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写楽の謎 [美術]

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<初代市川蝦蔵の竹村定之進>

  * 以下の書籍を参考にした。
    「写楽の謎の一解決」 松本清張著 講談社文庫 1977年刊
    「写楽の謎」     田村善昭著 美術の森出版 2015年刊

  写楽は、江戸時代中期の浮世絵師。1794年5月から1795年3月までの約10か月という短い期間に145点あまりの役者絵その他の作品を出したのち、忽然と姿を消した。その素性が不明なため、写楽とは実は誰なのか、いろいろな説が出されている。

 *写楽の絵の特徴
  ① 目は半円形
  ② 小さく結んだ可愛らしい女の口
  ③ への字に固く噛みしめた男の口  
  ④ 外人並みの高い鼻
  ⑤ 五指が開いて、わなないているような手つき

1 阿波候のお抱え能役者であった斎藤十郎兵衛という説
  理由 ① 写楽が住んでいた八丁堀の近くには阿波候蜂須賀家の下屋敷があった。
     ② 阿波の浄瑠璃人形の顔が、写楽の描く面相と似ている。

  疑問点 ① 写楽の作品が阿波には残っていない。
      ② 能役者に最高級の役者絵を描くことができたか。
      ③ 能役者に一時期に大量の絵を描く時間があったか。

2 蒔絵の下絵師だったという説
    腕の立つ蒔絵師の下職人を、版元の蔦屋重三郎がスカウトした。
    しかし、① 蒔絵師は型にはまった画を踏襲する。
        ② 蒔絵師は人物の顔は不得手。
   
3 蔦屋重三郎自身であったという説
    蔦屋重三郎は歌麿を育てた一流の版元。しかし、歌麿は人気が出ると、他の版元に移ってしまった。このため、自身が写楽という名前で、雲母摺りの大首を描いた。歌麿は美人画だったが、写楽のものは役者絵だった。そして、一時期に多くの作品を大量に摺り、写楽の絵に賭けた。しかし、人気は出ず、売れ行き不振から蔦屋重三郎は没落する。

    蔦屋重三郎に絵の良し悪しを判別する能力はあったとしても、簡単に絵師になれるものではないという批判がある。

4 梅毒により精神異常をきたした絵師という説(松本清張の説)
    写楽の絵の極端なデフォルメは、絵師の視神経が侵されていたことによるもの。
    写楽は病気がもとで亡くなったため、活動期間が短かった。

5 阿波徳島藩の複数のお抱え絵師が写楽として活躍したとする説
  (浮世絵愛好家の瀬尾長氏の説)
    藩主であった横須賀重喜が若くして隠居させられた後、スポンサーとなって藩の絵師に浮世絵を描かせた。
    蔦屋重三郎があまり人気の出なかった写楽の作品を大量に売り出したのは、横須賀重喜の強力な経済的バックアップがあったため。
    この仕事には藩の絵師である矢野栄教をチーフに、数人の絵師が加わった。
    残っている栄教の絵と写楽の絵の共通点は多い。

  (写真家 田村善昭氏の説)
    阿波徳島藩の特産物である染料の藍の販売促進のため、写楽絵を大量に刷って全国の藍の問屋に配った。


   写楽は、浮世絵師のなかでも歌麿、北斎などとともに人気の1,2位を争う存在。
   その正体は、依然として不明である。


<三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛>
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<初代市川男女蔵の奴一平>
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ヨーロッパの名画から [美術]

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  以下の書籍を参考にした。
    高階秀爾著「名画を見る眼」 岩波新書 1969年刊

1 プーサン「サビニの女たちの掠奪」1637年制作 
         ニューヨーク メトロポリタン美術館所蔵
サビニ 略奪.png

(1)ニコラ・プーサン(1594~1665)はフランス生まれの画家であるが、その生涯のほとんどをイタリアで過ごした。

(2)この絵は、ローマ建国の頃のエピソードを基に描いたもの。

(3)ローマが建国された頃は、市民の多くが軍人や他国からの流れ者で、女性がとても少なかった。しかし、国の発展のためには、男たちが結婚して子供を増やしていくことが必要だった。このため、ローマ人たちは、お祭りを催すからと言って隣国のサビニの人々を招き入れ、集まったところでサビニの女たちに襲い掛かった。サビニの人たちは必死になって抵抗したが、結局、女たちは奪われてしまった。

(4)それから数年後、サビニの男たちは報復のためにローマに押し寄せた。ローマ人たちは武器を取って迎え撃とうとしたが、ローマ人と暮らしていたサビニの女たちが両者の間に入り、仲直りさせた。その場面が以下の絵。
  <ジャック・ルイ・ダヴィッド 「サビニの女たち」 1799年制作 ルーブル美術館所蔵>
サビニの女たち.png

2 マネ「オランピア」 1863年制作
           パリ オルセー美術館所蔵
オランピア.png

(1)エドゥワール・マネ(1832~1883)は、19世紀の絵画を近代絵画の方向に大きく推し進めた革新者。

(2)この作品は1865年のサロンに出品されたが、大きな騒ぎを引き起こした。当時の新聞や批評はこぞってこの作品に厳しい非難を浴びせた。

(3)物議をかもした理由は・・
  ① 女性の裸体自体を描くことは、それまでにも例があり非難されることではない。しかし、それまでの裸婦像は、神話か、歴史か、寓意の見せかけの衣がかけられていた。しかし、「オランピア」は、街中で出会う少女をそのまま裸にしたようにして描かれていた。当時の道徳的な常識では、この作品は超えてはいけない一線を越えてしまっていた。

  ② マネはその2年前にも「草上の昼食」(オルセー美術館所蔵)という作品で物議をかもしていた。それは、裸の女が当世風の服装をした二人の男たちと一緒にいるというものであった。
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(4)当時、社会に対する反逆者として美術界をリードしていたのはクールベであるが、彼に対抗意識を燃やしていたマネはこれらの作品により、クールベをはるかに超えていくことになる。

「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」 [美術]

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  新潮文庫の一冊。1984年刊。
  日本画家の東山魁夷(1908~1999)が、ドイツとオーストリアで描いた作品を紹介している。
  東山魁夷は1933年から2年間、ドイツに滞在したことがあるが、1970年から1972年にかけてドイツ、オーストリアを訪れ、多くの作品を描いた。
  日本画家の描くヨーロッパの風景は、油絵により描かれたものとはまた違う趣がある。

1 「窓明かり」
   リューベックの町の夜空にそびえる教会の尖塔。
   近くの窓辺に漏れる燈火の温かさ。
東山 窓明かり.png

2 「石畳の道」
   リューベックの、霧に湿る石畳の路地。
   渋みのある赤煉瓦の壁。
   ガス燈の形をそのままに残す街燈。
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3 「ニュールンベルクの窓」
   古城の窓から、教会の尖塔のそそり立つ町を見下ろす。
   中世のドイツ皇帝の町。
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4 「石の窓」
   中世の城壁に囲まれて、昔ながらのネルトリンゲンの町は静かに眠る。
   市庁舎の石の階段の下に古風な石の窓。
東山 石の窓.png

5 「晩鐘」
   巨大な寺院は、その姿を逆光の暗さに沈め、夕影に蔽われたフライブルクの町に、高くそびえていた。
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「謎解きゴッホ」 [美術]

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  河出文庫の一冊。2016年刊。
  著者は多摩美大教授の西岡文彦さん。
  フィンセント・ファン・ゴッホ(1852~1890)の生涯を辿る。

1 ゴッホの挫折
(1)子供時代のゴッホは学業優秀で、16歳から働き始めた美術を取り扱う会社でも誠実な働きぶりを評価されていたが、ハーグからロンドンに転勤なってから、暗転する。そこで失恋を経験した後、仕事が手につかなくなり、パリ支店に移された直後に解雇されてしまう。

(2)その後、父親と同じ牧師の道を志すことになるが、ゴッホの言動の異常さもあって、牧師の適性に欠けるということで、牧師になることは出来なかった。

(3)農夫や炭鉱夫など、苦悩にあえぐ人々に神の言葉を伝える仕事として目指していた牧師の道を絶たれ、ゴッホは、悲惨な境遇にある人々の姿を絵画を通して世に伝える仕事に、最後の希望を見出そうとした。ゴッホが絵画に願っていたのは、美術館や画廊に麗々しく飾られて、取り澄ました金満家に購入されるぜいたく品になることではなく、つつましく日々を生きる人々の生活の中で愛されることであった。

2 画風の変遷
(1)初期の画風
    ミレーを理想として、重労働にあえぐ農夫や炭鉱夫の姿を、土と灰で描いたような画風であった。自然の語る言葉を速記術のように描きとめるための早描きの手法もこのころから用いていた。
  <「ジャガイモを食べる人々>
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(2)印象派と浮世絵の影響を受けてからの画風
    日本の画家を芸術家の理想とし、浮世絵を絵画の理想として、浮世絵にならい、明確な輪郭線と平板な色面で画面を構成した。アルルの炎熱の下で追及された爆発的な色彩や、黄色でひまわりを描いた作品に代表される画風である。
<「ひまわり」>
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(3)晩期
    タッチの渦巻く画風である。乾燥の遅い油絵の具で速筆を試み、なおかつ絵具の混色を避けるには、タッチを寸断する以外に手法はなかった。激烈な色彩は影をひそめた。
<「オ-ヴェールの教会」>
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3 ゴッホの自殺
(1)1890年7月27日、村はずれで37歳のゴッホは自分の左胸にピストルで銃弾を撃ち込み自殺を図った。心臓を外れたため直ぐには死に至らず、自力で下宿の自分の部屋に戻った。そこで、医師の手当てを受けるも、翌日、パリから駆け付けた弟のテオの腕に抱かれて息を引き取った。

(2)ゴッホは、自分の発病の原因は、度の過ぎた飲酒と喫煙とひまわりの絵を制作したことにあると思っていた。

(3)テオは兄ゴッホが画家を目指して以降、ずっと支え続けた。収入の半額を兄への仕送りに当てていたともいわれる。ゴッホは弟テオを頼りに絵画の制作を続けてきた。しかし、テオが1889年に結婚、翌年1月には子供もできたため、ゴッホは自身がテオの重荷になっていると感じた。

4 ゴッホの死後
(1)ゴッホが亡くなって半年後、テオは兄の後を追うようにして、精神病院で亡くなった。

(2)テオの妻ヨハンナは、テオとの結婚生活は短いものではあったが、その後の人生をテオの遺志を継いで、ゴッホの絵を世に知らしめることに力を注ぎ、またテオが保管していたゴッホからテオに当てた膨大な数の手紙の整理に努めた。

(3)ヨハンナの努力の甲斐があって、1905年にアムステルダムでゴッホの回顧展が、1912年にロンドンで後期印象派展が開催され、ゴッホの名声がようやく確立していくことになる。1914年にはゴッホの書簡集も出版された。

(4)テオとヨハンナの息子フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは売らずに持っていた油絵200点などを国に譲渡し、1973年、アムステルダムに国立ゴッホ美術館が開館した。
   
<テオとヨハンナ>
テオとヨハンナ.png
  

聖母子像 [美術]

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  <ラファエロ「サン・シストの聖母」>

  キリストとキリストの母マリアを描いた絵画は大変多い。
  ルネッサンス期以降の代表的な作品は以下の通り。
  
  *聖母子像の約束事
    聖母マリアは赤い衣装を着て青いマントをかける。

1 レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」
  1508~1510年頃の作 ルーブル美術館所蔵
  聖アンナは聖母マリアの母。聖母子像に聖アンナが登場するのは珍しい。
  背景の山岳風景ならびに聖アンナの微笑は「モナ・リザ」に似ている。
  仔羊にまたがろうとするイエスは、十字架上の受難を暗示する。
  聖母マリアは、救おうとして大きく手をさし伸ばしている。
  三人の人物と一匹の動物がピラミッド型の安定した構図の中に収められている。
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2 レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」
  1483年頃の作 ルーブル美術館所蔵
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3 ラファエロ・サンツイオ「鶸(ひわ)の聖母」
  1506年の作  ウフッツイ美術館
  左側の子がイエス。鶸(ひわ)を持っている。
  右側の子は聖ヨハネ。
  聖母を中心に三角形を構成している。
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4 ラファエロ・サンツイオ「小椅子の聖母」
  1514~15年の作  ピッティ美術館(フィレンツエ)
  右端はイエスの遊び友達の聖ヨハネ。十字の付いた杖を持つ。
  この絵の聖母は緑色の肩掛けをしている。
  聖母のスカーフの茶色、肩掛けの緑、上着の赤、ひざかけとなっているマントの青、イエスキリストの衣装の黄色の5色が、狭い空間でよく調和している。
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5 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ「聖母子像」
  1655年頃の作  ピッティ美術館(フィレンツエ)
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 <参考>
   高階秀爾著「名画を見る眼」(岩波新書)

* ポール・ゴーギャン 「アヴェ・マリア」
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クロード・モネの作品 [美術]

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  印象派の巨匠、クロード・モネ(1840~1926)の作品をいくつか見てみたい。
  いずれも、ロンドンナショナルギャラリーが所蔵するもの。

1 「ラ・グルヌイエールの水浴」(1869年の作)
   ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵
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  1869年の夏、モネは家族とともに、パリに程近いブージヴァル近郊セーヌ河畔の水浴場ラ・グルヌイエールで過ごした。画家としての評価を確立する前であり、食べるためのお金にも事欠く状態であった。ルノアールも一緒であり、同じようにラ・グルヌイエールの絵を描いている。
  モネはこの絵で、人の活動とともに、木の茂みを通して水面に映ずる光の動きを描こうとした。
  水浴したり川辺に集う人々、ボート、水面のさざ波、生い茂った葉などが粗いタッチで描かれている。
  印象派的な描写の初めの一つと言える。

<ルノアールの作品>
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2 「ウェストミンスター橋」(1870~1871年の作品)
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  モネは1870年から1971年にかけて普仏戦争の惨禍を逃れるため、ロンドンに滞在した、その間、町の中心を流れるテムズ川に魅せられた。 他の画家にとって、スモッグに煙るロンドンは魅力のないものであった。しかし、モネはそこに魅力を感じた。ウェストミンスター橋や国会議事堂は、色彩を失って見えた。スモッグを通しての太陽光線は薄ピンク色で、建物は幽霊のようだ。

  木製の桟橋は、日本の浮世絵に描かれている橋にも似ているといわれる。

3 「サン・ラザール駅」(1877年の印象派展に出品)
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  1877年の第4回印象派展に出品した、サン・ラザール駅を描いた7枚の連作の内の1枚。
  それまでは誰も近代を象徴する鉄やガラスで造られ、煙や蒸気で煙る駅を描こうとはしなかった。これらの絵は驚きをもって迎えられた。

  絵の上部には、駅を覆う屋根が頂点を形成している。絵の下部には、駅の冷たい光の中で、蒸気機関車が空気中に煙と蒸気を吐き出している。その横で駅員と乗客が忙しそうに動いている。

  ルノワールはこれらの絵を「非妥協的な独創性」を示していると称賛した。
  モネはこれらの絵を描くにあたって、駅長からどこでも好きなところで描いてよいとの許可を得ていた。

  *以下に拠る。
   「French Paintings after 1800」 by National Gallery Publications

アメリカの画家 ジャクソン・ポロック [美術]

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  * 岩波書店の月刊雑誌図書」掲載の「ポロックのでたらめ」(三浦佳世さんの執筆)による。

  ジャクソン・ポロック(1912-1956)はアメリカを代表する現代画家。
  ワイオミング州の田舎町に生まれたポロックは、ニューヨークに出てまもなく新し時代を象徴する人物として高い評価を得る。
  しかし、活躍したのはわずか10年ほどで、44歳の時に自動車事故で亡くなった。

1 制作技法
(1)巨大なキャンバスを床に拡げ、その周りを踊るように動き回りながら、四方から絵具を垂らし、上下も左右もない画面を作り出す。ドリッピングとかポアリングといわれる。
(2)このような技法に達した要因は・・
  ア あるプロジェクトで、大画面に絵筆以外で描くことを経験した。
  イ ピカソの抽象的な絵画や、シュルレアリスト達の作品に接した。
  ウ アルコール依存症に苦しみ、ユング派の精神科医のもとで治療を受けていた。

2 評価
   それまでのものと異なる全く新しいタイプの作品となった。
   特定の意味を持たないが、しかし、線のもたらす動きや 純粋な色が、心を揺さぶり、感動を生み出した。
  (彼の作品のひとつ、「No.5」が2006年、150億円で取引された。)
「No.5」
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3 物理学者による分析
(1)絵を描くことを趣味とする物理学者リチャード・テイラーは、ポロックが自然のリズムを取り入れて絵を描いていたと直感する。
(2)彼は、コンピューターの専門家の助けを借り、ポロックの絵のフラクタル解析を始めた。
    *フラクタルは、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念である。ラテン語 fractus から。 図形の部分と全体が自己相似になっているものなどをいう。
<フラクタルの例>
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(3)「フラクタル次元」の値は1から2までの数値をとる。1に近づくほど単純になり、2に近づくほど複雑になる。人が心地よいと感じるのは1.3~1.5あたり。
(4)ポロックの作品は一見、でたらめのように見えるが、どの絵においてもフラクタル構造がみられ、「NO.14」という作品ではフラクタル次元の値は1.45であった。ポロックは自由気ままに制作していたように見えて、実は大変な計算の上に画面を構成していた。
    *ポロックが活躍したころにはまだ、「フラクタル」という考え方や言葉は案出されていなかった。
「No.14」
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(5)ポロックの作品のフラクタル次元の値は、年代が進むにつれて上昇を続けた。1950年には1.9という際立って値の高い作品を制作している。あまりに複雑で過密になっており、ポロックは後年、この作品を破棄した。

「ピカソ」 [美術]

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  著者は法政大名誉教授の粟津則雄さん。
  パブロ・ピカソ(1881-1973)は画家で、キュビズム(立体派)の創始者として、現代美術に大きな影響を与えた。スペインのマラガで生まれ、フランスで制作活動を行った。92年の生涯で、13,500点の油絵を描いた。以下は本書で紹介されているピカソの絵の中のいくつかである。

1 「招魂」(1901年制作)
(1)青の時代(1901~1904)の作品。青は昔から神秘、無限、憂愁、悲哀といったものを象徴する色彩とされていた。
(2)ピカソがこの青にのめりこんだのは・・・
   ア 世紀末のスペイン絵画において、「青」は圧倒的な流行を見せていた。
   イ 1901年に友人がパリで自殺したことがきっかけとなった。ピカソは友人の死を主題として、青をメインとしたこの「招魂」という大作を描いた。
(3)この時期の描いた対象は、疲れ果てた貧しい母子像、食事をしている盲人、身を寄せ合っている修道尼と娼婦、角膜炎を起こしている不気味な中年女、ギターを弾く痩せさらばえた老人など。社会の下層で貧窮や老衰や盲目に苦しむ人々をしみ入るような共感をもって描き出している。
(4)「青」の中で、死と悲惨と絶望と、それらが生み出す微妙だが深い愛によって染め上げられたスペインの人々を描いた。
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2 「アヴィニオンの娘たち」(1907年制作)
(1)ばら色の時代(1905~1907)の作品。
(2)その方法やスタイルの絶えざる変化と変容のために、ピカソは「カメレオン」と評されることもあった。しかし、彼は移り気でもなければ多情でもない。彼は、何らかの方法やスタイルがはらむ可能性を、驚くべき集中力と徹底性とをもって、一気に、貪欲に吸い取ってしまう。
(3)彼の絵は、死の気配に蔽われた「青の時代」から、生命観とエロスがしみとおった「ばら色の時代」へと移った。
(4)この作品は、絵の五人の女のうち二人の顔を黒人美術の影響を受けて激しくデフォルメして描いた。
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3 「ヴィルヘルム・ウーデの肖像」(1910年制作)
(1)分析的キュビズムの時代(1909~1910)の作品。対象の外観を打ち砕き、ただひたすら形態と量の純化を求めた。
(2)肖像画のうちに、彼独特のなまなましい現実感と、彼をとらえた新しい造形意識とを結びつける格好の契機を見出した。通常の肖像画のような、人物と背景とのあいだの区別や対称はみられない。人物も背景もすべて小さな切子面に分解されて、独特のリズムを生み出している。
(3)彼は、その志向がいかに抽象的なものに向かっていても、現にあるものと向かい合い、現に向かい合うばかりでなく、それに身をゆだね、それから力を吸い取るという姿勢が変わることはない。
(4)当初は多少ともみられた現実のイメージは時とともに捨て去られ、画面は幾何学的な形や線で埋められて、いったい何が書かれているか、ほとんど見分けることができないものとなる。
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4 「トランプ遊びをする人」(1913~14制作)
(1)総合的キュビズムの時代の作品。画面にそれまで姿を消していた具体的なイメージや色彩が蘇ってきた。
(2)この作品の色彩は、鮮やかだが、いささかのけばけばしさもない。しずかだが欲情のしみとおった世界を生み出している。
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5 「母と子」
(1)第一時世界大戦終了後、キュビスムの探求は続けながらも、明確な形態感とがっしりとした量感と、伸びやかな生命感につらぬかれたいわゆる「新古典主義」的な作品を描き始めた。
(2)新古典主義時代の母子像は、よろこび、安定、充溢などが表現されており、母も子も己の存在を楽しんでいるようだ。
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6 「ゲルニカ」(1937年制作)
(1)ナチスドイツによるスペインの町ゲルニカ爆撃の悲劇を描いた大作。
(2)ピカソは惨状のさまざまなイメージを画面いっぱいに、所せましといわんばかりに描いているが、そこにはいささかも混乱したところ、あいまいなところはない。観念的なところ、抽象的なところはない。どの形も、それらを生み出す根源につき戻され、そこから新たに生まれ出ている。
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7 「梳る裸婦」(1940年制作)
(1)1939年に第二次世界大戦がはじまり、ピカソはパリを離れ、フランス南部のロワイヤンという町に避難する。そこで制作した作品。
(2)ピカソは後に「私は戦争を描かなかった。だが、あの頃私が描いた絵の中に戦争が存在していることは何の疑いもない。」と語った。
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8 「死体置き場」(1944~45年制作)
(1)粗末な部屋の、水と食べ物は乗った机の前に、しばられた男や女や子供の死体が無残に積み重ねられた情景。
(2)ナチスによるユダヤ人強制収容所のすさまじい実情が次々と明らかになり、ピカソの激しい怒りを誘った。本質的構造とでもいうべきものを、あいまいな細部にとらわれることなく、厳密的確につかみだしている。
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「百花譜百選」 [美術]

あまづる.jpg  岩波文庫所収。東大医学部教授で文学者の木下杢太郎が戦時下の1943年3月から1945年7月にかけて書き溜めた草花のスケッチと付随する短文の中から百点を選び1冊としたもの。空襲や食料不足に悩まされ、また自己の体調悪化に苦しむ中で、一つ一つの草花を愛情に満ちた繊細さで描いた。終戦から2か月の1945年10月に亡くなった。森鴎外、北原白秋、和辻哲郎など、多くの文学者と親交があった。
<おしろいばな>
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<カラジウム>
ぼけ.jpg
<アマヅル>
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<ぼけ>
ひがんばな.jpg
<ひがんばな>
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ルーヴル美術館 [美術]

ルーブル.png  ルーブル美術館は数多くの名品を収蔵しているが、その中でも特に有名な作品はこの二つ。
1 ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」  1505年頃の作。ダ・ヴィンチはこの作品とともにフランスに来て亡くなったので、この作品はフランス国王のものとなった。

2 メロス島の「ミロのヴィーナス」 紀元前100年頃の作。1820年に発見され、仏大使が入手した。

  それ以外にもルーブルが所蔵する名品は数多いが、強いて挙げるとすると・・・
1 「サモトラケのニケ」 紀元前190年ごろの作。1863年にサモトラケ島で仏領事が発見。ルーブルでは階段上の絶好の位置に飾られている。
サモトラケ.png   
2 ダヴィッドナポレオンの戴冠」  1807年の作。ナポレオン1世が注文した。
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3 ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」1830年の作。1930年の7月革命を称えて作られた。
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4 エジプトの「書記座像」      紀元前2500頃の作。古代の墓地から発掘された。知的な眼差しが印象深い。
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5 ジェリコー「メデューズ号の筏」  1819年の作。遭難者149人が筏で12日間、漂流したうえ15人が生き残り、助けられた事件を基にしている。
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6 アングル「オダリスク」      1814年の作。女性の裸体の洗練された官能美を表している。
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