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「イタリア古寺巡礼」 [美術]

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  著者は、哲学者の和辻哲郎(1889~1960)。
  1927年末から3か月間、イタリア旅行した時の記録。
  岩波文庫所収。

1 ミケランジェロ「モーゼ像」 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会
  ミケランジェロは、ギリシャ彫刻のように、「中から盛り出るもの」を刻みだそうとしている。
  決して上っ面の、中の空っぽな形だけを作ろうとしているのではない。

  モーゼのひげ、着物のひだ、腕や肩の肉、いずれもほとんんど全体の形を無視するかのように、むくむく盛り上がっている。
  その局部的な表現力で、全体の輪郭などをわざわざ見せないようにしているのではないか、と思われるほどである。

  こうしたことで「内なるもの」を、あるいは精神を、外に押し出すことができる。
  それが彼のねらいであったと思われる。 

ミケランジェロ モーゼ.png

2 「ヴィナスの誕生」 ローマ国立美術館
  この像が最初に与える印象は構図の妙である。
  中央の海から出ようとするヴィナスが両方に腕をあげ、それを左右から二本ずつの腕が出て助け上げようとしている。
  実に鮮やかな統一、微妙な調和、一点の晦渋さもない。
  この厳密なシンメトリーには機械的な繰り返しはいささかも含まれていない。

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3 「ニオベの像」 ローマ国立美術館 
  ニオベがアポロの矢を背中に射こまれて、その瞬間に、ひざまずこうとしつつ、同時に手で背中の矢を抜こうと焦っている。
  そういう瞬間的な非常な動作を現わそうとしたものである。
  ニオベは危急の際の激烈な動作のために、着物が脱げて肉体が露出することなど構っていられない。

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4 ミケランジェロ「最後の審判」 システィーナ礼拝堂
  最初に感じたことは、この堂自身が壁画や天井画のためにあるのであって、絵がお堂のためにあるのではないということであった。
  堂の構造そのものが絵のためにできている結果として、絵の効果は十分に発揮され、堂内は芸術的な美しさに満たされたものになる。

  驚くべきことは深さの巧みな活用である。
  同じ一つの平面に描かれていながら、人物が明らかに層を異にして見える。
  そういう立体感の活用によって、それぞれの画像の連絡統一が実に巧妙に行われている。

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5 「シヌエッサのヴィナス」  ナポリ国立美術館
  このヴィナスの美しさはパリにある「ミロのヴィナス」の比ではなく、今まで発見されたヴィナスの裸像のうちでこれほど優れたものはない。

  残っている下半身だけでも、この彫刻が神品であることを感ぜしめるに十分である。
  あらゆる点が中から湧き出して我々の方に向いている。

  霊魂そのものである肉体、肉体になり切っている霊魂である。
  人間の「いのち」の美しさ、「いのち」の担っている深い力、それをこれほどまでに「形」に具現したことは、実際に驚くべきことである。

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古美術読本「陶磁」 [美術]

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  光文社「知恵の森文庫」の一冊。2006年刊。
  当初、1987年に出版された本を文庫に収録したもの。

  陶磁についての、いろいろな執筆者によって書かれた文章を集めている。

1 「陶磁の美」 芝木好子(小説家)
  ・東洋陶磁を楽しむのに、大阪市立東洋陶磁美術館ほど良いところはない。
  ・私は李朝の、白磁に呉須の草花文の清楚さも好きだが、中国のものに一層惹かれる。

  ・中でも私の好きなのは青磁で、北宋官窯の端正で清冽な翠青や、藍青色の瓶や壺をみると、心を洗われる。

  <飛青磁 花生>
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2 「染付皿」 小林秀雄(評論家)
  ・平凡な日常性のうちに生きている美、これが利休の美学の根本観念であった。彼の健全な思想が、茶人趣味に堕落したという問題は別にして、日用雑器の美に対する非情な鋭敏、平凡な物、単純なもの、自然なもの、というような言葉で、仮に呼ばれている美についての、非常に高度な意識、それが、利休の美学によって、私達日本人の間に育てられたことは間違いない。

3 「秘色青磁」 幸田露伴(小説家)
  ・青磁は柴窯(さいよう)からということになっていて、昔から異論もなく、その初頭の青磁を秘色と称えて非常に結構なものとしているが、誰もまだ確実明白に、これが真の秘色だという極めのついたものを、歴史的の証拠を具備して見定めた者のあることを聞きませぬ。

   *柴窯は、後周の柴世宗が作らせた窯であるが、その場所はいまだ確認されていない。また、そこで作られた青磁は、歴史上最上級の「幻の至宝」とされているが、公に認めらてたものはまだ一点も発見されていない。

4 「李朝陶磁の美とその性質」 柳宗悦(民芸研究家)  
  ・日本ではとかく正確さに執心したり、逆に不正確さに美しさがあると気付くと、すぐ不正確さに執心する傾きが濃い。日本の楽茶碗のごときは、この執心の表れに他ならない。

  ・ところが井戸茶碗などをみると、もとより正確さに無関心な心が生んだものゆえ、どこかに歪みが出ているが、その歪みは決して不正確さに執心があっての結果ではない。朝鮮では正確さにも、また不正確さにも気を奪われることがないのである。

  ・茶人たちが随喜した井戸のごとき高麗茶碗は、茶意識のごときものから解放されたものなのである。それはもともと雑器で非茶器であった。実はこの美意識から解放された自由さが「井戸」の美を生んでいるのである。

 <井戸茶碗>
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5 「日本の陶器の味について」 小林太市郎(美術史家)
  ・中国の磁器は土から出ながら、土を離れて玉となり、天空の色をあらわすものに他ならない。

  ・日本の陶磁は決して玉とならず、天の色をあらわさない。いかに精妙な日本の青磁であっても、それが中国青磁と同じく滴るような雨後の晴天を示すということは決してない。日本の青磁の色はどんなによくしても土の色である。天の光がそこにはない。

  ・土を離れず、陰に止まるところに、かえって日本陶磁器独特の妙味がある。

6 「茶碗の美しさ」 谷川徹三(哲学者)
  ・茶碗というものは使用によって美しくなるものである。

  ・井戸茶碗のあの肌のさびた味わいは、長年使っている間に自然に茶渋や手脂のしみ込んだところから生まれたものなのである。

世界の美術館の入場者数 [美術]

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中国国家博物館

 CNNの電子版が、2016年の入場者数が多い世界の美術館、上位20を伝えている。

1 中国国家博物館(北京)         760万人
2 国立航空宇宙博物館(ワシントンDC)   750万人
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3 ル-ブル美術館(パリ)         740万人
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4 国立自然史博物館(ワシントンDC)    710万人
5 メトロポリタン美術館(ニューヨーク)  690万人
6 大英博物館(ロンドン)         640万人
7 上海博物館(上海)           630万人
8 ナショナルギャラリー(ロンドン)    630万人
9 ヴァチカン美術館(ヴァチカン)     600万人
10 テート モダン(ロンドン)       580万人
11 アメリカ自然史博物館(ニューヨーク)  500万人
12 故宮博物院(台北)           470万人
13 自然史博物館(ロンドン)        460万人
14 ナショナルギャラリー(ワシントンDC)  430万人
15 エルミタージュ美術館(セントペテルスブルグ) 410万人
16 中国科学技術博物館(北京)       380万人
17 スミソニアン博物館           380万人
18 ソフィア王妃芸術センター(マドリッド) 360万人
19 韓国国立中央博物館(ソウル)      340万人
20 ポンピドーセンター(パリ)       330万人


  これまでトップの座を占めていた、ルーブル美術館がトップの座から落ち、第三位となった。テロ事件の発生に伴う観光客の減少により、入場者数が前年比15%減少した。
  パリのオルセー美術館も同じ理由で、20位以内に入れなかった。

  北京の中国国家博物館、ワシントンDCの博物館、ロンドンの博物館・美術館は、いずれも入場料が無料である。いずれも国立の施設であり、国民に幅広く見てもらおうという考えによる。

  日本の博物館・美術館の入場者数は以下の通り(2015年)。
  世界の上位20には食い込めていない。
 
   東京都美術館    277万人
   国立新美術館    246万人
   東京国立博物館   191万人

  東京都美術館は国立の施設を抑えて、日本一になっており健闘しているが、それだけ国立の施設の魅力が充分でないことを示しているともいえる。

  また、昨年の美術展覧会ごとの入場者数、トップファイブは・・
   ルノワール展    国立新美術館  66万人
   始皇帝と大兵馬俑展 東京国立博物館 48万人
   若冲展       東京都美術館  44万人
   カラバッジョ展   国立西洋美術館 39万人
   ゴッホとゴーギャン展 東京都美術館 39万人

  若冲展は3~4時間待ちになるほどの人気を集めたが、それでも44万人でしかないともいえる。
  日本の美術館・博物館は概して常設展示が弱い。特別展示だけでは、海外の有名美術館や博物館に太刀打ちできない。

  日本の美術品は世界に誇ることができるものである。
  しかし、それらは各地に分散し、一か所で見ることができない。

  海外の有名美術館や博物館は、観光の目玉として、外国人旅行客誘致のうえで大きな力となっている。
  一方、日本の美術館は海外の作品の収集・展示には熱心であるが、日本の美術品や陶芸品の常設展示は少なく、海外からの旅行客には魅力がない。

  国内にある、日本の美術品を一同に集め、常設展示するとともに、入場料を無料にして、多くの人に見てもらうようにすべきと思う。

写楽の謎 [美術]

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<初代市川蝦蔵の竹村定之進>

  * 以下の書籍を参考にした。
    「写楽の謎の一解決」 松本清張著 講談社文庫 1977年刊
    「写楽の謎」     田村善昭著 美術の森出版 2015年刊

  写楽は、江戸時代中期の浮世絵師。1794年5月から1795年3月までの約10か月という短い期間に145点あまりの役者絵その他の作品を出したのち、忽然と姿を消した。その素性が不明なため、写楽とは実は誰なのか、いろいろな説が出されている。

 *写楽の絵の特徴
  ① 目は半円形
  ② 小さく結んだ可愛らしい女の口
  ③ への字に固く噛みしめた男の口  
  ④ 外人並みの高い鼻
  ⑤ 五指が開いて、わなないているような手つき

1 阿波候のお抱え能役者であった斎藤十郎兵衛という説
  理由 ① 写楽が住んでいた八丁堀の近くには阿波候蜂須賀家の下屋敷があった。
     ② 阿波の浄瑠璃人形の顔が、写楽の描く面相と似ている。

  疑問点 ① 写楽の作品が阿波には残っていない。
      ② 能役者に最高級の役者絵を描くことができたか。
      ③ 能役者に一時期に大量の絵を描く時間があったか。

2 蒔絵の下絵師だったという説
    腕の立つ蒔絵師の下職人を、版元の蔦屋重三郎がスカウトした。
    しかし、① 蒔絵師は型にはまった画を踏襲する。
        ② 蒔絵師は人物の顔は不得手。
   
3 蔦屋重三郎自身であったという説
    蔦屋重三郎は歌麿を育てた一流の版元。しかし、歌麿は人気が出ると、他の版元に移ってしまった。このため、自身が写楽という名前で、雲母摺りの大首を描いた。歌麿は美人画だったが、写楽のものは役者絵だった。そして、一時期に多くの作品を大量に摺り、写楽の絵に賭けた。しかし、人気は出ず、売れ行き不振から蔦屋重三郎は没落する。

    蔦屋重三郎に絵の良し悪しを判別する能力はあったとしても、簡単に絵師になれるものではないという批判がある。

4 梅毒により精神異常をきたした絵師という説(松本清張の説)
    写楽の絵の極端なデフォルメは、絵師の視神経が侵されていたことによるもの。
    写楽は病気がもとで亡くなったため、活動期間が短かった。

5 阿波徳島藩の複数のお抱え絵師が写楽として活躍したとする説
  (浮世絵愛好家の瀬尾長氏の説)
    藩主であった横須賀重喜が若くして隠居させられた後、スポンサーとなって藩の絵師に浮世絵を描かせた。
    蔦屋重三郎があまり人気の出なかった写楽の作品を大量に売り出したのは、横須賀重喜の強力な経済的バックアップがあったため。
    この仕事には藩の絵師である矢野栄教をチーフに、数人の絵師が加わった。
    残っている栄教の絵と写楽の絵の共通点は多い。

  (写真家 田村善昭氏の説)
    阿波徳島藩の特産物である染料の藍の販売促進のため、写楽絵を大量に刷って全国の藍の問屋に配った。


   写楽は、浮世絵師のなかでも歌麿、北斎などとともに人気の1,2位を争う存在。
   その正体は、依然として不明である。


<三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛>
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<初代市川男女蔵の奴一平>
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色彩の画家 マティス [美術]

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 「ルーマニア風ブラウス」 1940年制作 パリ国立近代美術館所蔵

 * 以下を参考にした。
   「続名画を見る眼」 高階秀爾著 岩波新書
   「アンリ・マティス」 TASCHEN刊
   「バーンズ・コレクション展」1994年

  アンリ・マティス(1869~1954)はパブロ・ピカソとともに20世紀を代表する画家。
  「形のピカソ、色彩のマティス」といわれる。
  
  フランスに生まれ、法律家を目指して弁護士事務所に勤めたが、21歳の時に病気をして入院中のときに絵画に目覚めた。

  1905年、展覧会の会場でマティスなど、それまでの絵画に見られなかったような激しい原色表現をカンバス上に展開してみせる一群の画家たちの作品が一堂に集められ、「フォーヴィズム(野獣派)」と名付けられた。

  その特徴は・・
  ① 画面を単純な二次元の平面に還元する。
  ② 現実にはあり得ないような色彩を思い切って使用して、色の持つ表現力を100%利用しようとした。

  マティスは、自分の描き出す対象が現実にどういう色彩をしているかということよりも、現在自分の画面にどういう色が必要かという表現上の理由によって、実際に使う色を選んでいる。

  また、マティスの形態は単純化され、肉付けや明暗は平面化されて、的確な描線と明るい平坦な色面による構成だけが画面を支配するようになる。


  マティスの絵は日本を含め、多くの国の美術館で所蔵されているが、マティスの絵の収集家としてとくに有名なのは・・
   ・ロシアのセルゲイ・シチューキン 
       収集品はセントペテルスブルグのエルミタージュ美術館が所蔵
   ・アメリカアルバート・バーンズ
       収集品はバーンズ財団が所蔵

  マティスの代表作
  「生きる喜び」 1905~1906年制作 バーンズ財団所蔵
    海の見える田園を舞台として、思い思いのしぐさで憩う16人の男女によって構成されている。ひとびとは、互いの姿には無関心のようにそれぞれの愉しみにひたっている。
    ここでは、個々に構想された人物を異なる技法で寄せ集めた結果、様々の要素の衝突する平面が生み出されている。

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  * 部分 
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  「赤い調和」   1908年 エルミタージュ美術館所蔵
    壁とテーブルクロスが同じ赤い色で描かれている。
    左端の方の、テーブルクロス、椅子、床などの区分けははっきりしない。
    窓の外に見える小さな家はピンクで描かれ、室内と同系色となっている。
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  「ダンス」    1909~1910年 エルミタージュ美術館所蔵
    踊り子たちは手をつなぎ、活気に満ちた円を作っている。
    楕円の右側への傾きは右回りの動きを連想させ、ダンスの不規則なエネルギーを強調している。
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  「大きな赤い室内」 1948年制作 パリ 国立近代美術館
    画面のほとんど全部が、燃えるような赤で塗りつぶされている。
    画面構成は単純で、上半分には壁にかけられたデッサンと油絵、下半分には丸いテーブルと四角いテーブル。
    奥行きを排除し、画面の平面性を強調している。
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ヨーロッパの名画から [美術]

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  以下の書籍を参考にした。
    高階秀爾著「名画を見る眼」 岩波新書 1969年刊

1 プーサン「サビニの女たちの掠奪」1637年制作 
         ニューヨーク メトロポリタン美術館所蔵
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(1)ニコラ・プーサン(1594~1665)はフランス生まれの画家であるが、その生涯のほとんどをイタリアで過ごした。

(2)この絵は、ローマ建国の頃のエピソードを基に描いたもの。

(3)ローマが建国された頃は、市民の多くが軍人や他国からの流れ者で、女性がとても少なかった。しかし、国の発展のためには、男たちが結婚して子供を増やしていくことが必要だった。このため、ローマ人たちは、お祭りを催すからと言って隣国のサビニの人々を招き入れ、集まったところでサビニの女たちに襲い掛かった。サビニの人たちは必死になって抵抗したが、結局、女たちは奪われてしまった。

(4)それから数年後、サビニの男たちは報復のためにローマに押し寄せた。ローマ人たちは武器を取って迎え撃とうとしたが、ローマ人と暮らしていたサビニの女たちが両者の間に入り、仲直りさせた。その場面が以下の絵。
  <ジャック・ルイ・ダヴィッド 「サビニの女たち」 1799年制作 ルーブル美術館所蔵>
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2 マネ「オランピア」 1863年制作
           パリ オルセー美術館所蔵
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(1)エドゥワール・マネ(1832~1883)は、19世紀の絵画を近代絵画の方向に大きく推し進めた革新者。

(2)この作品は1865年のサロンに出品されたが、大きな騒ぎを引き起こした。当時の新聞や批評はこぞってこの作品に厳しい非難を浴びせた。

(3)物議をかもした理由は・・
  ① 女性の裸体自体を描くことは、それまでにも例があり非難されることではない。しかし、それまでの裸婦像は、神話か、歴史か、寓意の見せかけの衣がかけられていた。しかし、「オランピア」は、街中で出会う少女をそのまま裸にしたようにして描かれていた。当時の道徳的な常識では、この作品は超えてはいけない一線を越えてしまっていた。

  ② マネはその2年前にも「草上の昼食」(オルセー美術館所蔵)という作品で物議をかもしていた。それは、裸の女が当世風の服装をした二人の男たちと一緒にいるというものであった。
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(4)当時、社会に対する反逆者として美術界をリードしていたのはクールベであるが、彼に対抗意識を燃やしていたマネはこれらの作品により、クールベをはるかに超えていくことになる。

「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」 [美術]

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  新潮文庫の一冊。1984年刊。
  日本画家の東山魁夷(1908~1999)が、ドイツとオーストリアで描いた作品を紹介している。
  東山魁夷は1933年から2年間、ドイツに滞在したことがあるが、1970年から1972年にかけてドイツ、オーストリアを訪れ、多くの作品を描いた。
  日本画家の描くヨーロッパの風景は、油絵により描かれたものとはまた違う趣がある。

1 「窓明かり」
   リューベックの町の夜空にそびえる教会の尖塔。
   近くの窓辺に漏れる燈火の温かさ。
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2 「石畳の道」
   リューベックの、霧に湿る石畳の路地。
   渋みのある赤煉瓦の壁。
   ガス燈の形をそのままに残す街燈。
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3 「ニュールンベルクの窓」
   古城の窓から、教会の尖塔のそそり立つ町を見下ろす。
   中世のドイツ皇帝の町。
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4 「石の窓」
   中世の城壁に囲まれて、昔ながらのネルトリンゲンの町は静かに眠る。
   市庁舎の石の階段の下に古風な石の窓。
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5 「晩鐘」
   巨大な寺院は、その姿を逆光の暗さに沈め、夕影に蔽われたフライブルクの町に、高くそびえていた。
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「謎解きゴッホ」 [美術]

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  河出文庫の一冊。2016年刊。
  著者は多摩美大教授の西岡文彦さん。
  フィンセント・ファン・ゴッホ(1852~1890)の生涯を辿る。

1 ゴッホの挫折
(1)子供時代のゴッホは学業優秀で、16歳から働き始めた美術を取り扱う会社でも誠実な働きぶりを評価されていたが、ハーグからロンドンに転勤なってから、暗転する。そこで失恋を経験した後、仕事が手につかなくなり、パリ支店に移された直後に解雇されてしまう。

(2)その後、父親と同じ牧師の道を志すことになるが、ゴッホの言動の異常さもあって、牧師の適性に欠けるということで、牧師になることは出来なかった。

(3)農夫や炭鉱夫など、苦悩にあえぐ人々に神の言葉を伝える仕事として目指していた牧師の道を絶たれ、ゴッホは、悲惨な境遇にある人々の姿を絵画を通して世に伝える仕事に、最後の希望を見出そうとした。ゴッホが絵画に願っていたのは、美術館や画廊に麗々しく飾られて、取り澄ました金満家に購入されるぜいたく品になることではなく、つつましく日々を生きる人々の生活の中で愛されることであった。

2 画風の変遷
(1)初期の画風
    ミレーを理想として、重労働にあえぐ農夫や炭鉱夫の姿を、土と灰で描いたような画風であった。自然の語る言葉を速記術のように描きとめるための早描きの手法もこのころから用いていた。
  <「ジャガイモを食べる人々>
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(2)印象派と浮世絵の影響を受けてからの画風
    日本の画家を芸術家の理想とし、浮世絵を絵画の理想として、浮世絵にならい、明確な輪郭線と平板な色面で画面を構成した。アルルの炎熱の下で追及された爆発的な色彩や、黄色でひまわりを描いた作品に代表される画風である。
<「ひまわり」>
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(3)晩期
    タッチの渦巻く画風である。乾燥の遅い油絵の具で速筆を試み、なおかつ絵具の混色を避けるには、タッチを寸断する以外に手法はなかった。激烈な色彩は影をひそめた。
<「オ-ヴェールの教会」>
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3 ゴッホの自殺
(1)1890年7月27日、村はずれで37歳のゴッホは自分の左胸にピストルで銃弾を撃ち込み自殺を図った。心臓を外れたため直ぐには死に至らず、自力で下宿の自分の部屋に戻った。そこで、医師の手当てを受けるも、翌日、パリから駆け付けた弟のテオの腕に抱かれて息を引き取った。

(2)ゴッホは、自分の発病の原因は、度の過ぎた飲酒と喫煙とひまわりの絵を制作したことにあると思っていた。

(3)テオは兄ゴッホが画家を目指して以降、ずっと支え続けた。収入の半額を兄への仕送りに当てていたともいわれる。ゴッホは弟テオを頼りに絵画の制作を続けてきた。しかし、テオが1889年に結婚、翌年1月には子供もできたため、ゴッホは自身がテオの重荷になっていると感じた。

4 ゴッホの死後
(1)ゴッホが亡くなって半年後、テオは兄の後を追うようにして、精神病院で亡くなった。

(2)テオの妻ヨハンナは、テオとの結婚生活は短いものではあったが、その後の人生をテオの遺志を継いで、ゴッホの絵を世に知らしめることに力を注ぎ、またテオが保管していたゴッホからテオに当てた膨大な数の手紙の整理に努めた。

(3)ヨハンナの努力の甲斐があって、1905年にアムステルダムでゴッホの回顧展が、1912年にロンドンで後期印象派展が開催され、ゴッホの名声がようやく確立していくことになる。1914年にはゴッホの書簡集も出版された。

(4)テオとヨハンナの息子フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは売らずに持っていた油絵200点などを国に譲渡し、1973年、アムステルダムに国立ゴッホ美術館が開館した。
   
<テオとヨハンナ>
テオとヨハンナ.png
  

聖母子像 [美術]

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  <ラファエロ「サン・シストの聖母」>

  キリストとキリストの母マリアを描いた絵画は大変多い。
  ルネッサンス期以降の代表的な作品は以下の通り。
  
  *聖母子像の約束事
    聖母マリアは赤い衣装を着て青いマントをかける。

1 レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」
  1508~1510年頃の作 ルーブル美術館所蔵
  聖アンナは聖母マリアの母。聖母子像に聖アンナが登場するのは珍しい。
  背景の山岳風景ならびに聖アンナの微笑は「モナ・リザ」に似ている。
  仔羊にまたがろうとするイエスは、十字架上の受難を暗示する。
  聖母マリアは、救おうとして大きく手をさし伸ばしている。
  三人の人物と一匹の動物がピラミッド型の安定した構図の中に収められている。
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2 レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」
  1483年頃の作 ルーブル美術館所蔵
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3 ラファエロ・サンツイオ「鶸(ひわ)の聖母」
  1506年の作  ウフッツイ美術館
  左側の子がイエス。鶸(ひわ)を持っている。
  右側の子は聖ヨハネ。
  聖母を中心に三角形を構成している。
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4 ラファエロ・サンツイオ「小椅子の聖母」
  1514~15年の作  ピッティ美術館(フィレンツエ)
  右端はイエスの遊び友達の聖ヨハネ。十字の付いた杖を持つ。
  この絵の聖母は緑色の肩掛けをしている。
  聖母のスカーフの茶色、肩掛けの緑、上着の赤、ひざかけとなっているマントの青、イエスキリストの衣装の黄色の5色が、狭い空間でよく調和している。
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5 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ「聖母子像」
  1655年頃の作  ピッティ美術館(フィレンツエ)
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 <参考>
   高階秀爾著「名画を見る眼」(岩波新書)

* ポール・ゴーギャン 「アヴェ・マリア」
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クロード・モネの作品 [美術]

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  印象派の巨匠、クロード・モネ(1840~1926)の作品をいくつか見てみたい。
  いずれも、ロンドンナショナルギャラリーが所蔵するもの。

1 「ラ・グルヌイエールの水浴」(1869年の作)
   ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵
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  1869年の夏、モネは家族とともに、パリに程近いブージヴァル近郊セーヌ河畔の水浴場ラ・グルヌイエールで過ごした。画家としての評価を確立する前であり、食べるためのお金にも事欠く状態であった。ルノアールも一緒であり、同じようにラ・グルヌイエールの絵を描いている。
  モネはこの絵で、人の活動とともに、木の茂みを通して水面に映ずる光の動きを描こうとした。
  水浴したり川辺に集う人々、ボート、水面のさざ波、生い茂った葉などが粗いタッチで描かれている。
  印象派的な描写の初めの一つと言える。

<ルノアールの作品>
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2 「ウェストミンスター橋」(1870~1871年の作品)
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  モネは1870年から1971年にかけて普仏戦争の惨禍を逃れるため、ロンドンに滞在した、その間、町の中心を流れるテムズ川に魅せられた。 他の画家にとって、スモッグに煙るロンドンは魅力のないものであった。しかし、モネはそこに魅力を感じた。ウェストミンスター橋や国会議事堂は、色彩を失って見えた。スモッグを通しての太陽光線は薄ピンク色で、建物は幽霊のようだ。

  木製の桟橋は、日本の浮世絵に描かれている橋にも似ているといわれる。

3 「サン・ラザール駅」(1877年の印象派展に出品)
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  1877年の第4回印象派展に出品した、サン・ラザール駅を描いた7枚の連作の内の1枚。
  それまでは誰も近代を象徴する鉄やガラスで造られ、煙や蒸気で煙る駅を描こうとはしなかった。これらの絵は驚きをもって迎えられた。

  絵の上部には、駅を覆う屋根が頂点を形成している。絵の下部には、駅の冷たい光の中で、蒸気機関車が空気中に煙と蒸気を吐き出している。その横で駅員と乗客が忙しそうに動いている。

  ルノワールはこれらの絵を「非妥協的な独創性」を示していると称賛した。
  モネはこれらの絵を描くにあたって、駅長からどこでも好きなところで描いてよいとの許可を得ていた。

  *以下に拠る。
   「French Paintings after 1800」 by National Gallery Publications