ジプシー」と呼ばれている遊牧民は、当初はエジプト人と呼ばれていた。1530年に制定された、イギリスで最初のジプシー弾圧法は「エジプト人と自称するよそ者に関する法律」と題されていた。

(4)かっては、ジプシーはインドを起源とする共通の言語を使っているといわれていたが、現在は否定されている。ジプシーは言語的あるいは人種的に共通なのではなく、定住している社会の主流の人たちから排除された、周縁に生きるというのが共通項である、と現在は考えられている。そういう意味では日本の「サンカ」も同じである。

(5)彼らの特徴として言われてきたのは・・・
   ・「決まった住居がない」、「はっきりした職業がない」
   ・大人数で住む粗末な小屋、識字率の低さ、不健康

2 ジプシーの人口の推計
(1)定義が明確ではないので、人口の把握も難しい。

(2)1990年代の推計によると、ジプシーが多い国は・・・
     ルーマニア  141~250万人 (総人口の6~10%)
     スペイン   70~80万人  ( 同  1~2%)
     ハンガリー  55~80万人  ( 同  5~7%)
     ブルガリア  50~80万人  ( 同  5~9%)

3 生活の実態
(1)極端な早婚や避妊をしないことにより、多産である。1家族当たり4人から8人の子供がいる。多くの女性が13歳か14歳で最初の子をもうける。未熟児が多く、新生児は非常に小さい。
  
(2)平均寿命は短い。老けて見える外見にかかわらず、60歳を超える人はごく少数である。理由は・・・
   ・非衛生的な住居様式による結核
   ・過密人口や無きに等しい衛生施設
   ・栄養不良、バランスに欠けた食事
   ・でんぷん質や脂肪質を好むための肥満
   ・過度の飲酒、若年層からの喫煙
   ・挫折感やトラウマなどの精神状態
   ・無気力や引きこもり

4 ジプシーへの対応
   いろいろな考えがある。
   ・定住社会への同化については否定する。同化は彼らの消滅の第一歩となるから。
   ・遊動生活を維持するため、キャラバン停留地の確保が必要
   ・読み書きもできなければ手仕事もできないという無知と無教育から抜け出すため、学校教育や職業教育を受けさせる

<以下は創元社 知の再発見双書「ジプシーの謎」から>
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「奴隷船の歴史」 [世界史]

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  著者はアメリカの歴史研究家、マーカス・レディカー。
  原著は2007年にアメリカで出版された。

1 奴隷貿易
(1)奴隷貿易は15世紀末から19世紀末まで約400年間も続いた。この間に1,240万人が奴隷船に積まれ、航海の途中で180万人が命を落とし、海へ投げ捨てられた。生き延びた1,060万人は目的地で買い取られ、殺人的なプランテーション労働に投じられた。

(2)さらに、アフリカで捕らえられた人々のうち、捕まってから奴隷船に乗せられるまでの間、移動中あるいは海岸の収容所に閉じ込められている間に死亡したものがいる。これは控えめにに見積もって捕らえられた人の15%程度、180万人ほどと考えられる。

(3)アメリカ大陸で労働が始まってからも、1年以内にさらに15%程度、150万人が死亡している。全体では、1,400万人が捕らえられ、うち500万人が1年以内に亡くなったことになる。

2 プランテーション
(1)17世紀に、ブラジル、カリブ海地域、北アメリカでプランテーション(大規模農園)が始まった。1650年代には砂糖生産が広まった。いくら供給しても労働力が足りないという状況になった。最初はヨーロッパの年季奉公人が連れてこられ、やがてそれを圧倒的に上回る数のアフリカ人奴隷が持ち込まれた。

(2)彼らは農園主に買われ、極めて厳しくかつ暴力的な監視下で、世界市場のための商品の大量生産に強制的に従事させられた。

3 三角貿易
(1)奴隷船はヨーロッパの港から様々な製品を積んで西アフリカに向かい、その貨物と奴隷を交換し、アメリカに向かった。アメリカでは奴隷を売って、砂糖、タバコ、米といったプランテーションの産物を手に入れた。

(2)奴隷貿易には膨大な経費がかかり、様々な人的・物的資源を投入する必要があった。初期の段階においては、国家主導で貿易の基礎構造が築かれたが、その後、巨大な資金力を持つ貿易商の独壇場となった。

(3)すべてうまくいったときには、投資した金額と同じだけの利益が得られた。しかし、病気、反乱、難破、敵対国の私掠船による強奪などの危険のためとてつもない損失を被ることもあった。奴隷貿易の平均利益率は5~10パーセント程度とみられ、当時の基準では並外れてよいわけでもなかった。

4 奴隷の確保
(1)奴隷制はアフリカのこの地域のほとんどの社会に古くから存在した。奴隷になるのは、戦争捕虜と犯罪人と決まっていた。7世紀から19世紀までの間に、北アフリカのアラブ商人によるサハラ縦断交易によって、900万人以上が北へと運ばれた。

(2)ヨーロッパ人が奴隷貿易に加わるようになると、銃と火薬を手に入れた現地の集団がそれを使用して近隣の人々を支配し、奴隷を得て、それを売ることによりさらに銃火器を手に入れることができた。

(3)西アフリカの海岸にやってきた奴隷船の船長は、資金を出した貿易商の指示により、奴隷を集めた。ほとんどの商人は若者を買うように指示した。12歳から25歳までで、男二人に女一人の割合が当時の標準であった。生きて航海を終えられる可能性が最も高いのは、体力のある健康な若者であった。

(4)西アフリカ海岸での奴隷の買い入れは時間がかかる。現地の商人が一度に連れてくる奴隷の数は、一人か二人。奴隷たちは、買い入れが終了するまで6か月かそれ以上を奴隷船上で過ごし、さらに6週間から10週間の航海に耐えなければならなかった。

<船内の様子>
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ヨーロッパ諸国の植民地経営 [世界史]

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  「グローバル経済の誕生」の第5章「暴力の経済学」を参考にした。
  同書は、シカゴ大学教授のケネス・ポメランツさんとカリフォルニア大学教授のスティーヴン・トピックさんの共著。原著は2006年に出版された。
  世界各地の結びつきが強まる、いわゆるグロ-バル化の負の側面を描いている。

1 アフリカで奴隷貿易が発展した理由
(1)1800年より前では、アメリカに来た移民の4人のうち3人が、アフリカ大陸から大西洋を越えて強制的に連れてこられた人々である。その数は1000万
~1500万人といわれている。

(2)アメリカ大陸では、植民地経営を行うための労働力が不足していた。暴力や天然痘、麻疹といった伝染病により、スペイン人が新大陸を征服してから数十年以内に先住民の約9割が死んだ。

(3)新大陸での植民地経営のためにアフリカ奴隷が買われ、その対価として銀、砂糖、タバコなどが支払われた。アフリカ人奴隷は、アフリカ人の貿易商の手によって捕らえられ、新大陸に運ばれるために売られていった。それはアフリカで植民地を経営するよりもずっと簡単で安定した、儲けの多い商売であった。

2 ペルーのポトシ銀山
(1)スペイン人が1545年に銀鉱脈に気づき、採掘を始めた。1565年からは、鉱石のなかから水銀を用いて銀を採取する方法を採用して、産出量を増やした。

(2)砕石作業に必要は水を確保するため、水路、ダム、貯水池などが建設された。

(3)また、労働力を確保するため。先住民の村々から強制的に人を拠出させ、鉱山労働に従事させた。鉱夫たちの労働は、地中深くの蒸し暑さ、鉱石を背負っての搬出など、過酷なものであった。

(4)鉱夫の数は1650年ごろには4万人に達し、ポトシの町の人口は16万人に膨れ上がった。しかし、1800年頃には鉱脈は枯渇し、閉山に追い込まれ、町はゴーストタウンと化した。

3 イギリス、オランダとスペイン、ポルトガルとの覇権争い
(1)対立するスペインの海軍力にダメージを与え、植民地を拡大して異教徒を改宗させるという名目で、イギリスの貴族や地主は、海賊船にお金を投じた。海賊事業は儲かる仕事で、実際には、高い利益率に惹かれてお金が投じられた。

(2)香辛料、金銀、奴隷、砂糖といった贅沢品を載せたスペインやポルトガルの船が襲撃された。

(3)また、オランダは武力を使って、ポルトガルが独占していたブラジルでの砂糖プランテーション経営や西アフリカ沿岸部での奴隷貿易を攻略した。

(4)その後、オランダ人は厳格なプロテスタント教徒であったにもかかわらず、アフリカの沿岸部で次々と奴隷貿易の輸出港を建設し、人間を家畜のようにカリブ海に浮かぶフランスやイギリスの植民地に輸送し始めた。

4 奴隷解放後の植民地農園における強制労働と年季奉公
(1)19世紀中頃、世界各国で奴隷制が廃止された。奴隷制の下では、奴隷たちは過酷な労働に従事させられていたが、奴隷解放後も植民地の統治者たちは、労働者を酷使するするため、色々な方法を考え出した。

(2)農園主は解放後の奴隷たちに「見習い労働」という名目で労働を強制した。

(3)さらには、アフリカ人の強制労働だけでは十分でないことが明らかになってくると、熱帯気候に属する植民地では、年季契約労働制度を導入するようになった。これらの植民地へは、インドや中国から200万人以上もの年季契約労働者が連れてこられた。

(4)しかし、イギリス植民地のカリブ海諸国では、インド人の年季契約労働者は、アフリカ人奴隷に強制してきた労働量のかろうじて半分ぐらいの仕事しかできなかった。奴隷労働が過酷で、極限まで人々を搾取するものであったことが分かる。

5 ベルギーによるコンゴ支配
(1)ベルギーのレオポルド二世(在位1865~1909)は奴隷解放とアフリカ人保護を名目に、コンゴを手に入れた。

(2)その後、原住民の大量虐殺と象牙の採取が始まった。その結果、500万から800万のアフリカ人と、数十万頭の象が失われた。

「人口の世界史」 [世界史]

1478774478536-2113398996.jpg  マッシモ・リヴィ・バッチというイタリアの人口学専門家が書いた本。原著は2011年に出版された。この本では世界の各地で起きた人口変動を描写している。そのいくつかを拾ってみると・・・
 1 ペスト(黒死病)
    ネズミに寄生するノミにより伝播する。ヨーロッパでは再三にわたり流行したが、14~15世紀の流行が最もひどく、ヨーロッパ全体の人口が1340年から1400年までの60年間で8,800万人から6,300万人へ2,500万人減少した。
 2 新大陸の発見後に起きた悲劇
    アメリカ大陸の原住民は、1492年の「新大陸発見後」ヨーロッパ人による殺戮、強奪、酷使により壊滅的な打撃を受けた。例えば、人口の多かった中央メキシコは1532年の1,700万人から1608年には100万人にまで減少した。現在の米国にあたる地域の原住民(インディアン)は1500年には500万人であったが、1800年には6万人となった。
 3 奴隷貿易の影響
    イギリス、フランス、スペインなどの植民地であったカリブ海諸島は黒人奴隷の最大の受け入れ先であった。16~18世紀の3百年間で390万人の黒人奴隷が入ってきたが、1800年頃の同地域の黒人人口は170万人に過ぎなかった。
 4 アイルランドの飢饉
    アイルランドは13世紀以降、英国の支配により苦しめられたが、16世紀末に新大陸からもたらされたジャガイモを主食にするようになってから人口が急増するようになった。アイルランドの人口は1687年から1841年の154年間で216万人から817万人へ601万人増加した。しかし、1845年に唯一の食料となっていたジャガイモを病気が襲い、大飢饉が数年続いた。死者は100万人を超え、またそれ以上の人々が国外へ移民として脱出した。アイルランドの人口は1901年には450万人にまで減少した(ボトムは20世紀に入ってからの300万人)。

「インディアスの破壊についての簡潔な報告」 [世界史]

1478340082433-2113398996.jpg  著者はラス・カサスというスペインの聖職者で1552年に書かれたもの。その60年前の1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達した。その時から始まったスペイン人によるアメリカ原住民の殺戮や略奪は目を覆うばかりで、著者は実際の見聞や他の聖職者からの報告をまとめ、殺戮や略奪の中止を訴えるためスペイン国王に提出したのが本書。新大陸で金が産出されているということが知られるようになり、多くのスペイン人が大西洋を渡った。彼らは、原住民から金を拠出させるため、拷問、火あぶりなど悪行の限りを尽くした。それはカリブ海の島々に始まり、中米や、今のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルーなど広範囲に及んだ。
  この本を読み、考えさせられたことをいくつか記載してみたい。
 1 スペインやイギリスを中心に欧州の人々は、アメリカ大陸で原住民の大半を殺戮してその土地を奪った。アメリカなどの繁栄にはそうした影の歴史がある。
 2 当初は金の獲得が目的であったが、その後、その土地で綿花やコーヒーなどの栽培を行うようになり、労働力が不足したため、アフリカの原住民を暴力的に奴隷として持ち込んだ。ブラジルの奴隷貿易は19世紀後半まで続いた。アメリカ新大陸の発見はアフリカ原住民の強奪にまで及んだ。
 3 コロンブスは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に書いてあった黄金の国、ジパングを目指したともいわれている。コロンブスが日本に来なくてよかった。ただ、アメリカの原住民は、火薬はもちろん、鉄の兵器も持っていなかったので抵抗できなかった。日本はその時代、鉄砲は伝来していなかったものの、13世紀の蒙古襲来を防いだことからもわかるように、刀や槍によりある程度の戦闘力を有していたので簡単に殲滅されることはなかったと思われる。
 4 アメリカ新大陸での殺戮や略奪でキリスト教はどのような役割を果たしたのであろうか。実際にはほとんど意味をなさなかったものの、原住民を征服する目的の一つにキリスト教の布教があった。本書の著者もその目的で6度にわたり、大西洋を横断している。しかし、コーランもそうであるが聖書にも、布教に努め、帰依しない異教徒は排除すべし、というようなことが書かれており、それが原住民虐殺のいいわけとなったとも考えられている。