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「殺戮の宗教史」 [宗教]

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  東京出版、2016年3月刊。
  著者は宗教学者の島田裕巳さん。

  宗教と殺戮の関係で検討対象となるのは・・・
  ① 世界でテロを繰り返すイスラム原理主義
  ② 異教徒や異端者の殺戮を容認してきたキリスト教
  ③ 戦没者を英霊として祀る日本の神道

1 イスラム教の特徴
(1)預言者ムハンマドは、イスラム教の開祖であると同時に、イスラム共同体の政治的な支配者となり、武力を使って勢力を拡大した。
 (キリストや釈迦は政治的な支配者とはならなかった)

(2)キリスト教の「洗礼」に当たるような儀式はなく、また、偶像を崇拝することも禁止されている、比較的シンプルな宗教である。
 (モスクには開祖などの像はなく、単なる礼拝をするための集会所である)

(3)イスラム教が誕生した背景には、アラブ社会における部族同士の対立と抗争があり、そうした事態から抜け出すためには、それぞれの部族が独自の神を信仰するのではなく、共通の神を信仰することが求められた。

   イスラム教で部族の統一を進めるためには、武力に頼ることも認められた。
   コーランでは、「多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい」と記されているが、部族間の対立抗争を防ぐためには、どうしても宗教による統一が必要であったため。

(4)教団組織を持たない。
   イスラム教には二大宗派としてスンニ派とシーア派があるが、これらは学派としての性格が強く、それぞれの派が教団を組織しているというわけではない。

   教団組織が存在しないため、教義を実行するかどうかは個人に任されている。
   このため、「多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい」というコーランの言葉の時代背景を考慮せずに、その言葉通りに実行に移そうとする信者が出てくることにもなる。

(5)「原理主義」を、もともとの教義により忠実になろうとするということと考えれば、イスラム教はキリスト教や仏教よりも全体的に原理主義的な傾向が強い。
  (イスラム教徒はコーランを重視し、そこに示された法に忠実であろうとする)

2 キリスト教の暴力性
(1)カトリックでは、神やキリストだけではなく多くの聖人を崇拝している。
   また、聖人の遺骸、遺骨、遺品などを崇拝する「聖遺物崇拝」も行われている。
   こうした傾向が、聖地としてのエルサレムを重要視した十字軍につながった。

(2)福音を伝えることを使命とする宗教であり、そのためには犠牲をいとわない。
   これは開祖であるキリストが十字架にかけられて殺されたことから、その信仰が始まるからである。
   
   イエスは人類全体の罪をつぐなうために殺されたのだという教えが確立され、そのイエスに倣って殉教することが、福音を伝える人間にとってもっとも尊い行為と位置付けられた。

(3)ローマ教皇の権威が確立し、そこで決められた教義は「正統」とされ、そこで排斥された教義は「異端」とされた。

   異端は弾圧や処罰の対象となっていった。

3 キリスト教の善悪二元論
(1)唯一絶対の善なる存在である神が創造したこの世において、なぜ「悪」が存在するのか。
   世界にはもともと悪は存在しない。
   しかし、天使の堕落により悪魔が生まれ、それが悪を生み出すことになったとした。

(2)こうした善悪二元論に立つ者たちは、自分たちに敵対する人間や勢力が出てきた場合、それを悪魔と呼んで、激しく非難し、攻撃を繰り返す。

(3)しかもそれが神という超越的な存在からの絶対的な要求として人間に迫ってくる。
   そうなれば、人は殺戮という行為に神聖なものを見出し、積極的にそれを実践していくことになる。

4 神道における神の暴力性
(1)皇祖神とされている天照大神は、武神としての性格を持っていた。
   天照大神は、天皇に対して西の方にある国、すなわち朝鮮の新羅を征伐するように命令したとされている。
   この話が、後に秀吉による「朝鮮征伐」や、近代における「韓国併合」を正当化することに使われた。
   天照大神は殺戮を命じる神だった。

(2)多神教の世界では、多く存在する神々の間で役割の分担が行われる。なかには武神、軍神があり、多神教であるからといって、殺戮と無縁であるということにはならない。

   石清水八幡宮や鶴岡八幡宮などの八幡神は武神である。
   また、神社に戦勝を祈願するということは、太平洋戦争の際にも盛んに行われた。


「プロテスタンティズム」 [宗教]

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  中公新書の一冊。2017年3月刊。
  著者は宗教や哲学を専門とする深井智朗さん。

1 キリスト教がヨーロッパで定着した理由
(1)唯一神を信じるキリスト教は、聖人や守護天使に祈りをささげるということで、ローマに根付いていた多神教的世界観を自らのうちに取り込み融合させた。

(2)キリスト教はもともとユダヤ教の一分派であったが、ユダヤ教から追い出され、また、中東、アフリカの地はイスラム教が支配的になったため、ヨーロッパで生き延びるしか方法がなかった。

(3)人間は死後、天国に行くか、地獄に行くかどちらかだ、天国に行くためには教会の教えに従う必要があると、脅した。

2 原罪と贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符)
(1)人間は、アダムとイブ以来の原罪をもって生まれる。この原罪が人々の過ちを誘発する。日々の過ちはどのように許されるのか。

(2)7世紀頃、司祭の前で自らの犯した罪を告白する(懺悔)という仕組みができた。司祭はその罪を許し、これが天国へ行くための条件となる。

(3)さらに、15世紀頃には贖宥状というものができた。これによって自らの犯した罪に対する罰が帳消しになる。贖宥状とは贖宥が行われたことを示す証書であった。人々はこれを買い、天国に行けると考えた。贖宥状は、教会やローマ教皇に多くの利益をもたらした。

3 宗教改革の背景
(1)神聖ローマ帝国
   962年、ドイツ、スイス、北イタリアの地域を支配していたオットー一世が、ローマ教皇により、ローマ帝国の継承者として皇帝と任ぜられ、神聖ローマ帝国が誕生した。
   しかし、ドイツ国民を主とする神聖ローマ帝国は、絶えずローマ教皇の顔色をうかがい、政治的にも宗教的にも拘束されることになった。
   ローマ教皇による搾取は激しく、神聖ローマ帝国内の商工業者や農民層は、ローマに対して批判的な感情を抱くようになった。

(2)煉獄
   中世キリスト教では、天国にも地獄にも属さない「煉獄」という段階を想定する。人々は、地獄に行く前の煉獄の段階で、それまでに買っていた贖宥状を利用して天国へ行く道に戻してもらうことが可能と説かれた。贖宥状は天国行きを確実にする便利なものとして売られた。
   贖宥状には定価がなく、人を見て、支払えるものからは多くを搾り取った。

(3)当時の聖職者
   その多くはきちんとした神学の教育を受けていなかった。
   教義や聖書についての説明などはほとんどできなかった。
   聖書はドイツ語のものはなく、地方の聖職者の多くは聖書を読んだこともなかった。
   知っていたのは贖宥の仕組みだけだった。 

4 宗教改革の始まり
(1)1517年、修道士マルティン・ルター(1483~1546)が地域の大司教に対して、贖宥状の購入を勧めるのではなく、聖書の言葉を正しく聴き、真の悔い改めをなすように人々に語るべきとの書簡を送った。

(2)印刷技術が15世紀にグーテンベルクにより発明されていたこともあり、ルターの主張はまたたく間にヨーロッパ各地に広がった。ただし、ルターの贖宥状批判は、西ヨーロッパのキリスト教であるカトリックのリフォームを目指したもの。

(3)ルターの周辺の人々は自らを「福音主義」と呼んだが、カトリックの支配層はルター達を「福音主義者」という名誉ある称号ではなく、プロテスタント(抗議する者たち)と呼ぶようにした。このため、英語圏やオランダ語圏ではこの言葉が定着するようになった。

(4)ルターの死後の1555年、アウグスブルクの宗教平和の決定で、ルター派はカトリックとともに宗派として政治的に認められた。以後、領主はこの二つの宗派のいずれかを選び、領地内のすべての領民は、領主の選択した宗派を信仰することになった。

5 宗教改革の三大原理
(1)聖書のみ : 聖書に書かれていることが、教皇の考えに先行する。

(2)全信徒の祭司性 : 誰もが聖書を司祭のように読み、そして解釈してよい。

(3)信仰のみ(信仰義認) : 神が人間を救うという行為を人間はただ受け取るのであり、神がなすことを信頼するのが信仰。
    *浄土真宗の「他力本願」とルターの「信仰義認」は似ているといわれる。

6 その後のプロテスタンティズム
(1)カルヴィニズム
    スイスのジャン・カルヴァン(1491~1551)が主導し、改革派と呼ばれた。
    カトリック教会の伝統の中にあった魔術的要素、反聖書的要素を徹底的に排除しようとした(フランスではユグノーと、スコットランドでは長老派と呼ばれた)。

(2)イングランドの改革
    1543年、ヘンリー8世は英国教会を設立し、バチカンから離脱した。
    その後、英国教会の改革や制度批判を行った人たちがピューリタンと呼ばれるようになった。

(3)洗礼主義(17世紀初め、イングランドで誕生したバプテストや、大陸の再洗礼派など)
   ① 教会を領主の所有物ではなく、自発的な結社として理解。
     個々人が主体的に信じる自由を持ち、自由に教会を作り、その信者となることができる。

   ② 幼児洗礼の否定。自覚的な成人の洗礼だけが正しい洗礼である。
    
8 2種類のプロテスタンティズム
(1)古プロテスタンティズム
    ルター派やカルヴィニズムなど。
    1555年の決定に従い、一つの政治の支配単位には一つの宗教という政治的支配者主導の改革の伝統を受け継ぎ、国営の教会あるいは国家と一体となった。
    宗教の決定権は個人にはなく、政治をつかさどる王や政府に与えられている。

(2)新プロテスタンティズム
    国家との関係を回避し、自由な教会を自発的結社として作り上げた。

「浄土真宗とは何か」 [宗教]

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  中公新書の一冊。2017年1月刊。
  著者は日本宗教史を専門とする小山聡子さん。

1 天台宗
   唐に学んだ天台宗の開祖最澄(767~822)ならびにその弟子たちは、釈迦如来を中心とする教義を構築し、天台密教を完成させる。
   天台宗は、比叡山延暦寺に総本山を置き、のちに法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった鎌倉仏教の祖師を生み出すことになる。

   平安仏教の役割(現世利益のために加持祈祷を行う)
    ① 鎮護国家
    ② 延命安穏、病気治療

  *病気治療の役割分担
    陰陽師  占いにより、病気の原因を見定める。
    原因が・・・
     ① モノノケ(正体の分からない死霊の気配)の場合
        僧侶による修法や加持が効果的とされた。
     ② 疫神や呪詛の場合
        陰陽師が祭りや祓いを行う。
     ③ 食中毒が原因の場合
        医師が投薬や灸などの治療を施す。

2 浄土教の流れ
(1)源信(942~1017) 
    比叡山の世俗化を嫌い、末法の世への危機意識を持ち、極楽往生のための指南書「往生要集」を著した。
    末法の時代に生きる人間は、現世で悟りに至ることは不可能なので、阿弥陀仏にすがって念仏をして極楽往生を遂げ、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聞き仏になるしかない、とした。

(2)法然(1133~1212)
    25年間比叡山で学んだ後、ただ念仏のみに専念することを説くようになる。
    源信は臨終時の念仏を重視したが、法然はそれを特に重んじなかった。
    法然は、前世の因縁による病を患った場合に、仏や神に祈るのは無意味とした。
    阿弥陀仏の本願を深く信じて念仏を称え往生を願う人は、阿弥陀仏をはじめとする諸仏菩薩から守られているのだから、ことさら魔を払うために様々な仏菩薩や神に祈ったり、物忌みをしたりする必要はない、
    ただし、依頼があれば祈祷を行うことを拒まなかった。

3 親鸞とその弟子
(1)親鸞(1173~1262)
    29歳まで20年間、比叡山で天台僧として修業をした後、法然のもとに行き着く。
    そこで法然の教えを学ぶが、33歳の時に、ある事件の影響で、法然は土佐へ、親鸞は越後へ流罪となる。
    親鸞は5年で流罪を解かれたが、その地にさらに2年留まり、その後、常陸国(茨城県)に向かい、そこに居を構えた。
    親鸞は62歳で京都へ戻るまでの22年間、常陸国で熱心に布教活動を行った。
    親鸞の弟子の大半は、この地で親鸞から教えを受けた者たちである。
    京都に戻った後、90歳で亡くなるまでの28年間、布教活動は行わず、執筆を行うのみであった。

(2)親鸞の教え
  A 末法に生きる者は自力で悟りには至れない凡夫であることをまずは深く自覚する必要がある。
  B 極楽往生には、阿弥陀仏により与えられる信心(他力の信心)が不可欠である。
   (臨終行儀による極楽往生を否定した)
  C 他力の念仏とは、現世利益や往生のために少しでも多く称えようとするものではなく、信心を得たその時に自然と口をついて出てくるもの。
  D 法然と同様、仏菩薩や神への不拝を説いた。
    
(3)他力信心の難しさ。
   親鸞は59歳の時に、風邪をこじらせ一時重態になった。
   この時、高熱によってもうろうとなったためであろうか、寝ていながら経典読誦をしてしまった。
   これは病気回復という現世利益のための自力行為であり、他力の念仏とは相容れない。
   親鸞は後に、このことを失敗談として語っている。
   親鸞は、阿弥陀仏の本願力を少しも疑わずに信じることがいかに難しいかを実感した。

4 蓮如(1415~1499)
   親鸞の教えは、その子孫により代々受け継がれ、蓮如により大きく発展した。
   蓮如は、親鸞の流れをくむお寺を、浄土真宗という一つの教団にまとめる基礎を作った。
   また、山科本願寺を完成させ、本山とした。

   蓮如の死後、その子孫の努力により教団はさらに発展し、織田信長など時の権力者と争うほどになった。
   また、徳川時代に入り、教団は西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)とに分裂し、現在に至っている。

5 親鸞の教えの難しさ
(1)浄土真宗の教えでは、阿弥陀仏一仏に帰依すべきであるとしている。しかし、蓮如をはじめ後継者は祈願のために他のお寺や神社への参詣を行ったりしている。少なくとも中世の段階では、教義上はともかくとして、実際の信仰は一神教的とは必ずしもいえない。

(2)他力による往生は、深い学問知識や峻厳な修行は不要で、一見、やさしい。しかし、極楽浄土に住む阿弥陀仏の姿そのものを目にすることは決してできない。不可視の阿弥陀仏を信じ切り全面的に身をゆだねることは、非常に難しい。


   * 現代においてこうした宗教はどのような意味を持つのであろうか。
     中世の時代には謎とされていたことも、現代ではその多くが解明されている。
     病気の多くもその原因が解明され、治療が行われている。
     一方、ご利益を期待しての初詣や、パワースポットといわれるところへの参詣は今も人気がある。
     現代においても、死の恐怖はある。しかし、現代に生きる我々で、「極楽往生」という願望を持つ人は少ないのではないか。
    

カトリックにおける臨終の際の儀式 [宗教]

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 キリスト教カトリックでは、病気などで死が近いと思われる人がいる場合、司祭がその病人を訪問し、「ゆるしの秘跡」「病者の塗油」 を行い、旅路の糧である「聖体」を授け、主のもとへの旅立ちの準備をする。

 しかし、これは死をいまだ覚悟できていない人にとってはつらいものとなる。
 また、司祭による儀式がなければ天国に行けないとすることにより、教会は自己の権威を強めようとしているようにも見える。

 トーマス・マンが「魔の山」で、この儀式をいやがる娘のことを書いている(第三章)。
 結核患者のためのサナトリウムでの出来事。
 
 カトリックの少女のところへ、臨終の聖体や終油が持ってこられた。
 その娘は、寝たっきりになって、両親がやってきて、いよいよ司祭が乗り込んで来たってわけさ。
 僕が廊下を歩いていると、むこうから司祭たちがレースの衣をつけてやってきた。
 灯火をいくつもつけた金色の十字架を先頭に立ててね。
 先頭が十字架の男で、そのあとに眼鏡をかけた司祭、最後は香炉を持った少年。
 司祭は聖体を胸にささげていた。
 あの人たちに聖体は何よりも神聖なものだ。

 少女の部屋の前で、三人は足を止め、香炉を捧げたミサの侍者の少年がドアをノックして、ハンドルを回し、司祭を中に入れたんだ。

 司祭が部屋に足をふみこんだとたんに、部屋の中から悲鳴が聞こえたんだよ。
 金切り声がね。
 それが三度か、四度つづけざまに起こって、そのあと息もつかず、息を切りもせずに叫ぶのさ。
 口いっぱいに開いて叫んでいるらしくて、アアアってね、悲しみがこもっていて、そして、恐怖と抗議がこもっていて、実にいいようのない声でね。
 そして、それがときどきぞっとする哀願に変わるのさ。

 そして、ふいにそいつが地面の下に沈んで、深い穴倉からでも聞こえてくるように、うつろにぼんやりと聞こえるようになったんだよ。娘がふとんのなかに潜ってしまったんだよ! 

 司祭はしきいの直ぐ向こうに立って、何かなだめているんだ。十字架の男とミサの侍者は、進退きわまって、入るには入れないでいるのさ。

 ベットの頭の方にみんなが立っている。肉親の人たち、両親で、この人たちもベッドに向かってなだめ聞かせているんだが、ベッドのなかには不格好な塊が見えるだけで、それがふとんの下で哀願したり、ぞっとするような声で抗議したり、両脚をばたばたさせたりしているんだよ。ありったけの力でね。

 しかし、そんなことをしたってどうにもならなくて、やはり臨終の聖体を受けなくてはならなかったのさ。司祭が娘に近づき、ほかの二人も部屋に入って、ドアが閉められたんだよ。

 娘の頭が一瞬間ふとんのなかから出てね、うすブロンドの髪をもじゃもじゃにして出てきて、避けるような眼で司祭を見つめたのさ、色もつやもない青い眼でね。そして、アアとかウウとかさけんでふとんのなかにまた消えてしまったんだよ。

 そんなに抵抗したところをみると、その娘にはまだずいぶん体力が残っていたのだろうか。いや、もう弱っていたんだ。そんなに力が出せたのは、恐怖からなんだよ。死ななくちゃならないことを悟って、怖くてたまらなくなったんだよ。

 まだ若い娘のことだから、大目に見てやらなくちゃね。しかし、大の男のくせに、取り乱すのが時にいる・・

鈴木大拙「禅堂生活」 [宗教]

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  原書は鈴木大拙(1870~1866)が、1934年に英語で書いたもの。
  欧米人に禅の知識を知らしめることを目的とした。
  しかし、日本人にも役に立つということで、1935年に日本語訳が出た。
  2016年5月、岩波文庫の一冊として再度、出版された。

1 禅とは
(1)禅は、一つの修行であって哲学ではないのであるから、直ちに生活そのものを取り扱う。

(2)禅は空の心理を把捉するものであって、これを為すに知性や論理の媒介によらない。それは直感または直覚に訴える。

(3)空は、無・空虚・無内容を意味しない。それは絶対的意味を有し、相対的な言葉や形式的論理の言葉による表現を拒む。それを理解する唯一の方法は、自身これを経験するにある。

(4)師は、その弟子が十分に自分を満足させる答えのできるまでは否認し続ける。その否定の方法はは禅師それぞれの自由で、師は弟子たちを棒で打ったり、顔に一撃を加えたり、蹴倒したりした。弟子を嘲笑さえもした。

(5)要点は、外部から来るものを理解するのではなく、弟子たち自身の内にあるものに目覚めることである。

(6)公案は一種の問題である。これを修行者に与えて解かせる。これを解ければ、禅の真理の実証に導くということになる。

2 入衆(にっしゅ)
(1)禅僧は少なくとも数年間はこの道場で厳しい修行を経なければ禅僧としての資格がない。

(2)「入衆」とは、禅僧の志願者が初めてどこかの禅寺に属する専門道場の一員となること。

(3)志願者は道場の入り口で、入衆を乞うが、取次のものに「当僧堂は満員で何とか致し方がない」とか、必ず断られる。志願者は門外で座禅して数日を過ごす(庭詰)。そののち、屋内に入り3日間、旦過寮というところで終日、座禅に浸り、ようやく禅堂に入ることを許される。
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3 作務(さむ)(作業勤務)
(1)禅僧は、極めて抽象的な形而上学的問題の解決を迫られている。これを解くために瞑想に凝る。しかし、それが現実に彼の日常生活の諸経験に適応されないならば、その解決は単に観念的なものであり、何ら成果をもたらさない。それ故に、禅師たちは弟子たちが懸命に農園または森林や山中で働くことを熱望した。

(2)師も弟子も、禅堂生活に必要なあらゆる種類の勤労に等しく携わった。

4 経を読む
(1)その目的は・・・
   ① 開祖の思想に触れるため
   ② 精神的功徳を得るため

(2)経典を読誦すること自体が目的で、必ずしもその経典の内容を知的に理解することを伴わない。誦経そのものが功徳になる。誦経だけでなく、経文を書写することも功徳になる。

5 坐禅
(1)座禅の目的は、慧眼を開くことにある。そうは、公案によって、物の意味を見る眼を欠くという陰りを拭い去る。一つの公案をうまく透過すれば、他の公案が与えられる。
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(2)参禅とは、僧が師に謁して、公案に対する自分の見解を示すこと。通常は、一日二回行われる。

(3)僧は、その見解を最もよく表現する行動をとる。世間の礼儀作法にはとらわれず、老師に一撃を加えたり、蹴とばしたりする。老師の方では、偏見にとらわれた僧に棒打を加え、手酷く室外に追い出したりする。
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(4)坐禅をすることは、瞑想と同じではない。公案を解くために、心的精力をを集中するので、肉体もひどく緊迫の度を加える。筋肉は硬直し、神経は緊張する。

(5)公案に対して命がけの苦闘をする僧たちは、禅堂を忍び出て山中で夜を過ごしたり、岩の上に坐したりすることもある。

(6)禅堂では、書物は一切見ることは許されない。

「徳川時代の宗教」 [宗教]

IMG_20170329_0001.jpg   
  著者はR.N.ベラー(1927~2013)。
  アメリカの宗教社会学者でハーバード大学教授だった。
  本著はもともと1957年に出版されたもの。
  日本の宗教の様相を外国人の目から見ており、興味深い。

1 徳川時代の諸宗派
(1)仏教
   ア 僧侶の主要な機能は、葬儀屋の機能であった。
   イ それぞれの宗派は、多数の仏教経典の中から一つあるいはいくつか特に尊重する教典を選んでいた。
(2)神道
    神道とは以下のような多種多様な諸現象を包括する名称である。
   ア 地方農民の周期的に毎年繰り返される農耕儀礼
   イ 地蔵や稲荷
       専門の司祭者や信者の組織化された集団は存在しない。
   ウ 伊勢や出雲のような特定の神社センターの儀礼
   エ 国家神道
       皇室と天皇個人を中心とし、経典は、国家的神話と支配者の初期の歴史を混ぜ合わせた著作。
   オ 教派神道(天理教などの神道系新宗教教団)
       神学的には、神道とほとんど共通するもののない一群の宗教運動。
(3)儒教
     朱子学は、一種の悟りを得る方法を編み出しており、宗教であるといえる。

2 神的なるもの
(1)日本における神的なるものについて二つの基礎概念がある。
  ① 食物、保護、愛などを与えてくれる至高的存在の観念
    (儒教の天と地、阿弥陀や他の仏陀、神道の神々など)
  ② 存在の根拠、実在の内的本質
    (朱子学派の「理」、仏教徒の仏性に関する観念、神道の最も哲学的な意味での「神」など)
(2)禅宗は①の神々を否定し、浄土諸宗派は①の阿弥陀に対する献身を強調する。

3 尊王と国体
(1)徳川時代に以下の観念が生まれた。
   ア 天皇に対する新しい態度・・・「尊王」
   イ 国家に関する新しい政治的ー宗教的観念・・・「国体」
(2)「尊王」、「国体」の思想を推進したのは以下の二つ。
   ア 国学派
      賀茂真淵(1697~1769)
       「8世紀に中国の衣服や作法が宮廷によって採り上げられ、急激に男子の精神を堕落させた。支配者が簡素な生活様式を保持していれば、現在のような状態には至らなかった。権力は臣下の手に落ち、帝は全くあれどもなきがごときものとなってしまった。」
       (中国風のものを排除し、幸福な素朴な原始時代に変えることを主張)
      本居宣長
       (『古事記』にある古代神話をそのまま信ずることを主張。論理的言語を用いた仏教、儒教道教などの説明はすべて矛盾しているとした。)
       「連綿と続く帝の王朝こそは、神道と呼ばれる「道」が他のすべての国々の体系より無限に優れている完全な証拠である」

  イ 水戸学派
     ・神道を第一に置き、中国の賢人には敬意を払い、仏教は排斥。
     ・天皇は「神的なるもの」であり、「君主」であり、かつ民族的家族の「父」である。

     吉田松陰
      「我が帝国に生まれたものはすべて、我が帝国が崇高であるゆえんを知らねばならぬ。結局、我が帝国の王朝は、太古から絶えることなく継続している。大名は代々封土を受けつぐ。支配者は人民を養い、一方、人民は支配者に対して感謝の大きな恩義を負うている。支配者と人民は一体である。

4 著者の評価
(1)国学派について
   「国学派の教えの持つ政治的な意味は、強力な中央集権的君主制を確立し、これに対してすべての日本人が絶対的な忠誠を捧げ、君子と人民の間を隔てる将軍家あるいはその他」の権力を破壊することであった。そのような中央集権的君主制が、5世紀あるいは6世紀の日本に支配的であったと考えたような、牧歌的な部族国家たりえないことは明らかである。国学者が何を意図したにせよ、政治分野において説いたその結果は、ただ権力の異常なまでの拡大と合理化のみであった。」

(2)水戸学派について
   「『大日本史』が重要なのは、天皇が隔離されずに直接支配した時代のかってあったことを、疑いもなく明らかにしているからである。その周到な学識は、将軍家の正当性を多分に危うくし、天皇が実際に統治した時代に復帰したい気持ちを人々に起こさせる力となった。」

和辻哲郎「道元」 [宗教]

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  河出文庫の一冊。もともとは1920年から1923年にかけて雑誌に連載されたもの。
  和辻哲郎(1889~1960)は哲学者、思想家。主著は「古寺巡礼」、「風土」、「倫理学」など。
  「道元」は曹洞宗の開祖、道元の思想を探ったもの。
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1 真理の探究
 仏法の修業は、真理の探究と体現に尽きる。
 これはある目的のために行うのではない。
 真理のために真理を求め、真理のために真理を体現する。
 真理の世界の確立がその目的である。
 修行をするもの自身のために真理を求めてはならない。
 名利のため、幸福のため、ご利益を得るために真理を求めてはならない。

2 切実な要求
 仏の真理はだれにでも開かれている。
 人がそれを得ないのは、得ようとしないからである。
 要求が切実でないからである。
 要求さえ切実であるならば、必ず仏の心理は獲得できる。

3 学修の方法
 切実な意思があったなら、あとは学修の方法である。
 方法の第一は「行」である。
 「行」とは、世間的価値の一切を捨て去って、仏祖の模倣者となること。
 世間の人が如何にに思おうとも、狂人と呼ぼうとも、ただ仏祖の日常の一切の行為に従って修行をすれば、仏の弟子への道がある。
 自分の都合や好悪を忘れ、善くとも悪くとも仏祖の言葉や行為に従う。

4 仏祖の模倣
 仏祖の模倣は、道元の修行法の根底にある。
 ひたすら座禅をするのも、仏祖自身の修行法であるから。
 戒律を守るのも、仏祖の家風であるから。
 難行工夫も仏祖の行為であるから。

5 導師
 仏祖の模倣は正しい導師なくしてできることではない。
 なにが仏祖の行為であるかは、自らの判別によって知られるのではなく、すでに仏祖の道に入ったものによって教えられなくてはいけない。
 (人格から人格への直接の薫育)
 仏祖の行為の最奥の意味は、固定した知識としてではなく、直接に人格をもって伝えられてきた。

 師の正邪は修行の成否を決する。
 修行者の天分は素材であり、導師は彫刻家である。
 善き素材も良き彫刻家に会わなければ、その良質を発揮することができない。

6 至誠信心
 この師に従い、一切の縁を投げ捨て、寸暇を惜しんで精進することが大事。
 師を疑い、精進を欠くものは真理を体得することは出来ない。
 しかし、このように迷妄を絶って仏の神髄を体得した場合に、それを可能にしたものは自分の人格の底から出てくる至誠信心である。
 至誠信心とは何か。
 それは法を重くし、身を軽くすること。

7 法
 あらゆる人は、釈迦仏に従って、自己において法をあらわさせなければならない。
 人の真正の任務は自己の活動によって法を実現すること。
 救いとは、自己を仏にすること、法を我々において具現することである。
 礼拝する対象となるは、超越的な仏ではなく、仏となれる人、法を得たる人に担われた「法」である。
 その「法」は、人から人へ直接に伝えられるものであって、人を離れた独立の形而上学的なるものとはならない。

8 人生の意義
 道元は、永遠の理想(法)を自己の全人格によって捕捉しようとする人間の努力に、十分な意義を与えた。
 それによってこの世の生活が再び肯定される。
 絶えざる精進が人生の意義になる。
 「法を重くし身を軽くする」という道元の標語は、こうして「努めてやまざるものはついに救われる」という思想に接近する。
 それは生活を永遠の理想に奉仕させることである。

「宣教師ザビエルと被差別民」 [宗教]

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  筑摩選書の一冊。2016年12月刊。著者は比較文化を専門とする沖浦和光さん。
  ザビエルが日本に来るまでの過程、ならびに日本での布教の状況について辿っている。

1 イエズス会
(1)スペインのバスク地方で生まれたフランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、イグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)ほか5名とともに、1534年にローマ教会内の行動組織として「イエズス会」を立ち上げた。
(2)15世紀から16世紀にかけては、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したほか、ヨーロッパ人が世界に進出する大航海時代が始まり、また、宗教面ではドイツのルターが宗教改革の口火を切り、ローマ教会との対立を深めており、対抗上、ローマ教会内でも内部改革を進める必要に迫られていた時期であった。
(3)イエズス会は、腐敗堕落していたキリスト教精神の再生を図ろうとした。また、未知の異郷へもキリストの福音を伝えようという使命感に燃えていた。彼らは新しく開拓された新航路の船に乗って、次々と未知の新天地へと旅立って行った。

2 ザビエルの布教活動
(1)ザビエルはポルトガル国王からポルトガル領であったインドのゴアでの布教を許され、そこに向かった。日本には2年3か月滞在し、その後、ゴアに戻った後、中国で布教活動を行い、その地で亡くなった。
   1541年4月  リスボンを出発
   1542年5月  インドのゴアに到着、布教活動を行う。
   1545年9月  マラッカ(現在のマレーシア内)に到着。同地域並びに周辺地域での布教活動を行う。マラッカで日本人と出会い、日本での布教を考えるようになる。
   1548年11月  ゴアを出発、日本を目指す。
   1549年8月  鹿児島に到着。布教活動を行う。
   1551年11月  日本を離れる。その後、ゴアに戻った後、中国に向かった。
   1552年12月  中国で亡くなった。

(2)鹿児島では、薩摩藩主と会見し、大変丁重にもてなされ、宣教の許可を得ることができた。薩摩藩としては、鉄砲や火薬を積んだ南蛮船との交易を望んでいたということもあったとみられる。

(3)ザビエルが去った後、日本での布教活動は以下のイエズス会士に委ねられた。
     コスメ・デ・トルレス (1510-1570)
     ファン・フェルナンデス(1526-1567)
     ルイス・フロイス   (1532-1597)

3 布教の成果
(1)トルレスは大分を活動の拠点として、布教を行った。
(2)彼は、キリスト教に理解のある九州各藩の港にポルトガル船が入港するようにした。その結果、大村、有馬、大友など九州の有力大名が次々とキリスト教に帰依した。
(3)京都での布教活動に貢献があったのは日本人宣教師のロレンソ了西であった。彼は、高山、結城、京極などの有力大名を入信させた。
(4)1582年当時のキリシタンの数は、九州の大村・有馬・天草地方で11万5千人、豊後地方で1万人、京都で2万5千人とみられている。

4 慈善活動
(1)イエズス会の宣教師たちは、布教戦略として有力大名の入信にも力を入れたが、イエスの隣人愛の教えを実践するために、貧しい窮民の間で精力的に布教し、特に老弱者、孤児、病人の救済活動に全力を挙げた。漂泊の遊芸民や賤民層からの入信者も少なくなかった。
(2)最後まで信仰を守り通して殉教した者は四、五万人と推定されているが、その中には「ハンセン病者」もかなり含まれていた。
(3)イエズス会のルイス・アルメイダは大分で乳児院やハンセン病のための病院を開設した。

5 キリスト教の弾圧
(1)豊臣秀吉は1587年に伴天連追放令を発した。このころ日本でのクリスチャンの数は20万人に達し、教会数も200を超えていた。
(2)徳川幕府は当初、ポルトガルとの交易に期待してキリスト教の布教に寛大であったが、1614年にキリシタン禁教令を発して抑圧に転じた。
(3)弾圧は時の経過とともに激しくなり、「踏絵」や「宗門改め」などしらみつぶしにキリシタンの探索が行われることになる。

 *コメント
   秀吉や家康は、当初は貿易の利益や既存宗教の力を削ぐ可能性から、容認姿勢であった。しかし、一方では、一向一揆など新興宗教の怖さも承知しており、クリスチャンの増大に伴い警戒姿勢を強めた。
   イエズス会士は、ヨーロッパから危険と苦難に満ちた航海を経て日本に辿り着き、日本人の助けを得つつも困難な布教活動に力を注ぎ、その一環として慈善活動も行った。こうした活動の原動力は、ローマ教会の信徒としての使命だけであったのだろうか。ザビエルが日本に来るより早く、スペイン人やポルトガル人はアメリカ大陸で異教徒ということで原住民を殲滅し、ローマ教会はそれを是認した。インドでも宣教師は植民地統治に一翼を担っていたことは忘れてはならない。。

「禅と日本文化」 [宗教]

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 著者は鈴木大拙さん(1870-1966)。世界的に著名な宗教学者で、日本の禅文化を世界に広く紹介した。コロンビア大学客員教授に就任するなど、戦前のアメリカで活躍した。この本は1938年に英語出版されたものを北側桃雄さんという方が翻訳し、岩波新書の一冊として1940年に出版し、以来、読み継がれているもの。

1 禅とは
(1)禅の目的は、仏教が発展するにしたがって建設者の教えの周囲に堆積した、儀礼的、教典的な、一切の皮相な見解を除去して、仏陀自身の根本精神を教えることにある。
(2)禅は、我々のうちに眠っている超越的知恵(「般若」)を目ざまそうとする。般若により、人は事物の現象的表現を超えて、その実在をつかむ。
(3)禅の鍛錬法は、身をもって体験すること。知的作用や体系的な学説に拠らない。
(4)禅のモットーは「言葉に頼るな」である。人間の魂の直接表現である芸術品を作ったり、正しく生きる術を得ようとする場合には、学説等に頼ることは出来ない。
(5)言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅において最も高く評価されるものである。

2 禅と美術
(1)さび、わび、孤絶性、その他日本の芸術及び文化の最も著しい特性は、みなすべて「多即一、一即多」という禅の真理を中心から認識するところから発する。
(2)禅が日本の宗教生活のみならず、一般文化にも及んだのは・・・
  ア 鎌倉、室町時代に、禅院が学問芸術の貯蔵所になった。
  イ 禅僧が外国文化と接触する機会を有した。
  ウ 貴族が禅僧を教養の鼓吹者として尊んだ。
  エ 禅僧自身が、芸術家であり、学者であり、神秘思想家であった。

3 禅と武士
(1)禅は道徳的および哲学的の二つの方面から武士を支援した。
   道徳的・・禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える。
   哲学的・・禅は、生と死とを無差別的に取り扱う。
(2)禅の修行は単純、直截、自恃、克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。
(3)「天台は宮家、真言は公卿、禅は武家、浄土は平民」と言われた。
(4)北条時頼は、京都からあるいは直接中国南宋から禅匠たちを鎌倉に招き、禅の研究に没頭した。
(5)日本人は思い切り悪く、ぐずぐずして死を向かえるのを嫌う。風に吹かれる桜のように散りゆくことを欲する。日本人のこの死に対する態度は禅の教えと一致する。
 
4 禅と剣道
(1)剣道において、その技術以外に最も大事なことは、その技を自由に駆使する精神的要素。それは「無念」または「無想」という心境である。これは、太刀を取って相手の前に立った時に、思想、反省あるいはすべての愛着を絶った意識によって。生来の能力を働かせる意味である。
(2)禅と剣道とは、生死二元を超越することを目的とする点で一致する。

5 禅と茶道
(1)禅と茶道が共通するところは、いつも物事を単純化するところにある。不必要なものを除き去ることを。禅は究極実在の直覚的把握によって成し遂げ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成し遂げる。
(2)禅の狙うところは、人類が己を勿体づけるために工夫したと思われるような、一切の人為的な覆いものをはぎ取る点にある。茶を扱う指導原理は、不要物の除去ということと全く一致している。
(3)四畳半の茶室の中では種々雑多の階級の客が無差別に饗応される。平民が貴人とひざを交えて、ともに興に入ったことを慇懃に語り合う。禅ではもちろん世俗的な区別は許されぬ。禅僧はあらゆる階級に自由に近づき、誰とでも打ち解ける。

「キリスト教は邪教です!」 [宗教]

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  講談社+α新書の1冊として2005年に出版された本で、ドイツの哲学者、ニーチェが1888年に書いた「アンチクリストーキリスト教批判の試み」をわかりやすく翻訳したもの。

  ニーチェは、自分の「力の意志」に従い気高く生き、生きることに憶病になってはならない、豊かに生きることを恐れたり、罪悪感を抱いたりしてはならない、たとえどんなことが起こっても自分の人生を愛するといった現実を肯定して生きることを主張し、神の基準に自分の人生を制約されるようなキリスト教的考えを徹底的に批判した。

1 キリスト教の特徴
 A 「神」「霊魂」「自我」「自由意志」などといった。ありもしないものを本当に存在するかのようにした。
 B 「罪」「救い」「神の恵み」「罰」「罪の許し」などといった空想的な物語を作った。
 C 「悔い改め」「良心の呵責」「悪魔の誘惑」「最後の審判」といった芝居の世界の話を現実の世界に持ち込んで心理学をゆがめた。

2 仏教の良いところ
 A 暖かい土地で、上流階級や知識階級から生まれた。心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になる。。
 B 客観的に冷静に考える伝統を持っている。「神」という考えはない。現実的に世の中を見ている。
 C 善や悪というものから遠く離れた場所に存在している。心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めた。たとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとはしない。

3 キリスト教の問題点
 A 最下層民の宗教。負けた者や押さえつけられてきた者たちの不満がその土台となっている。
 B 異なった文化を認めようとしない。憎み、徹底的に迫害する。野蛮人を支配するために、野蛮な考えや価値観が必要だった。
 C 人生をよりよく生きること、優秀であること、権力、美、自分を信じること、こういった大切なものを否定。
 Ⅾ 僧侶たちは実権を握るために「神の意志」という仕組みを作り出した。
  ア 人間がするべきこと、してはならないことは神の意志によって決められている。
  イ 民族や個人の価値が、神に従うかどうかという基準によって測られ、民族や個人の運命が、神に従うかどうかによって、罰せられたり救われたりする。
 E 僧侶は、健康な人たちの精神を食いつぶして生きている寄生虫。僧侶のような組織を持つ社会では「罪」というものが必ず必要になる。僧侶たちは「神は悔い改めるものを許す」といって、「罪」を利用して力を振るう。
 F パウロが造ったキリスト教にはイエスの大切な教えは何も残っていない。パウロはイエスが復活したというデマを流した。「不死」という大ウソは人間の本能の中の理性を破壊する。さらに、「人間の魂は死なないから、みんな平等で、それぞれの救いこそ重要だ」ということになる。

5 新約聖書の暴言集
 A 「私を信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせるものは、首にひき臼をかけられ海に投げ込まれた方が、はるかによい」
 B 「あなたの片目が罪を犯させるとしたら、それを抜き出してしまいなさい。両目が揃ったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい」
 C 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたたちにどんな報いがあろうか」