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洞爺丸などの青函連絡船沈没事故 [昭和史]

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  * 以下の書籍を参考にした。
    「洞爺丸はなぜ沈んだか」 上前淳一郎著 文春文庫 1983年刊
    「洞爺丸転覆の謎」    田中正吾著 成山堂書店 1997年刊

  洞爺丸は、青森函館を結ぶ青函連絡船。
  1954年9月26日、台風15号の猛威により洞爺丸は沈没し、1,314名の乗員乗客のうち1,155人が亡くなった。
  この日、他にも4隻の青函連絡船が沈没し、275人が亡くなっている。犠牲者の数は合わせて、1,430人となり、世界最悪の海難事故とされてきたタイタニック号の犠牲者数にほぼ匹敵するものであった。

1 台風15号の脅威
   ① 函館の西側を進んでいた。
    (逆時計回りに風が吹く台風の右側は、自身の進むスピードが加わって強風が吹く)
   ② 日本海上をゆっくりと進みながら、さらに発達しつつあった。
   ③ 台風が北上するにつれ、18:00過ぎから強風が陸上に邪魔されず、津軽海峡から函館湾へ直接吹き付けるようになった。

2 青函連絡船12隻の被害状況
(1)無事だった船(7隻)
  ア 青森港へ避難していた船: 羊蹄丸と渡島丸の2隻
      羊蹄丸は函館へ向けて16:30に出発予定であったが、青森の風は強くはなかったものの、気圧が低いままであったため、船長は出発延期を決定。もし、乗客を乗せて函館に向かっていれば、遭難の可能性が大きかった。
            
  イ 函館港内に残った船: 石狩丸、第六青函丸、第八青函丸の3隻
  
  ロ 函館港の防波堤の外へ出て、風に船首を立てて走り続ける航法を取り沖へ逃れた船: 大雪丸、第十二青函丸の2隻 

(2)沈没した船(5隻)
    いずれも、函館港の防波堤の外へ出て、そこで錨を降ろし、台風をやり過ごそうとした。
    乗客が乗っていたのは洞爺丸のみ。

    北見丸(貨物船) 沈没   乗組員76名のうち70名が死亡
    日高丸(貨物船) 沈没   乗組員76人のうち56人が死亡
    十勝丸(貨物船) 沈没   乗組員76人のうち59人が死亡
    洞爺丸     座礁 転覆 乗員乗客1,314名のうち1,155人が死亡。
    第十一青函丸   沈没   乗組員90名 全員死亡

 
    第十一青函丸(貨客船)は、乗客176名、乗組員90名、42車両とともに、13:20にいったん出港したが、33分後に引返し、乗客を下船させた。一部の乗客は洞爺丸に乗り移った。

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3 洞爺丸の状況
   14:40 出発予定。第十一青函丸からの乗り換えや短時間の停電のために遅れる。
   15:10 出発延期決定。
       沖出し(乗客を降ろして船を岸壁から離す)はせず。
   17:40 18:30に出航することを決定。
   18:39 出航。
   19:01 防波堤を出たところで風速計が40メートルを超えた。
       錨を降ろして停止。

       錨が充分効かず、七重浜方面へ少しづつ流される。
       エンジンを動かして、流されるのを止めようとするが、機関室へ浸水。
   22:07 エンジン停止。
       七重浜への座礁が避けられなくなった。
   22;26 七重浜の800メートル沖で座礁。
   22:40 SOS発信。      
   22:45 転覆。

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4 洞爺丸の船長の判断
(1)台風の猛威に対する判断を誤った。
    当時の天気予報は現在のものに比べはるかに精度が低い。このため、判断を誤ったのであるが、船長は天気予報の精度が低いことを十分承知しているはずであり、それだけに乗客を降ろしてから沖だしをするなどの慎重な判断が求められた。

(2)防波堤の外で錨を降ろして停泊した船がすべて沈没した。そうした対応を認めていた当時の国鉄(JRの前身)のマニュアルに問題があった。

(3)国鉄は事故の翌日、設計上の欠陥もなく、万全の措置を取っていたので、災害は不可抗力によるものと発表し、世論の大きな反発を招いた。

(4)海難審判では、「船長の運航に関する職務上の過失」という裁決であった。
 
5 その後の対応
(1)1964年から新しい大型の連絡船が順次投入された。

(2)1988年には青函トンネルが開業し、青森・函館間の青函連絡船はその役割を終えた。

「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」 [昭和史]

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  文春新書の一冊。2013年刊。
  著者は有馬哲夫さん。

  戦中、戦後を通して暗躍した右翼国粋活動家、児玉誉士夫に迫る。


1 戦前の活動
  児玉は10代で右翼団体に所属し、21歳で満州に渡ったのを皮切りに、何度も中国と日本の間を往復するようになる。
  そうした中で、児玉は次第に日本陸軍の手先として、以下のような役割を担うようになる。
  ① 情報収集
  ② 物資の調達

  1941年11月、30歳の時に海軍航空本部から戦略物資の調達を依頼される。
  調達は物々交換で行い、児玉は、満州で栽培されたアヘンや、中国の占領地で没収した貴金属を相手に渡して必要な物資を調達した。

  これらの業務で巨額の利益を得て、中国でタングステンやモリブデンなどのレアメタルの鉱山を開発したり、製鉄所を作ったりもしていた。また、終戦間近では、日本国内でも6か所のレアメタル鉱山を保有するようになっていた。

2 巣鴨プリズンへの収監
  児玉は46年1月、A級戦争犯罪容疑者の指定を受けて巣鴨プリズンへ収監された。
  容疑は、不正蓄財疑惑、アヘンを使った物資調達など。

  いろいろ調べられたが、児玉は1948年12月、無罪放免となった。

3 戦後の活動
(1)海軍からの資産
  海軍が児玉に預けて残っていた資産については、そのまま児玉の手元に置かれ、海軍の生き残りの人たちのために使ってくれということだった。
  児玉はそうした資産を鳩山や河野といった有力政治家へ渡したとも言われている。
  児玉は河野と一緒にダイヤモンドを売り歩いたといううわさもある。

(2)台湾での活動
  1949年、中国共産党と闘っていた国民党のために、台湾義勇軍を中国本土に送り込むため、児玉は募兵活動や輸送の手配を引き受けた。
  児玉は、台湾独立運動にも加担した。
  これらに必要な資金を調達するため、台湾船で医薬品などを日本に密輸することも行った。

  これらはアジアでの共産化を防ぐための活動であり、GHQの手先となって行ったものとみられる。

(3)日本での反共産主義プロパガンダ
  アメリカは、日本を親米的で反共産主義的な国に確実に再生させるためには、心理戦と政治戦を行うことが必要と考えた。
  そのためには、日本の政治家、外交官、知識人、メディア関係者、労働組合、学生組織等に資金を与えて協力させることが必要であった。

  この資金の調達方法としてアメリカ側は、児玉が大量にか抱えていたタングステンの利用を考えた。
  アメリカ側は児玉を通じてタングステンをかなりの安値で買い付け、これによって得た巨額の資金を基に対日政治・心理戦を行った。
  日本テレビの設立には、その一環としてアメリカの資金も使われた。
  児玉もこれらにより巨額の資金を得た。

(4)政界工作
  児玉は、再軍備に消極的な吉田茂首相を排除し、再軍備に積極的な鳩山一郎や重光葵を支援して、首相にしようとした。
  1952年には、鳩山に政権を取らせるためのクーデター計画にも児玉は名を連ねたとのうわさもあったが、この計画は実行に移されることはなかった。
  鳩山に対してはCIAからも支援金が出ていた。

  児玉の活動の基本方針は以下の通りで、アメリカの方針とも一致していた。
  ① 反共産主義
  ② ナショナリズムの復活
  ③ 再軍備

(5)鳩山政権の成立
  1954年12月、児玉が支援していた鳩山一郎が首相になった。
  鳩山は「自主防衛」という考えを明確にした。
  しかし、鳩山はソ連との国交回復を政治目標に掲げる。
  これは児玉の考えとは相容れず、関係が弱まることになる。

(6)ロッキード社との関係
  1957年に成立した岸内閣で、自衛隊の次期主力戦闘機の機種選定で揉めた。
  首相の岸はグラマンを押し、河野と児玉はロッキードを主張した。
  岸は、グラマン社やCIAから資金的な支援を受けていたとみられる・
  児玉はその後、ロッキード社の秘密顧問に就任している。
  最終的に、ロッキード社が選ばれた。
  この決定により、ロッキード社から児玉や政界に相当のお金が流れたとみられている。

  その後、ロッキード社の旅客機トライスターの全日空への売り込みの仲介も行った。
  しかし、ロッキード社が突然、アメリカの上院の委員会で、児玉に21億円のお金を渡していたことを証言した。
  児玉は仮病を使って病院に逃げ込んだが、後に、外国為替法違反と脱税で起訴され、児玉の活動は終わった。

  1984年1月、児玉は脳こうそくがもとで、71歳で亡くなった。

<児玉と岸信介>
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満州移民の悲劇 [昭和史]

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  岩波現代全書の一冊。2017年3月刊。
  著者は日本近現代史を専門とする加藤聖文さん。

  1932年から1945年にかけて、多くの日本人が満州に渡り、農業に従事した。
  その総数は27万人にのぼる。

  この本の冒頭に、ある開拓民の証言が記載されている。
  「私の妻は子ども5名を手にかけて殺しております。熊本の母親たちは誰でも同じです。生きて帰った彼女たちはどんなに自らを責め苦しみながら生きてきたことか。」

1 満州への農業移民が行われた理由
   1931年9月に満州事変が勃発し、1932年3月に満州国ができた。
   この満州国へ、なぜ日本各地から多くの農業移民が行われることになったのだろうか。

 ① 1924年の排日移民法により、アメリカへの移民が不可能になった。
 ② 1929年の世界恐慌以降、経済的に大打撃を被った農村の救済が急務となった。
 ③ 満州国は日本が支配権を握っていたものの、人口構成は漢人が3,000万人を超えていたのに対して、日本人は30万人にも満たず、日本人の人口増加が必要であった。
 ④ 満州国内の抗日ゲリラや極東ソ連軍の脅威に対応する為、関東軍や満州国軍に加え、武装移民の必要性が高まった。
 ⑤ 日本国民の間に、満州国建国に熱狂し、社会的矛盾がすべて満州によって解決されるかの「幻想」が生まれた。

2 具体的な内容と問題点
(1)1932~1933年に武装移民団が入植した。しかし、うまくいかず、退団者が続出した。その理由は・・
   ① 募集や準備の期間が充分でなく、移住地の選定が稚拙であり、また寒冷地対策ができていなかった。
   ② 農業経験者が少なかった。
   ③ 匪賊による襲撃や現地民との軋轢により、治安が悪化した。
   ④ 衛生状態が悪く、赤痢などの伝染病が発生した。

(2)こうした状況にかかわらず、1934年からは武装移民ではなく、普通移民により、移民の本格的拡大が行われることになった。対象を全国規模に拡大し、府県への割り当ても行われるようになった。

(3)さらに、1936年には百万戸移住計画が出されるなど、移民の規模は一気に拡大することになった。これはソ連軍に対する防御の一環として考えられた。ソ連軍はそのころまでに総兵力23万へと増強され、関東軍の兵力5万を大きく上回っていた。

   関東軍は対ソ兵力の劣勢を補うために、大量の人的勢力と有事の際の軍事拠点を満州国内で確保しなければならなかった。そのためには、ソ連軍の攻撃を受けた際に動員できる日本人移民を大量に入植させることが必要であった。

3 戦況の悪化
(1)日中戦争の長期化に伴い、以下の理由により満州への開拓民を確保することが容易ではなくなった。
   ① 戦争により、開拓団の中核となるべき成人男性が次々と招集されていった。
   ② 都市部の軍需工場への農村部からの出稼ぎが増加した。

(2)このため、10代の青少年を対象にした義勇軍の役割が増すことになった。募集は各府県へ割り当てられ、学校で教師が生徒を勧誘した。

(3)1945年5月には、ソ連の参戦も懸念されたため、在満日本人のうち、17歳から45歳までの男性がすべて軍隊に召集された。このため、一般開拓団では、40戸の部落で100人近い女性・子供に対して男性は老人と病弱者が数人という絶望的な状況が生まれていた。

(4)関東軍は、こういった召集もあって70万人の勢力を持ったが、ソ連軍はその当時174万人の兵力を動員し、火砲、戦車、航空機の数量も関東軍を圧倒していた。

4 ソ連軍の満州侵攻
(1)1945年8月9日、ソ連軍は満州に侵攻した。8月19日に停戦合意が成立し、関東軍の武装解除が始まったが、場所によっては8月末まで戦闘が続いた。兵士たちの大半はソ連へ連行され、シベリア抑留となった。

(2)ソ連軍は開拓団も容赦なく攻撃した。また、中国農民の襲撃を受けた開拓団も多く、悲惨な状況となった。逃げのびる過程において、集団自決したり、自分の子供を殺したりした。女性が中国人の現地妻になったり、子供を中国人に預けたりしたことも多かった。

(3)ソ連軍の収容所に入れられたものも、婦女子は暴行されたり、栄養失調、極寒などに苦しめられ、亡くなるものも少なくなかった。

「思想戦 大日本帝国のプロパガンダ」 [昭和史]

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 原著の題名は、”The Thought War Japanese Imperial Propaganda"。2006年刊。
 著者はケンブリッジ大学准教授のバラク・クシュナー。
 日中戦争ならびに太平洋戦争における、日本の宣伝活動について分析している。

1 大日本帝国
(1)戦時プロパガンダの推進に使われたイメージは天皇ではなく、「アジアが目指すべき国家としての、衛生的で進歩的、かつ、科学技術の発展した文明の先駆者たる日本を頂点とする帝国」、あるいは「高度で近代的な国家」というイメージであった。

(2)日本と日本人がアジアで最も近代的であり、20世紀を通じてアジア諸国を導くことができる唯一の存在であるということが、中国や東南アジアへの侵攻の根拠とされた。

(3)プロパガンダとして大量に生産されたポスター、パンフレット、光沢を帯びた表紙の雑誌、旅行雑誌、節約を促すスローガンは、いずれも将来に向かって意気揚々と歩む洗練された近代日本、というイメージに焦点が当てられていた。

(4)こうした大日本的国像は、日中戦争のはるか前より、著名な作家、政治家、教育者、ビジネスマンを魅了していた。また、これらの人々は日本の敗北後もこのプロパガンダに関心を持ち続けていた。

2 プロパガンダの必要性
(1)日本政府は一般大衆を無視できないことを理解しており、世論が戦争を熱狂的に支持している状況を望んでいた。指導者はプロパガンダを、この熱狂を煽り維持する力として位置付けていた。

(2)中国大陸に多くの日本兵を戦争動員するためには、その必要性を日本人一般大衆が十分に把握することが必要であった。また、中国との戦争に対する国内の反対論を事前に抑えることも重要な課題であった。
  
3 プロパガンダの推進構造
(1)このため、日本と中国との戦争について日本人大衆を蚊帳の外に置いていたのではなく、政府はむしろ積極的に仕組み作りを行った。

(2)具体的には、以下により一般大衆の支持を取り付けるようにした。
    1937年 国民精神総動員運動に着手
    1940年 大政翼賛会の発足
       (すべての政党を集め、これを大規模な機関として、日本を統一的目標へと導いていった)

(3)政府がプロパガンダの計画と活動のハブとして機能し、一般大衆がその全体構造を支えるスポークとなっていた。政府が検閲と恐怖のみで一般大衆を支配したわけではなかった。

(4)1930年代後半には、報道もプロパガンダの一翼を担った。報道と広告は国家イデオロギーと愛国心の根拠を象徴するものになっていた。情報はもはや中立的なものとしては存在できず、国家が一般大衆に見せたいイメージを投影したものでなければならなかった。

4 プロパガンダの効果
(1)日本の社会動員は、恐怖を用いる以外の方法で、前代未聞なほどに成功していた。

(2)日本の一般大衆動員政策は、ナチス・ドイツ、ファッシスト党のイタリア、フランコ体制下のスペインでは達成することができなかった規模で成功を収めている。例えば、一般市民の不満や政治的クーデターに頻繁に直面したナチス・ドイツでは、知識人や反ファッシスト主義者は戦時中を通じて国外逃亡していた。これに対し、日本人の亡命者はごく少数にとどまっている。

(3)しかし、アジアの人々に対しては、以下が障害となり、効果は十分ではなかった。
 ① 帝国軍兵士に対する統制がとれていなかったため、残虐行為が横行していた。
 ② 官僚的、人種差別的な傲慢な態度が蔓延していたことは、アジアの人々を解放すると主張する一方で、実際にこれらの人々に対し日本人が同情することはおろか、共感することすら難しくしていた。


「忘却された支配 日本のなかの植民地朝鮮」 [昭和史]

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  著者は毎日新聞の伊藤智永さん。2016年7月に岩波書店から出版されたもの。
  戦争中に連れてこられた朝鮮人労働者の問題について問いかける。

1 長生炭坑の落盤事故
(1)1942年2月、宇部市にある海底炭坑で落盤事故があり、坑道が水没、183人が犠牲となった。その4分の3は朝鮮人労働者であった。

(2)長生炭坑は他の炭鉱に比べ朝鮮人労働者の目立って多かった。給料が安く、作業が過酷で危険だったためといわれる。

(3)この炭鉱は炭層が海底に近く、薄かった。長生炭坑の経営者は地元の炭鉱主たちが危なくて手出しできなかったところを開発した。事故の数日前から坑道内に海水が異常なほど流れ込み、尻込みする工夫たちを現場監督が殴り蹴りして坑内におろしたとの証言も残る。

(4)事故後直ぐに坑口は角材などで完全にふさがれた。遺体捜索の作業は行われず、遺体は今も海底に眠っている。炭鉱はそのまま閉山となった。

2 北海道の飛行場建設
(1)1942年から1944年にかけて、オホーツク海沿岸の猿払村(さるふつむら)で浅茅野飛行場の建設工事が進められた。

(2)動員された朝鮮人労働者の数は600~800人と推定されている。ほかに、道内で集められた日本人が244人、軍請負専門の土建業者が、監禁・暴力で労働を強いる典型的なタコ部屋経営だった。

(3)判明している犠牲者は118人(うち朝鮮人96人)である。

3 朝鮮人ならびに中国人の利用
(1)1938年4月の国家総動員法公布後、朝鮮人は労働者として約80万人、軍人・軍属として36万人が動員された。

(2)中国人の強制連行は1944年2月から本格化し、38,935人が拉致同然に連行され、鉱山、土木建設、造船、港湾荷役などの労役を課せられた。うち、6,830人が死亡した。

4 追悼施設
(1)このような朝鮮人や中国人の犠牲者を悼む施設が日本の各地で作られている。

(2)飯塚市にある無窮花堂という追悼施設では、碑文の以下の内容を、右派政治団体「日本会議系の市議が攻撃した。
   「日本の植民地政策により、数多くの朝鮮人と外国人が日本各地に強制連行されました」
   「筑豊には15万人にも上る朝鮮人が過酷な労働を強いられ、多くの人々が犠牲となりました」

(3)「日本会議」の組織キャンペーンと疑われる、追悼施設に対する攻撃が飯塚市以外でも同時多発で発生した。
   

「宰相鈴木貫太郎の決断」 [昭和史]

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  岩波現代全書の一冊。著者は日本政治外交史を専門とする波多野澄雄さん。
  太平洋戦争末期における、日本の政権内部における戦争終結への動き、ならびにその中での天皇の役割を追う。

1 戦争末期の日本側の状況
(1)1945年6月にまとめられた「国力の現状」は、船舶輸送力の激変、鉄鋼、船舶、航空機など重要生産の危機、食料のひっ迫など深刻な状況にあると記載している。
(2)満州並びに中国の日本軍兵力は合わせても米軍の8個師団の戦力しかなく、しかも弾薬量は近代式大会戦の1回分にも満たない。

2 本土決戦を巡る論争
(1)早期和平派
   天皇「支那方面及び内地における準備が非常に不足している。だから戦争を早期に終結させることがどうしても必要と思う」
   海相「原子爆弾やソ連の問題よりも、現在の情勢の判断では戦争を継続できるかを疑う。勝ち味がないと思う」

(2)本土決戦派(阿南陸相など)
  ア 「日本はいまだ広大な敵の領土を占領しているのに反し、敵はいまだ日本領土の一部(沖縄と硫黄島)に手をかけているにすぎない」
  イ 「本土決戦により、日本軍民の強烈なる抗戦意思を知らしめることができれば、これにより比較的有利な条件で終戦の好機をつかむことができる」
  ウ 「原子爆弾、ソ連の参戦、これに対してソロバンづくでは勝利の目途がない。ただし、大和民族の名誉のため戦い続けている中に何らかのチャンスがある。武装解除は不可能である。外地において殊にしかり。

3 ポツダム宣言受諾を巡る論争
(1)ポツダム宣言
    1945年7月26日に発表された米英中3国による対日降伏勧告。
(2)受諾条件を巡る論争
  ア 陸相は、以下の条件を主張。通らなければ本土決戦やむなしの考え。
     ① 皇室の安泰(国体護持)
     ② 日本側の自主的な武装解除ならびに戦争犯罪人処分
     ③ 本土占領軍の最小化
  イ 外相、内大臣等は、皇室の安泰のみを条件とすることを主張

    *武装解除 
      終戦とともに、整然と武装解除が進むか懸念された。
      終戦時に国内外に配備された陸軍兵員は480万人。内訳は・・・
       国内   210万人
       国外   270万人
       うち 満州・朝鮮  65万人
          中国     106万人
          南方     74万人
          その他    25万人

4 天皇の役割
(1)8月9日の聖断
  ア 天皇は、皇室の安泰のみを条件としてポツダム宣言を受諾する案を支持。
  イ その理由としては、
     ① 従来から、勝利獲得の自信ありと言ってもその通りにはならなかったこと。
     ② 防備並びに兵器の不足の現状からすれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないこと。

(2)8月14日の聖断
  ア 8月10日、日本は国体護持を条件にポツダム宣言の受諾を通告したが、それに対するアメリカからの回答は、戦後の日本の体制は日本国民の自由に表明せる意志により決定されると述べるのみで、明確に国体護持を保証するものではなかった。
  イ このため、このままでポツダム宣言を受諾すべきかどうか、再度、議論となった。
  ウ 天皇は、ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させるとした。
  エ 理由は・・・
    ① これ以上戦争を継続するのは無理。
    ② 先方からの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。

5 国体の護持
(1)ポツダム宣言受諾を検討する際に、「国体の護持」すなわち天皇制の維持が不可欠の条件とされた。なぜ、天皇制の維持に固執する必要があったのだろうか。ドイツでは、第一次世界大戦での敗北後に共和制に移行している。
(2)現在の我々の感覚からは理解しにくいところであるが、天皇の軍隊として、多くの一般国民を戦地に駆り立て、死なせた経緯から来ているのであろうか。天皇制が保証されないのであれば、本土決戦になり、更に数千万人の国民が殺戮されるようになったとしても戦争を続けるという考えは理解できない。
   
<太平洋戦争に関する主要な出来事>
  1931. 9 満州事変始まる
1932. 3 満州国建国宣言
  1932. 5 五・一五事件(犬養首相暗殺)
  1933. 2 日本が国際連盟を脱退
  1936. 2 二・二六事件(大蔵大臣、内大臣等殺害)
  1939.9 第二次世界大戦始まる
  1940.9 北部仏印進駐
      日独伊三国同盟締結
  1941.7 米・英、日本資産凍結
      南部仏印進駐
  1941.8 米国 対日石油輸出禁止
  1941.12 対米英開戦
  1942.6 ミッドウェー海戦敗北
  1944.6 アリアナ沖海戦敗北
  1944.24 レイテ沖海戦敗北
  1945.3 東京大空襲
      硫黄島守備隊全滅
  1945.4 米軍 沖縄上陸開始
      イタリア降伏
  1945.5 ドイツ降伏
  1945.6 沖縄の戦闘終結
  1945.7 米国 原爆実験成功
      ポツダム共同宣言
  1945.8 広島長崎に原爆投下
      ソ連参戦
      日本降伏
 

「象徴天皇という物語」 [昭和史]

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  著者は赤坂憲雄さん。ちくま学芸文庫の一冊。当初、現在の天皇が即位した翌年の1990年に出版されたもの。
  いまでは当たり前になっている「象徴としての天皇」に疑問を提議する。

1 象徴としての天皇
  象徴とは何か。象徴としての天皇とは何か・・。この問いに対して、だれも納得させるだけの明確な答えはどこにもない。象徴という冠は曖昧で、どこか”神秘モーローたる妖気”を孕みながら、天皇の頭の上に乗っかっている。象徴としての天皇は現人神ではない。そしてただの人間でもない。象徴はあたかも、人間と現人神の間を頼りなげに往還する天皇に与えられた、一枚の通行許可証とでも呼ぶほかない奇妙なものだ。

2 坂口安吾の見方
(1)天皇とは政治的に担ぎ上げられる存在であった。貴族や武士といった政治支配層は、彼らの永遠の隆盛を約束する手段として天皇を必要とし、天皇を祀り上げることを通じて支配の正当性を獲得しようとした。
(2)貴族や武士といった政治支配層は、自分自らを神と称し、絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だった。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。
(3)天皇の尊厳などはいつだって、天皇を担ぎ上げ利用する者らの道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。

3 天皇の地方巡幸(1946~1954)
(1)(中野好夫)巡幸に伴って見られる、(どよめくような歓呼によって迎えるというような)旧態そのままの国民感情表現の事実は、残念ながら(将来天皇制ということのために発生すべき危険は完全に取り除かれるものと信じた)私に再考の必要を痛感させた。
(2)(坂口安吾)天皇の人気には批判がない。一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のものなのである。地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります。

4 万世一系について(坂口安吾)
(1)歴史的事実としても神代ないし神武天皇以来の万世一系などというものはツクリゴトにすぎないし、現代にいたるまでの天皇家の相続が合理的に正統だというものでもない。
(2)天皇というものに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということのほかに意味はなく、古い家柄といっても系譜的にたどりうるというだけで、人間だれしも、ただ系図を持たないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論を待たない。

5 天皇制の歴史的な機能
(1)宗教としての天皇制
    天皇制にとって、歴史的な唯一の不変項は、天皇が世襲的な祭儀を通じて、常に不可視の呪術宗教的な威力の源泉でありえたことである。
(2)二重王権としての天皇制
    権威の源泉としての天皇と、政治的権力を掌握した集団・勢力との共同支配が、その形態は時代によって変化しながらも存続してきた。
   (歴史の中の天皇は、古代以来自ら権力の統轄者の座に就くか否かにかかわらず、それぞれの時代の政治的権力に支配の正当性を与える、宗教的威力の源泉として立ちあらわれてきた。

6 天皇の即位儀礼
(1)近世までの即位儀礼は、大嘗祭・即位礼を含む、一種の神仏習合的な儀礼体系として構成されていた。ところが、明治の再編を通じて、儀礼プロセスの全体から、唐風および仏教・陰陽道・道教的な要素が排除された。その結果として、即位礼が神道風によそおいを変える一方、大嘗祭はより純神道的な性格を強め、あらためて即位儀礼の中核として位置づけなおされることになった。
(2)大嘗祭とは・・
  ア (折口信夫)「寝具に包まることで皇祖神と一体化する」
          「新穀を供え神々とともに食することで『神格』を得、完全な天皇になる。」
  イ (岡田荘司)天皇がただ一人で皇祖神アマテラスと神饌を共食すること。

 * 私の疑問点
   ① 天皇は日本国憲法によると「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるが、よく考えてみるとピンとこない。日本人には確かにある種の「一体感」はある。しかし、その「一体感」に「天皇」がかかわりを持っているという感覚はない。また、天皇が日本の「象徴(シンボル)」だと思っている人はどれだけいるのだろうか。日本の「象徴(シンボル)」としては、富士山や桜などが上にランクされるのではないだろうか。
   ② 天皇の即位の際の儀式として、宮内庁のホームページではいまだに大嘗祭を挙げている。しかし、人間宣言をして、「象徴」となった天皇にこのような儀式は必要なのだろうか。「人間」になったとはいえ、普通の人間とは違う、神がかったカリスマ性を身にまとうためにはこのような儀式が必要と思っているのだろうか。

「昭和史の教訓」 [昭和史]

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  著者はノンフィクション作家の保坂正康さん。朝日新書の一冊。
  日本は太平洋戦争で310万もの死者を出し、中国はじめ東南アジアにも多くの犠牲者を出した。そんな血の結晶のような歴史の教訓を生かさなかったら申し訳ないと、著者は言う。

1 ドイツヒットラーイタリアのムッソリーニのような、戦争へと駆り立てる独裁的な政治家が日本には不在であったが、何故、日本も戦争へ突き進むことになったのか。 

2 その理由は、巧妙に仕組まれた下記の方策に求められる。
(1)軍部の独走を内閣が抑えることができないようにした。
   ア 天皇が持っている統帥権を犯すことは許されないという考えを徹底強化させた。これにより、軍の統帥権は天皇にあり、内閣にはないと主張することにより、軍部首脳は自己の考えで軍隊を動かすことができた。
   イ 二・二六事件の後、陸海軍大臣現役武官制が復活した。それ以降、陸海軍は大臣を出さないと脅すことにより、内閣に自己の主張を認めさせるようになった。
   ウ 国家総動員法の施行により、政党はいずれも解散し、一党独裁体制が敷かれた。

(2)天皇を神格化し、その威光に逆らえないようにした。憲法に基づく天皇機関説の考え方を排撃するとともに、日本が天皇の統治する国家であるとした国体明徴運動により、天皇の絶対化を進めた。また、基本国策要綱を制定し、「皇国の国是」を八紘一宇の皇国の精神を基にして「東亜の新秩序」を建設することとした。

(3)国民の思想教育を徹底し、国民を戦争に駆り立てた。
   ア 国定教科書により、忠君愛国の精神を植え付けた。
   イ 文部省が編纂し配布した「国体の本義」では、国民も国土も一つになって天皇へ仕えることや、自己を否定し、皇国の精神に生きることが自己に生きることということが強調された。
   ウ 東条英機が書いた戦陣訓では兵隊に対し「死を恐れるな。生きて虜囚の辱を受けず」と、突撃精神が称揚された。
   エ 皇紀二千六百年記念式典では「起たんかな一億同胞! あえてその力の足らざるを顧みることなく、ただ日本国民のほこりにおいて! 東洋新秩序建設の理想に燃えて!」と叫んだ。

(4)抵抗する人々を徹底的に弾圧した。一部軍人のテロ行為により、軍の考え方に逆らうと殺されるという死の恐怖を政府や知識人に植え付けた。また、治安維持法により、共産主義者のみならず、反軍国主義者を逮捕、拷問した。

3 反対意見が出せないような状況にし、また、国民の思想を統制する中で、軍部は無責任な戦争遂行に突き進んだ。
(1)以下の理由により、中国へ深入りし、いつまでも終結できない中国との戦争が続いた。
   ア 中国軍など容易に敗北させることができるという甘い考え、傲慢な対中国観
   イ 中国に勝利し賠償金を取って、自分が国の英雄になるという妄想

(2)軍部の焦りが軍事的冒険主義をもたらした。仏印(ベトナム)への進駐など、更に戦線を拡大することにより欧米の反感を招くことになる。一方では、事態解決のため対米交渉を行っていたものの、アメリカによる石油禁輸により追い詰められることになる。勝利への展望を欠いたまま、対米戦争を開始するという暴挙に突き進んだ。


  * 安全保障関連法案や共謀罪法案、あるいは政府与党への極右勢力の浸透など、最近の戦前回帰への萌芽が懸念される。

  * 昭和初期の動き
     1933年3月 国際連盟脱退
     1935年   天皇機関説排撃運動 国体明徴運動
     1936年2月 二・二六事件
     1938年4月 国家総動員法
     1940年7月 基本国策要綱制定
     1940年9月 日独伊三国同盟締結
     1940年11月 皇紀二千六百年記念式典

「虜人日記」(その2) [昭和史]

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(小松真一さんが書いた9冊からなる記録)

  著者の小松真一さんは、フィリピンの米軍収容所にいる間、自分の経験を基に日本の敗北の要因を考え、日記に書き残した。この記述に感銘を受けた評論家の山本七平さんは「日本はなぜ敗れるのかー敗因21ヵ条」という本を出版した(角川ONEテーマ21に所収)。小松真一さんの分析は冷静で的を得ている。

1 日本の敗因
(1)精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと。しかるに作戦その他で兵に要求されることはすべて精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
(2)物量、物資、資源、すべて米国に比べ問題にならなかった。
(3)日本の不合理性、米国の合理性。
(4)将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と初戦で大部分は死んでしまった)
(5)精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力無し)
(6)日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する。
(7)基礎科学の研究をしなかったこと。
(8)電波兵器等の劣等(物理学貧弱)。
(9)克己心の欠如
(10)反省力無き事。
(11)個人としての修養をしてないこと。
(12)陸海軍の不協力。
(13)独りよがりで同情心がないこと。
(14)兵器の劣悪を自覚し、負け癖が付いたこと。
(15)バアーシー海峡の損害と戦意喪失。
(16)思想的に徹底したものがなかったこと。
(17)国民が戦いに厭きていた。
(18)日本文化の確立無きため。
(19)日本は人命を粗末にし、米国は大切にした。
(20)日本文化に普遍性なきため。
(21)指導者に生物学的常識がなかったこと。

2 「思想的に日本は弱かった」
   独系の米兵が言うのに、米国は徹底した個人主義なので、米国が戦争に負けたら個人の生活は不幸になるという一点において、全米人は鉄のごとき団結を保っていた。日本は皇室中心主義であったが、個人の生活に対する信念がないので、案外思想的に弱いところがあったのだという。

3 「転進」という言葉
   負け戦は負け戦ととして発表できる国柄でありたかった。外国をだますつもりの宣伝が自国民を欺き、自ら破滅の淵に落ちたというものだ。「転進」という言葉ができてから日本は一回も勝たなかった。今度の戦争を代表する言葉の一つだ。

4 米軍将校と日本将校
   日本の将校は仕事はすべて下士官にやらせ、身の回りのことはすべて当番にやらせ一人で威張っていて、特別の料理を食べ、将校だけが人間だと思っていたが、米軍の将校を見ると自分のことは自分でして公私とも実にまめまめしくやる。

5 日本人の暴力性
   捕虜になってから日本人の暴力性がつくづく嫌になった。もっとも戦争とは民族的暴力に違いないが、これとて弱い者いじめのことが多い。日清、日露は強者に対する戦いであったが、日支事変は正に弱い者いじめだ。

6 国家主義から国際主義へ
   今度の戦争を体験して、人間の本性というものを見極めたような気がした。いろいろ考えを進めてゆくうちに、国家主義ではどうしても日本人が救われないという結論を得た。そして、我々は国際主義的高度な文化・道徳を持った人間になってゆかねばならんと思った。

7 日本人は命を粗末にする
   日本人は自分の命も粗末にするが、他人の命はなお粗末にする。どの作戦でも人員の損失は平気だ。米軍は敵の火力が全くなくなるまで火砲でたたき、誰もいなくなってから歩兵がやってくる。日本は余り人命を粗末にするので、しまいには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気付いてしまった

「虜人日記」(その1) [昭和史]

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  著者は小松真一さん。太平洋戦争中の1944年3月、フィリピンへ軍属(軍人以外で軍隊に所属する者)としてブタノール生産のために派遣された。しかし、10月にはアメリカ軍がレイテ島へ侵攻、1945年3月には著者がいたネグロス島にも上陸してきた。このため、この後、9月1日に米軍に投降するまでの6か月間、山岳部へ逃れ、生き延びるために死に物狂いの生活をすることになる。
 
  著者は、米軍の収容所にいる間に、それまでの経験を日記や絵の形として記録して、1946年12月、日本に帰国する際にそれらを骨壺に隠して持ち帰った(フィリピンの米軍からは持ち出し許可を得ていたが、日本で没収されるのを恐れた)。著者はそれらを銀行の貸金庫に1973年に亡くなるまでしまい込み、著者の死後、家族が発見。私家版の形で、本にまとめ、知人友人に配った。それが評判となり1975年、筑摩書房から出版されることになった。2004年にはちくま学芸文庫の一冊として再度、出版されている。

  本書は、戦争の悲惨さを克明に記録しているのに加え、日本軍敗北の要因を冷静に分析していることから高い評価を得ている。

1 戦争の悲惨さ
(1)行き倒れ
    山では行き倒れはいたる所にあり、みな互いに腹が空いているので穴を掘ってやる元気も体力もないので倒れたところで朽ちてゆくだけだ。死ねば、いや死なぬうちから、次に来る友軍に靴は取られ服は剥がれ、天幕、飯盒等利用価値のある物はどんどん取り去られてゆくのでぼろ服を着た屍以外は裸に近い屍が多かった。
(2)地獄谷
    フラフラになってここへたどり着いた兵たちが何の気なしにここの湯につかった。すると身体が衰弱しているため、心臓マヒを起こし大部分は死んでしまった。それで温泉の中には白骨が累々として正に地獄絵そのままだ。
(3)母を失った子供
    蛆のわいた母親の屍に、やせ細った幼児がなく力もなくつかれたような顔をしている。そのそばを髪ボウボウにはえた戦力を失った兵が脚気で膨れ上がった脚をひきずりながら、この様子を見ながらも、何も感じない顔をして通り過ぎて行った。

2 著者が生き延びた理由
(1)自分の体力
    学生時代から山歩きが好きで、それで自分の体力、一日の行動力、背負える荷の目方などをよく知っていたので、無理をすることがなかった。岩のような身体の兵が無理をして重い荷を背負い、体力を消耗しつくしてわけもなく死んでゆくのをよく見た。
(2)山地自活
    草を少しずつ食べてみて毒にならねばどんどん食べることにした。その他、川蟹、昆虫、ヘビ、トカゲ等の動物も片端から食べて、野生の生活に身体が一日も早く馴れるように心がけた。
(3)塩
    自分は幸い知人から、飯盒一杯の塩をもらったので終戦まで不自由しなかった。塩のない連中は、せっかく回復しかけた体力も塩がないばかりに再び衰えだしてきた。