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「浄土真宗とは何か」 [宗教]

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  中公新書の一冊。2017年1月刊。
  著者は日本宗教史を専門とする小山聡子さん。

1 天台宗
   唐に学んだ天台宗の開祖最澄(767~822)ならびにその弟子たちは、釈迦如来を中心とする教義を構築し、天台密教を完成させる。
   天台宗は、比叡山延暦寺に総本山を置き、のちに法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった鎌倉仏教の祖師を生み出すことになる。

   平安仏教の役割(現世利益のために加持祈祷を行う)
    ① 鎮護国家
    ② 延命安穏、病気治療

  *病気治療の役割分担
    陰陽師  占いにより、病気の原因を見定める。
    原因が・・・
     ① モノノケ(正体の分からない死霊の気配)の場合
        僧侶による修法や加持が効果的とされた。
     ② 疫神や呪詛の場合
        陰陽師が祭りや祓いを行う。
     ③ 食中毒が原因の場合
        医師が投薬や灸などの治療を施す。

2 浄土教の流れ
(1)源信(942~1017) 
    比叡山の世俗化を嫌い、末法の世への危機意識を持ち、極楽往生のための指南書「往生要集」を著した。
    末法の時代に生きる人間は、現世で悟りに至ることは不可能なので、阿弥陀仏にすがって念仏をして極楽往生を遂げ、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聞き仏になるしかない、とした。

(2)法然(1133~1212)
    25年間比叡山で学んだ後、ただ念仏のみに専念することを説くようになる。
    源信は臨終時の念仏を重視したが、法然はそれを特に重んじなかった。
    法然は、前世の因縁による病を患った場合に、仏や神に祈るのは無意味とした。
    阿弥陀仏の本願を深く信じて念仏を称え往生を願う人は、阿弥陀仏をはじめとする諸仏菩薩から守られているのだから、ことさら魔を払うために様々な仏菩薩や神に祈ったり、物忌みをしたりする必要はない、
    ただし、依頼があれば祈祷を行うことを拒まなかった。

3 親鸞とその弟子
(1)親鸞(1173~1262)
    29歳まで20年間、比叡山で天台僧として修業をした後、法然のもとに行き着く。
    そこで法然の教えを学ぶが、33歳の時に、ある事件の影響で、法然は土佐へ、親鸞は越後へ流罪となる。
    親鸞は5年で流罪を解かれたが、その地にさらに2年留まり、その後、常陸国(茨城県)に向かい、そこに居を構えた。
    親鸞は62歳で京都へ戻るまでの22年間、常陸国で熱心に布教活動を行った。
    親鸞の弟子の大半は、この地で親鸞から教えを受けた者たちである。
    京都に戻った後、90歳で亡くなるまでの28年間、布教活動は行わず、執筆を行うのみであった。

(2)親鸞の教え
  A 末法に生きる者は自力で悟りには至れない凡夫であることをまずは深く自覚する必要がある。
  B 極楽往生には、阿弥陀仏により与えられる信心(他力の信心)が不可欠である。
   (臨終行儀による極楽往生を否定した)
  C 他力の念仏とは、現世利益や往生のために少しでも多く称えようとするものではなく、信心を得たその時に自然と口をついて出てくるもの。
  D 法然と同様、仏菩薩や神への不拝を説いた。
    
(3)他力信心の難しさ。
   親鸞は59歳の時に、風邪をこじらせ一時重態になった。
   この時、高熱によってもうろうとなったためであろうか、寝ていながら経典読誦をしてしまった。
   これは病気回復という現世利益のための自力行為であり、他力の念仏とは相容れない。
   親鸞は後に、このことを失敗談として語っている。
   親鸞は、阿弥陀仏の本願力を少しも疑わずに信じることがいかに難しいかを実感した。

4 蓮如(1415~1499)
   親鸞の教えは、その子孫により代々受け継がれ、蓮如により大きく発展した。
   蓮如は、親鸞の流れをくむお寺を、浄土真宗という一つの教団にまとめる基礎を作った。
   また、山科本願寺を完成させ、本山とした。

   蓮如の死後、その子孫の努力により教団はさらに発展し、織田信長など時の権力者と争うほどになった。
   また、徳川時代に入り、教団は西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)とに分裂し、現在に至っている。

5 親鸞の教えの難しさ
(1)浄土真宗の教えでは、阿弥陀仏一仏に帰依すべきであるとしている。しかし、蓮如をはじめ後継者は祈願のために他のお寺や神社への参詣を行ったりしている。少なくとも中世の段階では、教義上はともかくとして、実際の信仰は一神教的とは必ずしもいえない。

(2)他力による往生は、深い学問知識や峻厳な修行は不要で、一見、やさしい。しかし、極楽浄土に住む阿弥陀仏の姿そのものを目にすることは決してできない。不可視の阿弥陀仏を信じ切り全面的に身をゆだねることは、非常に難しい。


   * 現代においてこうした宗教はどのような意味を持つのであろうか。
     中世の時代には謎とされていたことも、現代ではその多くが解明されている。
     病気の多くもその原因が解明され、治療が行われている。
     一方、ご利益を期待しての初詣や、パワースポットといわれるところへの参詣は今も人気がある。
     現代においても、死の恐怖はある。しかし、現代に生きる我々で、「極楽往生」という願望を持つ人は少ないのではないか。
    

「徳川時代の宗教」 [宗教]

IMG_20170329_0001.jpg   
  著者はR.N.ベラー(1927~2013)。
  アメリカの宗教社会学者でハーバード大学教授だった。
  本著はもともと1957年に出版されたもの。
  日本の宗教の様相を外国人の目から見ており、興味深い。

1 徳川時代の諸宗派
(1)仏教
   ア 僧侶の主要な機能は、葬儀屋の機能であった。
   イ それぞれの宗派は、多数の仏教経典の中から一つあるいはいくつか特に尊重する教典を選んでいた。
(2)神道
    神道とは以下のような多種多様な諸現象を包括する名称である。
   ア 地方農民の周期的に毎年繰り返される農耕儀礼
   イ 地蔵や稲荷
       専門の司祭者や信者の組織化された集団は存在しない。
   ウ 伊勢や出雲のような特定の神社センターの儀礼
   エ 国家神道
       皇室と天皇個人を中心とし、経典は、国家的神話と支配者の初期の歴史を混ぜ合わせた著作。
   オ 教派神道(天理教などの神道系新宗教教団)
       神学的には、神道とほとんど共通するもののない一群の宗教運動。
(3)儒教
     朱子学は、一種の悟りを得る方法を編み出しており、宗教であるといえる。

2 神的なるもの
(1)日本における神的なるものについて二つの基礎概念がある。
  ① 食物、保護、愛などを与えてくれる至高的存在の観念
    (儒教の天と地、阿弥陀や他の仏陀、神道の神々など)
  ② 存在の根拠、実在の内的本質
    (朱子学派の「理」、仏教徒の仏性に関する観念、神道の最も哲学的な意味での「神」など)
(2)禅宗は①の神々を否定し、浄土諸宗派は①の阿弥陀に対する献身を強調する。

3 尊王と国体
(1)徳川時代に以下の観念が生まれた。
   ア 天皇に対する新しい態度・・・「尊王」
   イ 国家に関する新しい政治的ー宗教的観念・・・「国体」
(2)「尊王」、「国体」の思想を推進したのは以下の二つ。
   ア 国学派
      賀茂真淵(1697~1769)
       「8世紀に中国の衣服や作法が宮廷によって採り上げられ、急激に男子の精神を堕落させた。支配者が簡素な生活様式を保持していれば、現在のような状態には至らなかった。権力は臣下の手に落ち、帝は全くあれどもなきがごときものとなってしまった。」
       (中国風のものを排除し、幸福な素朴な原始時代に変えることを主張)
      本居宣長
       (『古事記』にある古代神話をそのまま信ずることを主張。論理的言語を用いた仏教、儒教道教などの説明はすべて矛盾しているとした。)
       「連綿と続く帝の王朝こそは、神道と呼ばれる「道」が他のすべての国々の体系より無限に優れている完全な証拠である」

  イ 水戸学派
     ・神道を第一に置き、中国の賢人には敬意を払い、仏教は排斥。
     ・天皇は「神的なるもの」であり、「君主」であり、かつ民族的家族の「父」である。

     吉田松陰
      「我が帝国に生まれたものはすべて、我が帝国が崇高であるゆえんを知らねばならぬ。結局、我が帝国の王朝は、太古から絶えることなく継続している。大名は代々封土を受けつぐ。支配者は人民を養い、一方、人民は支配者に対して感謝の大きな恩義を負うている。支配者と人民は一体である。

4 著者の評価
(1)国学派について
   「国学派の教えの持つ政治的な意味は、強力な中央集権的君主制を確立し、これに対してすべての日本人が絶対的な忠誠を捧げ、君子と人民の間を隔てる将軍家あるいはその他」の権力を破壊することであった。そのような中央集権的君主制が、5世紀あるいは6世紀の日本に支配的であったと考えたような、牧歌的な部族国家たりえないことは明らかである。国学者が何を意図したにせよ、政治分野において説いたその結果は、ただ権力の異常なまでの拡大と合理化のみであった。」

(2)水戸学派について
   「『大日本史』が重要なのは、天皇が隔離されずに直接支配した時代のかってあったことを、疑いもなく明らかにしているからである。その周到な学識は、将軍家の正当性を多分に危うくし、天皇が実際に統治した時代に復帰したい気持ちを人々に起こさせる力となった。」

和辻哲郎「道元」 [宗教]

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  河出文庫の一冊。もともとは1920年から1923年にかけて雑誌に連載されたもの。
  和辻哲郎(1889~1960)は哲学者、思想家。主著は「古寺巡礼」、「風土」、「倫理学」など。
  「道元」は曹洞宗の開祖、道元の思想を探ったもの。
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1 真理の探究
 仏法の修業は、真理の探究と体現に尽きる。
 これはある目的のために行うのではない。
 真理のために真理を求め、真理のために真理を体現する。
 真理の世界の確立がその目的である。
 修行をするもの自身のために真理を求めてはならない。
 名利のため、幸福のため、ご利益を得るために真理を求めてはならない。

2 切実な要求
 仏の真理はだれにでも開かれている。
 人がそれを得ないのは、得ようとしないからである。
 要求が切実でないからである。
 要求さえ切実であるならば、必ず仏の心理は獲得できる。

3 学修の方法
 切実な意思があったなら、あとは学修の方法である。
 方法の第一は「行」である。
 「行」とは、世間的価値の一切を捨て去って、仏祖の模倣者となること。
 世間の人が如何にに思おうとも、狂人と呼ぼうとも、ただ仏祖の日常の一切の行為に従って修行をすれば、仏の弟子への道がある。
 自分の都合や好悪を忘れ、善くとも悪くとも仏祖の言葉や行為に従う。

4 仏祖の模倣
 仏祖の模倣は、道元の修行法の根底にある。
 ひたすら座禅をするのも、仏祖自身の修行法であるから。
 戒律を守るのも、仏祖の家風であるから。
 難行工夫も仏祖の行為であるから。

5 導師
 仏祖の模倣は正しい導師なくしてできることではない。
 なにが仏祖の行為であるかは、自らの判別によって知られるのではなく、すでに仏祖の道に入ったものによって教えられなくてはいけない。
 (人格から人格への直接の薫育)
 仏祖の行為の最奥の意味は、固定した知識としてではなく、直接に人格をもって伝えられてきた。

 師の正邪は修行の成否を決する。
 修行者の天分は素材であり、導師は彫刻家である。
 善き素材も良き彫刻家に会わなければ、その良質を発揮することができない。

6 至誠信心
 この師に従い、一切の縁を投げ捨て、寸暇を惜しんで精進することが大事。
 師を疑い、精進を欠くものは真理を体得することは出来ない。
 しかし、このように迷妄を絶って仏の神髄を体得した場合に、それを可能にしたものは自分の人格の底から出てくる至誠信心である。
 至誠信心とは何か。
 それは法を重くし、身を軽くすること。

7 法
 あらゆる人は、釈迦仏に従って、自己において法をあらわさせなければならない。
 人の真正の任務は自己の活動によって法を実現すること。
 救いとは、自己を仏にすること、法を我々において具現することである。
 礼拝する対象となるは、超越的な仏ではなく、仏となれる人、法を得たる人に担われた「法」である。
 その「法」は、人から人へ直接に伝えられるものであって、人を離れた独立の形而上学的なるものとはならない。

8 人生の意義
 道元は、永遠の理想(法)を自己の全人格によって捕捉しようとする人間の努力に、十分な意義を与えた。
 それによってこの世の生活が再び肯定される。
 絶えざる精進が人生の意義になる。
 「法を重くし身を軽くする」という道元の標語は、こうして「努めてやまざるものはついに救われる」という思想に接近する。
 それは生活を永遠の理想に奉仕させることである。

「宣教師ザビエルと被差別民」 [宗教]

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  筑摩選書の一冊。2016年12月刊。著者は比較文化を専門とする沖浦和光さん。
  ザビエルが日本に来るまでの過程、ならびに日本での布教の状況について辿っている。

1 イエズス会
(1)スペインのバスク地方で生まれたフランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、イグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)ほか5名とともに、1534年にローマ教会内の行動組織として「イエズス会」を立ち上げた。
(2)15世紀から16世紀にかけては、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したほか、ヨーロッパ人が世界に進出する大航海時代が始まり、また、宗教面ではドイツのルターが宗教改革の口火を切り、ローマ教会との対立を深めており、対抗上、ローマ教会内でも内部改革を進める必要に迫られていた時期であった。
(3)イエズス会は、腐敗堕落していたキリスト教精神の再生を図ろうとした。また、未知の異郷へもキリストの福音を伝えようという使命感に燃えていた。彼らは新しく開拓された新航路の船に乗って、次々と未知の新天地へと旅立って行った。

2 ザビエルの布教活動
(1)ザビエルはポルトガル国王からポルトガル領であったインドのゴアでの布教を許され、そこに向かった。日本には2年3か月滞在し、その後、ゴアに戻った後、中国で布教活動を行い、その地で亡くなった。
   1541年4月  リスボンを出発
   1542年5月  インドのゴアに到着、布教活動を行う。
   1545年9月  マラッカ(現在のマレーシア内)に到着。同地域並びに周辺地域での布教活動を行う。マラッカで日本人と出会い、日本での布教を考えるようになる。
   1548年11月  ゴアを出発、日本を目指す。
   1549年8月  鹿児島に到着。布教活動を行う。
   1551年11月  日本を離れる。その後、ゴアに戻った後、中国に向かった。
   1552年12月  中国で亡くなった。

(2)鹿児島では、薩摩藩主と会見し、大変丁重にもてなされ、宣教の許可を得ることができた。薩摩藩としては、鉄砲や火薬を積んだ南蛮船との交易を望んでいたということもあったとみられる。

(3)ザビエルが去った後、日本での布教活動は以下のイエズス会士に委ねられた。
     コスメ・デ・トルレス (1510-1570)
     ファン・フェルナンデス(1526-1567)
     ルイス・フロイス   (1532-1597)

3 布教の成果
(1)トルレスは大分を活動の拠点として、布教を行った。
(2)彼は、キリスト教に理解のある九州各藩の港にポルトガル船が入港するようにした。その結果、大村、有馬、大友など九州の有力大名が次々とキリスト教に帰依した。
(3)京都での布教活動に貢献があったのは日本人宣教師のロレンソ了西であった。彼は、高山、結城、京極などの有力大名を入信させた。
(4)1582年当時のキリシタンの数は、九州の大村・有馬・天草地方で11万5千人、豊後地方で1万人、京都で2万5千人とみられている。

4 慈善活動
(1)イエズス会の宣教師たちは、布教戦略として有力大名の入信にも力を入れたが、イエスの隣人愛の教えを実践するために、貧しい窮民の間で精力的に布教し、特に老弱者、孤児、病人の救済活動に全力を挙げた。漂泊の遊芸民や賤民層からの入信者も少なくなかった。
(2)最後まで信仰を守り通して殉教した者は四、五万人と推定されているが、その中には「ハンセン病者」もかなり含まれていた。
(3)イエズス会のルイス・アルメイダは大分で乳児院やハンセン病のための病院を開設した。

5 キリスト教の弾圧
(1)豊臣秀吉は1587年に伴天連追放令を発した。このころ日本でのクリスチャンの数は20万人に達し、教会数も200を超えていた。
(2)徳川幕府は当初、ポルトガルとの交易に期待してキリスト教の布教に寛大であったが、1614年にキリシタン禁教令を発して抑圧に転じた。
(3)弾圧は時の経過とともに激しくなり、「踏絵」や「宗門改め」などしらみつぶしにキリシタンの探索が行われることになる。

 *コメント
   秀吉や家康は、当初は貿易の利益や既存宗教の力を削ぐ可能性から、容認姿勢であった。しかし、一方では、一向一揆など新興宗教の怖さも承知しており、クリスチャンの増大に伴い警戒姿勢を強めた。
   イエズス会士は、ヨーロッパから危険と苦難に満ちた航海を経て日本に辿り着き、日本人の助けを得つつも困難な布教活動に力を注ぎ、その一環として慈善活動も行った。こうした活動の原動力は、ローマ教会の信徒としての使命だけであったのだろうか。ザビエルが日本に来るより早く、スペイン人やポルトガル人はアメリカ大陸で異教徒ということで原住民を殲滅し、ローマ教会はそれを是認した。インドでも宣教師は植民地統治に一翼を担っていたことは忘れてはならない。。

「禅と日本文化」 [宗教]

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 著者は鈴木大拙さん(1870-1966)。世界的に著名な宗教学者で、日本の禅文化を世界に広く紹介した。コロンビア大学客員教授に就任するなど、戦前のアメリカで活躍した。この本は1938年に英語出版されたものを北側桃雄さんという方が翻訳し、岩波新書の一冊として1940年に出版し、以来、読み継がれているもの。

1 禅とは
(1)禅の目的は、仏教が発展するにしたがって建設者の教えの周囲に堆積した、儀礼的、教典的な、一切の皮相な見解を除去して、仏陀自身の根本精神を教えることにある。
(2)禅は、我々のうちに眠っている超越的知恵(「般若」)を目ざまそうとする。般若により、人は事物の現象的表現を超えて、その実在をつかむ。
(3)禅の鍛錬法は、身をもって体験すること。知的作用や体系的な学説に拠らない。
(4)禅のモットーは「言葉に頼るな」である。人間の魂の直接表現である芸術品を作ったり、正しく生きる術を得ようとする場合には、学説等に頼ることは出来ない。
(5)言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅において最も高く評価されるものである。

2 禅と美術
(1)さび、わび、孤絶性、その他日本の芸術及び文化の最も著しい特性は、みなすべて「多即一、一即多」という禅の真理を中心から認識するところから発する。
(2)禅が日本の宗教生活のみならず、一般文化にも及んだのは・・・
  ア 鎌倉、室町時代に、禅院が学問芸術の貯蔵所になった。
  イ 禅僧が外国文化と接触する機会を有した。
  ウ 貴族が禅僧を教養の鼓吹者として尊んだ。
  エ 禅僧自身が、芸術家であり、学者であり、神秘思想家であった。

3 禅と武士
(1)禅は道徳的および哲学的の二つの方面から武士を支援した。
   道徳的・・禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える。
   哲学的・・禅は、生と死とを無差別的に取り扱う。
(2)禅の修行は単純、直截、自恃、克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。
(3)「天台は宮家、真言は公卿、禅は武家、浄土は平民」と言われた。
(4)北条時頼は、京都からあるいは直接中国南宋から禅匠たちを鎌倉に招き、禅の研究に没頭した。
(5)日本人は思い切り悪く、ぐずぐずして死を向かえるのを嫌う。風に吹かれる桜のように散りゆくことを欲する。日本人のこの死に対する態度は禅の教えと一致する。
 
4 禅と剣道
(1)剣道において、その技術以外に最も大事なことは、その技を自由に駆使する精神的要素。それは「無念」または「無想」という心境である。これは、太刀を取って相手の前に立った時に、思想、反省あるいはすべての愛着を絶った意識によって。生来の能力を働かせる意味である。
(2)禅と剣道とは、生死二元を超越することを目的とする点で一致する。

5 禅と茶道
(1)禅と茶道が共通するところは、いつも物事を単純化するところにある。不必要なものを除き去ることを。禅は究極実在の直覚的把握によって成し遂げ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成し遂げる。
(2)禅の狙うところは、人類が己を勿体づけるために工夫したと思われるような、一切の人為的な覆いものをはぎ取る点にある。茶を扱う指導原理は、不要物の除去ということと全く一致している。
(3)四畳半の茶室の中では種々雑多の階級の客が無差別に饗応される。平民が貴人とひざを交えて、ともに興に入ったことを慇懃に語り合う。禅ではもちろん世俗的な区別は許されぬ。禅僧はあらゆる階級に自由に近づき、誰とでも打ち解ける。

「キリスト教は邪教です!」 [宗教]

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  講談社+α新書の1冊として2005年に出版された本で、ドイツの哲学者、ニーチェが1888年に書いた「アンチクリストーキリスト教批判の試み」をわかりやすく翻訳したもの。

  ニーチェは、自分の「力の意志」に従い気高く生き、生きることに憶病になってはならない、豊かに生きることを恐れたり、罪悪感を抱いたりしてはならない、たとえどんなことが起こっても自分の人生を愛するといった現実を肯定して生きることを主張し、神の基準に自分の人生を制約されるようなキリスト教的考えを徹底的に批判した。

1 キリスト教の特徴
 A 「神」「霊魂」「自我」「自由意志」などといった。ありもしないものを本当に存在するかのようにした。
 B 「罪」「救い」「神の恵み」「罰」「罪の許し」などといった空想的な物語を作った。
 C 「悔い改め」「良心の呵責」「悪魔の誘惑」「最後の審判」といった芝居の世界の話を現実の世界に持ち込んで心理学をゆがめた。

2 仏教の良いところ
 A 暖かい土地で、上流階級や知識階級から生まれた。心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になる。。
 B 客観的に冷静に考える伝統を持っている。「神」という考えはない。現実的に世の中を見ている。
 C 善や悪というものから遠く離れた場所に存在している。心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めた。たとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとはしない。

3 キリスト教の問題点
 A 最下層民の宗教。負けた者や押さえつけられてきた者たちの不満がその土台となっている。
 B 異なった文化を認めようとしない。憎み、徹底的に迫害する。野蛮人を支配するために、野蛮な考えや価値観が必要だった。
 C 人生をよりよく生きること、優秀であること、権力、美、自分を信じること、こういった大切なものを否定。
 Ⅾ 僧侶たちは実権を握るために「神の意志」という仕組みを作り出した。
  ア 人間がするべきこと、してはならないことは神の意志によって決められている。
  イ 民族や個人の価値が、神に従うかどうかという基準によって測られ、民族や個人の運命が、神に従うかどうかによって、罰せられたり救われたりする。
 E 僧侶は、健康な人たちの精神を食いつぶして生きている寄生虫。僧侶のような組織を持つ社会では「罪」というものが必ず必要になる。僧侶たちは「神は悔い改めるものを許す」といって、「罪」を利用して力を振るう。
 F パウロが造ったキリスト教にはイエスの大切な教えは何も残っていない。パウロはイエスが復活したというデマを流した。「不死」という大ウソは人間の本能の中の理性を破壊する。さらに、「人間の魂は死なないから、みんな平等で、それぞれの救いこそ重要だ」ということになる。

5 新約聖書の暴言集
 A 「私を信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせるものは、首にひき臼をかけられ海に投げ込まれた方が、はるかによい」
 B 「あなたの片目が罪を犯させるとしたら、それを抜き出してしまいなさい。両目が揃ったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい」
 C 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたたちにどんな報いがあろうか」

「日本宗教史」 [宗教]

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  岩波新書の一冊。著者は末木文美士さん(東京大学名誉教授、日本思想史)。
  古代からの現代に至る、日本の宗教の流れを概説している。

1 仏教の浸透と神々(古代)
 A 古事記は、8世紀中ごろに、天皇支配の正当性を裏付けるものとして神話を改変あるは創作して作られた。アマテラスが最高神として天皇を守護するという発想は、仏が護法の王を守護するという構造と近似しており、アマテラスの神話は仏教からの影響がうかがわれる。伝えられている記紀神話は仏教の影響を受けて作られたものであり、それ以前の土着のものそのままではない
 B 伝来した仏教は神祇信仰と密接に関係し、神は迷える存在であり仏の救済を必要とするという考え方や、神は実は仏が衆生救済のために姿を変えて現れたものだという考え方が生まれた。
 C 仏教では密教の流れをくむ最澄の真言宗や空海の天台宗が比叡山や高野山に本拠を得て発展した。また、神祇信仰、陰陽道、山岳信仰などが盛んになった。

2 神仏論の展開(中世)
 A 鎌倉時代には、法然、親鸞、明恵、日蓮、栄西、道元など優れた仏教思想家が現れ、仏教が民衆に広がる動きを見せた。
 B 仏が本来の姿で、神は仏が仮に現れた姿であるとする本地垂迹説が優勢であったが、鎌倉時代の終わりごろから、それまでの仏教の絶対的な優位が崩れ、神祇信仰が神道として次第に確立してくる。さらに、モンゴルの来寇を契機にナショナリズムの機運が興り、日本優越的な思想が形成されるようになった。

3 世俗と宗教(近世)
 A キリスト教は、唯一神による天地創造や帰依しなければ来世において救済されないということなどが基本であり、神国、仏国であるがゆえに保たれている日本社会の秩序を破壊するものとして禁止された。
 B 仏教は、檀家制度という形で支配体制の一翼を担うことになり、また、葬式仏教という独自の形態を定着させた。
 C この時代、様々な神仏が巧みな宣伝と庶民の願望との合致により繁盛し、さらに巡礼や出開帳など、庶民の信仰は多様な形態をとった。宗教は衰えるどころか、とりわけ商人や豪農などで新しい宗教が生まれ、中世までの宗教が専門的な宗教者により与えられていたのとは異なっている。
 D 江戸時代後半になって、他国の宗教・倫理を探求して救いを求めるよりは、自国の古典に拠り所を求めるという国学がクローズアップされるようになった。本居宣長は「古事記」を再評価し、絶対的な聖典とすることによって神話を一元化し、それのみによってきわめてストレートな形で天皇の系譜の絶対性を打ち立てた。欧米列強の開国圧力とともに、天皇による祭政一致により西洋諸国の侵略に対する防衛を図るという尊王攘夷のイデオロギー的基盤となった。

4 近代化と宗教(近代)
 A 明治維新政府は、復古神道に基づく祭政一致の天皇制を国家体制の骨格とし、天皇の神格化と神道の国教化を図った。同時に、仏教については、神仏分離と廃仏毀釈により体制の枠外へ放逐することになった。
 B 「万世一系」の天皇を頂点とする日本の国体という観念は、1945年の敗戦まで統治のイデオロギーとして全国民に強制された。

     
* 宗教に関して以下のような点に関心があります。
1 日本人の考える「神」と欧米人の「GOD」とはイメージが違う。日本人の「神」は相当幅広くあいまい。古代から支配権力者は自らを神格化して、権威づけようとした。
2 日本人は面倒な教義を嫌う。拝むだけでご利益があるという方を好む。場合に応じて、教会、神社、お寺を使い分ける。日本人は儀式としては宗教を利用するが、教義にはほとんど関心がない。これが「無宗教」になるのかどうか。
3 現在の天皇制は宗教ではないのだろうか。日本的な意味合いでは「宗教」に該当するとは言えないだろうか。天皇制は伊勢神宮の内宮とリンクするものであり、旧来の儀式を守ってもいる。たとえ「象徴」ということであっても、それを全国民に強制することは憲法が保障する信仰の自由に反するような気がしないでもない。 あるいは、教会、神社、お寺を使い分けるのと同じように天皇制もひとつの「生活の一部」として利用しているということであろうか。

なだいなだ「神、この人間的なもの」 [宗教]

IMG_20170109_0002.jpg  岩波新書の1冊。2002年刊。著者は精神科医で作家。宗教と精神医療との関係を探る。

1 一神教の集団的精神療法
 A 三大宗教の出てくる以前は、神がかりになるものがおり、部族社会の狂いは激しく極端なものだった。三大宗教の始祖たちは、激しい極端な狂いを穏やかな狂いで治療する、すなわち凶器により凶器を制する意味があった。

 B イエスは天才的なグループ精神療法の臨床家。心因性の病気を治し、それが奇跡だと言われた。イエスのところに人が集まるようになり、壮麗な神殿の権威を借りて治療をする古い呪術医から反感を買う。ブッダは、苦行によるのではなく、現実を受け入れて背負ってゆくことにより、自分自身の不安を克服し、その経験を基に治療者になる。ムハンマドはアラビア半島の遅れた社会状態を改革するため、生活指導から始めた、
   
2 一神教の後退
  一神教である三大宗教は人々に次第に受け入れられてゆくが、時が経つにつれ以下のように後退する。
 A 迷信への逆戻り
   イエスなどの始祖の死後、古い部族時代からの死後世界の考え方を取り入れてしまう。悪いことをしたものは地獄という罰の脅しで、善に導こうという手法は権力者が無知の民衆を支配しようとするときに一番使いたくなる手法。

 B 聖物崇拝
   始祖たちの神格化、偶像化が進むとともに、弟子たちの残した経典が絶対的なものとなり、それに縛られることになった。イエスは人の子ではなく、神の子になってしまった。

 C 儀式への依存
   不安を抑える手段として、儀式、形式、衣服、道具といったものに頼るようになった。寺院が巨大化するとともに、平等主義に反して聖職者の階層化が進んだ。

 D 戦争の正当化
   善と悪、神と悪魔などという考え方から、戦争を正当化する考え方が生まれた。愛国心は形を変えた部族社会の感情の復活であり、教会は政治に利用されるだけのものになった。


3 精神医療と宗教
 A 精神療法に宗教と張り合っている部分、重なり合う部分がある。16世紀の医者、ワイヤーは「憑き物や魔女は病気だから医者に任せろ」と言って、魔女狩りをする健常者側の狂気を治そうとした。しかし、18世紀、精神病患者は犯罪者と同じ扱いを受け、施設に隔離されていた。この時も、精神科医は病気であるとして患者の処遇改善を訴え、また、精神病に対する偏見からの解放を求めた。

 B 日本では精神病患者の監禁やロボトミー手術(前頭葉切除術)が行われてきた。病気は治せるという妄想、治すのが自分たちの仕事だという使命感、治すためなら何をしてもいいという確信。これらが精神科医を迫害者に変えてしまった。宗教の狂気からせっかく病人を取り戻したのに、精神医療もまた一種の狂気に過ぎなかった。精神病者の解放から始まった精神医療が、いつしか精神病者を監禁することになっていた。

 C 科学者や天文学者が、教会のドグマ的な世界観をひるがえすような発見をしたことが宗教の衰退につながると思われた。しかし、自分の人間としての価値を守るために、あるいは強い不安と絶望のため、宗教でも妄想でもなんでも信じずにはいられない人間がたくさんいる。宗教は孤独から人間を救い出し、一つにまとめるための原理。集まると心がほっとする。

 D 一番の不幸は、仲間意識はグループが小さいほうが強い。だから、同じキリスト教徒が、あるいはイスラム教徒が殺し合いをする。人間の歴史は凶器と狂気の戦いだ。集団の狂気ほど強い正気意識を持つものはない。その正気意識が凶暴な攻撃性を他の集団に向ける。20世紀は狂気の世界だった。戦争という狂気の中で、残虐行為というのは特別の人間だけがやることではなく、誰でもやりうることだと分かった。

 E 三人の始祖が出て世界宗教をもたらした後、ずっと後戻りを続けていたが、後戻りは止まらず続いていたのだ。我々は精神的には部族社会まで逆戻りしていた。ファシズムは、集団の一人一人が指導者と同じ病気になっている状態。日本人は戦争中、あの狂気の中である種の幸福感を感じていた。日本人は優秀であるという優越感、つかの間の勝利による気分高揚、周囲のものと感じる一体感、運命を共にするという安ど感。

 F 精神病から治ると、自分は病気の時おかしかったと認識する。戦争の終わった今の我々は正気に戻っていると思っている。しかし、あとの時代から見るとまだまだ狂っているのかもしれない。

孔子と論語 [宗教]

孔子.png  孔子の意義や人柄について以下の書物から見てみたい。
1 和辻哲郎「孔子」
  人類の教師として、釈迦、孔子、ソクラテス、イエスの4人を挙げることができる。その共通点は・・・
  A その教えはいついかなる社会の人にも役に立つ普遍性を持つ。
  B 生前はその時代の大衆に認められなかった。
  C 皆、良き弟子を持った。弟子や孫弟子たちはその師の道や真理を宣伝することに成功した。
  D 偉大な教師を生んだ文化が、一つの全体として後から来る文化の模範となり教育者となった。

  孔子がほかの三人と相違している点は・・・
  A 三人はいずれも独特な死に方をしたことが書物に記されており、それが特別の意義を持った。しかし、孔子の死については明白な記録がなく、その死は特別な意義を持たなかった。
  B 孔子の教えは人倫の道についてであり、神の言葉でも悟りの道でもない。孔子の説教には何ら神秘的色彩がない。死や魂や神の問題を重要視しない、
  C 孔子の思想は他の三人と違い、簡潔な語録である。

2 中島敦「弟子」
  弟子の子路から見た孔子を描いている。
 「きわめて説得的な弁舌を孔子はもっていた。言葉の内容ばかりでなく、その穏やかな音声・抑揚の中にも、それを語る時のきわめて確信に満ちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。」
 「(孔子のような)ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が何故こうした不遇に甘んじなければならぬのか。家庭的にも恵まれず、年老いて放浪の旅に出なければならぬような不運がどうしてこの人を待たなければならうのか。」
 「あくまでも現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子」
 「決して現実を絶望せず、常に最善を尽くすという師の智慧」
 「常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措(立ち居振る舞い)」

3 井波律子「論語入門」
 孔子の素顔を以下のようにまとめている。
 A 孔子は明朗闊達、ユーモア感覚にあふれていた。
 B 孔子は臨機応変、柔軟で躍動的な精神の持ち主だった。
 C 孔子は不本意な状況においても毅然とした積極性を持ち、強烈な自負を持って危機を乗り切る不屈の人であった。
 D 孔子には、自分こそ周の文化を受け継ぐ者だという強い自負があった。
 E 孔子は理不尽なもの、許しがたい事柄に対しては、気色ばみ、断固として否定した。
 F 不屈の精神をもって生きる孔子も、ときとして深い絶望感にとらわれることがあった。
 G 孔子は辛辣な鑑識眼の持ち主であり、容認しがたいものには一転手きびしく、容赦なくその痛いところを突いた。
 H 孔子は基本的には伸びやかな陽性の人であり、生きることを楽しむ人であった。

「アーミッシュの昨日・今日・明日」 [宗教]

IMG_20161217_0001.jpg  アメリカのペンシルバニア州ランカスター郡というところに住んでいるアーミッシュという人々のことを紹介した本。アーミッシュはプロテスタントの再洗礼派(生まれたばかりではなく大人になってから自分の意志で洗礼を受ける)に属している。ヨーロッパで迫害に会い、田舎で農業に従事するようになった。アメリカでは現在でも以下の通り独自の考え方に基づき大変特徴のある生活をしている。
1 アーミッシュ以外の社会とできるだけかかわらず、自分たちの独自性を大切にする。
 A テレビや映画を見ず、高校や大学の教育も受けず、外部との文化的なつながりを抑える。
  (学校は8年制で、全学年が同じ教室)
 B インターネットは使わない。
 C 国の年金や医療といった社会保障を使わず、自分たち同士で助け合う。
  (医師からの必要な治療は受ける)
 D 税金は払うが、政治への参加は不可。投票所に行く人は少ない。

2 静かで慎ましい、自給自足の簡素な生活をする。
 A 自動車や電話は持たない(農作業は馬で)
 B 電線で引き込まれる電気は使用しない。
 C 簡素な衣服、住居とする。
 D 化粧を控え、宝石を持たない。
 E 教会を持たない。個人の家に集まる。
  (信仰は実践に重きを置く)

3 非暴力を貫き、もめごとに関わらない。
 A 訴訟に訴えない。
 B 兵役を拒否する。

 アーミッシュの女性は平均で7人の子供を産み、多産である。共同体の外に出てしまう若者も少ない。このため、20年で人口は2倍になっている(現在、ランカスター郡のアーミッシュの人口は2万7千人。全米のアーミッシュの人口は22万人。)

 彼ら独自の生活は外部の人々から尊敬の念でもってみられるようになり、近年では年間8百万人の観光客がランカスター郡に押し寄せている。アーミッシュの人々にとって静かな生活が保てなくなる面がある一方、お土産品の販売など、経済面で生活を支えてもいる。土地の値段は高騰しており、若い人が独立して農業を営むために土地を確保することが容易ではなくなっている。

 また、新しい技術、道具、機械が生み出される世の中で、そうしたものと折り合いをつけて自分たちの考えや生活を若い世代に引き継いでいけるかが、今後も続く大きな課題。
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