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「バス水没事故 幸せをくれた10時間」 [災害]

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  朝日新聞出版、2009年刊。
  著者は、バス乗客で元看護師の中島明子さん。

  著者の中島さんは、長年勤めた兵庫県豊岡市の公立病院をすでに定年退職。
  2004年10月19日、北陸地方の温泉への一泊二日のバス旅行に出かけた。
  乗客は61~88歳で、平均年齢67歳の35名。
  そのうち9名は、同じ公立病院の退職者であった。
  若い女性の引率者と運転手を合わせると全体で37名。
  
  その日は食事や温泉を楽しんだ。
  しかし、翌日は台風の影響で、大荒れの天候であった。
  (日本列島を襲った台風23号は、死者・行方不明者は90人を超えるなど、大きな被害をもたらした。)
  幹事さんは、予定を変更してすぐに帰路につくように運転手さんに申し入れたが、旅行会社からスケジュール通りにするようにとの連絡があった。
  このため、永平寺参詣や昼食、それに土産店への立ち寄りを済ませた午後2時ごろ、ようやく帰路につくことになった。

  外はどしゃ降りで、高速道路が土砂くずれで通行不能となったため、一般道を走ることになった。
  道路は混んでいてなかなか進まず、午後7時に「道の駅舞鶴港とれとれセンター」でトイレ休憩をした。
  午後7時半、国道175号線にさしかかったが、依然として、ノロノロ運転が続いた。
  国道に入って2キロほどの地点で、ついにバスは立ち往生してしまった。
  道路は冠水して、あたりいちめんが海のようになっていた。
  
  午後9時頃になり、バスの中に水が入ってきた。
  次第に水かさは増し、バスの中は水でいっぱいになってきたため、バスの屋根に上がることになった。
  皆で窓のカーテンを外し、ロープを作った。
  女性陣の数名は尻込みしたが、男性陣が叱咤激励して、バスの屋根へ押し上げた。
  午後10頃、全員がバスの屋根に上ることができたが、頭上からバケツをひっくり返したような土砂降りの雨であった。
  その20分後に、バスの中は完全に水でいっぱいになった。
  
  何人かが携帯電話で救助を求めたが、ひどい風雨のため、ヘリコプターを飛ばすことはできず、また、ボートも濁流でバスに近づけなかった。

  最初はバスの上で座っていたが、水かさが増し、屋根を超えてきたので、全員が立ち上がった。
  カーテンで作ったロープを固定させ、それに皆が掴まった。
  また、暴風雨から身を守るためと、保温のため、隣の人とがっちり肩や腕を組み、腰に手をまわして、全員で一つの塊になるようにした。

  寒さと疲労による低体温症で異常な震えに襲われる人が出てきた。
  周りの人が必死に介抱をした。
  私(中島さん)は、上着の下に巻いていた大判のスカーフを取り出し、10人ぐらいがその下に入った。
  雨風がしのげて、思いのほか温かかった。

  バスが少し浮き、流されそうになった。
  流されてしまうと危険だ。
  男性の一人が近くの木まで泳ぎ、たまたま流れてきた竹を使って、その木とバスとをつなぐことができ、バスは流されずに済んだ。

  水は、バスの上に立っているわれわれの腰の高さまで迫っていた。
  午前3時ごろからは、睡魔との闘いでもあった。
  居眠りをしかける人がいて、必死に声をかけた。
  皆で歌も歌った。

  午前6時ごろ、嵐のような雨風もようやく上がり、空が白みかけてきた。
  ヘリコプターがやってきた。
  37名全員が無事救出された。


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「東海村臨界事故 被曝治療83日間の記録」 [災害]

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  著者はNHKの岩本裕さん。。2002年、岩波書店刊。
  事故は1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工施設「JCO東海事業所」で、茨城県大洗町にある核燃料サイクル開発機構の高速実験炉「常陽」で使用するウラン燃料の加工作業中に起こった。

1 事故の模様
(1)ステンレス製のバケツで溶かしたウラン溶液をろ過器でろ過し、それを沈殿槽という大型の容器に移し替えていた、作業は二人で行われ、一人が流し込み、もう一人がそれを支えていた。
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(2)最後のウラン溶液を流し込み始めた時、バシッという音とともに青い光が出た。臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線の中でも最もエネルギーの大きい中性子線が作業員の身体を突き抜けた。
 *臨界・・原子核分裂の連鎖反応が一定の割合で継続している状態

2 事故発生の原因と収束
(1)国に提出し認められたマニュアルを勝手に改ざんしたマニュアルを使っていた。加工の全行程は当時の科学技術庁に提出し、認められた設備と方法で行うことが義務づけられていた。

(2)正規のマニュアルでは溶解塔を用いて再溶解、均質化を行うことになっていたが、作業が面倒ということで、溶解塔の代わりにステンレス製バケツで1バッチずつ溶解した後に、ずんぐりした形状の沈殿槽に流しこんだ。表面積が小さくなるので、中性子が容器外に出にくい構造の上、冷却水が周りに設けられているため、この冷却水で中性子が反射される。そのことから、背の高い貯塔では起こらなかった臨界状態が沈殿槽の使用で起こった。

(3)臨界状態は政府現地対策本部の判断で、JCOから決死隊を募り、冷却水の水切りを行って、発災から20時間後にようやく終息した。

3 被ばく量
(1)支えていた人の被ばく量が最も多く、20シーベルト前後と推定された。8シーベルト以上の放射線を浴びた場合の死亡率は100パーセントだった。この作業員は事故から83日後に亡くなった。35歳だった。

(2)支えていたもう一人の作業員はの被ばく量は6~10シーベルトと推定された。211日後に亡くなった。40歳であった。

4 事故の責任
   事故の1年後、JOCの事故当時の所長ら6人が逮捕された。逮捕の理由は・・
   ① 臨界の危険性を作業員に指導しないまま、バケツを使ってウラン溶液を扱う違法な作業を続けさせるなど、国から許可を受けていないずさんな作業を重ねていた。
   ② それぞれの立場で尽くすべき安全教育や監督を怠ったため、臨界事故が発生し、二入の作業員を死に至らしめた業務上過失致死の疑い。

5 事故の反省
(1)本書では最後に「この臨界事故で核分裂反応を起こしたウランは、重量に換算するとわずか1000分の1グラム。原子力という、人間が制御し利用していると思っているものが、一歩間違うととんでもないことになる。その破滅的な影響の前では、人の命は本当にか細い」と書いている。

(2)しかし、この事故を十分に教訓とすることなく、12年後に福島第一原発のメルトダウンという巨大災害を引き起こしてしまうことになる。

火事は恐ろしい [災害]

大火災.png  先日の糸魚川市の火災は改めて火事の恐ろしさを思い起こさせるものであった。この火災が消失家屋140棟の大火災になった要因は・・・
 1 初期消火の失敗(コンロに火をつけたまま、その場を離れていたのは論外)
 2 強風とフェーン現象による乾燥
 3 家屋密集地帯
 幸い死者は出さずに済み、また、火が海側に抜けていったため、更に広範囲に火災が発生する事態は免れた。
 明治維新以降で最悪の火災惨事となったのは1934年の函館火災。死者2,166名、焼失家屋11,105棟で、市内のほぼ全域が焼き尽くされた。寺田寅彦が書いた「函館の大火について」によると、大惨事となった要因として挙げられるのは・・・
 1 低気圧により強風が吹いていた。
 2 市街地の最も風上のあたりから火が出たため、風下の市街地全域に延焼した。
 3 火災の途中で風向きが変わり、被害が拡大するとともに、逃げ遅れる人が多数出た。
 4 市街地の両側が海に面している函館特有の地形のため、逃げ場を失った。
 
 この11年前の関東大震災では、主に火災により10万人強の死者を出している。また、函館においても1907年に焼失家屋8,977棟という火災が発生していた。しかし、火事の恐ろしさは直ぐに忘れ去られてしまう。寺田寅彦は「人間というものは、驚くべく忘れっぽい健忘症な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない事実」と嘆いている。

 今回の糸魚川火災は火事の恐ろしさをテレビ画面から多くの人が感じることができた。函館火災のような悪条件が重なれば、現代においても函館火災を上回る被害が発生する可能性はある。東京においても墨田区や杉並区のような住居密集地域で火災が広がった場合、気象条件によっては他の地域にまで火災が拡大することは十分考えられる。地震だけが大火災の要因ではない。

<函館の市街地>
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