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「砕かれた神 ある復員兵の手記」 [昭和史]

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  朝日選書の一冊。1983年刊。
  著者は、太平洋戦争で海軍に入り、米軍の攻撃により撃沈した戦艦武蔵に乗船していたが、奇跡的に救助された。
  1945年の終戦後、実家に戻り農業を手伝うかたわら手記を書き綴った。

1 敗戦まで思っていたこと
  おれはこの戦争が負けるとは思っていなかった。
  戦争は必ず勝つものだとあたまから決め込んでいた。
  たしかに味方の敗色は覆うべくもなかったが、そのうちに決定的な勝機をつかんで、戦局を一気に挽回できるのではないか。
  有史以来一度も外敵に侮られたことのない日本だ。
  最後には必ず勝つだろうとひそかに信じていた。

2 復員後の虚無感
  8月15日をさかいにおれはまるでやる気をなくしてしまった。
  もうなにもかもどうでもよくなって、急に投げやりになり、体を動かすのさえおっくうだった。
  復員して今日で七日目になるが、おれはまだ内から一歩も外に出ていない。

  みんなから開戦のことを聞かれたのには閉口した。
  とにかくおれは人前で戦場の話だけはしたくない。
  いくら話してみたところで戦場の真実は分かってもらえないだろう。
  言葉ではとても説明しきれるものではない。

  おれはいまも、戦艦武蔵から投げ出され海で漂流していた時のような気持ちだ。
  これからどこへ流されていくのか、どこへ着くのか、結局おれはこうして一生あてどもなく漂流を続けて終わるのかもしれない。

3 戦場の悲惨さ
  おれは戦場で人間の頭が砕かれ、胸が裂け、手や足が木っ葉の様に海に吹っ飛ぶのを見た。
  血まみれになって甲板をのたうちながら踏みつぶされた芋虫かなんぞのように死んでいくのを見た。
  そういう人間の無残な最期を今もうなされるほどこの眼で見とどけてきた。

4 東条英機大将
  自殺を図ったが未遂に終わった。戦犯として逮捕される直前にピストルを心臓に打ち込んだが、急所を外れてしまって死にきれず、アメリカ軍の病院に収容された。

  それにしても何という醜態だろう。
  陸軍大臣だった当時、自ら「戦陣訓」なるものを作った。
  「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すことなかれ」はその中の一節である。
  軍人の最高位を極めた陸軍大将が、商売道具のピストルを撃ちそこなって、敵の縄目にかかる。
  これではもう喜劇にもなるまい。

5 昭和天皇
  天皇陛下が処刑されるかもしれない、といううわさが流れている。
  かりにもしこのうわさが本当だとしても、天皇陛下が敵の手にかかるようなことはまずないだろう。
  その前に潔く自決の道を選ぶだろう。それをおれは固く信じている。

  戦争は天皇陛下のご命令で開始され、惨憺たる敗北を喫したあげく、最後も天皇陛下のご命令で終止符が打たれた。
  そして、その間たいへんな犠牲者を出したのだ。
  天皇の名によって、おびただしい人命が失われたのだ。
  畏れ多いことだが、この責任は誰よりもまず元首としての天皇陛下が負わなければならない。

6 マスコミへの怒り
  この頃の新聞の豹変ぶりは実にひどい。
  ついせんだってまでは、「聖戦完遂」だの「一億火の玉」だの「神州不滅」だのと公言していたくせに、降伏したとたんに今度は「戦争ははじめから軍閥と財閥と官僚がぐるになって仕組んだものであり、正義にもとる侵略戦争であった」などと盛んに書いている。
  全く人を馬鹿にしている。
  それならそれでなぜもっと早く、少なくとも戦争になる前にそれをちゃんと書いてくれなかったのか。
  それが本来の新聞の使命というものだろう。無責任にもほどがある。

7 日本の豹変ぶり
  原子爆弾をはじめ、日本がアメリカにこれだけひどい目に会わされていながら、まるで何事もなかったかのように睦まじく肌を温めあおうとしている。
  ご機嫌取りにきゅうきゅうとしている。
  これがついせんだってまでは、「世界の一等国」だの「東亜の盟主」だのとふんぞり返っていたのだからあきれる。
  世界の国々は恐らく、こんな日本の無節操な豹変ぶりに眉をひそめているだろう。

  日本人は忘れっぽい。忘れてはならないことまで忘れすぎる。
  戦争中のアメリカに対するあれだけの熱っぽい憎悪感、敵愾心も、負けたとたんに雲散霧消する。
  そしていつのまにか、アメリカがなくては夜も日も明けないと言った具合に早変わりする。

  過去のことをケロリと忘れて、いまのように欲得に目のくらんだ指導者の言いなりになっていると、そのうちまたアメリカからこっぴどい目に会わされるだろう。


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空襲とカーチス・ルメイ [昭和史]

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1 日本への空襲(「太平洋戦争」 家永三郎(1913~2002)著)
  太平洋戦争の敗色濃厚な1944年後半から、日本の各都市は米航空機の空襲に晒されることになった。
  日本人は明治維新後初めて本土内の戦場化という体験を味わった。
  米空軍は軍隊や軍需工場ばかりでなく、住宅地域・商店街にも焼夷弾や爆弾による無差別攻撃を加え、しらみつぶしに焼き払っていった。

  ことに1945年3月10日の東京空襲では、約300機のB29爆撃機が下町地区を周辺から囲んで火攻めにする戦術が取られ、2時間足らずのうちに83,793名という大量の死者を出すことになった。
  負傷者は90,918名、罹災者1,008,005名であった。
  この夜投下された焼夷弾は18万個を超えていた。

  また、8月7日の豊川海軍工廠に対する空襲では、動員されていた二千数百名の一般市民が、集中的な爆撃投下により即死した。

2 空襲の体験 (「東京の戦争」 吉村昭(1927~2006)著 に拠る)
  3月10日の空襲の数日後、欄干から川をのぞくと、二、三十体の死体が、まるで大きな筏のように寄りかたまって浮かんでいた。
  衣類に焼け焦げの後は全くなく、私はそれらが窒息死したものであるのを知った。
  壮大な燃焼作用で酸素が無に近くなり、川に身を入れた人々は窒息した。

  それまで私は、焦土と化した地で多くの死体を見てきた。
  路上にただ一体横たわっている炭化した焼死体。
  風で吹き寄せられたように一か所に寄りかたまっていた黒い死体の群れ。
  それらを見てきた私には、死に対する感覚が失われていたのか、橋の下に浮かぶ遺体の群れにほとんど感慨らしいものは胸に浮かんでこなかった。

  4月13日の夜、住んでいた日暮里の町にも大量の焼夷弾がばらまかれた。330機が来襲した。
  壮絶な情景が眼の前にひろがっていた。
  視野一杯に炎が空高く噴き上げ、しかも渦巻いている。
  空には火の粉が歓声を上げるように舞い上がり乱れている。
  得体の知れぬ轟音が私の体を包み込み、大津波が私に向かって押し寄せてくるような感じであった。

  翌日、家のあった場所に行き、火熱が如何にすさまじいものであったかを知った。
  庭の池には十尾ほどの鯉が飼われていたが、むろん水は蒸発していてコンクリート張りの池の底が露出していた。鯉の骨ぐらいは残っているだろうと思ったが、見当たらず、骨も気化したのを知った。

3 カーチス・ルメイ
  日本への空襲を指揮した米空軍の将軍。
  太平洋戦線に来る前は、欧州戦線でドイツへの爆撃を指揮していた。
  1945年1月から、サイパン島の基地から日本への空襲を指揮するようになった。
  それは、日本の大半の都市を襲い、一般市民の殺戮を目標としたものであった。

  終戦後、ルメイは米空軍の幹部となり、朝鮮戦争では100万人以上の民間人を殺すことになる空爆を指揮した。
  また、1962年のキューバ危機では、ルメイはキューバ空爆を提案したが、これは退けられた。
  1965年からは、ベトナム戦争で北爆を推進した。

  このように、ルメイは空爆による一般市民の殺戮を常に考える人間であった。

  しかし、こともあろうか日本政府は1964年、このルメイに勲一等旭日大綬章を贈った。
  航空自衛隊の育成に貢献したというのが贈呈の理由であった。
  当時は佐藤栄作が総理大臣。日本の国民が戦争中、いかに悲惨な目に会ったか、理解していないことが分かる。この佐藤首相がノーベル平和賞を受賞しているのが、また皮肉。
  

ノモンハン事件 [昭和史]

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 *以下に拠る。
  ①「ノモンハン戦争」 岩波新書、2009年刊。 著者はモンゴル学の田中克彦さん。
  ②「静かなノモンハン」 講談社文芸文庫、1983年発表の小説
    著者は、小説家の伊藤桂一(1917~2016)さん。

1 ノモンハン事件
(1)事件の経緯
  1939年5月、満州国とモンゴルとで国境線について紛争になっていた地域で、日本軍(関東軍)並びに満州国軍と、ソ連並びに蒙古の連合軍との間で、4か月にわたり激しい戦闘が繰り返された。

  ソ蒙軍は、日本側が想定していた国境線を越えて侵入し、優勢な戦力でその地帯を確保し続けた。
  戦車、装甲車は日本92台に対しソ蒙軍は500台、火砲は日本82門に対し、ソ蒙軍は370門であった。
  
  9月に入り、ソ蒙軍はヨーロッパで第二次世界大戦が始まったことから、また日本側は日中戦争が泥沼化しており戦力分散を避けたかったことから、お互いに停戦に合意した。
  日本側は、ソ蒙側が主張する国境線を容認せざるを得なかった。

  戦死者数は日本側7,720人に対し、ソ側9,703人と推定されている。
  お互いに損耗の激しい戦いであった。
  日本側は劣勢の装備で、よく戦ったと言うものもいる。

(2)事件の背景
  このような大規模紛争に至った要因としては以下のようなことが考えられる。
  A 日本側の要因
   ア 島国の日本は国境紛争に慣れていなかった。
      日本側は相手の同意なしに国境を設定し、武力により維持できるものと考えた。

   イ 関東軍内部の一部将校の独走を許した。
    関東軍は、東京の参謀本部の同意を得ずに大規模な軍事衝突を起こし、相手国の航空設備に対する空爆まで行った。

  B ソ連側の要因
   ア ソ連は日本側が国境を越えて、モンゴルを侵略することを恐れていた。
   イ ソ連は、モンゴルが社会主義のソ連友好国となるよう、モンゴルに圧力をかけており、満州国との国境紛争で勝利を収めることが不可欠であった。
 
2 鈴木上等兵の証言(「静かなノモンハン」から)
  1938年1月召集、旭川の部隊に入隊、3月に満州へ移動。
  1939年8月、ノモンハンに向け出発。
  近くの町まで汽車で行き、そこからノモンハンまで216キロを歩いて進むことになった。
  気温は日中は40度を超え、夜は15~6度に下がった。
  途中3日間の休息期間も含め、行軍に17日間を要した。

  前線に着き、部隊は横に散開して進んだが、前方に敵の戦車の一団が現れ、横に広がりながらこちらに向かってきた。
  味方の野砲隊が戦車に向けて発射をはじめ、敵戦車の砲撃も始まり、たちまちに周りは彼我の砲撃の音で、地面が動転するほどになった。
  砲弾の落下につれて、周りの死傷者の増えてゆくのが分かった。
  夜になって、私の中隊では半数近くの93名の死傷者を出していたことが分かった。
  自分だけは必ず生き抜いて見せる、というわけのわからない確信だけは身に充満していた。

  翌日も、砲弾は、よく限りもなく続くものだ、と感心するほど、あとからあとから撃ち出されてきた。
  砲弾の落ち続く合間を縫って先へ先へと進んだ。
  2台の戦車が真直ぐに進んできた、また、火炎放射器があたりを薙ぎ払うようににして迫ってきた。
  身をかわしたり、戦車の後にくっついたりして逃げ回った。
  しかし、戦車の機銃弾に打たれ、空中に跳ね上げられた。
  砲弾穴に身をひそめ、戦車は遠のいていったが、おびただしい出血をしていた。
  出血を止めなければ死ぬと思い、ズボンのポケットから泥だらけのタオルを取り出し、傷口に押し込んだ。

  その後、出血が止まっていることが分かり、自力で退避して、何とか生き延びた。
  しかし、病院で見た新聞には、戦死者名簿の中に自分の名前が載っていた。
  また、原隊に戻ると、祭壇にあるおびただしい遺骨箱のひとつに自分の名前が記されていた。


「戦艦大和 生還者たちの証言から」 [昭和史]

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  岩波新書の一冊。2007年刊。
  著者は、毎日新聞社の栗原俊雄さん。

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1 巨大戦艦の建造
  戦艦大和は、太平洋戦争開始直後の1941年12月16日に完成した。
  起工から丸4年、当時の国家予算の6%を投じて造られた。
  当時、世界で最大のドイツの戦艦に比べて、戦艦大和の排出量は1.5倍であった。

  主砲の最大射程は42キロメートル。敵艦の主砲弾が届かない距離から、大和は最強の威力を持つ主砲を一方的に打ち込むことができた。
  しかし、この距離では砲弾の飛行時間が約80秒にもなり、敵艦が弾を避ける時間的余裕が大きく、命中させることは容易ではなかった。

  巨大戦艦の建造には海軍内部にも反対論があった。
  ① 巨大戦艦を1隻や2隻建造したところで、生産力が日本と比較にならないほど大きいアメリカに直ぐ追い越されてしまう。
  ② 巨砲大鑑1隻の損失は全戦闘力の低下をもたらす。
  ③ 不死身の戦艦は出来ない。
  ④ 建造のために巨額の施設費を余分に必要とする。

  また、航空母艦を中心とした高速攻撃部隊である「機動部隊」が各国で編成されつつあった。
  海軍では、戦艦を建造する莫大な費用を、航空機増産と搭乗員育成にあてるべき、といった声が出ていた。

  予想の通り、太平洋戦争初戦で、海軍航空部隊が真珠湾を攻撃し、また、マレー沖でイギリスの主力戦艦2隻を撃沈した。
  戦いの主役が戦艦から航空機へ移っていることを示し、戦艦大和は生まれると同時に無用の長物となった。

2 ミッドウェー海戦
  1942年6月、日本海軍は、米機動部隊を叩くため、戦艦大和のほか空母4隻をミッドウェーに進出させた。
  しかし、日本軍は空母4隻ならびに熟練の航空機搭乗員200名以上を失った。
  米軍は日本の暗号を解読し、迎撃態勢を取っていた。
  
  戦艦大和は大した戦闘に参加することもなく、トラック等の湾内で通算13か月間停泊することになる。
  戦艦大和は設備が良く、冷暖房完備、専属のコック付きで「大和ホテル」と呼ばれた。
  近くのガダルカナル島では、飛行場奪還を目指した日本兵6千名が飢えに苦しんでいた。

3 レイテ海戦
  日本海軍は、1944年10月、米軍のフィリピン上陸を阻止するため、大和を含む戦艦9隻、重巡洋艦13隻などがレイテ島に向かった。

  しかし、米軍の航空機により、戦艦武蔵をはじめとする戦艦3隻、航空母艦4隻、重巡洋艦6隻などを沈められた。
  戦艦大和は魚雷を被弾したが、沈没は免れ、呉に寄港して修理を受けた。

4 沖縄へ
  米軍は1945年4月、沖縄本島への上陸を開始した。
  戦艦大和が沖縄方面へ進むことについては、目的地に到達前に壊滅させられることは必至、ということで反対論が強かった。
  出来たばかりの空母「桜花」が1944年11月に、紀州半島の潮岬沖で米潜水艦の魚雷により沈められており、日本沿岸でさえ米軍の脅威にさらされていた。

  しかし、米軍が3月に慶良間諸島に上陸した際、米軍に対して航空機による総攻撃を行う旨、天皇に上奏したところ、天皇から「航空部隊だけの総攻撃なのか」との発言があり、軍令部総長から「海軍の全兵力を使用します」と回答した。
  当時、航空部隊は特攻攻撃などにより死闘を続けていたが、皇国存亡のこの際、大和をはじめとする艦船をつかわぬ法はあるか、という声も増えていた。

  こうしたことから、戦艦大和を含む艦船10隻に対して沖縄に向かうよう命令が出された。
  しかし、艦隊は飛行機の護衛がない、裸での出動であった。
  護衛機のない艦隊が空からの攻撃に対して如何に無力かは、周知のことであった。
  艦隊の司令長官は、部下をむざむざ犬死させることになるとして、なかなか納得しなかった。
  しかし、「一億総攻撃のさきがけになってもらいたい」との説明に、「そうか、それならわかった」と了承した。

5 出航、そして撃沈
  4月6日夕刻、艦隊は山口県徳山を出航した。大和には3,332人が乗っていた。
  米軍は翌日朝8時に艦隊を発見した。
  戦艦大和は昼過ぎから米軍機386機の攻撃を受けた。
  午後2時23分、大和は大爆発とともに沈没した。
  沈没地点は屋久島の西方で、沖縄には半分も進んでいなかった。

  10隻の艦隊のうち、大和を含め6隻が沈んだ。
  戦死者は大和で2,740人、全体で4,044人だった。

「知らなかったぼくらの戦争」 [昭和史]

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 2017年4月、小学館刊。
 編著者は、アメリカ生まれのアーサー・ビナードさん。

 第二次世界大戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争と戦争が続くアメリカから、1990年に戦後は戦争がない日本に来て、いろいろな人に話を聞き、戦争のことを考えた。


1 太平洋戦争開戦時に小学生だった女性の話
  私の母は「日本は勝つはずがない」といった。
  私は母に「お母さんのような非国民がいるから日本は勝てないんだ!」といった。
  母は「あなたのような純粋な心には、お母さんはなれないよ」といった。
  私も内心では「日本はどうなるんだろう。負けるんじゃないか」と不安を感じた。

2 真珠湾攻撃
  1939年から始まっていたドイツの侵略戦争に対して、アメリカは対日対独宣戦布告の口実を血眼になって探していた。アメリカが参戦するには、困難な議会の承認を得る必要があった。
  1941年12月の時点で、米軍はすでにレーダーを開発していたので、日本艦隊の動きを事前に把握できていたはずだ。

  直ぐに代わりを用意できるアリゾナ号のような戦艦は、そのまま真珠湾に無防備にとどまっていた。撃沈されたら困る、大事な航空母艦はすべて前もって、ハワイから遠い海域に避難させていた。
  日本軍の真珠湾攻撃で2,345名のアメリカ兵が死んだ。
  アメリカは壮大な罠をしかけ、兵卒をネズミ捕りの餌のように利用して、「開戦」の口実を手に入れた。

  アメリカのカメラマンが撮った真珠湾攻撃の実写フィルムが、参戦に否定的だったアメリカの世論を、戦争賛成にがらりと変えた。

(そのころアメリカと日本の航空母艦の数はほぼ同じで拮抗していた。真珠湾攻撃は、敵のそれを叩くことが大きな目的だった。しかし、日本軍は航空母艦を沈めることは出来なかった。)

3 安倍総理の真珠湾訪問(2016年12月)
  安倍総理が真珠湾でこう話した。
  「戦争が終わり、日本が、見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは米国であり、アメリカ国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は未来へと命をつなげることができました。」
  いくらなんでも原爆投下を完全無視して、この期に及んで誰かの古着と粗悪な脱脂粉乳のお礼を述べるなんて。

4 日系アメリカ人の話
(1)真珠湾攻撃が報じられた日を境に、周囲の視線が急に厳しくなった。特にカリフォルニアというところは、そもそも東洋人に対して厳しい差別待遇をしていたけれど、中国人が一番排斥の対象になっていた。ただ、真珠湾攻撃の後、代わって日本人が一番排斥の対象になった。

(2)日系人の俺たちはアメリカ人だ。しかし、米軍による日本への爆撃の指揮官だったカーチス・ルメイ大将って、いまだに許す気持ちになれない。日本側にはもはや反撃する能力がないと知っていて、それなのにどしどし焼夷弾を落としまくって、日本中の都市を火の海にして、無差別殺戮を繰り返したんだ。

5 大久野島に学徒動員された女性の話
 *大久野島・・広島県竹原市にあり、ここで1929年から陸軍が毒ガスを製造した。
        1945年までの3年間に、中学生1,048人が動員された。

  大久野島で何が行われているか、まったく知らされなかった。
  到着して2,3日するとガスマスクが配られた。
  1か月もたつと、体調を崩す子が少しずつ出てきた。
  島全体が汚染されていた。
  昼食後に松葉をつまようじ代わりにした子は、頬や歯茎が腫れ上がったりした。
  
6 ニューギニアからの帰還兵の話
  日本が負けて、ニューギニアから撤退することになったとき、動けない重傷兵がいた。
  私は彼らに「必ず迎えに来るからな。もし死んでいたら遺骨を拾って内地に届けるから、それで勘弁せいや」、こう言い残して日本に帰ってきた。
  その約束を守って、戦後のニューギニアで遺骨の収集を続けた。

7 沖縄の女性の話
  沖縄から長崎に向かい、米軍の潜水艦の魚雷により撃沈された「対馬丸」に乗っていた。
  対馬丸には、本土に疎開する子供、老人、教員など1,800人が乗っていたが、生き残ったのは300人だけだった。
  9歳だったけれど、船が沈没した後、運よく筏に乗り込むことができた。
  水も食料もない中を漂流して六日目に救助された。

 (対馬丸はスピードの遅い中古の貨物船だった。出航する際は2隻の軍艦が護衛についていたが、それらは米軍の潜水艦の襲撃を恐れ、スピードの遅い対馬丸を残して先に行ってしまった。)

  国は、この惨事を隠ぺいするため、生き残った女性たちを家に帰さず、隔離した。
  ようやく帰ることができた沖縄では、直ぐに沖縄戦が始まった。
  山奥へ逃げ、何とか生き延びることができた。

<対馬丸>
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CIAの対日工作 [昭和史]

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  *「CIA秘録」(ティム・ワイナー著 ニューヨークタイムス記者 文芸春秋刊)に拠る。

  CIA(アメリカ中央情報局)は、自国の国益のために世界中で活動する。
  日本では戦後どのような活動をしてきたのだろうか。

1 有末清三の利用
  アメリカ占領軍は、終戦時の日本の参謀本部で諜報責任者だった有末清三に目を付けた。
  有末並びにその配下の者は以下のような指示を受けた。
  ① 日本の共産主義者に対する工作
  ② スパイを北朝鮮、満州、サハリン、千島に潜入させ、情報収集すること。
  ③ 中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し、台湾に日本人の有志を送り込むこと。

  有末らは活動資金として当時の金で1千万円を手にしたが、効果は殆どなかった。
  逆に、アメリカ側の情報が有末らを通じて、共産中国に流れていた。

2 児玉誉士夫の利用
  児玉は朝鮮戦争中に、アメリカ人実業家などと協力しながら、CIAの資金援助を受けて秘密工作を行っていた。

  米軍がミサイルの堅牢化に使われる希少戦略金属のタングステンを必要としていたため、CIAは児玉に日本軍の貯蔵所にあったタングステンをアメリカに密輸させた。

  児玉は自分の資産の一部を日本の保守的な政治家に注ぎ込み、それによってこれらの政治家を権力の座につけることを助けるアメリカの工作に貢献した。

3 保守政治家の支援
  CIAは以下の目的のために、保守政治家を金銭的に支援した。
  ① 占領終了後も、アメリカの影響力を引き続き保持する。
  ② 在日米軍の駐留を許容する意識を日本人の間に育む。
  ③ 日本に左翼政権が誕生する可能性を減らす。

4 岸信介
  岸はA級戦犯容疑者として巣鴨刑務所に3年間収監されていたが、釈放後はCIAの援助を受けて、政界のトップへの道を進んだ。
  岸が舵を取る新しい自由民主党は、自由主義的でも民主主義的でもなく、帝国日本の灰の中から立ち上がった右派の封建的な指導者たちを多くそのメンバーとしていた。
  岸は首相になり、日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていく。
  岸はCIAと二人三脚で、アメリカと日本との間に新たな安全保障条約を作り上げていこうとする。
  アメリカは、日本に軍事基地を維持し、核兵器も日本国内に配備したいと考えていた。

  CIAと自民党との間で行われた最も重要なやり取りは、情報とお金の交換であった。
  アメリカ側は、将来性のある若手政治家との間に金銭による関係を確立した。
  彼らは力を合わせて自民党を強化し、社会党や労働組合を転覆しようとした。

  CIAの資金は、日本で自民党の一党独裁を強化するのに役立った。

5 資金援助の終了
  アメリカはそれが暴露された時の影響が大きいと考えるようになり、日本の政党に対する資金援助は1964年ごろに段階的に停止された。

 *その後について、この本には記載はないが・・

洞爺丸などの青函連絡船沈没事故 [昭和史]

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  * 以下の書籍を参考にした。
    「洞爺丸はなぜ沈んだか」 上前淳一郎著 文春文庫 1983年刊
    「洞爺丸転覆の謎」    田中正吾著 成山堂書店 1997年刊

  洞爺丸は、青森函館を結ぶ青函連絡船。
  1954年9月26日、台風15号の猛威により洞爺丸は沈没し、1,314名の乗員乗客のうち1,155人が亡くなった。
  この日、他にも4隻の青函連絡船が沈没し、275人が亡くなっている。犠牲者の数は合わせて、1,430人となり、世界最悪の海難事故とされてきたタイタニック号の犠牲者数にほぼ匹敵するものであった。

1 台風15号の脅威
   ① 函館の西側を進んでいた。
    (逆時計回りに風が吹く台風の右側は、自身の進むスピードが加わって強風が吹く)
   ② 日本海上をゆっくりと進みながら、さらに発達しつつあった。
   ③ 台風が北上するにつれ、18:00過ぎから強風が陸上に邪魔されず、津軽海峡から函館湾へ直接吹き付けるようになった。

2 青函連絡船12隻の被害状況
(1)無事だった船(7隻)
  ア 青森港へ避難していた船: 羊蹄丸と渡島丸の2隻
      羊蹄丸は函館へ向けて16:30に出発予定であったが、青森の風は強くはなかったものの、気圧が低いままであったため、船長は出発延期を決定。もし、乗客を乗せて函館に向かっていれば、遭難の可能性が大きかった。
            
  イ 函館港内に残った船: 石狩丸、第六青函丸、第八青函丸の3隻
  
  ロ 函館港の防波堤の外へ出て、風に船首を立てて走り続ける航法を取り沖へ逃れた船: 大雪丸、第十二青函丸の2隻 

(2)沈没した船(5隻)
    いずれも、函館港の防波堤の外へ出て、そこで錨を降ろし、台風をやり過ごそうとした。
    乗客が乗っていたのは洞爺丸のみ。

    北見丸(貨物船) 沈没   乗組員76名のうち70名が死亡
    日高丸(貨物船) 沈没   乗組員76人のうち56人が死亡
    十勝丸(貨物船) 沈没   乗組員76人のうち59人が死亡
    洞爺丸     座礁 転覆 乗員乗客1,314名のうち1,155人が死亡。
    第十一青函丸   沈没   乗組員90名 全員死亡

 
    第十一青函丸(貨客船)は、乗客176名、乗組員90名、42車両とともに、13:20にいったん出港したが、33分後に引返し、乗客を下船させた。一部の乗客は洞爺丸に乗り移った。

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3 洞爺丸の状況
   14:40 出発予定。第十一青函丸からの乗り換えや短時間の停電のために遅れる。
   15:10 出発延期決定。
       沖出し(乗客を降ろして船を岸壁から離す)はせず。
   17:40 18:30に出航することを決定。
   18:39 出航。
   19:01 防波堤を出たところで風速計が40メートルを超えた。
       錨を降ろして停止。

       錨が充分効かず、七重浜方面へ少しづつ流される。
       エンジンを動かして、流されるのを止めようとするが、機関室へ浸水。
   22:07 エンジン停止。
       七重浜への座礁が避けられなくなった。
   22;26 七重浜の800メートル沖で座礁。
   22:40 SOS発信。      
   22:45 転覆。

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4 洞爺丸の船長の判断
(1)台風の猛威に対する判断を誤った。
    当時の天気予報は現在のものに比べはるかに精度が低い。このため、判断を誤ったのであるが、船長は天気予報の精度が低いことを十分承知しているはずであり、それだけに乗客を降ろしてから沖だしをするなどの慎重な判断が求められた。

(2)防波堤の外で錨を降ろして停泊した船がすべて沈没した。そうした対応を認めていた当時の国鉄(JRの前身)のマニュアルに問題があった。

(3)国鉄は事故の翌日、設計上の欠陥もなく、万全の措置を取っていたので、災害は不可抗力によるものと発表し、世論の大きな反発を招いた。

(4)海難審判では、「船長の運航に関する職務上の過失」という裁決であった。
 
5 その後の対応
(1)1964年から新しい大型の連絡船が順次投入された。

(2)1988年には青函トンネルが開業し、青森・函館間の青函連絡船はその役割を終えた。

「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」 [昭和史]

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  文春新書の一冊。2013年刊。
  著者は有馬哲夫さん。

  戦中、戦後を通して暗躍した右翼国粋活動家、児玉誉士夫に迫る。


1 戦前の活動
  児玉は10代で右翼団体に所属し、21歳で満州に渡ったのを皮切りに、何度も中国と日本の間を往復するようになる。
  そうした中で、児玉は次第に日本陸軍の手先として、以下のような役割を担うようになる。
  ① 情報収集
  ② 物資の調達

  1941年11月、30歳の時に海軍航空本部から戦略物資の調達を依頼される。
  調達は物々交換で行い、児玉は、満州で栽培されたアヘンや、中国の占領地で没収した貴金属を相手に渡して必要な物資を調達した。

  これらの業務で巨額の利益を得て、中国でタングステンやモリブデンなどのレアメタルの鉱山を開発したり、製鉄所を作ったりもしていた。また、終戦間近では、日本国内でも6か所のレアメタル鉱山を保有するようになっていた。

2 巣鴨プリズンへの収監
  児玉は46年1月、A級戦争犯罪容疑者の指定を受けて巣鴨プリズンへ収監された。
  容疑は、不正蓄財疑惑、アヘンを使った物資調達など。

  いろいろ調べられたが、児玉は1948年12月、無罪放免となった。

3 戦後の活動
(1)海軍からの資産
  海軍が児玉に預けて残っていた資産については、そのまま児玉の手元に置かれ、海軍の生き残りの人たちのために使ってくれということだった。
  児玉はそうした資産を鳩山や河野といった有力政治家へ渡したとも言われている。
  児玉は河野と一緒にダイヤモンドを売り歩いたといううわさもある。

(2)台湾での活動
  1949年、中国共産党と闘っていた国民党のために、台湾義勇軍を中国本土に送り込むため、児玉は募兵活動や輸送の手配を引き受けた。
  児玉は、台湾独立運動にも加担した。
  これらに必要な資金を調達するため、台湾船で医薬品などを日本に密輸することも行った。

  これらはアジアでの共産化を防ぐための活動であり、GHQの手先となって行ったものとみられる。

(3)日本での反共産主義プロパガンダ
  アメリカは、日本を親米的で反共産主義的な国に確実に再生させるためには、心理戦と政治戦を行うことが必要と考えた。
  そのためには、日本の政治家、外交官、知識人、メディア関係者、労働組合、学生組織等に資金を与えて協力させることが必要であった。

  この資金の調達方法としてアメリカ側は、児玉が大量にか抱えていたタングステンの利用を考えた。
  アメリカ側は児玉を通じてタングステンをかなりの安値で買い付け、これによって得た巨額の資金を基に対日政治・心理戦を行った。
  日本テレビの設立には、その一環としてアメリカの資金も使われた。
  児玉もこれらにより巨額の資金を得た。

(4)政界工作
  児玉は、再軍備に消極的な吉田茂首相を排除し、再軍備に積極的な鳩山一郎や重光葵を支援して、首相にしようとした。
  1952年には、鳩山に政権を取らせるためのクーデター計画にも児玉は名を連ねたとのうわさもあったが、この計画は実行に移されることはなかった。
  鳩山に対してはCIAからも支援金が出ていた。

  児玉の活動の基本方針は以下の通りで、アメリカの方針とも一致していた。
  ① 反共産主義
  ② ナショナリズムの復活
  ③ 再軍備

(5)鳩山政権の成立
  1954年12月、児玉が支援していた鳩山一郎が首相になった。
  鳩山は「自主防衛」という考えを明確にした。
  しかし、鳩山はソ連との国交回復を政治目標に掲げる。
  これは児玉の考えとは相容れず、関係が弱まることになる。

(6)ロッキード社との関係
  1957年に成立した岸内閣で、自衛隊の次期主力戦闘機の機種選定で揉めた。
  首相の岸はグラマンを押し、河野と児玉はロッキードを主張した。
  岸は、グラマン社やCIAから資金的な支援を受けていたとみられる・
  児玉はその後、ロッキード社の秘密顧問に就任している。
  最終的に、ロッキード社が選ばれた。
  この決定により、ロッキード社から児玉や政界に相当のお金が流れたとみられている。

  その後、ロッキード社の旅客機トライスターの全日空への売り込みの仲介も行った。
  しかし、ロッキード社が突然、アメリカの上院の委員会で、児玉に21億円のお金を渡していたことを証言した。
  児玉は仮病を使って病院に逃げ込んだが、後に、外国為替法違反と脱税で起訴され、児玉の活動は終わった。

  1984年1月、児玉は脳こうそくがもとで、71歳で亡くなった。

<児玉と岸信介>
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満州移民の悲劇 [昭和史]

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  岩波現代全書の一冊。2017年3月刊。
  著者は日本近現代史を専門とする加藤聖文さん。

  1932年から1945年にかけて、多くの日本人が満州に渡り、農業に従事した。
  その総数は27万人にのぼる。

  この本の冒頭に、ある開拓民の証言が記載されている。
  「私の妻は子ども5名を手にかけて殺しております。熊本の母親たちは誰でも同じです。生きて帰った彼女たちはどんなに自らを責め苦しみながら生きてきたことか。」

1 満州への農業移民が行われた理由
   1931年9月に満州事変が勃発し、1932年3月に満州国ができた。
   この満州国へ、なぜ日本各地から多くの農業移民が行われることになったのだろうか。

 ① 1924年の排日移民法により、アメリカへの移民が不可能になった。
 ② 1929年の世界恐慌以降、経済的に大打撃を被った農村の救済が急務となった。
 ③ 満州国は日本が支配権を握っていたものの、人口構成は漢人が3,000万人を超えていたのに対して、日本人は30万人にも満たず、日本人の人口増加が必要であった。
 ④ 満州国内の抗日ゲリラや極東ソ連軍の脅威に対応する為、関東軍や満州国軍に加え、武装移民の必要性が高まった。
 ⑤ 日本国民の間に、満州国建国に熱狂し、社会的矛盾がすべて満州によって解決されるかの「幻想」が生まれた。

2 具体的な内容と問題点
(1)1932~1933年に武装移民団が入植した。しかし、うまくいかず、退団者が続出した。その理由は・・
   ① 募集や準備の期間が充分でなく、移住地の選定が稚拙であり、また寒冷地対策ができていなかった。
   ② 農業経験者が少なかった。
   ③ 匪賊による襲撃や現地民との軋轢により、治安が悪化した。
   ④ 衛生状態が悪く、赤痢などの伝染病が発生した。

(2)こうした状況にかかわらず、1934年からは武装移民ではなく、普通移民により、移民の本格的拡大が行われることになった。対象を全国規模に拡大し、府県への割り当ても行われるようになった。

(3)さらに、1936年には百万戸移住計画が出されるなど、移民の規模は一気に拡大することになった。これはソ連軍に対する防御の一環として考えられた。ソ連軍はそのころまでに総兵力23万へと増強され、関東軍の兵力5万を大きく上回っていた。

   関東軍は対ソ兵力の劣勢を補うために、大量の人的勢力と有事の際の軍事拠点を満州国内で確保しなければならなかった。そのためには、ソ連軍の攻撃を受けた際に動員できる日本人移民を大量に入植させることが必要であった。

3 戦況の悪化
(1)日中戦争の長期化に伴い、以下の理由により満州への開拓民を確保することが容易ではなくなった。
   ① 戦争により、開拓団の中核となるべき成人男性が次々と招集されていった。
   ② 都市部の軍需工場への農村部からの出稼ぎが増加した。

(2)このため、10代の青少年を対象にした義勇軍の役割が増すことになった。募集は各府県へ割り当てられ、学校で教師が生徒を勧誘した。

(3)1945年5月には、ソ連の参戦も懸念されたため、在満日本人のうち、17歳から45歳までの男性がすべて軍隊に召集された。このため、一般開拓団では、40戸の部落で100人近い女性・子供に対して男性は老人と病弱者が数人という絶望的な状況が生まれていた。

(4)関東軍は、こういった召集もあって70万人の勢力を持ったが、ソ連軍はその当時174万人の兵力を動員し、火砲、戦車、航空機の数量も関東軍を圧倒していた。

4 ソ連軍の満州侵攻
(1)1945年8月9日、ソ連軍は満州に侵攻した。8月19日に停戦合意が成立し、関東軍の武装解除が始まったが、場所によっては8月末まで戦闘が続いた。兵士たちの大半はソ連へ連行され、シベリア抑留となった。

(2)ソ連軍は開拓団も容赦なく攻撃した。また、中国農民の襲撃を受けた開拓団も多く、悲惨な状況となった。逃げのびる過程において、集団自決したり、自分の子供を殺したりした。女性が中国人の現地妻になったり、子供を中国人に預けたりしたことも多かった。

(3)ソ連軍の収容所に入れられたものも、婦女子は暴行されたり、栄養失調、極寒などに苦しめられ、亡くなるものも少なくなかった。

戦争前の日米関係 「清沢冽評論集」より [昭和史]

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  清沢冽(1890~1945)は、16歳から28歳までアメリカで生活。働きながら勉強し、在米日系紙の記者として活躍。その後、日本に戻り、朝日新聞等で働いたが、反軍国主義の論調が右翼の攻撃を受け退社。以後、フリージャーナリストとして、終戦直前まで平和主義、自由主義に基づいた執筆活動を続けた。

  岩波文庫の一冊の「清沢冽評論集」から、太平洋戦争前の日米関係に関する彼の評論のポイントを拾ってみた。

1 「日米問題の現状」、「日米の関係」(1925年発表)
(1)カリフォルニア州への日系移民が増えたのは、1882年に成立した中国人排斥法の影響で中国移民が減少した穴を埋める必要があったことによる。

(2)しかし、日系人労働者が増えてくると、白人労働者の不満が募ることになった。攻撃された点は・・
   ① 日本人は安い給料で働いて、白人労働者と競争する。
   ② 長い時間、働きすぎる(朝5時から夜8時まで働いた)。
   ③ 働いて得たお金をアメリカで使わずに、日本に送ってしまう。

(3)このため、カリフォルニア州で排日運動が盛んになり、日本人を標的にした法律が次々と成立した。この結果、日本からの移民が停止されたほか、在米邦人の土地取得や賃借が制限されることになった。
    1913年 排日土地法が成立
    1920年 排日法が成立

2 「アメリカは日本と戦わず」(1932年発表)
(1)アメリカにいる約30万人の日本人は、今や日米戦争の声におびえ、安きここちもない状態である。

(2)しかし、日本とアメリカの間に戦争は起こらないと思う。理由は・・・
  ① アメリカは日本の満州進出について抗議の声をあげているが、アメリカ国民全体から見れば、満州問題に対する興味は殆どない。アメリカ人は国際問題に関心はない。アメリカは国民の世論が動かなければ何ら行動できない国柄である。

  ② 排日の動きや米国艦隊のハワイ集結などから、日本では今にもアメリカが戦争を仕掛けてくるのでは、という雰囲気になっているが、アメリカでは対日感情は案外冷静である。日本のような国家主義的な国では世論が一つの方向に流れやすいが、アメリカのような雑多な人種が住む広大な国ではそうはならない。

  ③ アメリカが満州や中国問題で日本に干渉しているのは、アメリカが1928年に15か国が署名した不戦条約の主唱者であり、日本がこの条約の「国際紛争解決のために戦争に訴えることをしない」という条項に違反しているのではないかという点からである。アメリカは自らこの条項に違反して、日本に戦争を仕掛けるようなことはしない。

  ④ アメリカにおいては米国議会が賛成しなければ戦争できない。自由論議を特徴とする米国議会が、にわかに賛成しないことは第一次世界大戦の時の状況からも明らかだ。

  ⑤ 戦争が始まったとしても、大会戦が行われる機会がないとすれば、必然的に持久戦にならざるを得ない。持久戦は経済戦を意味する。両国ともこれが分かっているから、戦争を始めようとはしない。

  ⑥ 国境を接していれば、いまのように悪化した国民の感情が勃発する危険はふんだんにありうるけれども、日米両国は距離が遠く離れており、衝突の機会が比較的少ない。

(3)しかし、日本では日米戦争論の声が沸き立っている。世界のどの国において、現在の日本におけるような戦争論が流行を極めているところがあろうか。国家を賭し、何十万の生命を犠牲にするところの真剣なる戦争を、まるでスポーツのような気持で論じ、叫び、興味を持ってみているではないか。

(4)こうした日本の動きがアメリカに伝わり、アメリカ国民の警戒心を起こす。そうするとそれがまた日本に響く。こうした因果関係が、国交に害を及ぼし、相互に軍備及び軍部の行動に影響を及ぼすのは余りに当然である。

(5)現在、日米間に介在する問題は、移民問題と支那問題である。
  ア 移民問題については、アメリカの態度がよくなく、無用に日本の神経を刺激し、日本の敵愾心を煽っている。しかし、それがどんなに遺憾な事実であっても、戦争によって解決すべき問題と思う者はいないであろう。

  イ 支那問題についても、アメリカがこのために戦う意志は見られない。

(6)戦争によって解決される問題は全くないのに対して、これから起こる危険性は非常に多い。戦争は悲惨であろう。例えば、日本が飛行機爆弾の標的となって、日本のような木造家屋を有する国が最も危険にさらされる。貿易の大部分の途絶により、衣食住の欠乏からくる窮迫、生産者の出征による生産の減少などが発生しよう。

   * 日本はアメリカとの無謀な戦争に自らを追い込み、著者が予想したような悲惨な状況となった。