So-net無料ブログ作成

「葛飾北斎の本懐」 [美術]

IMG_20180326_0001.jpg

  角川選書、2017年3月刊。
  著者は、美術史家の永田生慈さん。

<北斎像 渓斎英泉画>
北斎像.png

1 絵を描くことへの情熱
(1)北斎は、1760年、江戸の本所(現在の東京都墨田区亀沢)で生まれた。
 15歳ごろから、木版の版下彫りの仕事をしていたが、19歳の時に、絵師の道に入った。
 以後、90歳で亡くなるまで、絵師の仕事に没頭し続けた。

(2)北斎は、毎日、夜の明けきらない早朝から筆を執り、夜、人の寝静まる頃になってようやく筆づかいに納得し、腕が萎え、目が疲れきったあとで筆を止め、床に就いた。
 
(3)絵を描くことに没頭したため、生活面では、掃除、着るもの、食事などのマナーには頓着せず、奇人扱いされることもあった。
 部屋が汚くなると転居を繰り返し、人付き合いも好きではなかった。

(4)しかし、絵を描くことへの執念はすさまじい。
 北斎の娘が語ったところによると、「父は幼い頃より80歳になる今まで、毎日筆を執らないことはなかったが、それでも先日、自分は猫一匹すら描くことができないと言って涙を流し、思うように描けないことにため息をついていた」という。

(5)北斎が75歳の時に出版した「富嶽百景」のあとがきにおいて、以下の事を書いている。
 ① 70歳より前に描いた作品はとるに足らないものばかり。
 ② 73歳になっていくらか生ける物の摂理を悟ることができるようになった。
 ③ 努力を重ねれば、90歳には奥義を極め、100歳では人の知力を超越する域に達することができるのではないか、百何十歳になれば、描く対象の一点一格が生きているようになるだろう。

(6)北斎は90歳で亡くなったが、息を引き取る間際に「天の神よ、私にあと5年の命をくだされ。それだけあれば、真正の画工になることができる」と言ったという。
 まだやり残していることがあり、まだまだ高みを目指して行きたい、という情熱が衰えることはなかった。

2 北斎の画業
(1)「北斎漫画」
  1814年、北斎が54歳の時に「北斎漫画」の初編が出版され、その後、15編で完結した。
  これは絵手本であるが、専門に絵を描くことを志す人たちだけではなく、一般の人たちをも魅了した。
  全15編の総図数は3,900に及び、風俗、魚貝、植物、花鳥、風景、信仰、天候など、ありとあらゆる事物を描き尽くしている。
  北斎の発想と作画の妙、造詣の深さをうかがうことができる。
  「北斎漫画」はヨーロッパにも影響を与え、ドガなど何人かの画家は、「北斎漫画」に描かれている人間のポーズに似た絵を描いている。

北斎漫画1.png

北斎漫画2.jpg

(2)「富嶽三十六景」
  1831年、北斎が71歳の時に刊行された。
  富士を主題に、当初36図であったが、後に10図が追加され、合わせて46図が収められている。
  大胆な発想や思いもよらぬ画面構成など、群を抜く芸術性から評価が高い。
  「凱風快晴」や「神奈川沖浪裏」が特に有名である。
 
<「凱風快晴」>
がいふうかいせい.jpg 

<「神奈川沖浪裏」>
神奈川沖.png
 

nice!(0)  コメント(0) 

「セザンヌ」 [美術]

IMG_20180219_0001.jpg

  岩波文庫、2009年刊。原著は1921年刊。
  著者は、フランスの詩人で美術評論家のジャワシャン・ガスケ。
  ポスト印象派の画家、ポール・セザンヌ(1839~1906)と親交があった。

<セザンヌ 自画像>
セザンヌ自画像.png

  フランス南部、地中海に近いところにある町、エクサンプロバンスでセザンヌは生まれた。
  子供の頃は、記憶力が抜群で、成績も優秀だった。
  しかし、性格は内気で、物思いにふける、とっつきの悪い生徒であった。
  感受性はむき出しなくらい繊細であった。

  セザンヌは、父親の勧めに従い、地元の大学の法科に入学したが、近くの美術館に通ううちに絵画に対する情熱が芽生えてきた。
 「この新しい色彩と線の世界を、キャンバスにまき散らしたかった。
  ところが、まぶたの下ではあれほどはっきりと見えていたものが、形をなさぬごちゃごちゃの図となり、形も光線もなく、雨が降っているようなだいなしの絵になったりした。
  自分には能力がないと思った。
  絵画から逃げるように、外を歩き回ると、夕焼けや緋色に染まった岩などを見て、希望がよみがえってくるのだった。」

  22歳の時、セザンヌは父の許しを得て、パリへ向かった。

<ルイ・オーギュスト・セザンヌ>(セザンヌの父親)
セザンヌの父.png

  セザンヌは、後に著名な小説家となるエミール・ゾラとは子供の頃からの友人で、その影響を受け、若い頃の絵は、やや暗い、ロマン主義的な色彩を帯びたものであった。
  その後、カミーユ・ピサロ(1830~1903)の薦めもあり、印象派の手法を取り入れ、1974年の第一回印象派展に「首吊りの家」という作品を出品した。
  一方、サロン(官展)では良い評価を得ることはなく、毎年絵を送ったが、毎年落選した。
  理解されないことは最強の者たちを痛めつける。
  芸術家は、パンと同様に、尊敬を食べて生きているのだ。

<首つりの家>
首吊りの家.png
 
  第三回印象派展にもいくつかの作品を出品したが、その後、セザンヌは印象派とは袂を分かち、独自の道を歩むようになる。
  印象派の、光と外観を重視する考えに満足できなかった。
  セザンヌは、外観ではなく、モノの底にある本質的なものに焦点を当てようとした。

  1879年、40歳の時に故郷のエクサンプロバンスに戻った。
  サント・ヴィクトワール山を見て、それを初めて見るような気分になった。
  世界の構成が目に映ってくる、発見しつつあるこの世界の岩でできた根源を分厚く塗り込んでいながら、流動感が出てきた。
  心の中が固まれば固まるほど、逆に絵の中に空気が通うようになった。
 
<サント・ヴィクトワール山、ローブからの眺め>
サントヴィクトワール.png
 
  作品がほとんど完成した時、セザンヌはそれを放り出すことがある。
  自分の絵の前で、大粒の涙をこぼしながら、こぶしを固くにぎりしめ、地団駄を踏んでいた。
  大いなる怒り、狂気というべきか、彼は絵の方に歩み寄り、それをつかんで引き裂き、投げ捨てて、靴で踏みつけて破ったのだ。

  よい絵を描くことは、彼にとって、良い人生を営むことに等しかった。
  ひと筆ごとに、全力を注いで、全身を投入した。
  すごみのある眼は一点に集中し、眼から血が出てくるのではないかという気がした。
  
  最晩年の作品、「帽子をかぶった老人」と「数珠を持つ老婆」は、心を打つ素晴らしい対をなしている。
  この二枚の絵こそ、セザンヌのすべての信仰と善良さと深い魂が、最も意識化された芸術、最も開け放たれた感動によって表現されている。
  この二人の悲しい顔こそが、セザンヌをレンブラントやドフトエフスキーも兄弟にしている。

<数珠を持った老女>
数珠を持った老女.png


nice!(0)  コメント(0) 

伊藤若冲と動物綵絵 [美術]

IMG_20180121_0001.jpg
「動物綵絵 向日葵雄鶏図」(部分)

 伊藤若冲は、江戸時代の日本画家。
 1716年、京都の青物問屋の長男として生まれた。
 23歳の時に、父を失い、家業の青物問屋を継いだ。

 家業に力を注ぐ一方、趣味として絵画に興味を持ち、狩野派の絵師に学んだりした。
 40歳の時に、家業を弟に譲り、自分は隠居して、絵画に本格的に取り組み始めた。
  
 次第に、写生に関心を持つようになり、鶏を数十羽飼って、数年間にわたり写生をつづけたといわれる。
 そして、動物綵絵30幅を、若冲が43歳から54歳にかけて制作し、釈迦三尊像三幅とともに、相国寺に寄進した。
 
 相国寺は、1382年に将軍足利義満によって創建された禅寺で、京都五山の一つに数えられる、由緒あるお寺である。 
 動物綵絵の寄進は、両親の永代供養のために行われた。

 花や実をつける草や木と、大小の鳥と各種の虫、水に棲む魚や貝に至るまでを登場させる動物綵絵の総体が、この世のありとあらゆるものが仏性を備えていて成仏できるという、「草木国土悉皆成仏」の思想を具現化したものである。

 動物綵絵の制作に精力を集中させながら、同時期に並行して、有力な社寺に襖絵や障壁画を提供している。
 鹿苑寺(金閣寺)大書院五室への水墨画や、金刀比羅宮奥書院四室への着色画などである。

 1788年、京都の町は大火事に見舞われ、3万6千軒が焼失した。
 相国寺も、境内の堂宇のほとんどが灰燼に帰した。
 しかし、幸いなことに釈迦三尊像と動物綵絵を収めていた南蔵が類焼を免れた。

 若冲は、1800年、85歳で天寿を全うした。

 動物綵絵は寄進されて以降、毎年、年1回6月に公開され、門前がにぎわうほど人々に親しまれていた。
 しかし、明治に入って以降、相国寺は廃仏毀釈の影響により窮乏し、このため、動物綵絵を皇室へ献上し、それに対して、皇室より1万円が相国寺へ下賜された。
(当時の1円が現在の1万円に相当するとすると、当時の1万円は現在の1億円)
 相国寺は、このお金により、お寺を維持することが可能となった。

 皇室(宮内庁)の所蔵となってからは、一般の人の目に触れる機会が少なくなった。
 近年では、若冲生誕300年に当たる2016年に、東京都美術館で公開された。

 今年の9~10月には、フランスのパリ市立プティ・パレ美術館で、日仏友好160周年を記念した「ジャポニズム2018」という日本文化紹介行事で公開される。

「動物綵絵 梅花皓月図」(部分)
IMG_20180121_0002.jpg

「動物綵絵 紅葉小禽図」(部分)
IMG_20180121_0003.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

バーンズ・コレクション [美術]

IMG_20180115_0002.jpg
アンリ・マティス「生きる喜び」(一部)

  アメリカのアルバート・C・バーンズ(1872~1951)が収集した絵画のコレクション。
  バーンズは、銀軟膏「アルジロル」などの薬品事業で財を成した。

  絵画コレクションを1912年、彼が40歳のころから始めた。
  コレクションの大部分は、マネと印象派から始まって、20世紀のマティス、ピカソ、モディリアーニなどに至るほぼ半世紀のフランス絵画に限られている。


  181点のルノワール、69点のセザンヌ、59点のマチスはいずれも世界有数の内容。

  コレクションはフィラデルフィア郊外のメリオンの建物で保管され、非公開、売却禁止、移転禁止というのがバーンズの遺言であった。
  このため、コレクションの見学は一部の人に限られてきた。
  しかし、2012年、フィラデルフィアの中心部に移転し、多くの人がコレクションを見ることができるようになった。
  入場料は大人30ドル(3,300円)と、高い。

  1994年、東京上野の国立西洋美術館で、バーンズ・コレクション展が開催された。
  これは、メリオンの建物の老朽化に伴う改装費用捻出のため、展覧会がワシントン、パリに続いて、東京で開催されたもの。
  2か月半の期間中に、100万人が見学をした。

<バーンズ・コレクションの一部>
ピエール=オーギュスト・ルノアール「母と子」
IMG_20180115_0003.jpg

ピエール=オーギュスト・ルノアール「髪をととえる浴女」
IMG_20180115_0004.jpg

クロード・モネ「アトリエ舟」
IMG_20180115_0005.jpg

ポール・セザンヌ「赤いチョッキの少年」
IMG_20180115_0006.jpg

ポール・セザンヌ「果物皿、水差し、果実」
IMG_20180115_0007.jpg

フィンセント・ファン・ゴッホ「郵便配達夫ルーラン」
IMG_20180115_0008.jpg

アンリ・ド・トウール・ロートレック「モンルージュにてー赤毛のローザ」
IMG_20180115_0009.jpg

アンリ・マティス「音楽のレッスン」
IMG_20180115_0010.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

レオナルド・ダ・ヴィンチ [美術]

ダヴィンチ.png
 * 以下に拠る。
   「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」
     コンスタンティーノ・ドラッツィオー著
     河出書房新社、2016年7月刊(原著は2014年刊)
IMG_20171014_0001.jpg

1 幼少時代
  レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年、イタリアのフィレンツェ郊外のヴィンチ村で生まれた。
  このころ、ジェノヴァやヴェネツイアなどのイタリア諸都市はムスリム商人との間で東方貿易を展開し、莫大な富を得て繁栄した。
  イスラム世界から進んだ文化も入り込み、こうした富や文化の蓄積が、フィレンツェを中心にルネッサンスという新しい文化活動をもたらすことになった。

  レオナルド・ダ・ヴィンチの幼少期は必ずしも恵まれたものではなかった。
  彼の父親は先祖代々からの公証人であったが、レオナルド・ダ・ヴィンチは婚外子であったため。認知はされたものの、父親の職業に就くことは出来なかった。
  教育も基本的なものだけで、古典文学やラテン語などを学ぶことななかった。
  ただ、小さいころから数学から幾何学、植物学から音楽まで、なんでもそつなくこなすことができた。

  ある時、レオナルド・ダ・ヴィンチが書いた1枚の絵から、父親は息子に画家としての才能があることに気がついた。

2 第一フィレンツェ時代
  このため、父親は1472年、20歳の時にレオナルド・ダ・ヴィンチを、フィレンツェにあるヴェロッキオの工房で働かせることにした。
  そこでは、ブロンズの彫刻、旗のデザイン、祭壇画などの注文に対して、師匠であるヴェロッキオを中心に弟子たちがグループワークで作品を作り上げていた。
  レオナルド・ダ・ヴィンチもグループの一員として、非凡な才能を発揮した。

  しかし、当時、ルネッサンスの息吹があったとはいうものの、保守的な傾向が根強くあった。
  新進芸術家が作り出す新しさを受け入れる土壌は殆どなく、レオナルド・ダ・ヴィンチはその才能に見合った成功を収めることができなかった。

  この時代の作品として著名なのは、「受胎告知」と「東方三博士の礼拝」であり、いずれもそれまでの常識を打ち破るものであったが、高い評価を得ることは出来なかった。
受胎告知.png

  彼はこの頃、おかしな顔に興味を持ち、道で会ったちょっと変わった顔の特徴と表情を、ノートに書き留めた。
  彼は、芸術には完璧な形や非の打ちどころのないプロポーションを持つ姿だけではなく、不完全な身体や人間の欠点、陰に隠れた部分も必要と考えた。

3 第一ミラノ時代
  1481年、29歳の時にレオナルド・ダ・ヴィンチはミラノに音楽家として派遣されることになった。
  彼はそこで、1499年までの18年間を過ごすことになる。
  ミラノに来た時、本当に何をやりたいのかわからなかった。
  画家、音楽家、金細工師、詩人、技術者、科学者、なんでも器用にこなすことは出来た。

  彼は、ミラノで工房を持ち弟子たちを抱えたが、注文を受けた作品の制作がうまくいかなく、経済的苦境に陥ったりした。
  そうした中で活路を見出したのは、ミラノ宮廷が催す公的セレモニーなどを演出する仕事だった。
  彼の演出した舞台芸術はミラノの人々を魅了した。
  ミラノ宮廷は、祭典や祝宴に明け暮れ、彼の懐を潤すことになった。

  余裕ができたレオナルド・ダ・ヴィンチは、解剖学に情熱を注ぐようになる。
  彼は、フィレンツェのヴェロッキオの工房で、人体を解剖することを学んだ。
  彼の興味は、人物の表現力を高めるという芸術的なものだけではなく、内臓器官の機能や配置、その相互関係など、科学的なものへと発展していった。

  また、婦人の肖像画の注文も受けた。
  代表作は「白貂(てん)を抱く貴婦人」で、高評価を得て、ミラノでの芸術家としての地位を次第に築いていくことになる。
白貂.png

  そして、1495年、サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ聖堂のドメニコ派修道院にある食堂の壁に「最後の晩餐」の絵を描くという注文を受けた。
  3年後に完成した壁画はヨーロッパ中から賞賛される。
  しかし、彼はこの壁画を描くために、通常用いられるフレスコ画の技法ではなく、油性テンペラ画の技法を用いた。
  この実験的な技法の欠点が、完成後数年で明らかとなる。
  色彩が変化し始めていた。
  約70年後の1566年後には、「あまりにもひどく浸食されていて、広がったしみの他には何も見えない」状態となっていた。
  (1977年から1999年にかけて大規模な修復作業が行われた)
最後の晩餐.png

4 第二フィレンツェ時代
  ミラノ王国がフランス軍により倒されてしまったため、彼は1503年、51歳でフィレンツェに戻った。
  そこには3年間しか滞在しなかったが、ある婦人の肖像画の注文を受けた。
  彼は、フィレンツェで下絵を描き始めるが、出来上がった絵を依頼者に手渡すことはなかった。
  その後、彼はミラノ、ローマ、フランスへと移り住むが、手許から離さず、持ち歩いた。
  そして、「モナ・リザ」と呼ばれるその絵に、死ぬ直前まで手を加えた。

5 「モナ・リザ」のその後
  レオナルド・ダ・ヴィンチが1519年に亡くなった後、フランス王室に売却されプライベート・コレクションとなった。
  一時期、ナポレオンの寝室を飾ったこともある。
  1815年にルーブル美術館に収められ、 展示されるようになる。
  しかし、1911年、盗難にあったが、2年後、フィレンツェで見つかり、ルーブル美術館に戻される。
モナリザ.png


nice!(0)  コメント(0) 

法隆寺金堂壁画 [美術]

IMG_20171015_0001.jpg

 *以下に拠る。
  「古寺巡礼」 (和辻哲郎著、岩波文庫、原著は1919年に出版)
  「法隆寺金堂壁画」 (「法隆寺金堂壁画」刊行会編、岩波書店、2011年刊)

1 法隆寺金堂
  本尊の釈迦三尊像がまつられており、法隆寺の建物の中で最も重要な建物。
  創建は607年であるが、670年に火災で焼失。
  現在の金堂はその頃に造られたもの。
  それでも世界に現存する木造建築物の中で最も古い。

  釈迦三尊像は623年に造られたもので、火災の被害は受けていない。

  朝廷が、法隆寺の再建を急いだのは、663年に日本と百済の連合軍が白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に完敗を喫し、権力基盤が揺らいでいたため。
  有力貴族の台頭を押さえ込むため、仏教や聖徳太子の威光を利用した。
  法隆寺金堂の内部に入ると、金箔におおわれた仏像群や、壁全面に描かれた壁画などに圧倒されたものと思われる。
法隆寺金堂.png


2 金堂壁画
  金堂内部の壁に大小50の壁画が描かれていた。
  しかし、1949年1月、模写作業中の失火で多くの壁画が消失した。
  現在は、それまでに撮影されていた写真や模写された作品でのみ鑑賞できる。

  製作年代ははっきりしないが、金堂再建後の数十年間ではないかとみられている。
  製作者も不明であるが、インド風の表現が濃厚であり、その流れをくむ者が描いたとみられる。
  
  7世紀前半、中国が隋から唐へと変わる時代に、仏典や珍しい文物がインドから中国にもたらされるようになっていた。
  絵画の技術も朝鮮半島に渡り、さらに、百済の滅亡もあって百済の人々が日本に渡来するに合わせて、日本に持ち込まれたものとみられる。
  
3 阿弥陀浄土図
  金堂壁画の中で最も評価が高いのは、第6号壁にあった阿弥陀浄土図である。
  これは、中心に阿弥陀如来、その左右に観音菩薩と勢至菩薩を配置して描いたものである。

  和辻哲郎の「古寺巡礼」では以下のように書かれている。

 「本尊の釈迦やその左右の彫刻には目もくれずに、わたしたちは阿弥陀浄土へ急いだ。
  この画こそは東洋絵画の絶頂である。
  剥落は随分ひどいが、その白い剥落面さえもこの画の新鮮な生き生きとした味を助けている。

  中央には美しい円蓋の下に、阿弥陀如来がひざを組んでいる。
  薄く見開いた眼は無限を凝視するように深く、固く結んだ唇は絶大の意力を現わすように力強い。
  瞑想によって達せられる解脱境はここに具体的な姿を現している。
  人の美しい顔を描いてこれほど非人情的な、超脱した清浄さを現わしたものは、比類がない。

  左右に立つ観音と勢至は女性的であるが、その女らしさを通じて現れている清浄さは本尊に劣らない。
  その顔は端正な美女の顔ではあっても、その威厳と気高さと凝然たる表情とは、地上の女のそれではない。

  まさにこの画こそは真実の浄土図である。」

金堂壁画.png

金堂壁画 その2.png



nice!(0)  コメント(0) 

ボストン美術館展 [美術]

ボストン美術館展.png

  東京都美術館で「ボストン美術館の至宝展」が開催されている。
  展示されている作品のレベルは高く、ボストン美術館が所蔵する美術品の水準の高さを示している。
  同館は、国や州の財政援助をうけず、個人のコレクターからの寄贈や、スポンサーからの寄付により作品を取得してきたというから驚く。

  日本の江戸時代の美術品の保有では、海外の美術館の中で群を抜いている。

  今回展示された作品のいくつかをひろってみると・・

1 「五百羅漢図」のうちの2枚
   12世紀後半に中国で作られた作品。
   13世紀に日本人が全幅を入手し、京都の大徳寺に納めた。
   明治の半ば、大徳寺は寺院の修復資金を得るため、その一部を売却した。
IMG_20170823_0001.jpg

2 「九龍図巻」
   13世紀前半の南宋の画家、陳容の作品。
   縦46センチ、横9メートル58センチの大作。
IMG_20170823_0002.jpg

3 「涅槃図」
   江戸時代中期の絵師、英一蝶(1652~1724)の作品。
   釈迦の臨終の際に、周りで多くの人や動物が嘆き悲しむ様子を描いている。
   この作品は、当初、芝の青松寺に寄進されたが、1911年にボストン美術館が入手した。
   この作品は破損が進んでいたため、ボストン美術館で公開されたのも一度のみ。
   昨年、1年をかけて修復作業が行われ、今回里帰りして展示されることになった。
IMG_20170823_0003.jpg

4 「風仙図屏風」
   江戸時代の中後期、京都の絵師、曾我蕭白の作品。
   縦1.5メートル、横3.6メートルの大作。
   ボストン美術館は、曾我蕭白の代表的な作品を数多く保有している。
IMG_20170823_0004.jpg

5 「三味線を弾く美人図」
   江戸時代後期の浮世絵師、喜多川歌麿の肉筆画。
   ボストン美術館は、数多くの浮世絵の所蔵でも有名。
IMG_20170823_0005.jpg

6 「丘辺行楽図屏風」
   江戸時代中期の俳人で文人画家の与謝蕪村の作品。
   独特のユーモアに満ちている。
IMG_20170823_0006.jpg


  このほか、モネの4作品、ゴッホの2作品、セザンヌの1作品は、いずれもそれぞれの画家の作風を象徴する作品ばかり。今回の展示作品は全体で80点。


nice!(0)  コメント(0) 

「イタリア古寺巡礼」 [美術]

IMG_20170629_0001.jpg
  著者は、哲学者の和辻哲郎(1889~1960)。
  1927年末から3か月間、イタリアを旅行した時の記録。
  岩波文庫所収。

1 ミケランジェロ「モーゼ像」 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会
  ミケランジェロは、ギリシャ彫刻のように、「中から盛り出るもの」を刻みだそうとしている。
  決して上っ面の、中の空っぽな形だけを作ろうとしているのではない。

  モーゼのひげ、着物のひだ、腕や肩の肉、いずれもほとんんど全体の形を無視するかのように、むくむく盛り上がっている。
  その局部的な表現力で、全体の輪郭などをわざわざ見せないようにしているのではないか、と思われるほどである。

  こうしたことで「内なるもの」を、あるいは精神を、外に押し出すことができる。
  それが彼のねらいであったと思われる。 

ミケランジェロ モーゼ.png

2 「ヴィナスの誕生」 ローマ国立美術館
  この像が最初に与える印象は構図の妙である。
  中央の海から出ようとするヴィナスが両方に腕をあげ、それを左右から二本ずつの腕が出て助け上げようとしている。
  実に鮮やかな統一、微妙な調和、一点の晦渋さもない。
  この厳密なシンメトリーには機械的な繰り返しはいささかも含まれていない。

テルメ ヴィナスの誕生.jpg

3 「ニオベの像」 ローマ国立美術館 
  ニオベがアポロの矢を背中に射こまれて、その瞬間に、ひざまずこうとしつつ、同時に手で背中の矢を抜こうと焦っている。
  そういう瞬間的な非常な動作を現わそうとしたものである。
  ニオベは危急の際の激烈な動作のために、着物が脱げて肉体が露出することなど構っていられない。

ニオベの像.jpg

4 ミケランジェロ「最後の審判」 システィーナ礼拝堂
  最初に感じたことは、この堂自身が壁画や天井画のためにあるのであって、絵がお堂のためにあるのではないということであった。
  堂の構造そのものが絵のためにできている結果として、絵の効果は十分に発揮され、堂内は芸術的な美しさに満たされたものになる。

  驚くべきことは深さの巧みな活用である。
  同じ一つの平面に描かれていながら、人物が明らかに層を異にして見える。
  そういう立体感の活用によって、それぞれの画像の連絡統一が実に巧妙に行われている。

最後の審判.png

5 「シヌエッサのヴィナス」  ナポリ国立美術館
  このヴィナスの美しさはパリにある「ミロのヴィナス」の比ではなく、今まで発見されたヴィナスの裸像のうちでこれほど優れたものはない。

  残っている下半身だけでも、この彫刻が神品であることを感ぜしめるに十分である。
  あらゆる点が中から湧き出して我々の方に向いている。

  霊魂そのものである肉体、肉体になり切っている霊魂である。
  人間の「いのち」の美しさ、「いのち」の担っている深い力、それをこれほどまでに「形」に具現したことは、実際に驚くべきことである。

死ぬえっさのヴィナス.png

古美術読本「陶磁」 [美術]

IMG_20170625_0001.jpg
  光文社「知恵の森文庫」の一冊。2006年刊。
  当初、1987年に出版された本を文庫に収録したもの。

  陶磁についての、いろいろな執筆者によって書かれた文章を集めている。

1 「陶磁の美」 芝木好子(小説家)
  ・東洋陶磁を楽しむのに、大阪市立東洋陶磁美術館ほど良いところはない。
  ・私は李朝の、白磁に呉須の草花文の清楚さも好きだが、中国のものに一層惹かれる。

  ・中でも私の好きなのは青磁で、北宋官窯の端正で清冽な翠青や、藍青色の瓶や壺をみると、心を洗われる。

  <飛青磁 花生>
飛青磁花生.jpg

2 「染付皿」 小林秀雄(評論家)
  ・平凡な日常性のうちに生きている美、これが利休の美学の根本観念であった。彼の健全な思想が、茶人趣味に堕落したという問題は別にして、日用雑器の美に対する非情な鋭敏、平凡な物、単純なもの、自然なもの、というような言葉で、仮に呼ばれている美についての、非常に高度な意識、それが、利休の美学によって、私達日本人の間に育てられたことは間違いない。

3 「秘色青磁」 幸田露伴(小説家)
  ・青磁は柴窯(さいよう)からということになっていて、昔から異論もなく、その初頭の青磁を秘色と称えて非常に結構なものとしているが、誰もまだ確実明白に、これが真の秘色だという極めのついたものを、歴史的の証拠を具備して見定めた者のあることを聞きませぬ。

   *柴窯は、後周の柴世宗が作らせた窯であるが、その場所はいまだ確認されていない。また、そこで作られた青磁は、歴史上最上級の「幻の至宝」とされているが、公に認めらてたものはまだ一点も発見されていない。

4 「李朝陶磁の美とその性質」 柳宗悦(民芸研究家)  
  ・日本ではとかく正確さに執心したり、逆に不正確さに美しさがあると気付くと、すぐ不正確さに執心する傾きが濃い。日本の楽茶碗のごときは、この執心の表れに他ならない。

  ・ところが井戸茶碗などをみると、もとより正確さに無関心な心が生んだものゆえ、どこかに歪みが出ているが、その歪みは決して不正確さに執心があっての結果ではない。朝鮮では正確さにも、また不正確さにも気を奪われることがないのである。

  ・茶人たちが随喜した井戸のごとき高麗茶碗は、茶意識のごときものから解放されたものなのである。それはもともと雑器で非茶器であった。実はこの美意識から解放された自由さが「井戸」の美を生んでいるのである。

 <井戸茶碗>
井戸茶碗.png

5 「日本の陶器の味について」 小林太市郎(美術史家)
  ・中国の磁器は土から出ながら、土を離れて玉となり、天空の色をあらわすものに他ならない。

  ・日本の陶磁は決して玉とならず、天の色をあらわさない。いかに精妙な日本の青磁であっても、それが中国青磁と同じく滴るような雨後の晴天を示すということは決してない。日本の青磁の色はどんなによくしても土の色である。天の光がそこにはない。

  ・土を離れず、陰に止まるところに、かえって日本陶磁器独特の妙味がある。

6 「茶碗の美しさ」 谷川徹三(哲学者)
  ・茶碗というものは使用によって美しくなるものである。

  ・井戸茶碗のあの肌のさびた味わいは、長年使っている間に自然に茶渋や手脂のしみ込んだところから生まれたものなのである。

世界の美術館の入場者数 [美術]

中国国家博物館.jpg
<中国国家博物館>

 CNNの電子版が、2016年の入場者数が多い世界の美術館、上位20を伝えている。

1 中国国家博物館(北京)         760万人
2 国立航空宇宙博物館(ワシントンDC)   750万人
国立航空宇宙博物館.jpg

3 ル-ブル美術館(パリ)         740万人
ルーブル美術館.png

4 国立自然史博物館(ワシントンDC)    710万人
5 メトロポリタン美術館(ニューヨーク)  690万人
6 大英博物館(ロンドン)         640万人
7 上海博物館(上海)           630万人
8 ナショナルギャラリー(ロンドン)    630万人
9 ヴァチカン美術館(ヴァチカン)     600万人
10 テート モダン(ロンドン)       580万人
11 アメリカ自然史博物館(ニューヨーク)  500万人
12 故宮博物院(台北)           470万人
13 自然史博物館(ロンドン)        460万人
14 ナショナルギャラリー(ワシントンDC)  430万人
15 エルミタージュ美術館(セントペテルスブルグ) 410万人
16 中国科学技術博物館(北京)       380万人
17 スミソニアン博物館           380万人
18 ソフィア王妃芸術センター(マドリッド) 360万人
19 韓国国立中央博物館(ソウル)      340万人
20 ポンピドーセンター(パリ)       330万人


  これまでトップの座を占めていた、ルーブル美術館がトップの座から落ち、第三位となった。テロ事件の発生に伴う観光客の減少により、入場者数が前年比15%減少した。
  パリのオルセー美術館も同じ理由で、20位以内に入れなかった。

  北京の中国国家博物館、ワシントンDCの博物館、ロンドンの博物館・美術館は、いずれも入場料が無料である。いずれも国立の施設であり、国民に幅広く見てもらおうという考えによる。

  日本の博物館・美術館の入場者数は以下の通り(2015年)。
  世界の上位20には食い込めていない。
 
   東京都美術館    277万人
   国立新美術館    246万人
   東京国立博物館   191万人

  東京都美術館は国立の施設を抑えて、日本一になっており健闘しているが、それだけ国立の施設の魅力が充分でないことを示しているともいえる。

  また、昨年の美術展覧会ごとの入場者数、トップファイブは・・
   ルノワール展    国立新美術館  66万人
   始皇帝と大兵馬俑展 東京国立博物館 48万人
   若冲展       東京都美術館  44万人
   カラバッジョ展   国立西洋美術館 39万人
   ゴッホとゴーギャン展 東京都美術館 39万人

  若冲展は3~4時間待ちになるほどの人気を集めたが、それでも44万人でしかないともいえる。
  日本の美術館・博物館は概して常設展示が弱い。特別展示だけでは、海外の有名美術館や博物館に太刀打ちできない。

  日本の美術品は世界に誇ることができるものである。
  しかし、それらは各地に分散し、一か所で見ることができない。

  海外の有名美術館や博物館は、観光の目玉として、外国人旅行客誘致のうえで大きな力となっている。
  一方、日本の美術館は海外の作品の収集・展示には熱心であるが、日本の美術品や陶芸品の常設展示は少なく、海外からの旅行客には魅力がない。

  国内にある、日本の美術品を一同に集め、常設展示するとともに、入場料を無料にして、多くの人に見てもらうようにすべきと思う。