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「北朝鮮抑留 第十八富士山丸事件の真相」 [昭和史]

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  岩波現代文庫、2004年刊。原著は1997年に光文社より刊行された。
  著者は、毎日放送記者の西村秀樹さん。

 
 第十八富士山丸の船長と機関長の二人が、1983年11月、北朝鮮に不法に拿捕監禁され、7年後の1990年10月、ようやく解放帰国した。

 第十八富士山丸は小型冷凍運搬船で、当時、北朝鮮から三重の四日市へ活きハマグリを運搬していた。
 同船を保有する会社は小さな船会社で、海運不況により苦しめられ、リスクは大きいが大手の参入のない北朝鮮航路に活路を求めていた。
 
 北朝鮮からの帰路の1983年11月3日、船に密航者が潜り込んでいるのを発見した。
 船長は門司海上保安部に連絡、門司港に到着後、密航者の青年を引き渡した。
 その際、船長は入国管理局に対して、法律に基づき、船長自身がその青年を北朝鮮に送り返すことを誓約させられた。

 青年は、北朝鮮の現役の軍人で、北朝鮮の政治体制に不満があり、日本に住みたいと思いやってきたということであった。
 青年は、北朝鮮の港の2キロ沖に停泊していた第十八富士山丸まで泳いで忍び込んだ。

 船長は四日市で積み荷を降ろした後、入国管理局との誓約があるので、予定になかったハマグリの発注をかけ、密航の青年を北朝鮮へ連れて行こうと門司港に入った。
 しかし、その間に、青年を北朝鮮へ送り返すことにつき抗議の声が上がり、青年をすぐに送還させることは難しくなっていた。
 船長は、青年を連れずに北朝鮮へ向かわざるを得なくなった。

 当時、ラングーンで北朝鮮による爆破事件が発生し、北朝鮮への制裁措置や渡航制限など、日本と北朝鮮の関係は悪化していた。
 
 第十八富士山丸が北朝鮮の港に着いたのは、1983年11月15日早朝。
 船上で取調官による取り調べがあった後、入港三日目に下船を命じられた。
 そして、五日目に船長と機関長が逮捕、監禁されるという事態になった。
 船長と機関長に対する厳しい取り調べが続いた。
 追い詰められた機関長は自殺未遂をした。

 船長と機関長は、以下の内容の虚偽の自白を強いられた。
 ① 二人で共謀して密航者をかくまい、ひそかに日本へ連れて行き、日本政府に引き渡した。
 ② スパイ活動をしていた。

 船長と機関長の解放は難航して、時間だけが過ぎた。
 その理由は・・
 ① 北朝鮮は、以下の二つを解放の条件とした。
  A ラングーン事件を理由とする制裁措置を解除すること。
  B 密航者を北朝鮮へ引き渡すこと。
 ② 外務省は、二国間に国交がないので交渉ができない、民間ベースで話し合いをしてもらいたいということであったが、北朝鮮からの上記の要求を民間だけで行うことは不可能であった。
 ③ 密航者は北朝鮮への帰国は死を意味するので強く拒否し、また韓国への送還は北朝鮮の態度を硬化させることになるので、日本政府は密航者の拘留を継続せざるを得なかった。

 1987年1月、ズ・ダン号という北朝鮮の小型船が福井港に漂着、乗員11名の取り扱いが問題になった。
 北朝鮮は、11名を韓国に送らないよう警告し、11名を日本へ当面滞在させるのであれば、富士山丸の二人は釈放するとの条件を出してきた。
 しかし、日本政府は11名を台湾経由で韓国へ送還した。
 報復として、北朝鮮は富士山丸の船長と機関長は懲役20年の刑に服させることとした。

 入国管理局に拘留されている密航者は、拘禁性ノイローゼになりつつあった。
 機関長は、胃潰瘍から出血し、緊急手術を受け、その後、幸い回復した。

 日本政府は、1987年11月、健康状態の悪化している密航者を釈放した。
 加えて、大韓航空の旅客機がビルマ沖で墜落し、北朝鮮の犯行とされ、北朝鮮に対する制裁措置が強化された。
 日本と北朝鮮との関係はさらに悪化し、富士山丸事件解決のための糸口が途絶えた。

 その三年後の1990年10月に、二人はようやく釈放され、国会議員の訪朝団とともに飛行機で帰国することができた。
 二人は北朝鮮での取り扱いの実態について公表しないよう強く釘を刺されていたので、記者会見でも事件の実態を正確に説明することはできなかった。

 二人は、1991年12月、国と福岡県を相手取り国家賠償請求訴訟を起こした。
 国家賠償法では、「国または公共団体が、故意または過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これらを賠償する責に任ずる」と定めている。
 しかし、国などが何もしてくれなかったという「不作為」の違法性を立証することは容易ではなかった。
 二人は、敗訴した。

 1996年、アメリカの青年が北朝鮮に不法に入国したところを、スパイ容疑で逮捕された。
 アメリカ国務省は釈放を要求したが、米朝間に国交がなかったため、スウェーデン政府に北朝鮮との接触を依頼。
 その後、アメリカ銀の努力もあって、その年の11月に青年は釈放された。

 一方、日本政府は富士山丸事件で、「国交がないので、民間ベースで話し合え」と突き放し、解決までに7年を要した。
 
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「松本清張への召集令状」 [昭和史]

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  文春新書の一冊、2008年刊。
  著者は、(株)文藝春秋の森史朗さん。

  松本清張(1909~1992)は、日本の小説家。
  1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。
  その後、『点と線』、『ゼロの焦点』、『砂の器』など作品がベストセラーになり、戦後日本を代表する作家となった。
  また、『古代史疑』など日本古代史に関する作品を発表するとともに、『日本の黒い霧』や『昭和史発掘』などのノンフィクションにも取り組んだ。

1 出征するまで
  松本清張は、1909年、現在の北九州市小倉北区で生まれた。
  家は貧しく、8年間の尋常高等小学校を卒業すると、給仕として勤め始めた。
  薄給であったが、暇を見つけては小説をむさぼり読んだ。
  18歳の時に、石版工の見習いとして印刷会社に雇われた。
  もともと絵が描くのが得意で、すぐに頭角を現した。

  20歳になり、徴兵検査を受けた。
  第二乙種合格であった。
  兵役適格ではあるが、ぎりぎり不適格ではないというグループであり、すぐに兵営入りするのは免れた。

  27歳で結婚し、また、小倉にできた朝日新聞九州支社に臨時嘱託として採用され、広告の版下づくりをするようになった。
  子供三人が相次いで生まれ、両親も含め、一家七人の大黒柱となった。
  朝日新聞九州支社では臨時嘱託から正社員に昇格した。

2 教育召集
  34歳になり、教育召集の令状が届いた。
  教育召集期間は3か月間であった。
  第二乙種で、しかも34歳になって召集されるのは異例であった。 
  どうも町内の軍事教練をさぼっていたのが、その理由のようだ。
  仕事が忙しくて参加する時間がなく、また、そうした訓練をもともと好きになれなかった。

  小倉で、衛生二等兵としての軍隊生活が始まった。
  ここでの体験を「遠い接近」という小説で描いている。
  
  新兵と入れ替わりで除隊する兵隊たちに対して、古参の残留兵が凄惨な私的制裁を加えた。
  ある補充兵は、殴打されて転倒しても、その身体を立ち上がらせて直立し、不動の姿勢で次の殴打を待たねばならなかった。
  軍隊では、上官には絶対服従が原則であった。
  
  その後、松本清張自身が、私的制裁の矢面に立たされることになる。
  教練で動作が鈍いという罰で、広い営庭を重い銃を持って駆け回らされた。
  また、地上に四つん這いにさせられ、長い間、腹部や股を地につけてはならないという罰をやらされた。
  革製の上靴で、頬を思い切って殴られたこともあった。

  一通の召集令状により兵隊にとられた中年兵が、上級兵たちの凄惨な私的制裁にさらされる。
  上級兵のうっぷんばらしや腹いせによる、理不尽な暴行を可能にする国家権力とはいったい何なのか。

3 朝鮮へ
  松本清張は、3か月の教育召集を終え、いったんは除隊になったが、すぐに本召集を受け、朝鮮に送られた。
  朝鮮の部隊は、順次、南方戦線に送られていた。
  南方に送られると、輸送の途中で敵の潜水艦により沈められるか、運よく辿り着いても戦場での玉砕が待ち受けていた。
  しかし、松本清張は運よく南方行きを免れた。
  1944年8月の時点で、日本にはもはや兵隊を輸送するための船舶が枯渇していたのだ。
  朝鮮で、衛生兵の仕事をこなしているうちに終戦を迎えた。

4 終戦後
  松本清張は1945年10月に日本に帰り、朝日新聞社に復職した。
  その後、1951年、42歳の時に書いた処女作『西郷札』が直木賞候補となった。
  そして1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞し、本格的な作家生活がスタートする。
  作品の背後には、軍隊時代に味わった社会の暗黒面に対する憤りが常にあった。

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「反骨の知将 帝国陸軍少将 小沼治夫」 [昭和史]

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  平凡社新書の一冊、2015年刊。
  著者は、NHKの鈴木伸元さん。

  小沼少将は、日露戦争やノモンハン事件を研究し、精神力重視の陸軍のあり方に疑問を呈し、合理的な作戦指導を訴えた。
  しかし、その考えが陸軍全体に受け入れられることはなかった。

1 日露戦争の研究
  小沼は陸軍大学校を卒業後、参謀本部戦史課に勤務、日露戦争を研究した。
  それまで強調されていたのは、日本軍の「精神性」だった。
  日本国民が持ついわゆる大和魂は、他の国にはない日本に特殊な優越した精神性であり、たとえ敵の戦力が日本を凌駕していても、その差を補って勝利を収めることができると考えられていた、

  しかし、小沼は以下のような内容の報告書を作った。
  ① 精神力は戦力の重要な要素であるが、科学技術の進歩に伴い、物的戦力の地位がますます高まりつつある。
    大和魂の過大評価は危険である。

  ② 精神力というのは、指揮官やその方法により変わる。
    実践では、突発的な戦場心理に影響される。
    精神力を高めるための平時からの教育訓練も必要であるが、精神力にのみ頼るのではなく、上級司令部は各兵団に実質的戦勝条件を与えるよう準備すべきだ。

  ③ 遼陽会戦では夜間攻撃が成功したが、夜間攻撃は熟達した軍隊でなければ成功しない。
    夜間攻撃がいつでも成功すると考えるのは危険だ。

  ④ 旅順要塞の攻撃では、精神力に裏付けられた日本兵の突撃が勝利の決め手であったと考えられてきた。
    しかし、実際には白兵による突撃だけではなく、火力による援護があって、かろうじて戦果を挙げることができた。
    勝敗は突撃ではなく、火力の優劣によって決まる。
    「肉弾」に頼るだけでは戦争には勝てない。

  しかし、小沼の報告書は上層部には受け入れられず、封印されてしまった。
   
2 中国大陸への出征
  小沼は1937年12月から1938年5月までの6か月間、北部中国で参謀として、前線の作戦指導を担当した。

  ここで小沼は、実戦における指揮官の動きに改善の必要があることを強く感じた。
  ① 戦果を挙げた指揮者は、ともすると敵を軽視し、誤った作戦に陥り、失敗を招くことがある。
    冷静にして、緻密な考えでもって指揮することが必要だ。

  ② 戦場において苦難や不安に直面すると、命令に違反しない範囲において、命令されたことのうち最小限の任務だけ遂行しようとすることがある。
    また、わずかばかりの成功に甘んじてしまい、本来必要な任務が徹底されず、失敗に終わることもある。

3 陸軍大学校での教官任務
  中国から帰国後、小沼は陸軍大学校で教官を2年半あまり務めた。
  そこで、小沼は以下のことを学生に教え込んだ。
  ① 図上の勇者になるな。
  ② 口先のみの頭脳はだめだ。
  ③ 大和魂に関する過信偏見を是正せよ。

  要するに、困窮悲惨の局面において、軍を動かす者は、言葉や書き物の命令指示ではなく、指揮官の人間そのものである、ということであった。

4 ノモンハン事件の研究
  ノモンハン事件は1939年5月から9月にかけて、満州とモンゴルとの国境付近において、日本軍とソ連軍ならびにモンゴル軍との間で戦われた紛争。
  ソ連軍の圧倒的な火力や、制空権を抑えられたことなどにより、日本軍は多大な犠牲を被った。

  小沼は、この事件の研究で以下を指摘している。
  ① 第一次世界大戦のころより、火力の重要性が増し、戦争の性格が変わった。
  ② まず、自軍の組織的火力により敵の火力を制圧することをせずに、猪突猛進するのではいたずらに損害を招くだけだ。
  ③ 火力は、大砲だけではなく、装甲車や戦車も投入されるようになってきている。
  ④ 奇襲や夜襲は成功しても、その効果は一時的なものであり、敵の反撃に会い、甚大な被害を受ける。
    結局は火力によって勝敗は決まる。

5 日本の火力生産能力
  いったん大規模な戦争が始まると、戦場での損耗を補充するために、軍備の生産が必要であったが、日本の生産能力は不十分であった。
  火砲は、年間1万門を製造する必要があったが、生産能力は4千門でしかなかった。
  大口径火砲に限ると、生産能力は年間5門であった。

  戦車も月350両の製造能力が必要であったが、70両にしか過ぎなかった。

  また、1941年にヨーロッパに派遣された軍事視察団の報告によると・・
  ① 軍備の重点を航空と機械化に置き、特に航空の充実を最優先させること。
  ② 地上軍備は中型戦車を基幹とし、機械化と技術化を図ること。
  ③ 日本の現在の軍備では対ソ、対米戦での勝ち目はないので今は隠忍自重、戦争を回避し、国力を充実し、軍備の充実を図るべき。

  しかし、このような指摘にもかかわらず、日本は米国との戦争に突き進んだ。

6 ガダルカナル島へ
  小沼は作戦参謀として、1942年10月、ガダルカナル島に入った。
  既に米軍が飛行場を制圧し、日本軍は苦戦を強いられていた。
  日本軍は再三にわたり増援を得て、攻撃を仕掛けたが、被害が増すばかりであった。
  次第に、米軍の航空機に阻まれ、物資の支援も途絶え、生き残った兵隊に飢餓と熱帯病が襲った。

  このため、日本軍はガダルカナル島からの撤退を決め、1943年1月、実施された。
  ガダルカナル島へ渡った日本兵は3万1千名、戦死者2万名、撤退できたのは1万名で、小沼もその中の一人であった。
  
7 その後
  小沼は帰国後、入院して衰弱した身体を治し、陸軍大学校の教官に復帰した。
  その後、1944年12月から1945年4月まで、米軍との激しい戦闘が続くフィリピンルソン島へ参謀として配属となった。
  日本への飛行機による帰還は、米軍の監視をかいくぐって奇跡的に成功した。

  日本に戻っての任務は、本土決戦への準備であったが、ほどなく戦争は終わった。
  戦後、小沼は電通に雇用され、子会社の社長を務めるなどしたのち、1978年に退職した。
  1989年、90歳で亡くなった。



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創氏改名 [昭和史]

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 以下に拠る。
  「創氏改名」 (岩波新書、2008年刊。著者は朝鮮近代史を専門とする水野直樹さん。)

1 創氏改名とは
  日中戦争が泥沼化していた1940年、日本の支配下にあった朝鮮において、朝鮮人の名前を日本人風に変えさせようとした政策。

2 朝鮮人の名前
  朝鮮人の名前は、以下の三要素で構成されている。
    「本貫」 属する宗族集団の始祖の出身地。
    「姓」  金、李、朴など1字から成るものが殆ど。
         子供は父姓を名乗る。
         女性は結婚しても夫の姓ではなく、父姓を名乗り続ける。
    「名」  同一宗族集団の同世代の男子には、共通の一文字を入れるなど、一定の決まりがある。

3 韓国併合(1910年)以降の、朝鮮人名に関する日本の方針
(1)朝鮮在住者のうち、日本人は日本の戸籍に、朝鮮人は朝鮮の民籍に登録された。
   戸籍によって、民族を区別する強固なシステムが築かれた。

(2)朝鮮人が、日本人風の姓名をなのることを禁じた。
   (名前で、朝鮮人と日本人を区別できるように)

4 創氏改名の実施
(1)創氏改名を実施するための民事令改正案は朝鮮総督南次郎から内閣総理大臣に送られ、閣議決定の後、天皇の裁可を得て確定した。

(2)この改正案の内容は・・
  ① 戸主は「氏」を設定し、届け出ることができる。
  ② 届け出がない場合は、戸主の「姓」を「氏」とする。

(3)この改正案の通りであれば、単に「姓名」を「氏名」に呼び変えるだけで、従来通りの名前を使用できるように読める。
   しかし、総督府は「氏」を、二字から成る日本人風の名前のみ認める、ということにした。

5 創氏改名を実施した理由
(1)宗族集団の弱体化を図り、家長が統率するイエを天皇のもとに編成することによって、植民地に天皇制国家の社会的基盤を築こうとした。

(2)日本人との一体感を強め、朝鮮人にも徴兵制を実施しようとした。
   (1938年から志願兵制度はあったが、朝鮮人に対する徴兵が実施されたのは1944年から)

6 朝鮮人の抵抗
(1)朝鮮は儒教の影響で、親族の結束が強く、それを三要素で構成される、朝鮮人の名前が表していた。そこに、日本の天皇制的な家族制度を持ち込もうとした。朝鮮人に日本の宗教を強制するようなものであった。

(2)しかも、それは法律上は強制ではなく、運用で厳しく押し付けようとしたものであった。
   また、日本人と朝鮮人との区別がつかなくなるとの批判が警察などからあったため、日本にある苗字をそのまま氏として使うのを控えるようにとの指示が出されるなど、方針が揺れ動いた。

(3)しかし、総督府はいったん決めた創氏改名の施策を押し通した。

7 梶山季之の「族譜」 
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(1)ソウル生まれの小説家、梶山季之(1930~1975)は、1952年に朝鮮の創氏改名の問題を取り扱った「族譜」という小説を発表した。

(2)旧家で大地主の当主は、親日家であったが、700年の歴史のある家名を守り抜こうと、権力の様々な圧力に抵抗した。

   彼の家には、「族譜」という、一族の婚姻、生死などを丹念に記載した系譜があり、その一族の系譜、700年の一族の繁栄の歴史を、後世に引き継ぐのが彼の最大の使命であった。
  
   彼は言う。
  「私の父も、祖父も、曾祖父も、みなこの記録を一族の伝統と誇りにかけて護りながら、書き加えてきました。創氏改名したら、祖先に済まない。創氏改名だけは私にはできない。700年の歴史が私の代で断絶したとならば、祖先は泣きます。」

   しかし、総督府は執拗に彼に創氏改名を迫った。あくまで任意であるので、処罰は出来ない。
   まず、娘の婚約者を無実の罪で検挙し、痛めつけた。
   次いで、孫たちの通う学校に手をまわして、孫たちをいじめぬいた。
   孫たちは彼に、創氏改名してくれるように懇願した。

   彼はやむなく創氏改名の書類を書いた。 
   そして、翌日、祖先に申し訳ないと言い残して、井戸に身を投げ死んだ。


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「戦争と新聞 メディアはなぜ戦争を煽るのか」 [昭和史]

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 著者は、元毎日新聞記者の鈴木健二さん。
 ちくま文庫の一冊。1991年から1995年にかけての新聞連載記事をもとにしてまとめたもの。

1 新聞が戦争を煽るようになったのはなぜか?
(1)日本は明治の初め以来、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争と戦争続きであったが、新聞各紙は戦況を伝える記事を大々的に掲載することにより、販売部数を大幅に増やすことができた。

(2)ラジオ放送が普及してくると、速報性で劣る新聞各社は、報道を急ぐあまり、軍部の情報をうのみにして記事にして流した。

(3)新聞は大きくなればなるほど多方面の読者に気を配らなければならなくなり、難しい話より卑近な話、天下を憂える論調より煽情的なニュースが幅を利かせるようになり、硬派的な編集は敬遠された。

(4)一方で、政府や軍部が新聞に対する規制を強めたため、次第に、政府や軍部に都合の良い記事しか掲載することができなくなった。

2 政府や軍部はどのように新聞に対する規制を強めたか?
(1)1918年のシベリア出兵に際して、世論を出兵支持に誘導すべく、読売新聞を軍部の宣伝機関としようとして、同紙に対して陸軍の機密費を注ぎ込んだ。陸軍はさらに同紙に出兵賛成派の人間を主筆として送り込み、出兵支持の社説を書かせた。

(2)右翼を使って、批判的な記事を載せる新聞社に押しかけ、嫌がらせを繰り返した。また、右翼による政府首脳に対するテロの頻発も、新聞を怯えさせた。

(3)戦争遂行に否定的な記事を載せる新聞社に対して、在郷軍人会が不買運動を起こして、その経営を悪化させた。

(4)五・一五事件で、軍人の横暴を非難した新聞社に対して、軍隊がその新聞社の屋上を威嚇飛行をしたりして、嫌がらせを繰り返した。

(5)海外放送を伝播妨害で傍受しにくくし、また、外国出版物の流入を制限し、海外から不都合な情報が入ってくるのを防ごうとした。

(6)政府は、マスコミのトップを政府委員に任命して内部に取り込んだ。政府委員は「閣下」という敬称で呼ばれた。新聞は名誉心をくすぐられて軍部の軍門に下った。

(7)日中戦争の深刻化とともに用紙不足が明らかになり、政府は新聞用紙制限令を公布し、用紙の供給の手加減により新聞ににらみを利かした。

(8)新聞や通信社の強制的な統廃合を進めた。地方紙は一県一紙体制となり、多様な意見は抹殺された。

3 日中戦争ならびに太平洋戦争へと続く中で、新聞は軍部の流す虚報をそのまま流すか、あるいは、戦争を煽る根も葉もない作り話を平気で載せるようになった。

  1937年1月号の「文芸春秋」に掲載された新聞評では、以下のように書かれている。
  「礼儀をどこかに置き忘れてきたのが新聞だ。いたずらに早からんとするヨタ電は一利百害だ。ニュースは、もはや創作以外の何物でもない。創作が電報化し、活字化し、ニュース化することは、道徳の否定、現代科学への冒涜ではないか。」

  南京での日本軍による地元民の虐殺が起きた際には、日本の新聞は、敵兵を撃滅したとする戦果だけを報じた。実態は外国報道陣によって全世界に報じられていた。
  東京にいたある外務省の高官は日記に以下のように書いている。
  「上海から来信。南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か。」

  ノモンハン事件で日本軍はソ連軍に惨敗したが、「ソ連空軍延べ出動約千七百機、外蒙・ソ連地上機械化四個師団を激撃して、わが軍はこれに殲滅的打撃を与えた」と報じた。

  真珠湾攻撃では、「米太平洋艦隊全滅す」と報じた。しかし、実際には、主力艦隊は湾外におり、被害を受けた艦艇は全体の八分の一程度であった。

  敗色濃厚であった1944年初め、東条英機首相は「一億が竹やりで九十九里浜の海岸に並んで、一人の米兵も上陸させない」と言った。そのすぐあと、毎日新聞に「敵が飛行機で攻めてくるのに竹やりでは戦えない。必勝の信念だけでは戦争には勝てない。」との記事が出た。これを書いた記者は37歳であったが、懲罰召集となった。陸軍は硫黄島へ配属させようとしたが、海軍がその記者をかばい、報道班員としてフィリピンへ行かせた。


 * 真実を知ることは大事なことであるが、時の権力者はその真実を隠そうとする。
   いつの時代も変わらない。
   今も権力者は新聞やテレビに圧力を加え、国民の目を真実からそらそうとする。



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「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」 [昭和史]

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  著者は、歴史学を専攻する、カリフォルニア州立大学のロナルド・シェイファー教授。
  原著は1985年に出版された。

  本書では、日本への無差別爆撃や原爆投下について、道義的な面からどのような検討がなされたかについて、検証している。

1 戦争観の変容
  第二次世界大戦までは、以下の考えが大勢を占めていた。
  ①「文明化」した国の住民を攻撃対象とすべきではない。
  ② 大都市は破壊すべきではなく、需要な文化財には手をつけてはならない。


  しかし、第一次大戦後、こうした考えが以下の要因により、大きく変わることになった。
  ① 航空機の発達
  ② 第一次大戦における、地上戦での甚大な人的被害(民間人を含め2,000万人)

2 イタリアのドウエット将軍の考え
(1)第一次大戦後、ドウエット将軍は以下のように考えた。
  ① 戦争は、あらゆる人的・物的資源を破壊しようする全国民の戦いとなり、戦闘員と非戦闘員の区別を消滅させる。
  ② 戦争の主たる手段は航空戦力であり、爆撃機による都市爆撃は敵国民を恐怖に陥れる。
  ③ 将来の戦争は非人間的で残虐な行為となる。恐るべき攻撃がいかに非人間的で、極悪非道であるとみなされようと、誰もそうした戦慄すべき攻撃実行にひるみはしないであろう。

(2)ドウエット将軍の著書は、英語に翻訳され、アメリカ航空軍の幹部にも大きな影響を与えた。

3 アメリカが日本への空襲を実施した理由
(1)以下の理由による。
  ① 木造建築物が密集する地帯への焼夷弾攻撃は、多大な効果が期待できた。
  ② 戦闘地域での日本軍兵士の自決や神風パイロットの艦隊への突入など、死を恐れぬ行動から、日本人を降伏させるのは容易ではない、と考えられた。
  ③ 日本本土侵攻ということになれば、双方に多大な被害が予想された。

(2)また、日本軍の以下のような残虐行為が反日感情を強めた。
  ① 中国の一般市民に対する日本軍による空襲
  ② フィリピンでの、「バターン死の行進」などの捕虜虐待や、現地住民の虐殺
   
4 京都が爆撃対象から外れた理由
  京都は軍事面、工業面で重要度は低く、当初、標的リストには入っていなかった。
  しかし、他の都市への空襲で焼け出された軍需工場が、京都の郊外に集まり出した。
  また、盆地であり、原爆の威力を測るのには適した地形だった。

  このため、原爆投下地として、京都は真っ先に候補地として挙げられていた。
  しかし、京都は最終的にはリストから除かれた。

  それはアメリカ陸軍のトップ、スティムソン長官の強い意向によるものであった。
  彼は、1920年代に3回、京都を訪れ、その美しさに魅了されていた。
  部下の将校たちは、京都への原爆投下を強く主張していたが、彼は、トルーマン大統領の了承も取り付け、対象から除外することにした。


 * 本書を読み、戦争を遂行した日本の中枢に以下のような憤りを感じる。
  1 ドウエット将軍の主張にあるように、世界は、第二次大戦開始前から航空機を戦略の中心に見据えていたのに対し、日本は大艦巨砲主義という時代遅れの戦術と、神頼み的な精神主義で、工業力で大きな開きのある米国と無謀な戦争を開始した。

  2 劣勢が明白になった後も、負けを認める勇気を持たず、インパール作戦のような無茶苦茶な作戦を行い、また、フィリピンや沖縄を焦土とした。

  3 日本本土への連合軍の上陸が予想されるようになってからも、日本軍の中枢は、長野県の松代に地下壕を建設し、そこに大本営と天皇を移し、徹底抗戦を図ることを考えていた。空襲や原爆投下を是とするわけではないが、それらがなければ、容易に降伏はしなかったと思われる。

  4 アメリカが、民間人をも巻き込むような、日本への大規模空襲や原爆投下を行わず、戦争が長期化して、本土での戦闘が行われるようになっていたら、どのような結果をもたらしたであろうか。

  ① 九州や関東に連合軍が上陸し、激しい戦闘になる一方、北海道へはソ連軍が侵攻していたはず。
  ② 外地からの物資の供給は途絶え、また、農作などの食糧生産に大きな影響が出て、日本国民の多くは、戦闘に巻き込まれての死傷のほか、飢餓に苦しめられたと思われる。

  5 本土決戦となれば、少なくともさらに数百万の人命が失われたと思われるが、国体(天皇制)を守るためということで本土決戦までしようとするほど、日本の中枢は国民の人命を軽視していた。

  6 京都は、たまたま米軍トップに理解のある人がいたために救われたが、日本の中枢には日本の文化遺産を守ろうという気持ちはなかったに違いない。

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「加藤周一 戦後を語る」 [昭和史]

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 加藤周一さん(1919~2008)は、医学博士で評論家。上智大学教授、イエール大学講師などを歴任した。
 戦争と平和の問題に取り組んだ。

1 戦争を支える文化
(1)すべての戦争で、当事国は「平和のための戦争」であると主張する。
   日本は、日露戦争を「東洋永遠平和のための戦争」と言い、日中戦争と太平洋戦争を「大東亜共栄圏」の建設と平和のための戦争と言った。

(2)自衛のための戦争
   満州や中国での戦争も、日本は満州がなくては生きていけない、だから「自衛」のために外国の土地を占領する、という都合の良い主張をしていた。

(3)聖戦
   戦争では、敵が全部悪く、自分たちの方はは全部いいという見方をする。
   黒と白がはっきりしている。

(4)ナショナリズム
   自分たちは優れていて、敵は自分たちよりも劣っていると考える。
   人種的差別、人種的偏見が根底にある。

(5)大衆操作
   戦後、多くの日本人が「だまされていた」と言った。
   しかし、それはだまされた方が楽だったから。
   多くの知識人が、真実を知ろうとする努力をしなかった。

2 戦後世代の責任
(1)人は、メディアを通じての政府の大衆操作、世論操作に弱い。
   だから、操作に流されないために、自分の持っている知的能力で、よく観察し、事実と突き合わせて分析して、嘘は嘘だということを見破ることが必要。

(2)「みんなで渡れば怖くない」という大勢順応主義に流されがち。
   大勢順応主義に抵抗するためには、少数派になる勇気が必要。

(3)日本人には、差別意識がある。
   外国人に対する差別、女性に対する差別、人種による差別を排除しなければならない。
   人間に対する尊厳、平等の意識を持つ気持ちが、平和を維持する力となる。

3 日本人の付和雷同性
(1)以下のような要因に拠る。
 ① 水田耕作など、村共同体での労働集約型の農業に従事する際は、各自が自己主張をすると成り立たなくなるので、和をもって尊しという考えが強まった。

 ② 江戸時代の徳川政権、明治以降の天皇の神格化、戦争直後の占領軍の絶対的な権力など、日本人は圧倒的な独裁権力に支配される時代が長く続いた。

(2)付和雷同性の欠点
   共同体の団結が強いと、与えられた目標を達成するためには素晴らしい能力を発揮する。
   しかし、政治の面では、これはまずい目標だから、目標を考え直した方がよいということがある。
   付和雷同性が強いと、こういう方向転換能力がない。
   団結一本社会は、目標を達成するために能率は良いが、少数意見を入れない。
   少数意見を言うと、それでもお前は日本人かと言われる。
   
4 宗教と政治の分離
  表現の自由を守る基本的な条件の一つは、宗教的権力と国家権力、政治権力を明確に分離することである。
  何らかの宗教的信念あるいはイデオロギーを絶対化すれば、別の意見の持ち主は間違っていることになる。
  しかし、宗教的信念も、イデオロギーも、自分はこれが正しいと思うけど、別の人は別のことが正しいと思うだろうと、相対的に考えることができれば、話し合いが可能になる。
  議会制民主主義というのは、立場の違いを認め合わなければ成り立たない。

  宗教的権威と国家権力が一致した場合(祭政一致)、その宗教的信念を認めないものはみんな間違っているということになり、反対する者を捕えたり、殺したりすることになる。
  国内での圧政的な独裁が成立することになる。

  戦前の日本は、「天皇は神聖にして侵すべからず」ということで、祭政一致の状態にあった。

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「砕かれた神 ある復員兵の手記」 [昭和史]

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  朝日選書の一冊。1983年刊。
  著者は、太平洋戦争で海軍に入り、米軍の攻撃により撃沈した戦艦武蔵に乗船していたが、奇跡的に救助された。
  1945年の終戦後、実家に戻り農業を手伝うかたわら手記を書き綴った。

1 敗戦まで思っていたこと
  おれはこの戦争が負けるとは思っていなかった。
  戦争は必ず勝つものだとあたまから決め込んでいた。
  たしかに味方の敗色は覆うべくもなかったが、そのうちに決定的な勝機をつかんで、戦局を一気に挽回できるのではないか。
  有史以来一度も外敵に侮られたことのない日本だ。
  最後には必ず勝つだろうとひそかに信じていた。

2 復員後の虚無感
  8月15日をさかいにおれはまるでやる気をなくしてしまった。
  もうなにもかもどうでもよくなって、急に投げやりになり、体を動かすのさえおっくうだった。
  復員して今日で七日目になるが、おれはまだ内から一歩も外に出ていない。

  みんなから開戦のことを聞かれたのには閉口した。
  とにかくおれは人前で戦場の話だけはしたくない。
  いくら話してみたところで戦場の真実は分かってもらえないだろう。
  言葉ではとても説明しきれるものではない。

  おれはいまも、戦艦武蔵から投げ出され海で漂流していた時のような気持ちだ。
  これからどこへ流されていくのか、どこへ着くのか、結局おれはこうして一生あてどもなく漂流を続けて終わるのかもしれない。

3 戦場の悲惨さ
  おれは戦場で人間の頭が砕かれ、胸が裂け、手や足が木っ葉の様に海に吹っ飛ぶのを見た。
  血まみれになって甲板をのたうちながら踏みつぶされた芋虫かなんぞのように死んでいくのを見た。
  そういう人間の無残な最期を今もうなされるほどこの眼で見とどけてきた。

4 東条英機大将
  自殺を図ったが未遂に終わった。戦犯として逮捕される直前にピストルを心臓に打ち込んだが、急所を外れてしまって死にきれず、アメリカ軍の病院に収容された。

  それにしても何という醜態だろう。
  陸軍大臣だった当時、自ら「戦陣訓」なるものを作った。
  「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すことなかれ」はその中の一節である。
  軍人の最高位を極めた陸軍大将が、商売道具のピストルを撃ちそこなって、敵の縄目にかかる。
  これではもう喜劇にもなるまい。

5 昭和天皇
  天皇陛下が処刑されるかもしれない、といううわさが流れている。
  かりにもしこのうわさが本当だとしても、天皇陛下が敵の手にかかるようなことはまずないだろう。
  その前に潔く自決の道を選ぶだろう。それをおれは固く信じている。

  戦争は天皇陛下のご命令で開始され、惨憺たる敗北を喫したあげく、最後も天皇陛下のご命令で終止符が打たれた。
  そして、その間たいへんな犠牲者を出したのだ。
  天皇の名によって、おびただしい人命が失われたのだ。
  畏れ多いことだが、この責任は誰よりもまず元首としての天皇陛下が負わなければならない。

6 マスコミへの怒り
  この頃の新聞の豹変ぶりは実にひどい。
  ついせんだってまでは、「聖戦完遂」だの「一億火の玉」だの「神州不滅」だのと公言していたくせに、降伏したとたんに今度は「戦争ははじめから軍閥と財閥と官僚がぐるになって仕組んだものであり、正義にもとる侵略戦争であった」などと盛んに書いている。
  全く人を馬鹿にしている。
  それならそれでなぜもっと早く、少なくとも戦争になる前にそれをちゃんと書いてくれなかったのか。
  それが本来の新聞の使命というものだろう。無責任にもほどがある。

7 日本の豹変ぶり
  原子爆弾をはじめ、日本がアメリカにこれだけひどい目に会わされていながら、まるで何事もなかったかのように睦まじく肌を温めあおうとしている。
  ご機嫌取りにきゅうきゅうとしている。
  これがついせんだってまでは、「世界の一等国」だの「東亜の盟主」だのとふんぞり返っていたのだからあきれる。
  世界の国々は恐らく、こんな日本の無節操な豹変ぶりに眉をひそめているだろう。

  日本人は忘れっぽい。忘れてはならないことまで忘れすぎる。
  戦争中のアメリカに対するあれだけの熱っぽい憎悪感、敵愾心も、負けたとたんに雲散霧消する。
  そしていつのまにか、アメリカがなくては夜も日も明けないと言った具合に早変わりする。

  過去のことをケロリと忘れて、いまのように欲得に目のくらんだ指導者の言いなりになっていると、そのうちまたアメリカからこっぴどい目に会わされるだろう。


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空襲とカーチス・ルメイ [昭和史]

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1 日本への空襲(「太平洋戦争」 家永三郎(1913~2002)著)
  太平洋戦争の敗色濃厚な1944年後半から、日本の各都市は米航空機の空襲に晒されることになった。
  日本人は明治維新後初めて本土内の戦場化という体験を味わった。
  米空軍は軍隊や軍需工場ばかりでなく、住宅地域・商店街にも焼夷弾や爆弾による無差別攻撃を加え、しらみつぶしに焼き払っていった。

  ことに1945年3月10日の東京空襲では、約300機のB29爆撃機が下町地区を周辺から囲んで火攻めにする戦術が取られ、2時間足らずのうちに83,793名という大量の死者を出すことになった。
  負傷者は90,918名、罹災者1,008,005名であった。
  この夜投下された焼夷弾は18万個を超えていた。

  また、8月7日の豊川海軍工廠に対する空襲では、動員されていた二千数百名の一般市民が、集中的な爆撃投下により即死した。

2 空襲の体験 (「東京の戦争」 吉村昭(1927~2006)著 に拠る)
  3月10日の空襲の数日後、欄干から川をのぞくと、二、三十体の死体が、まるで大きな筏のように寄りかたまって浮かんでいた。
  衣類に焼け焦げの後は全くなく、私はそれらが窒息死したものであるのを知った。
  壮大な燃焼作用で酸素が無に近くなり、川に身を入れた人々は窒息した。

  それまで私は、焦土と化した地で多くの死体を見てきた。
  路上にただ一体横たわっている炭化した焼死体。
  風で吹き寄せられたように一か所に寄りかたまっていた黒い死体の群れ。
  それらを見てきた私には、死に対する感覚が失われていたのか、橋の下に浮かぶ遺体の群れにほとんど感慨らしいものは胸に浮かんでこなかった。

  4月13日の夜、住んでいた日暮里の町にも大量の焼夷弾がばらまかれた。330機が来襲した。
  壮絶な情景が眼の前にひろがっていた。
  視野一杯に炎が空高く噴き上げ、しかも渦巻いている。
  空には火の粉が歓声を上げるように舞い上がり乱れている。
  得体の知れぬ轟音が私の体を包み込み、大津波が私に向かって押し寄せてくるような感じであった。

  翌日、家のあった場所に行き、火熱が如何にすさまじいものであったかを知った。
  庭の池には十尾ほどの鯉が飼われていたが、むろん水は蒸発していてコンクリート張りの池の底が露出していた。鯉の骨ぐらいは残っているだろうと思ったが、見当たらず、骨も気化したのを知った。

3 カーチス・ルメイ
  日本への空襲を指揮した米空軍の将軍。
  太平洋戦線に来る前は、欧州戦線でドイツへの爆撃を指揮していた。
  1945年1月から、サイパン島の基地から日本への空襲を指揮するようになった。
  それは、日本の大半の都市を襲い、一般市民の殺戮を目標としたものであった。

  終戦後、ルメイは米空軍の幹部となり、朝鮮戦争では100万人以上の民間人を殺すことになる空爆を指揮した。
  また、1962年のキューバ危機では、ルメイはキューバ空爆を提案したが、これは退けられた。
  1965年からは、ベトナム戦争で北爆を推進した。

  このように、ルメイは空爆による一般市民の殺戮を常に考える人間であった。

  しかし、こともあろうか日本政府は1964年、このルメイに勲一等旭日大綬章を贈った。
  航空自衛隊の育成に貢献したというのが贈呈の理由であった。
  当時は佐藤栄作が総理大臣。日本の国民が戦争中、いかに悲惨な目に会ったか、理解していないことが分かる。この佐藤首相がノーベル平和賞を受賞しているのが、また皮肉。
  

ノモンハン事件 [昭和史]

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 *以下に拠る。
  ①「ノモンハン戦争」 岩波新書、2009年刊。 著者はモンゴル学の田中克彦さん。
  ②「静かなノモンハン」 講談社文芸文庫、1983年発表の小説。
    著者は、小説家の伊藤桂一(1917~2016)さん。

1 ノモンハン事件
(1)事件の経緯
  1939年5月、満州国とモンゴルとで国境線について紛争になっていた地域で、日本軍(関東軍)並びに満州国軍と、ソ連並びに蒙古の連合軍との間で、4か月にわたり激しい戦闘が繰り返された。

  ソ蒙軍は、日本側が想定していた国境線を越えて侵入し、優勢な戦力でその地帯を確保し続けた。
  戦車、装甲車は日本92台に対しソ蒙軍は500台、火砲は日本82門に対し、ソ蒙軍は370門であった。
  
  9月に入り、ソ蒙軍はヨーロッパで第二次世界大戦が始まったことから、また日本側は日中戦争が泥沼化しており戦力分散を避けたかったことから、お互いに停戦に合意した。
  日本側は、ソ蒙側が主張する国境線を容認せざるを得なかった。

  戦死者数は日本側7,720人に対し、ソ側9,703人と推定されている。
  お互いに損耗の激しい戦いであった。
  日本側は劣勢の装備で、よく戦ったと言うものもいる。

(2)事件の背景
  このような大規模紛争に至った要因としては以下のようなことが考えられる。
  A 日本側の要因
   ア 島国の日本は国境紛争に慣れていなかった。
      日本側は相手の同意なしに国境を設定し、武力により維持できるものと考えた。

   イ 関東軍内部の一部将校の独走を許した。
    関東軍は、東京の参謀本部の同意を得ずに大規模な軍事衝突を起こし、相手国の航空設備に対する空爆まで行った。

  B ソ連側の要因
   ア ソ連は日本側が国境を越えて、モンゴルを侵略することを恐れていた。
   イ ソ連は、モンゴルが社会主義のソ連友好国となるよう、モンゴルに圧力をかけており、満州国との国境紛争で勝利を収めることが不可欠であった。
 
2 鈴木上等兵の証言(「静かなノモンハン」から)
  1938年1月召集、旭川の部隊に入隊、3月に満州へ移動。
  1939年8月、ノモンハンに向け出発。
  近くの町まで汽車で行き、そこからノモンハンまで216キロを歩いて進むことになった。
  気温は日中は40度を超え、夜は15~6度に下がった。
  途中3日間の休息期間も含め、行軍に17日間を要した。

  前線に着き、部隊は横に散開して進んだが、前方に敵の戦車の一団が現れ、横に広がりながらこちらに向かってきた。
  味方の野砲隊が戦車に向けて発射をはじめ、敵戦車の砲撃も始まり、たちまちに周りは彼我の砲撃の音で、地面が動転するほどになった。
  砲弾の落下につれて、周りの死傷者の増えてゆくのが分かった。
  夜になって、私の中隊では半数近くの93名の死傷者を出していたことが分かった。
  自分だけは必ず生き抜いて見せる、というわけのわからない確信だけは身に充満していた。

  翌日も、砲弾は、よく限りもなく続くものだ、と感心するほど、あとからあとから撃ち出されてきた。
  砲弾の落ち続く合間を縫って先へ先へと進んだ。
  2台の戦車が真直ぐに進んできた、また、火炎放射器があたりを薙ぎ払うようににして迫ってきた。
  身をかわしたり、戦車の後にくっついたりして逃げ回った。
  しかし、戦車の機銃弾に打たれ、空中に跳ね上げられた。
  砲弾穴に身をひそめ、戦車は遠のいていったが、おびただしい出血をしていた。
  出血を止めなければ死ぬと思い、ズボンのポケットから泥だらけのタオルを取り出し、傷口に押し込んだ。

  その後、出血が止まっていることが分かり、自力で退避して、何とか生き延びた。
  しかし、病院で見た新聞には、戦死者名簿の中に自分の名前が載っていた。
  また、原隊に戻ると、祭壇にあるおびただしい遺骨箱のひとつに自分の名前が記されていた。